東大寺法華堂

 法華堂は、不空羂索観音立像を中心に、周囲に梵天、帝釈天、四天王、金剛力士像が周囲に配置されます。周囲の八尊は、不空羂索観音に従属する護法神に見えます。四天王が単なる脇侍であれば、このコーナーに記載するのもはばかられます。

 実際、脇侍のはずの梵天(像高402㎝)、帝釈天(像高403㎝)が、不空羂索観音立像(像高362㎝)より大きいことから、梵天、帝釈天か不空羂索観音のどちらかが、他の場所から請来されたのではないかと言われることもあります。確かに、同時に作られた脇侍が本尊より大きいというのは考えづらいかもしれません(*)。

 

<画像の説明>東大寺法華堂。正面5間、側面8間、奈良時代創建の正堂と鎌倉時代再興の礼堂を融合させた建物、国宝です。

 

 しかし、奈良時代に盛隆した金光明最勝王経によりますと、四天王、梵天、帝釈天、仁王2体八尊一具を本尊として祀ることになっています。このことは、法華堂が、かつて金光明最勝王経を説く大和国国分寺(金光明四天王護国之寺)であったことを示すものです(**)。四天王以下の八尊を本尊と考えると、本尊が他の仏像(不空羂索観音)よりも大きくても不思議はありません。

 長々と前振りしましたが、不空羂索観音も梵天、帝釈天をはじめとした八尊一具も両方とも法華堂の本尊と考えることができます。また、広目天は、巻物と筆を執る姿が金光明本尊としての特徴を持ちます。法華堂は、意味なく集められた単なる倉庫ではなく、祀り方にも意味のある立派な仏像の宝庫なのです。

 この理由は、聖武天皇の皇太子基親王の菩提を弔う金鍾寺が、金光明最勝王経を奉じた大和国国分寺(***)、そして東大寺に発展していく中で、様々な経典に基づいた仏像が同時並行的に造られて発展していったと大筋で考えることができます(****)。


(*)かつて、井沢元彦氏は、『逆説の日本史』で、聖武天皇と光明皇后が怨霊を恐れて国分寺(金光明四天王護国之寺)を全国に建てさせたと、持論の怨霊と関連付けて、周囲の像が不空羂索観音より大きいことを話題にしておられました。

 

(**)不空羂索観音は、740年代の制作とみられて他の八尊一具と同時代の作品です。年代的にも他の寺院から移された仏像ではありません。寺のパンフレットによると、お堂は、法華堂と呼ばれる前は羂索堂とも呼ばれていたとのことですが、お堂が完成した748年には、不空羂索観音も既に一緒に祀られていました。

 

(***)大和国国分寺の勅額「金光明四天王護国之寺」(西大門勅額(重文))が、現存しています。

 

(****)四天王の像容として、多聞天は、左手に宝塔、右手に宝棒を持ちます。例えば、同時代の東大寺戒壇院の多聞天や金光明に基づいたとされる白鳳期の法隆寺金堂の多聞天は、右手に宝塔を持ちます。法華堂の多聞天が、左手で宝塔を持つことについては、今後の課題とさせてください。

 

2017年06月05日