願成就院(静岡県伊豆の国市) 運慶展より

 願成就院は以前取り上げましたが、内部の仏像が撮影禁止で十分ご紹介できませんでした。今回、東博の運慶展のポスターに願成就院の毘沙門天が採用されていましたので、改めて願成就院を取り上げました。

<画像の説明>東博運慶展のポスターより 右端:毘沙門天立像(願成就院 )
       (左端:無著菩薩立像(興福寺)中央:制多伽童子立像(金剛峰寺))
 

 当時、仏師の世界は、定朝の子に覚助,弟子に長勢がいました。定朝没後この二人を中心に仏師の世界は運営されましたが、1077年覚助は没し、一方長勢は長命だったため、長勢の一派(円派)は、以降の権力の中枢だった白河上皇の造仏には主導的地位をもって活躍しました。覚助の一派(院派)は、上皇派以外の藤原氏の造仏を行いました。覚助の一派だった頼助(奈良仏師)は、京都を離れ、興福寺を中心とした奈良の仕事を細々と請け負いました。奈良仏師のグループは、主流にはなれませんでした。
しかし、平氏が滅び、源氏が主流となって時勢が大きく変わりました。
 源氏は、院や京都の貴族と縁の強かった院派や円派をさけました。また、奈良仏師は、南都炎上を主導した平氏に対する反感から早くから源氏に秋波を送っていました(*1)。
 当時の奈良仏師の指導者だった康慶のおそらく子供だった運慶が、1186年北条時政の招致で、願成就院の造像を行いました。(*2)。

 願成就院の造仏が、奈良仏師の関東地方での活躍が活発となりました。願成就院の仏像は、運慶が鎌倉武士に描いていたイメージでした。毘沙門天は、腰高で躍動感に満ちています。また、阿弥陀如来と毘沙門天の組合せは、戦場での「生き死に」を生業としていた鎌倉武士の気持ちを表した組み合わせでした。つまり、毘沙門天は、この世で武士の戦場での働きを頼むための軍神、阿弥陀如来は、戦乱に明け暮れた自分たちを、死後、極楽浄土へ導いてくれる仏様でした(*3)。

(*1)源頼朝の招致で、1185年に、勝長寿院建立のため成朝(運慶の父康慶の弟子)が鎌倉下向し、奈良仏師と鎌倉政権の直接の関係がはじまりました。

(*2)今歴史の教科書では、鎌倉時代は平氏が滅んで、鎌倉政権が全国に守護地頭を置いた1185年よりと教えられるようになりました。表現としては、運慶が鎌倉に下向したのは、平安時代の末期ではなく、鎌倉時代と表現する方が、仏教美術史上からも都合が良く、運慶の仏像を、鎌倉時代を象徴する美術品として、説明しやすくなりました。
 尚、運慶の作品は、それ以前では、円城寺大日如来坐像(1176年)があります。この作品は、運慶の作品として(奈良仏師の作品として)ごく初期のものと考えられています。

(*3)今回の東京国立博物館の特別展では、残念なことですが、願成就院の阿弥陀如来は請来されていませんでした。

 願成就院は、伊豆急行線伊豆長岡駅より歩いて10分程度のところに位置します。1186年北条時政が奥州征伐を祈願して建てました。内部には、運慶が造像した阿弥陀如来坐像、毘沙門天立像、不動明王二童子像の5体の重要文化財が残ります。(拝観は可能ですが、写真撮影禁止です。)

 願成就院の造像は、康慶を中心とした奈良仏師と鎌倉幕府の結びつきを強くししました。以降の慶派の動的で男性的な造像と勢力拡大の嚆矢となりました。 境内には、北条時政や足利茶々丸のお墓等の史蹟が残ります。

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2017年11月05日