等持院(京都市)

 等持院は、日本で最も長い電車の駅名と言われる京都嵐電北野線「等持院・立命館衣笠キャンパス前」より歩いて数分の距離に位置します(*1)。

 等持院の説明書きによりますと、等持院は、元は仁和寺の一院でしたが、足利尊氏が夢窓疎石を開山として再興しました。尊氏がこの寺に葬られると、その法号をとって等持院と改められました。法号から寺院名が名付けられました。

 以前このHPで、鎌倉の長寿寺を扱った際に、足利将軍家と関東公方家の勢力争いに起因、尊氏は、鎌倉では長寿寺殿、京都では等持院殿と二つの法号を持つことを紹介しました。

 因みに、長寿寺も鎌倉公方足利基氏が父尊氏の菩提を弔うために建立したと伝えられますが、やはり、法号から寺院名が名付けられました。尊氏の法号は二つあって、墓所も、等持院と長寿寺の2か所にあります。

<画像の説明>等持院の足利尊氏の墓

 境内には、足利尊氏の墓と伝えられる五尺の宝形印塔(*2)があります。尊氏の死去した延文3年4月(1358年)の銘が残ります。延文(えんぶん)は、日本の南北朝時代の北朝の元号です。

 以後、等持院は足利氏の菩提寺として繁栄しましたが、室町幕府の衰退や度重なる火災等により次第に衰退し、現在残る本堂(方丈)や庭園は殆ど江戸時代以降のものです。


<画像の説明>等持院方丈

東庭園は、本来衣笠山を借景としていましたが、立命館大学が拡充され、借景を遮られたため、現在では樹木を伸ばして校舎を遮っています。

<画像の説明>等持院西庭園と清漣亭(茅屋根の建物)

 等持院には、室町幕府の歴代将軍の木像が祀られていますが、歴代の将軍の内、五代義量、十四代義栄の像は祀られていません。歴代の将軍の内、この2名はきわめて影が薄く、義量は若くして死去、義栄は、勢力争いの中結局一度も京都へ入れなかった将軍です。等持院では、この二名を将軍とは認めていないという事だろうと思います(*3)。


(*1)元は、「等持院」のみの駅名でしたが、立命館大学との連携・協力協定により駅名に同キャンパス名がとり入れられました。
<画像の説明>嵐電駅看板

 

 

 

 

 

 

 


(*2)宝形印塔は、下から基礎、塔身、笠、相輪の四つの部分から構成された石塔です。当寺の塔は、先端の宝珠が欠けています(或いは元々なかったのかもしれません)。基礎部分は、石の色が違うので、時代が違うのかもしれません。また、宝形印塔の特徴の一つ、基礎部分の反花座(かえりばなざ)は見当たりません。

(*3)栃木県足利市の鑁阿寺(足利氏宅跡)には、初代から十五代まで歴代の足利将軍木像が残ります。

2022年02月08日