武蔵国国分寺(東京都国分寺市)

 今回は、武蔵国国分寺の本尊薬師如来についてご紹介したいと思います。本尊の薬師如来坐像は、国の重要文化財になっています。現在は、10月10日にのみ御開帳されています。
本像は、平安末期から鎌倉時代初期の作品と考えられています。

 

<画像の説明>武蔵国国分寺薬師如来

 ところで、国分寺は、仏教による国家鎮護のため、741年に、聖武天皇が、日本の各国に建てたもので、正式名称は、「金光明四天王護国之寺(こんこうみょう してんのう ごこくのてら)」と呼ばれたものです。詔勅に依れば、国分寺は、釈迦仏を祀り、七重塔を建て、『金光明最勝王経(金光明経)』等の写経することが命じられました。

 

<画像の説明>画像左または上:薬師如来脇侍月光菩薩と十二神将
       画像右または下:金光明四天王護国之寺の扁額

 国分寺の場合、建立時点では、本尊は釈迦如来が祀られていましたが、何時の頃からか、おそらく、本尊が薬師如来に変わってしまいました。(*)。
 なぜ、薬師如来に変わったのでしょうか?私なりに考えてみました。

 平安時代以降、国分寺のような官寺は、国の庇護が無くなりました。国分寺は生き残るために、地方の支配層や民衆に迎合しようとしました。しかし、本尊が、釈迦如来では、民衆受けは良くなかったと思います。そもそも、釈迦如来は、気の遠くなるような修行を行い解脱した人ですので、現世利益を望む人々には、自分たちに何をしてくれる仏様か良く分からなかったと思います。(**)

 尤も、現世利益を望むなら、阿弥陀如来や観音菩薩もありそうです。平安時代に阿弥陀信仰に変え、時代を生き抜いた、当麻寺や元興寺の例をこのブログでも取り扱いました。
 では、国分寺の場合、なぜ、阿弥陀如来ではないのでしょうか? それは、本尊の釈迦如来を薬師如来に化けさせることができたのだと思います。薬壺を掌に置くだけで(多少の印相の違いはあっても)、右手の施無畏印は同じですし、薬師如来と言ってしまうことができます。
(印相の違いがあって、阿弥陀如来には、簡単にはなりません。)(***)

 

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 武蔵国国分寺の現在の薬師如来は、平安末期から鎌倉時代初期の作品です。それ以前の金銅仏の釈迦如来は現存しませんが、既に薬師如来に代わっていたのではないでしょうか。

 現在の武蔵国国分寺は、1333年の分倍河原の戦い(新田義貞が鎌倉に攻め込んだ戦い)で焼失し、1335年、新田義貞により再建されました。その際、薬師如来は戦災を免れたと考えられます。

(*)故北倉庄一氏の「国分寺の謎」によりますと、全国の国分寺のうち国宝または重要文化財の薬師如来が祀られる例は、他に美濃、飛騨、若狭、佐渡、土佐、筑前の6寺を数えるそうです。もちろん釈迦如来の例も、尾張、淡路の2寺があるそうですが、全体的な傾向としては、薬師如来が多いようです。

(**)同様のことは、弥勒如来にも言えると思います。56億7千万年後に、この世に表れて人々の解脱を助けると言われますが、民衆は、56億7千万年は、とても待てないと思ったに違いありません。そのため、日本では、弥勒菩薩も平安以降は、あまり作られませんでした。

(***)薬壺を日本にもたらしたのは、清凉寺の開祖、奝然(ちょうねん)と言われています。実際、奈良初期の薬師寺や平安初期の唐招提寺の薬師如来は薬壺も持たず、私には釈迦如来と区別が難しいです。

2017年10月22日