中尊寺と毛越寺(岩手県平泉町)

 中尊寺は、2011年に世界遺産に登録されました。最近は、登録直後の喧騒からは少し落ち着いた様です。2018年の今は、登録以前のあまりの静寂さとは違ったほど良い熱気を感じます。

 中尊寺は金色堂が特に有名です。金色堂の優美さは、何物にも勝ると言われます。金色堂の須弥壇には、阿弥陀三尊像(阿弥陀如来、脇侍に観音・勢至菩薩)、更に六体の地蔵菩薩、そして持国天、増長天が祀られています。この様な像容は、他に例が無く珍しい配置です。吾妻鏡9巻(1189年)にもこの像容の記載があること等により、源頼朝の奥州侵攻当時からこの配置だったことが分かります。

 六体の地蔵菩薩は、六地蔵と呼ばれ各地に残ります(地名としても残ります)。6体がそれぞれ違う像容ということが多いですが、当寺の場合は、6体とも同じ像容です。六地蔵は、六道それぞれで地蔵菩薩が衆生を救済することを表します。

 

画像の説明:画像左または下:現在の中尊寺本尊 
      画像右または上;中尊寺金色堂(金色堂内部は撮影禁止のため、現地で購入した
                     『世界遺産中尊寺』よりスキャンさせて戴きました。)


 ところで、中尊寺、毛越寺は二寺とも円仁の開基と伝えられます。東北地方には、円仁(慈覚大師)の開基と伝えられる寺院は、140寺(*1)もあり、この数値は、他の地方を圧しています。円仁の事績に注目しますと、東北との関係では、天長6,7年頃(829年‐830年)当地を巡行したとされます。

 一方で、中尊寺・毛越寺の開基は嘉祥3年(850年)と伝えられています。東北地方で円仁が開基した寺院の開基は、各寺院の寺伝に依り、おおむね、嘉祥から貞観(848年~876年)となっています。

 円仁は、遣唐僧として唐に渡ったのが、承和5年(838年)、帰国が承和14年(847年)、唐で武宗の仏教弾圧(*2)を間近に経験し、無事帰国して以降は、京都で一躍時の人となりました。帰国以降の動静は文献上にも比較的明確ですので、承和以降の東北巡行(長期に及ぶ京不在)は考えられません。

 円仁の開基伝説は、天台宗の当地への浸透に伴い、かつて東北を巡行したことのある円仁に開基を結び付けた伝説と考えられます。これは、他の地域において、役行者や空海(弘法大師)開基の寺院が多くあることと同じような状況と考えられます。

 中尊寺は、藤原清衡によって創建されました。藤原清衡(*3)は、後三年の役(1087年に終了)において勝者となり、南東北の統一に成功しました。中尊寺は、境内から発掘された遺物類の出現年代からも12世紀初期に完成したと考えられています。中尊寺は、多宝寺、釈迦堂には釈迦如来が、そして金色堂、二階大堂(*4)には阿弥陀仏が祀られました。京の都から遠く離れた平泉に、釈迦信仰、阿弥陀信仰の霊場が出現しました。

 毛越寺は、藤原清衡の子基衡によって創建されました。中心の円隆寺は、丈六の薬師如来を本尊としました。また、東西に廊が出て、その先端には鐘楼、経廊があったことが分かっています。毛越寺は、薬師信仰と観音信仰を基調とした伽藍でした。

 

画像の説明:画像左または下:毛越寺浄土池 
      画像右または上:毛越寺及び観自在王院(*5)伽藍復元図(現地の説明パネルより)
                  中央の鶴翼を持った伽藍が円隆寺、右端が観自在王院です。

 父の清衡が、釈迦信仰と阿弥陀信仰の寺院を建立、基衡はその補完のために、薬師信仰、観音信仰の寺院を建立したと考えられています。二つの伽藍が、重複、対立しない点が重要です。


画像の説明:画像左または下:毛越寺鑓水の水路(発掘再現)
      画像右または上:毛越寺常行堂宝冠阿弥陀如来
              (何故、阿弥陀如来が宝冠を冠しているかの由来は不明です。)

 最後になりましたが、毛越寺のパンフレットより下記をご紹介させて戴きます。
毛越寺は、モウツウジと読みます。通常、越という字をツウとは読みません。越は、慣用音でオツと読みます。従ってモウオツジがモウツジになり、更にモウツウジに変化したということです。

(*1)佐伯有清 『円仁』(吉川弘文館)に依ります。同書に依りますと、更に、東北地方には、円仁の中興とするものが22寺、円仁に関係する仏像などの遺芳があるのは169寺あるとされます。

(*2)強大になる仏教勢力を制限するべく行った、中国の皇帝に依る仏教弾圧事件のうち最大規模のものです。845年に始まり、846年皇帝武宗の死で終了しました。円仁は、838年に遣唐僧として唐に入国し、847年に帰国しました。円仁はこの時の事を『入唐求法巡礼行記』に記録しました。894年に菅原道真の上奏に依り、遣唐使は以降中止されましたので、結果的に円仁は最後に帰国した遣唐使となりました。

(*3)前九年の役で、藤原清衡の父藤原経清は清原氏に敗れ去りました。母が清原氏に再婚したため、当初、清原清衡を名乗りましたが、後三年の役で勝者となり、藤原清衡と改めました。

(*4)中尊寺二階大堂には、3丈(坐像4.5m)の阿弥陀仏と9体の丈六阿弥陀仏(坐像2.4m)が祀られていました。後に、源頼朝は、この二階大堂を模して鎌倉に永福寺二階堂を建立しました。

(*5)基衡の妻が、毛越寺の直ぐ隣に観自在王院を建立しました。又、三代秀衡も、無量光院を建立しましたが、いずれも阿弥陀堂で、阿弥陀信仰が最も重視されていたことがわかります。

2018年11月04日