当麻蹴速(たいまのけはや)塚(奈良県葛城市)
当麻蹴速(*)は、『日本書紀』垂仁天皇記によれば,強力で相撲の技を誇り,常に力比べの相手を捜していましたが,その驕慢さを天皇に憎まれ,天皇が出雲から招いた野見宿禰と対決しました。
垂仁天皇の前で行われた野見宿祢と当麻蹴速の力比べが国技相撲の発祥とされ、また、我が国初の天覧相撲といわれています。垂仁天皇は、はつくにしらすすめらみこと、と言われた崇神天皇の子供ということになっており、時代的には、4世紀後半頃の人です。
「蹴速」という名前は、足技にすぐれたことにちなむ名の様ですが、二人の対決は、当麻蹴速が、脇骨を踏み砕かれ,腰を踏み折られて死んだといいます。相撲の発祥とはいうものの、彼らの対決は、手が地面に付いたら負けといった、私たちの相撲のイメージとはかけ離れています。
当麻蹴速塚の五輪塔は、最上部の形や、火輪の形から鎌倉時代のものと考えられます。しかし、水輪の最大径が火輪の軒幅より13㎝も広く、形は良いとは言えません。他の場所から部分的に石を寄せ集め、作られたものの様ですが、当時も当麻蹴速の伝説が広範囲に流布されていたことが分かります。
当塚は、近鉄南大阪線の当麻寺駅から当麻寺へ向かう東から西へ向かう参道沿いにあります。参道が東から西に向かうのは、平安時代、当麻寺が、当麻曼荼羅を本尊とした阿弥陀信仰を旨とする寺院に変貌したことに依ります。平安時代から鎌倉時代には、多くの庶民が、竹内街道から当麻寺を目指し、この参道を歩いたことと思います。その際、当麻蹴速塚にも手を合わせたのではないでしょうか。
有名な当麻寺の東西の塔は、当麻蹴速塚からは、直線的に見えます。
<画像の説明>画像左または下:当麻蹴速塚の五輪塔(バックは、葛城市相撲館)
画像右または上:当麻蹴速の五輪塔と当麻蹴速碑
<画像の説明>当麻蹴速塚より東方の当麻寺三重塔を遠望(西塔は修復工事中の覆いで隠れています)
➡当麻寺は、こちらをご覧ください。
話は、古代に戻ります。展覧相撲の後、蹴速の土地は没収されて、勝者の野見宿禰に与えられました。以後、野見宿禰は、垂仁天皇に仕えました。垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の葬儀の時、それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を考え出し、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、土師氏の祖となりました。
野見宿禰は、播磨国の立野(たつの・現在の兵庫県たつの市)で病により死亡し、その地で埋葬されました。病没した野見宿禰の墓を建てるために人々が野に立ち(立つ野)手送りで石を運んだ光景が、「龍野」「たつの」の地名の由来とされています。今、野見宿禰神社となっています。
兵庫県たつの市とは別に東京都墨田区にも野見宿禰神社があります。両国国技館の近隣に所在し、日本相撲協会により管理されています。
(*)当麻蹴速の「蹴(け)」は、本来は「蹶」(JIS:6D2C)を書きます。