日本三毘沙門天 特に朝護孫子寺像

 表題に掲げた日本三毘沙門天という言葉ですが、オフィシャルなこのような言葉があるわけではありませんし、内容に関しても様々な説がある様です。ただ、先月ご紹介した鞍馬山鞍馬寺と今回ご紹介する朝護孫子寺の毘沙門天は、どのような説でも、日本三毘沙門天に含まれています。

 三毘沙門天の三つ目は、大阪府高槻市の神峯山寺(*1)或いは京都山科の毘沙門堂と解説される例は多い様です。関東では、栃木県足利市の大岩寺が候補に挙げられることもある様です。大岩寺には私は行ったことがないのですが、どのような毘沙門天が祀られているのか、また公開されているのか、ネット情報だけでははっきりしません。ご存知の方どなたかご教授戴ければ助かります。

 なお、今回の奈良博の特別展「毘沙門天-北方鎮護のカミ-」では、鞍馬寺と朝護孫子寺の毘沙門天は、展示品に入っていました。


 朝護孫子寺の本尊は毘沙門天ですが、そのことは余り知られておらず、国宝「信貴山縁起絵巻」の舞台として有名です。当寺は、聖徳太子の開基伝承があります。毘沙門天が太子の前に現れ、その加護によって物部氏に勝利したことから、太子自身が594年(推古2年)にこの朝護孫子寺を創建したという古い伝説を持ちます。

 但し、実際のところは、信貴山縁起絵巻の主人公命蓮以前のことはほとんどわかっていません。命蓮は、9世紀末に信貴山に入り、毘沙門天一躯を安置しました。命蓮が再興した朝護孫子寺ですが、戦国時代織田信長と松永久秀の戦いによりお寺は、灰塵に帰しました。その際おそらく寺宝の多くがお寺とともに失われたと思われます。

 

<画像の説明>画像左又は下:朝護孫子寺遠景 張子のトラとともに(*2)
       画像右又は上:朝護孫子寺参道
 

<画像の説明>朝護孫子寺 兜跋毘沙門天立像(*3)
 

 掲載した毘沙門天(*3)は、兜跋毘沙門天ですが、下部の地天が失われ別途作られた岩座の上にのります。宝冠と両腕の海老籠手は、日本の兜跋毘沙門天の代表例とされる東寺像と同じ特徴を持ちます。小札紋が、下半身にうっすらと残りますが、唐風の特徴とされる獅噛(*4)はありません。また、西域風の特徴とされる刀剣も佩いていません(*5)。兜跋毘沙門天が日本に請来されて、かなり時間を経た作品と想定されます。奈良博の特別展の図録には、10世紀の作品と記載があります。なお、当寺の本尊は、秘仏となっており、当像は本尊ではありません。




 

 

 

 

 



 

<画像の説明>

 画像左又は下:獅噛の例(*4)
 画像右又は上:四川邛崃龍興寺址出土毘沙門天立像(四川大学博物館蔵)前面に佩いた刀剣に注目してください。

 

 

 

 

 

(*1)神峯山寺については、橋本章彦先生の「毘沙門天―日本的展開の諸相―」に詳細に述べられています。

(*2)日本では、毘沙門天のお使いがトラという事になっているそうですが、朝護孫子寺では、毎年2月に寅祭りが開催されます。因みに中国では、毘沙門天のお使いは、北方つながりで、ネズミ(子))ということになっています。

(*3)本毘沙門天ですが、今回の「毘沙門天-北方鎮護のカミ-」にも展示されました。画像は、信貴山縁起絵巻展(2016年奈良博特別展「信貴山縁起絵巻」)の際に買い求めた絵葉書から複写させて戴きました。「毘沙門天-北方鎮護のカミ-」図録にも同じ構図で前面、後面が、掲載されています。

(*4)獅噛は、獅子が腰回りの帯を噛んだ図です。画像は、東寺兜跋毘沙門天立像を東博特別展の図録より複写させて戴きました。(➡東寺兜跋毘沙門天立像

(*5)兜跋毘沙門天が刀剣を佩く画像を掲載します。画像は、四川邛崃(qionglai)龍興寺址出土毘沙門天立像(四川大学博物館蔵)です。日本では、智泉様にその例があります。智泉様は、智泉(空海の甥でかつ高弟)が821年に記した「四種護摩本尊并眷属図像」のことを言います。

2020年05月11日