造山活動によってヒマラヤ山脈を作った東西に渡る大規模な褶曲が、当地では、南北にカーブしており、四川省成都付近では、西から大渡河、青衣江、珉江、沱江が北から南に流れています。四川省の石窟の多くは、川沿いの砂岩或は泥岩の地肌に形成されています。砂岩や泥岩は、岩肌が柔らかく、加工しやすいことが特徴です。
四川は、古来川が道路代りの大動脈となっていました。川を使用して旅をする人や産業に従事する人にも、山肌に築かれた石仏を見ることができたと思われます。四川の石窟は概して奥行きが無く、石窟の中に入らなくても外からでも拝むことができる構造となっています。甘粛省や新疆ウイグル自治区等、他の地域の石窟が一部の高貴な供養者のためのものだったことと比較すると、極めて庶民的なものでした。周辺国との交易を通じて、経済的に裕福な地域だったことで、庶民にも造像の余力が生まれたと考えられます。
このように、この地が石仏の「里」といわれるのは、彫りやすい石質と庶民の経済力が背景にあったと思われます。これらの民間宗教的な側面や図像表現が、日本においてはそれほど注目されない一要因と指摘されることもあります。
ところで、私は「里」という表現には違和感があります。現在の四川省だけでも日本より広い地域であり、重慶と四川を合わせた地域の人口は、1億人を超しており、「里」のイメージとは、あまりにもイメージがかけ離れているからです。
大島幸代氏は、その研究論文の中で、四川には毘沙門天が、100体程度残るとおっしゃっています。私は、そのうち、おそらく50体程度を見て回りました。
<画像上段:楽山大仏から大渡河を望む>
楽山大仏は、大渡河、青衣江、ming江の合流地点に近い(minは、王偏に民)
<画像下段:jia江千仏岩からの遠望>
jia江は、青衣江に面する(jiaは挟みの旁)
ia江千仏岩は、楽山市jia江県に所在します。jia江は、青衣江に沿った町で、今も川の幸が産業の一端を担っています。jia江千仏岩は、青衣江に沿った山肌に開窟されています。(国家A2級)
*重慶市は従来四川省の一部でしたが、四川省の人口が一億人を超したため、1997年に四川省から独立して中国で4番目の直轄市となりました。