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平安神宮(京都市)

 平安神宮は、1895年(明治28年)平安京に奠都を実行された桓武天皇を祭神として、創建されました。桓武天皇は平安京奠都や坂上田村麻呂に命じて蝦夷征討を行わせるなど、地位がもっとも高まった時代の天皇でした。その後、孝明天皇が合祀され今日に至ります。孝明天皇は、明治天皇の父であり、平安京最後の天皇ということで、皇紀2600年にあたる昭和15年(1940年)に合祀されました。

 

画像の説明: 平安神宮大極殿 


画像の説明:平安神宮応天門

 南面正面の応天門をでると、正面に大極殿、大極殿に向かって眼前に広大な白洲が広がります。左には白虎楼、右には蒼龍楼と壮麗な建造物が並びます。いずれも、平安神宮にかつて存在した朝堂院を凡そ3分の2に縮小したものです。白虎楼、蒼龍楼は、四神(蒼龍、白虎、朱雀、玄武)から名付けられたものです。応天門は、もともと平安京大内裏の朝堂院の南面正門に実在した門ですが、歴史上、「応天門の変」と呼ばれる藤原氏による政治的な疑獄事件の要因になった炎上現場として有名です。

 

画像の説明:平安神宮 白虎楼(左又は下)と蒼龍楼(右又は上)

 平安神宮は、当初平安京の大極殿跡地での造営が検討されましたが、京都市街地で、造営が難しく、現在の岡崎の地が選ばれました(*1)。当初は平安京の模造大極殿が計画されましたが、その準備過程で本殿を造営し、大極殿を拝殿とする神社の建設が決定されました。


 1869年明治天皇の東京再幸(*2)により、京都は日本の首都としての地位を失い、多くの技術、商業が東京へ流出、京都の人口は激減しました。明治の中頃から、京都復興が模索され、明治神宮造営も、公共投資の一環としての意味合いが大きかった様です(*3)。しかしながら、その後国家神道に利用された面も大きく、今に至っても平安神宮のイメージを幾分か覆っているように思えます。

 

画像の説明:左又は下 平安神宮南神苑内のチンチン電車 右又は上 中神苑より尚美館を望む

 南神苑には、京都市内を走ったチンチン電車が展示されています。平安神宮の創建年度と同じ明治28年から京都市内を運行していたことがその理由と伺いました。日本最初の一般営業用電車です。

(*1)岡崎に平安神宮を造営したことは大正解と言えます。現在では、平安神宮をはじめ、京都市美術館、京都国立近代美術館、京都市動物園等があり、京都の一大観光スポットに成長しています。地下鉄東西線も通り、随分便利になりました。

(*2)「天皇さんは一時的に東京へ巡幸したに過ぎない」と考えた人が当時は少なからずいらっしゃった訳で、ここでは、参考にさせて戴いた文献通り「再幸」とさせて戴きました。しかし、事実上或いは当時の政府要人の本音として、東京遷都(都を東京へ移すこと)、或いは、奠都(都を東京に定める事)だったことは明らかと思います。

(*3)平安神宮造営の翌年から始まったのが、京都三大祭りの一つ「時代祭」です。桓武天皇が入京したとされる10月22日に開催されています。時代祭も京都復興の起爆剤となりました。

2023年02月04日

八坂神社と八坂の塔(京都市)

 八坂神社では、神社の創建を、高句麗の使いが来朝した際に、山城国八坂郷に神祠を建てたとする初伝に基づいて斉明天皇2年(656年)説をとっておられます。八坂神社という名称はともかく、今の八坂神社が位置するところには、794年の平安京遷都以前から歴史的に神社が存在したことは間違いありません。八坂神社は、平安京より歴史が古いのです。

<画像の説明>八坂神社本殿

 本殿は国宝です。かつて別棟であった本殿と礼堂の建造物を一棟の屋根で覆ったものです。大きく長く広がる屋根が印象的ですが、平安時代にはこの様式が整備されていたと古図等に残ります。
 神社の歴史を申し上げるのは私の様なシロートには難しいことが多いのですが、それは、神社の場合、仏教寺院に比べて参考資料が少ないか、或いは非常に高価な事が多いためです。(*1)

 明治維新において、神仏習合を廃し、それまで信仰された「牛頭天王(ごずてんのう)」といった仏教用語で神を呼ぶことを禁じ(神仏判然令)、これに伴い、それまで呼ばれた祇園社・祇園感神院の名前を廃止し、八坂神社と称することになりました。

 八坂神社の正門は、南楼門です。有名で良く目立つのは、京都のメインストリート四条通の東端の朱塗りの門ですが、こちらは、西楼門と呼ばれています。両門とも国の重要文化財です。

 

<画像の説明>左又は下:八坂神社  右又は上:南楼門 西楼門


 法観寺、通称八坂の塔は八坂神社の南楼門の南方に位置します。法観寺の寺伝では聖徳太子が、如意輪観音の夢のお告げにより建立したとされ、古くは八坂寺と称しました。塔周辺では、飛鳥期の瓦が出土しており、中門、塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ四天王寺式の伽藍配置を持っていました。

<画像の説明>法観寺五重塔

 今残る五重塔は、治承2年(1178)4月の雷火で焼け、永享12年(1440)足利義教によって再建されました。一辺6m、高さ46mの純和様建築(*2)で、重要文化財に指定されています。

(*1)本稿は、『八坂神社』(八坂神社編、株式会社学生社発行)を主に参照させて戴きました。安価でしたが、とても参考になりました。

(*2)木造五重塔は、伝統的な和様建築が多く残ります。再建され、また時代も様々ですが、創建当時の和様を維持していることがわかります。京都・奈良の主な五重塔の中で八坂の塔の位置付けは、高さ順に並べると下記の通りとなります。

 東寺  55m(江戸時代)(木造最高建築)
 興福寺 50m(鎌倉時代)
 法観寺 46m(室町時代)(八坂の塔)
 醍醐寺 38m(平安時代)
 仁和寺 36m(江戸時代)
 法隆寺 33m(飛鳥時代後期)

 すべて基壇を含めた高さ、いずれも当HPで紹介済みです。HP内でリンクを貼っていますので参照ください。

2023年01月02日

大雄山最乗寺(神奈川県南足柄市)

 大雄山最乗寺は、曹洞宗の寺院で、全国4000余りの門流を持ち、曹洞宗の二つの大本山永平寺(福井県)と総持寺(横浜市鶴見区)に次ぐ格式を持つ寺院です。本尊は、釈迦如来、脇侍に文殊、普賢菩薩で、これらは、釈迦三尊像の最もオーソドックスな形式です。


<画像の説明>左又は下:御真殿 右又は上:本堂


 当寺の創建は、応永元年(1394年)又は応永2年とされています。当寺を開いたのは、了庵慧明(りょうあんえみょう)禅師です。了庵慧明は、曹洞宗を中国より伝えた道元の六代目の禅師です。この方がどうして禅師になったかに関して、様々なエピソードが残っていますが、元は粕谷庄(現神奈川県伊勢原市)の地頭だったという言い伝えがある方です。開創に当って、外護したのは(スポンサーとなったのは)、大森氏とか太田氏等の可能性もありますが、歴史的にははっきりしない様です。

 開創に当って、それを扶助したのが、道了大薩埵です。師は、当寺が建てられる事になって、明徳4年(1393年)に三井寺から空を飛んで当寺へ参じ、五百人力の仕事をしたとされます。様々な奇跡を起こす修験者として扱われますし、一方、十一面観音の化身として扱われる事もあります。了庵慧明遷化後、天狗になり身を山中に隠し、大雄山を守護したと伝えられることから、信仰の対象として、絶大な尊崇を集めています。現在も史跡としては、道了大薩埵関連(天狗像や巨大な下駄等)が多く残ります。

<画像の説明>左又は下:結界門と天狗 右又は上:天狗の下駄


 ところで、大雄山というのは山号で、大雄山という山があって、その山に最乗寺ができた訳ではありません。当地の地形が、中国の大雄山(福州)に似ていることから「大雄山最乗寺」と呼ばれるようになった可能性が指摘されています。山は、禅宗においては寺院の事を表します。その例として、京都五山、鎌倉五山の「山」がその例です。当寺の場合も、大雄山は山号で、大雄山=最乗寺と考えればわかり易いと思います。

 当寺において、ある程度歴史を感じる建造物は、多宝塔です。文久3年(1863年)建立、心柱に墨書きが残っているそうです。市の指定文化財です。厨子に多宝如来を祀ります。多宝如来は特別の像容を持つわけではありませんので、どの様なものかはわかりません。多宝塔の内部を通って、参拝のルートが作られており、周辺は、600年を経る杉の木立に囲まれ、風情があります。
 多宝塔のうんちくは、池上本門寺にジャンプしてください。

 

<画像の説明>左又は下:多宝塔正面 右又は上:多宝塔を俯瞰

今回のアップに関しては、現地で購入した「大雄山誌論考」をベースとさせて戴きました。

2022年12月02日

池上本門寺(東京都大田区) 主に宝塔のこと

 当寺の宝塔は、屋外に建つ木造宝塔としては日本唯一です。日蓮を荼毘に付した跡地に、550年遠忌(日蓮没後550年)を前にした1830年(天保1)犬山城主成瀬正壽(なるせまさなが)等を本願主として再建されました。円形の塔身は、朱漆塗りで、方形の屋根は銅板葺きです。内部には、四天柱の内に更に中形の宝塔を安置しているそうです。国の重要文化財に指定されています。

 宝塔について説明させて戴きます。この様な仏塔には、宝塔と多宝塔がありますが、一重塔を宝塔、二重塔を多宝塔と言います。木造の宝塔は、現在、当本門寺のみに現存しています。多宝塔は、国内に多数現存しますが、今回は画像を3か所ご紹介しています。多宝塔は、宝塔に裳階(もこし)(*1)を付けたもので、二層に見えます。屋根が高い事、或いは、軒の出方も制限される場合、雨の多い日本では、雨の降り込みを避けられず、木造建築の宝塔は、雨で傷みやすいことから、裳階を付けた多宝塔が多く建てられた要因ではないかと考えます。


<画像の説明> 左又は下:本門寺宝塔 右又は上:石山寺多宝塔


 当寺の宝塔は、塔身を高級な朱漆塗とし、壮麗さと合わせて木材の保護をはかったのではないかと、考えられます。


<画像の説明>左又は下:知恩院多宝塔 右又は上:よみうりランド聖地公園多宝塔

 塔は、インド発祥のストゥーパ(サンスクリット語)が、元になっています。ストゥーパは、仏教の開祖の釈迦が荼毘に付された際に残された仏舎利を納めた塚とされますが、これに関しては、
文末(*2)に若干コメントさせて戴きました。その後、ストゥーパは、中国へ伝わり、卒塔婆(そとば)となりました。宝塔、多宝塔は、ストゥーパの形を彷彿させます。

 卒塔婆から発展した仏塔には、宝塔以外に、三重、五重塔等の多層塔があります。こちらは、三重、五重・・・十三重とすべて奇数です。仏塔の最上屋根の上の露盤宝珠にその面影が残ります。

 本門寺には、五重塔も現存します。この塔は、江戸幕府2代将軍徳川秀忠の乳母岡部局の発願により、秀忠が、1608年(慶長13)寄進建立しました。関東に残る最古の五重塔です。先の戦争で本門寺の建物の多くは焼失してしまいましたが、この五重塔は奇跡的に焼失を免れました。江戸時代の塔ですが、外観はきわめて古風に属します。ここでは、蟇股が一寸面白いので掲載しています。国の重要文化財です。

 五重塔は、以前このHPに掲載しましたので、ジャンプして、御覧ください。
➡本門寺五重塔

(付)
 当寺は、江戸時代には名だたる大名家、現在では、著名人も多く眠ります。その1つ力道山のお墓をご紹介しておきます。


<画像の説明>左又は下:力道山墓所 右又は上:本門寺五重塔蟇股
(*1)
 裳階(もこし)は、仏堂、塔、天守等で、本来の屋根の下にもう一重屋根をかけるかたちで付けられます。風雨から構造物を保護するため、或いは、装飾のために付けられました。建築上、構造材にはなっていないことに注意してください。裳階の付いた、法隆寺の五重塔、金堂の画像を添付しておきます。



(*2)
 釈迦の在世中(紀元前6C)、当寺隆盛したバラモン教やジャイナ教の人々も盛んにストゥーパを建てました。ストゥーパが、釈迦の遺骨を納めておくために造られた訳ではなく、「釈迦の遺骨を納めておく建造物」が、中央アジアから、中国へストゥーパという名前で伝わったと考える方が自然です。


2022年11月03日

真如堂(京都市)

 真如堂(しんにょどう)は、正式には真正極楽寺といい、天台宗のお寺です。永観2年(984年)に比叡山の戒算が常行堂の阿弥陀如来を東三条院藤原詮子(せんし)の女院離宮があった現在地に堂宇を建て、安置したことが始まりです。一条天皇の勅願寺となり天台宗の寺院として栄えましたが、応仁の乱(1467年)によって焼失しました。

 その後、近江の坂本や一条西洞院など寺地を転々としましたが、元禄6年(1693年)に東山天皇の勅により現在地に再建され、宗派も天台宗に戻り、現在に至っています。先月ご紹介した金戒光明寺と隣り合わせに位置します。

 

<画像の説明>真如堂本堂までの参道と本堂


 秋には紅葉と東山を借景にした『涅槃の庭』が有名です。
   蒲団着て寝たる姿や東山(服部嵐雪(1654年ー1707年))
という一句があります。

 これは、真如堂からみた東山三十六峰が、釈迦の涅槃の姿に見えることから、これを詠んだものです。残念ながら、私が訪れた9月には、生垣が成長しており良く見えず、余り良い写真を撮れませんでした。

 

<画像の説明>
 左又は下:真如堂からみた東山三十六峰
 右又は上:真如堂三重塔

 

 

 

 

 本堂は、江戸時代の享保2年(1717年)の上棟で、京都市内の天台宗の寺院の本堂として最大規模を誇り(*1)、内部には、本尊の阿弥陀如来立像(重要文化財)が祀られています。現存の三重塔は、文化14年(1817年)再建、和様の建築物です。塔頭(*2)は、いくつかありますが、そのうちの一つ円覚院は、江戸中期の俳人向井去来の菩提寺で、去来の寺とも呼ばれています。

 寺宝として、仏師運慶の発願によって書写された法華経六巻(国宝)や応仁の乱等を描いた室町時代の真如堂縁起(重要文化財)等多々あるそうですが、現在公開されている物はありません。


<画像の説明>真如堂寺院内の庭園


(*1)「最大規模」に関しまして、本堂前の説明書きにこの記載がありましたので、そのまま使用させて戴きました。自分で調べたわけではありませんが、ご了承ください。

(*2)塔頭(たっちゅう)は、元来禅宗由来の言葉ですが(読み方も唐音(宋音))、現地の説明書きでは、真如堂に属する子院を塔頭と表現していましたので、そのまま使用させて戴きました。

2022年10月03日

金戒光明寺(京都市)

 金戒光明寺は、安元元年(1175年)浄土宗の開祖法然源空(1133~1212)が、比叡山西塔の黒谷別所での30年間の修行を経て、師の叡空上人の元を離れ、当地に草庵を結んだのが最初とされます。法然死後、比叡山黒谷別所以来の弟子信空が、この新しい黒谷の地を浄土宗信仰の中心として発展させました。(*1)


 南北朝時代には、後光厳天皇に戒を授けて、「金戒」の二文字を賜り、「今戒光明寺」と呼ぶようになったと伝えられます。室町時代には、念仏と戒律の寺として公武の尊崇を受けましたが、応仁の乱の兵乱により塵灰に帰しました。その後、天正13年(1585年)羽柴秀吉が、寺領130石を与え、紫衣(*2)着衣を許可された寺となりました。

<画像の説明>左又は下:金戒光明寺御影堂 右又は上:金戒光明寺山門

 江戸時代末に、会津藩主松平容保公が文久2年(1862年)に京都守護職に就任すると、当寺は、京都守護職会津藩の本陣となり、会津藩兵がこの金戒光明寺に駐屯しました。当寺が、本陣になった理由は下記3点です。
・当寺が、城構えを持つこと。
・御所まで約2㎞、東海道の発着地点(三条大橋)まで1.5㎞と近いこと
・4万坪の寺域を持ち、藩兵千名の軍隊が駐屯可能なこと。


 徳川幕府は、開幕直後には、京都の治安、皇居を監視する観点から、京都の整備を進めました。御所の西方には二条城、東には、当寺と知恩院を充実させる等、徳川幕府はどこまでも用意周到でした。

 ➡知恩院が城郭構造に構築されたことに関しては、このHPで以前取り上げたことがあります。知恩院三門(*3)にジャンプしてください。


<画像の説明>左又は下:金戒光明寺三重塔 右又は上:金戒光明寺山門と遠景

 

 京都守護職松平容保は、公武合体派の重鎮として、八月十八日の政変(1863年)、禁門の変(1864年)において重要な役割を演じました。また、会津藩御預りの新選組が、その支配下として、京都の治安維持に当り、池田屋事件が引き起こされたことは有名です。
 禁門の変では、京都各地で長州兵と会津兵の戦乱が起りました。金戒光明寺には、当地で死亡した会津藩士の墓が残ります。

 

<画像の説明>左又は下:金戒光明寺会津藩士の墓 右又は上:金戒光明寺会津藩士の墓参道

 御影堂(みえいどう)は、当寺の本堂、大殿(だいでん)とも言われます。1944年再建、内部に本尊の阿弥陀如来坐像の外、法然75歳時の坐像を安置します。国の登録有形文化財に登録されています。三重塔は、文殊塔とも言われます。1633年建立、徳川秀忠の追悼のために建立されました。こちらは、重要文化財に指定されています。

(*1)京都市内で、今、例えばタクシーに乗って「黒谷」までというと、金戒光明寺に向かってくれます。また、比叡山にも、「黒谷」の地名が現在も残ります。新黒谷とか、元黒谷といった区別はありません。

(*2)紫衣(「しえ」または「しい」) 紫色の僧衣。天皇が高僧に下賜した。江戸時代初期の紫衣事件は有名。
(*3)知恩院は、三門と呼ばれます。これについても、以前のHPに記載しました。

2022年09月10日

高遠城(長野県)と多武峰内藤神社(新宿区)

 高遠城(長野県伊那市(旧高遠町))と多武峰内藤神社(新宿区内藤町)は、江戸時代、甲州街道のいわば両端に位置し、高遠内藤氏つながりの事跡です。

 高遠城は、元禄4年(1691年)から廃藩(1871年)まで180年間に渡って、内藤氏が城主、高遠藩3万3千石の政庁でした。本丸に天守閣は有りませんでしたが、平屋造の御殿や櫓、土蔵などがあり、本丸御殿が政庁と藩主住居を兼ねていました。
廃藩置県の廃城時、本丸御殿や門、橋など城内の建物は取り壊されましたが、明治8年に城跡の公園化が決定され、桜の移植が始まりました。今では春に1500本程の桜が咲き誇ります。なお、当地の桜は「タカトオコヒガンザクラ」という固有種で、花弁の花びらの赤みが強いのが特徴です。当城は、日本百名城の一つにも選ばれています。


<画像の説明>高遠城城内と空堀

 多武峰内藤神社は、新宿御苑のすぐ近く、新宿区内藤町にあります。天正18年(1590年)徳川家康の関東移封に従った内藤氏2代内藤清成が、この地(*1)を賜りました。以降、この地は、甲州街道のスタート地点「内藤新宿」(今の新宿)として発展しました。内藤氏は参勤交代では、国許高遠より甲州街道を使い(*2)、江戸に向かいました。



 内藤氏は藤原氏の支流とされ、当神社は、多武峰の談山神社(奈良県)から始祖藤原鎌足の分霊を勧請して創建されました。創建時期は2説あって元禄期もしくは寛永期とされます。藤原氏の氏神は、春日大社とされ、自家の氏の安寧を「**春日社」という形で祀る事例が多い様に思いますが、敢えて多武峰神社と称したのは始祖藤原鎌足に対する尊念からでしょうか。

 

<画像の説明>多武峰内藤神社

 神社発行の「多武峰内藤神社の沿革」によりますと、江戸時代は武州多武峰神社と称された様です。昭和28年に宗教法人多武峰神社が発足、昭和42年多武峰内藤神社に社称が改正されました。東京の住居表示が古い由緒ある町名を無くしていくので、小さい内藤町の将来を憂え、呼び慣れた社称内藤神社の名前を加えられたそうです。



 都心に位置し、周囲に高層建築が乱立するなかで、由緒ある神社を維持していくにあたり、関係各位の御苦労いかばかりかと存じます。

<画像の説明>
 多武峰内藤神社側の内藤町住所表記





(*1)この地は後に内藤家の下屋敷(又は中屋敷と記載した文献もあります)となります。

(*2)甲州街道を使用する参勤交代の大名家はそれほど多くはありません。下諏訪以遠の大名は、中山道を使用したためです。甲州街道を使用した大名は、高遠内藤藩、飯田堀藩そして高島諏訪藩の3藩とされます。

2022年08月05日

醍醐寺 下醍醐寺と三宝院(京都市)

 醍醐寺は、874年(貞観16年)聖宝により開創されました。以来、醍醐天皇の帰依のもと、上醍醐が、そして、朱雀、村上天皇の勅願により麓の下醍醐が整備されました。下醍醐では、926年(延長4年)釈迦堂(現金堂)、951年(天歴5年)には、五重塔が完成しました。
(→醍醐寺上醍醐へジャンプ)

金堂(国宝)は、永仁、文明年間に2度焼失しましたが、現在の金堂は、豊臣秀吉が、和歌山県湯浅を攻略した際の戦利品で、秀頼の時代に現在の場所に移築が行われました(*1)。
金堂内部には、元は、上醍醐薬師堂に祀られていた本尊の薬師如来三尊像が安置されています(*2)。この薬師三尊像は、創建当時の作品と伝わっています。山深い上醍醐に安置されていたことで、何度かの戦乱からこれらの像は守られました。

 

<画像の説明>醍醐寺金堂全体写真 正面と斜方


 奈良時代末期から平安時代前期には、日本では、白檀を主な材料とした大陸の木彫技術を取り入れながら、日本独自の木彫技術を確立していきました。当寺の薬師三尊像の材料は存じませんが、日本独自作風の端緒をみることができます。尚、当寺の薬師如来は、薬壺を持っていますが、薬壺が当初からのものなのか、サイトの管理人としては、興味があります(*3)。

 金堂内陣には、現在併せて四天王像が安置されています。これらは、鎌倉時代の前期の作成とみられています。持国、増長二天と後方の広目、多門二天に作風の違いがあると言われています。本尊の薬師三尊像の日光菩薩、月光菩薩とのバランスは微妙で、金堂の移築と同時に移築されたとすれば、納得ができます。

<画像の説明>醍醐寺五重塔全景と相輪


 五重塔(国宝)は、高さ約38m、同時代の五重塔が外に無く、特に比較はできませんが、逓減性の大きいどっしりとした建物で、軒下の三手先斗供も純粋な和様建築です。相輪は約13m、京都府下では、もっとも古い木造建築物です。現在内部を拝観することはできませんが、初層内部に両界曼荼羅や真言八祖(*4)の密教絵画が描かれているそうです。塔の前方に空間が広がり、写真写りも良く、日本一バランスの良い五重塔とサイト管理人は思っています。

 三宝院は、1115年(永久3年)に創建されました。以後、醍醐寺の中心的な院家(いんげ)(*5)として発展しました。応仁の乱で焼失した後、義演の時代に復興されました。豊臣秀吉の「醍醐の花見」であまりにも有名です。唐門、表書院等が国宝に指定されています。

 

<画像の説明>醍醐寺三宝院と唐門

(*1)和歌山県湯浅にかつてあった満願寺本堂が移築されました。
(*2)金堂内部の拝観は可能ですが、撮影は禁止されています。
(*3)古代、薬師如来は、薬壺を持っていませんでした。そのため、釈迦如来と薬師如来は、像容上区別がつきませんでした。薬師如来が、薬壺を持つことは、奝然(ちょうねん)が大陸より伝えたと伝承もありますが、9世紀の密教の受容が契機になったと考えればわかり易いのですが、如何でしょうか。
(*4)空海までの真言密教を相承した八人の祖師のこと
(*5)院家(いんげ)は、子院、門跡(もんぜき)に次ぐ格式や由緒をもつもの。門跡は、 祖師の法統を継承し、一門を統領する寺のことです。尚、一部に三宝院を醍醐寺の「塔頭(たっちゅう)」と説明したものもありますが、「塔頭」は、禅宗における言い方です。

2022年07月03日

醍醐寺 主に上醍醐寺(京都市)

 醍醐寺は、豊臣秀吉が最晩年の慶長3年(1598年)に開催した「醍醐の花見」の会場になったことで有名ですが、今回は、理源大師聖宝(832年~909年)が、874年(貞観16年)に創建した同寺発祥の上醍醐寺について紹介させて戴きます。

<画像の説明>左又は下: 醍醐寺金堂 右又は上:醍醐寺三宝院


 上醍醐寺は、「醍醐の花見」の醍醐寺から急峻な山を登る事1時間強で到着できます。以前は車道が使用できたように記憶していますが、今はその門は閉鎖されている旨が注意書きされていますので、一般の参拝者は徒歩で登山するほかない様です。道が悪いので、生半可な気持ちでは到着できません(と私は思います)。

 上醍醐一帯の山は、笠取山と呼ばれます。聖宝は、山岳修行の場として、この地に上醍醐寺を創建しました。聖宝は合わせて、石山寺(*1)を拡充しました。上醍醐寺から醍醐寺を経て石山寺に向かいますと、現在では、電車を使用して2時間程度かかってしまいますが、笠取山伝いに歩きますと、上醍醐から石山寺は12㎞程度です。山岳修行を常とする聖宝には、この二つの寺院を行き来するのは容易だったのではないでしょうか。ともあれ、この2寺は、聖宝のもと、真言密教の修行の場として、朝廷からも手厚い保護を受けました。

 聖宝は、空海の弟であり弟子だった真雅の弟子にあたりますので、空海の孫弟子にあたります。また、東寺第五代長者宗叡(*2)から真言密教の重要な儀式を授けられましたので、真言密教の王道を歩いたことは間違いありませんが、自身の身は常に厳しい修行の場に置きました。

 醍醐天皇の発願により907年(延喜7年)に薬師堂が建立され、薬師三尊が奉納されました。醍醐天皇は、醍醐寺をこよなく愛され、そのため、天皇の諡号に寺の名前を称せられました。

 

<画像の説明>左又は下:上醍醐寺 清瀧宮拝殿 右又は上:上醍醐寺 醍醐水

 因みに、醍醐とは牛乳を精製して作る乳製品で、インドでは「最上の味覚」とされています。私は、ヨーグルトかチーズの様な食物を想像していますが、如何でしょうか。仏教では「最上の味覚」から如来の最上の教法にたとえられます。この地の地神横尾明神が口に含んだ泉の水は醍醐水と呼ばれ、この地の清瀧権現社殿前に今も湧き続けています。

 

<画像の説明>左又は下:上醍醐寺薬師堂 右又は上:上醍醐寺経蔵跡

 薬師堂は、平安時代末期1124年(保安5年)に落慶供養が行われました。国宝です。堂は、桁行5間、梁間4間(*3)の規模を持ちます。現在内部は見ることはできませんが、内部の蟇股は、透かし蟇股と呼ばれる平安後期の遺例です。また、内外陣の格子窓は、一本溝に二枚の窓を用いています(*4)。残念ながら、薬師堂は、常時閉鎖されており、建物の内部を見ることはできませんが、この時代の新しい機構を用いており、地味ではありますが、国宝に相応しい建造物と考えています。

*1 石山寺は、当初華厳宗の寺院として整えられましたが、平安後期聖宝に依って真言密教化が進められました。

*2 宗叡(809-884)入唐八家の一人。862年に真如法親王と入唐、865年帰朝。

*3 桁行は梁と直角の柱間の数、梁間は梁と並行の柱間の数。

*4 蟇股は、軒下の桁や梁の様な横柱を垂直方向に支える構造材。蛙が股を広げたような形の連想からきた名称。透かし蟇股は中央部が刳り貫かれた装飾性を持つタイプで、平安時代後期以降に現れます。また、一本溝に2枚の窓をはめ込む場合、窓の桟を工夫して、例えば2枚の窓を『』の形にして、窓の開け閉めをスムーズに行います。平安後期より横に滑らせる窓が出現しました。

2022年06月07日

仁和寺(京都市)

 仁和寺は、全国790寺の真言宗御室派の総本山です。世界遺産にも登録されています。当寺は、嵐電北野線の ‘御室仁和寺’ 駅から、歩いて数分の所に位置します。嵐電北野線は、嵐電嵐山線の帷子ノ辻(かたびらのつじ)駅から分岐する支線です。嵐電自体がチンチン電車の類ですので、駅は、バス停+αといった感じです。

 御室は、仁和寺を建立した宇多天皇のために設けられた室(僧侶の住居)の事でしたが、鎌倉時代以降仁和寺そのもの或いはその近辺を表す地名となっていきました。当寺は、応仁の乱で荒廃しましたが、徳川幕府の援助により、寛永年間に復興に着手しました。金堂は、この際、内裏の旧紫宸殿が移築改修され、仏堂風に改めたもので、国宝です。屋根が両翼にきれいにひろがり、優美な姿を醸し出します。

<画像の説明>仁和寺金堂


 御殿内部よりみる五重塔は秀逸です。当寺の五重塔も金堂と同様寛永年間の建立、重要文化財です。工法は純和様で、総高は約36mです。江戸時代の他の塔同様逓減率は小さいのですが、バランスの取れた重厚なつくりとなっています。二王門も重要文化財です。正面に阿吽の仁王像を安置します。工法は純和様、平城京の朱雀門を彷彿とさせます。

<画像の説明>仁和寺御殿内部より五重塔を望む

 

 

 <画像の説明>

  左又は下:二王門
  右又は上:五重塔近景

 

 

 

 

 

 仁和寺の数多くの国宝の中、歴史的、美術的に特に有名なのは、空海の三十帖冊子です。これは、空海の真筆が含まれており、また、時の天皇が様々な形でかかわった長い歴史を持ちます。また、その入れ物の長方形の被せ蓋づくりの箱は、全体を黒漆塗りとし、表面に蒔絵を施しており、こちらも国宝です。迦陵頻伽蒔絵冊子箱の画像は、2018年東博で開催された特別展の際に購入したクリアファイルを撮影したものです。迦陵頻伽はこのサイトで何度かご紹介しましたが、人面鳥身の仏教上想像の鳥です。


<画像の説明>左又は下:宝相華迦陵頻伽蒔絵冊子箱の印刷されたクリアファイルより
       右又は上:葛井寺千手観音のポスターより


 仁和寺の法師は、徒然草に度々登場して有名です。現在も高校の古文の教科書に掲載されることが多いのではないでしょうか。また、仁和寺派の有力寺院として、以前葛井寺を紹介しました。葛井寺千手観音は、リアルに千手を持つ千手観音として有名です。この様な内容は、以前もご紹介しましたので、リンクを張っておきました。

  http://bishamonten.info/posts/post68.html

2022年05月05日

寒川神社(神奈川県高座郡)

 寒川神社は、神奈川県高座郡寒川町に鎮座します。相模線宮山駅から歩いて数分のところに位置します。三の鳥居横の案内板によりますと、寒川神社(さむかわじんじゃ)の御祭神は、寒川比古命(さむかわひこみこと)、寒川比女命(さむかわひめのみこと)となっています。雄略天皇の御代に奉幣(*1)の記録があるとされ、727年に社殿建立と伝わり以来凡そ1300年の歴史があります。

 「延喜式神名帳」には相模国13社の式内社の1社に格付けされ、唯一の名神(みょうじん)大社に列せらました(*2)。以来、相模国一ノ宮として、尊崇の対象となっています。

(*1)奉幣(ほうへい)神に物を奉ること。

(*2)「延喜神名帳」は、奈良時代以降、祈年祭に国家から幣帛(へいはく)(神に奉納する物)を受ける官社の国郡別一覧表の事で、この神名帳に記載されている神社は、式内社と呼ばれます。ここで神名は、尊崇が厚く特別の待遇に預かる様選ばれた神々の社格のことで、延喜式神名帳には306座を掲載しています。(主に日本国語大辞典より要約)


<画像の説明>寒川神社三の鳥居

 

<画像の説明>寒川神社本殿

 ところで、寒川神社に祀られた寒川比古命、寒川比女命はどの様な神様でしょうか?中央で編纂された記紀には現れず、知名度は余り高くないように思います。この点について、私なりに相模国と武蔵国の比較において、少し考えてみました。

歴史的に、稲作は、扇状地において発達しました。平地では、水利工事が難しく、洪水の被害を免れなかったことが要因の一つとされます。武蔵国は、広大な関東平野のなだらかな丘陵地帯が続き、農業に適していました。一方、相模国の太平洋側は急峻で、耕作適正地が武蔵国ほど大きくなかったと考えられます(*3)。


<画像の説明>左または下:寒川神社本殿 右または上:寒川神社神門と狛犬


(*3)ここでちょっと注意が必要なのは、武蔵国は今の神奈川県とは、地域がかなり違うという点です。当時の武蔵国は、現在の東京都、埼玉県そして川崎の全域と横浜の東側を含みました。相模国は、横浜(西側)から足柄までの比較的狭いエリアでした。

更に、古代の関東平野では、早くから渡来人が住み着き、各地に牧が作られ、多くの馬が生産されました。これ等の多くは、租庸調として都に運ばれ、朝廷に献上されました。一方当時の官道は、東山道が中心で、東山道は、上野国、下野国から一旦武蔵国国衙に至り、再度東山道に戻る道でした(*4)。

現在の東海道(*5)の繁栄ぶりからは想像もつきにくいですが、当時の相模国は、武蔵国ほど都との結びつきが強くなく、結果的に神様の名前も、当初からは都には伝わらなかったのではないかと考えるのは如何でしょうか。

(*4)上野、下野国から武蔵国国衙に至る道(東山道武蔵路)は、東山道の本道として造られました。後に、支道となりましたが、最近の発掘結果で、道幅12m側溝付の直線道路だったことが判明しています。

(*5)当時の東海道は、かなり山側を通り、現在の246号がほぼそれにあたるとされます。


付録:寒川神社に奉納された「六球問題」に関する算額は有名です。この算額は残念ながら、現存していませんが、文献上この問題とその解が残されています。この問題は、西洋ではノーベル化学賞受賞者のソディ―が、1936年にネイチャーに初めて掲載しましたが、寒川神社の100年以上前の算額に既に掲載されており、和算の優秀性の証明の一つとされます。この復元された算額は、現在寒川神社方徳資料館に展示されているそうですが、祈祷の受付をしないと入館できないとのことでした。

2022年04月03日

清水寺(京都市)

 清水寺については、以前(2018年12月)、達谷窟(たっこくのいわや)との関連付けで御紹介しました。この頃、清水寺は、平成の大改修の最中でした。コロナ禍の2020年初めに改修工事は終わりましたが、今般久しぶりに当寺をお参りしてきました。コロナ前は、外国人でごった返していましたが、今はかなり余裕をもってお参りできます。写真を撮ることが好きな私にとっては、良い環境です。

<画像の説明>清水寺全景(泰山寺より)

 清水寺の創建については諸説ありますが、坂上田村麻呂がパトロンとなって、この地に観音菩薩を祀ったことから歴史の表舞台に現れます。この時代、清水寺において観音菩薩が祀られていたことは、人々に知られていたようで、同時代藤原伊勢人(ふじわらのいせんど)が、自身の私寺に清水寺と同様観音菩薩を祀ることを願ったが許可されず、都の北方を守護する毘沙門天を祀った事が知られています。(このことは、鞍馬寺の項を参照ください。)

<画像の説明>画像左又は下:清水寺本堂 画像右又は上:清水寺田村堂

 今、御本尊は秘仏ですが、お前立ちは、御本尊を写しているとの事です。それによると、御本尊は十一面千手観音菩薩です。千手のうち左右二臂を頭上に挙げて組んだ掌の上に、一体の化仏を戴く姿です。これは清水型と呼ばれる独特のお姿です。尚、本堂は国宝、その他の三重塔、経堂その他多くの建造物は重要文化財です。

清水寺の本堂の様に、崖や池などの上に長い柱と貫で建物を固定し、上部に広い平面を確保する建物の建て方を、懸造り或いは舞台造と呼びます。清水寺の場合は、釘を使わず楔(くさび)によって固定されています。舞台の下は18本の柱が6本3列に配置されています。(写真では真ん中の6本です。)今回の改修によって、舞台を支える柱は、基本新しいですが、旧来の柱もできる限り使われていることがわかります。

<画像の説明>清水寺本堂懸け造り基礎

この舞台はいつ頃からあったのか、結構古いものに違いないですが、平安時代末期には存在したようです。公家の藤原成道が、自身の『成通卿口伝日記』で、この舞台の高欄の上で何度か蹴鞠をした事が記されています。(➡以前の清水寺の項にもう少し詳しく書きました。)

あまり知られていないのですが、子安の塔(三重塔)のある泰山寺からみた清水寺本堂一帯は絶景です。子安の塔は、葛井(ふじい)親王に由来するとされます。葛井親王は、桓武天皇の第12皇子で、坂上田村麻呂を外祖父に持ちます。本堂横の三重塔同様観音菩薩の安産、子育て信仰を担っています。

<画像の説明>
画像左又は下:清水寺三重塔
画像右又は上:清水寺子安の塔(三重塔)

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

<画像の説明>
画像左又は下:清水寺門前の門前の複雑な電線
画像右又は上:平成の改修工事中の清水寺本堂

 

『枕草子』は「さわがしきもの」の例として清水観音の縁日を挙げています。今もこの様な門前の賑わいが、清水寺を支えています。(電線は早く地下化して戴ければと思います。)

2022年03月02日

等持院(京都市)

 等持院は、日本で最も長い電車の駅名と言われる京都嵐電北野線「等持院・立命館衣笠キャンパス前」より歩いて数分の距離に位置します(*1)。

 等持院の説明書きによりますと、等持院は、元は仁和寺の一院でしたが、足利尊氏が夢窓疎石を開山として再興しました。尊氏がこの寺に葬られると、その法号をとって等持院と改められました。法号から寺院名が名付けられました。

 以前このHPで、鎌倉の長寿寺を扱った際に、足利将軍家と関東公方家の勢力争いに起因、尊氏は、鎌倉では長寿寺殿、京都では等持院殿と二つの法号を持つことを紹介しました。

 因みに、長寿寺も鎌倉公方足利基氏が父尊氏の菩提を弔うために建立したと伝えられますが、やはり、法号から寺院名が名付けられました。尊氏の法号は二つあって、墓所も、等持院と長寿寺の2か所にあります。

<画像の説明>等持院の足利尊氏の墓

 境内には、足利尊氏の墓と伝えられる五尺の宝形印塔(*2)があります。尊氏の死去した延文3年4月(1358年)の銘が残ります。延文(えんぶん)は、日本の南北朝時代の北朝の元号です。

 以後、等持院は足利氏の菩提寺として繁栄しましたが、室町幕府の衰退や度重なる火災等により次第に衰退し、現在残る本堂(方丈)や庭園は殆ど江戸時代以降のものです。


<画像の説明>等持院方丈

東庭園は、本来衣笠山を借景としていましたが、立命館大学が拡充され、借景を遮られたため、現在では樹木を伸ばして校舎を遮っています。

<画像の説明>等持院西庭園と清漣亭(茅屋根の建物)

 等持院には、室町幕府の歴代将軍の木像が祀られていますが、歴代の将軍の内、五代義量、十四代義栄の像は祀られていません。歴代の将軍の内、この2名はきわめて影が薄く、義量は若くして死去、義栄は、勢力争いの中結局一度も京都へ入れなかった将軍です。等持院では、この二名を将軍とは認めていないという事だろうと思います(*3)。


(*1)元は、「等持院」のみの駅名でしたが、立命館大学との連携・協力協定により駅名に同キャンパス名がとり入れられました。
<画像の説明>嵐電駅看板

 

 

 

 

 

 

 


(*2)宝形印塔は、下から基礎、塔身、笠、相輪の四つの部分から構成された石塔です。当寺の塔は、先端の宝珠が欠けています(或いは元々なかったのかもしれません)。基礎部分は、石の色が違うので、時代が違うのかもしれません。また、宝形印塔の特徴の一つ、基礎部分の反花座(かえりばなざ)は見当たりません。

(*3)栃木県足利市の鑁阿寺(足利氏宅跡)には、初代から十五代まで歴代の足利将軍木像が残ります。

2022年02月08日

知恩院三門(京都市)


 知恩院三門は、山門ではなく三門と称します。 ‘山’は、禅宗においては寺院の事を表します(*1)が、三門は、「空門(くうもん)」「無相門(むそうもん)」「無願門(むがんもん)」という、悟りに通ずる三つの解脱の境地を表わす門(三解脱門:さんげだつもん)を意味しているそうです。

 当寺は、平安期以降の由緒ある寺院で、紹介したい文化財はたくさんありますが、今回三門のみに絞って紹介させて戴きます。と言うのは、
 ‐知恩院は、浄土宗の宗祖法然が後半生を過ごし没した後その場所に建てられた寺院で浄土宗の総本    山ですが、なぜか三門は禅宗様で建立されている。
 ‐内部上層部(楼上)は、仏堂となっており、中央に宝冠釈迦如来坐像が安置されている。
その様な点で、きわめてユニークと考えたためです。

<画像の説明>知恩院三門全景 屋根下詰組と扇垂木に注目してください

 三門は、元和7年(1621)、徳川2代将軍秀忠公の命を受け建立されました。(*2) 構造は五間三戸・二階二重門・入母屋造本瓦葺で、高さ24メートル、横幅50メートル、わが国最大級の木造の門です。

 三門の外観は、添付した写真でお示ししましたが、禅宗様のセオリー通り、屋根下には、詰組の斗供、扇垂木が確認できます。また、粽付きの円柱を露盤上に立てる工法を採用していますが、これも禅宗様の工法です。➡禅宗様の詳細はこちらを参照ください。

 なお、外に掲げられている「華頂山」の額の大きさは畳2畳以上あるそうです。

<画説明>知恩院三門 粽付きの円柱を露盤上に立てる工法に注目してください

 今回初めて内部を拝観させて戴きました(*3)が、内部の仏堂には、中央に宝冠釈迦如来坐像、脇壇には十六羅漢像(いずれも重要文化財)が安置され、天井や柱、壁などには迦陵頻伽(かりょうびんが)や天女、飛龍が極彩色で描かれています。
 宝冠釈迦如来は、鎌倉では、円覚寺の本尊(丈六の宝冠釈迦如来坐像)、五山第3位の寿福寺本尊、鎌倉国宝館等に祀られています。
宝冠釈迦如来のうんちくについてはこちらを参照ください。

 

<画像の説明>知恩院三門宝冠釈迦如来坐像 特別拝観のポスターより(四角補正を実施)


 京都で宝冠釈迦如来を拝ませて戴いたのは初めてです。一般に単に釈迦如来坐像と紹介されているケースが多く、今回の特別拝観で初めて知りました。過去に、宝冠釈迦如来は鎌倉にしかないと申しましたが間違いでした。京都にもありました。訂正させて戴きます。

(*1)例えば京都五山は、京都の有名な五つの山ではなく、京都におけるランクの高い五つの禅宗寺院を意味します。

(*2)徳川秀忠がなぜ知恩院を優遇したかは定かではありませんが、徳川幕府は、御所の監視場所として、西は二条城、東は知恩院を重視したという言い伝えがあります。地図で確認しますと、御所~知恩院も、御所~二条城も大凡2㎞の距離にあります。

(*3)特別拝観は、 令和3年秋 10月29日~11月7日に行われました。

2022年01月02日

清白寺(山梨県山梨市)

 清白寺は、中央本線東山梨駅から南方に徒歩10分くらいのところに位置します。山梨県の国宝建築物としては、勝沼の大善寺と清白寺の2棟のみですので、その一棟にあたります。

     ➡大善寺のリンク

 

<画像の説明>清白寺入り口と参道

 建物の参道には、梅の木が生い茂ります。両側、梅の木の外側には、今はブドウ畑が広がっています。本堂は、ブログの管理人が40年以上前に訪れた際とは異なり、今は無人でひっそりとしています。国宝の建造物とは思えないくらい何の入場制限もない、入場料も必要ない状況です。さすがに本堂の中には入れなませんが、本堂の周辺は自由に歩け回ることができます。

<画像の説明>清白寺仏殿


 仏殿は、応永22年(1415年)建立の建立とされます。三間、三梁、一重、裳階付、入母屋造です。また、檜皮葺、柱は円柱です。内部は見ることができませんが、手にした資料によると、床を張らず漆喰で固められている由で、禅宗様の建物です。宋由来の立礼の国から伝わったとされる建物です。

 

<画像の説明>清白寺仏殿桟唐戸と華頭窓

 本尊は、釈迦如来像、清白寺殿仁山義公大居士という尊氏の位牌、夢窓国師像が祀られるとされますが、今は確認できません。

 建物の、基本的なコンセプトは、関東地方に点在する禅宗様の建築物と同じ図面で建築されたものです。何度も扱っている正福寺、円覚寺舎利殿等と同じ建築設計ですが、建物は小型で、一定の割合で縮尺したものと考えらます。

  ➡円覚寺舎利殿のリンク
  ➡正福寺地蔵堂のリンク

2021年01月25日

東大寺三月堂執金剛神(奈良市) 東京芸大模刻像より

 東京芸大において東大寺執金剛神像模刻像が公開されました。これは、同大の薮内佐斗司  先生の退官記念の一環です。模刻は、当然、現在の一流の技術により完全に本物を再現されています。しかも、現状の模刻像と完成直後の美しい色彩を想像した模刻像の二つを同時に見ることができます。とても感動できる企画でした。

<画像の説明>東大寺三月堂執金剛神(模刻像) 画像左:現状 画像右:完成時の復元

 私は何度も東大寺にはお参りさせて戴いていますが、執金剛神像の現物を拝ませて戴いたことはありません。この像は、通常秘仏で年に一回御開帳(開帳は12月16日です)されますが、東京からはなかなかスケジュールが合いません。コロナ禍で御開帳はどうなったのでしょうか、私は現状を存じません。

 そもそも執金剛神像は、本尊の不空羂索観音の真後ろに祀られており、しかも、本尊とは背中合わせに祀られています。現物を見るのも難しいでしょうが、御開帳の日に見ることができたとしても、今回の展示会ほどは、絶対に身近に拝ませて戴くことはできないでしょう。

<画像の説明>東大寺三月堂執金剛神(模刻像)

 この像に関してですが、東大寺の前身金鍾寺に関連した文献にはこの像の記述があり、当初から法華堂の秘仏でした。憤怒の表情、筋肉等の躍動感のある表現等、天平文化の典型的な技法を示します。塑像ですが、殆ど作成当時の形、色彩を残します。

 執金剛神が祀られる三月堂(法華堂)ですが、天平年間の建物でもちろん国宝です。創建時には双堂(ならびどう)の形式だったと考えられています。鎌倉時代に2棟を合体して1棟にしましたので、左右対称ではありません。三月堂は、東大寺では、一般の観光客が訪れる南大門や大仏殿とはちょっと離れた場所にありますので、以前は比較的静かな場所でした。
鹿もこの辺りではあまり見かけません。

 

<画像の説明>画像左:東大寺三月堂 画像右:東大寺三月堂仏像の内部配置図

 三月堂内部には、本来の安置場所が焼失した等の理由により、言葉は悪いですが雑多な仏像が集められています。本尊の不空羂索観音や今回のテーマの執金剛神をはじめ、12体の国宝と4体の重要文化財計16体の仏像が安置されます。これほどの国宝、重文が一堂に集められている光景は、なかなか拝観させて戴けることはありません。

東大寺三月堂本尊の不空羂索観音に関しては以前にも取り上げたことがあります。
  ➡東大寺三月堂不空羂索観音へジャンプ

  ➡東大寺法華堂へジャンプ

2020年12月21日

高尾山薬王院(東京都八王子)

 高尾山薬王院は、真言宗智山派大本山です。成田山新勝寺、川崎大師平間寺とともに真言宗智山派の関東三大本山に数えられます(*1)。

 薬王院の名前は、当初の御本尊が、薬師如来だったことに由来しますが、現在の御本尊は、飯縄大権現(いづなだいごんげん)です。不動明王(大日如来の変身)が、日本に垂迹(*2)して飯縄大権現になったと説明されています。御本堂には、薬師如来と飯縄大権現が祀られています。御本堂内では、護摩祈祷が行われており、有料ですが、予約すれば、誰でも護摩祈祷を受けることができます。


<画像の説明>画像左又は下:高尾山薬王院御本堂  大きな天狗のお面が印象的です。

       画像右又は上:高尾山薬王院参道途中に設けられた天狗の銅像
 

 薬王院では、御本殿のすぐ左側の階段を上がっていきますと、今度は御本社があります。御本社は、東京都有形文化財となっています。拝殿は、桁行3間、梁間3間、銅瓦葺きです。拝殿、幣殿(*3)、本殿の三殿一体となる権現造、江戸時代後期の社殿建築です。社殿全体が彩色彫刻で覆われた華麗な建造物です。

<画像の説明>高尾山御本社本殿 銅板の屋根が飛んでしまいました。軒下に注目してください。


<画像の説明>高尾山御本社本殿 軒下の造形 。 

 

 御本社には、御本尊の飯縄大権現が安置されています。薬王院に参拝された場合には、御本堂にとどまらず、ぜひ御本社までお参りしてください。御本堂の上に更に御本社があることをご存じない方も多い様で、御本堂でUターンされる方が多くいらっしゃいます。仁和寺の法師(*4)にならない様、気を付けてください。

 高尾山はあまりにも有名ですが、簡単に場所をご紹介しておきます。高尾山は、新宿から西へ約50㎞、京王線特急を使うと高尾山口駅まで約50分です。高尾山口駅からは、ケーブルカーもありますが、参道は舗装されていて徒歩でも楽です。徒歩の場合、高尾山口駅から薬王院まで1時間ほどで到着可能です。標高は600m程度で、都心に比べて気温は低いです。

(*1)智山派の関東三大本山は、成田山新勝寺、川崎大師平間寺及び高尾山薬王院です。過去のブログでご覧いただけます。
   ➡成田山新勝寺へジャンプ
   ➡川崎大師平間寺へジャンプ

(*2)垂迹とは、本体である本地としての仏や菩薩が、仮に神や人間等の姿となって表れる事を言います。つまり、インドで発生した仏教の仏様と日本で発生した神様を関連付ける、平安時代に発生した日本神道特有の思想です。

(*3)幣殿は、参詣の人が献上物などをささげる社殿で、拝殿と本殿との中間にあります。

(*4)徒然草52段。仁和寺の法師がせっかく石清水八幡宮に参ったが、(途中と思わず)参拝を終えたと思い戻ってきてしまった。何と残念なことだ、と。詳細は、図書館で読んでください。

2020年11月16日

大善寺(山梨県甲州市)

大善寺(山梨県甲州市)

 大善寺は、養老2年(718年)行基によって開創されたとされます。本堂は、山梨県最古の建造物です。本堂と本堂内の厨子を含めて国宝に指定されています。勝沼ぶどう郷駅から車で10分くらいのところに位置します。

 本堂は、桁行五間、梁間五間(五間四方)、寄棟造、檜皮葺、鎌倉時代後期の建造物です。柱の刻銘からもう少し詳しく建造年代はわかるそうですが、完成年は良くわかっていません。

 建物は、基本和様です。頭貫、長押等の横木(水平材)を通す点(*1)、木鼻(*2)の採用等鎌倉時代に中国宋より渡来した新しい建造方法(大仏様、禅宗様)を一部採用している点から、折衷様とされることもあります。折衷様の典型とされる鶴林寺本堂(兵庫県加古川)、功山寺(山口県下関市)等と比べますと、当寺は、基本和様、一部折衷様といったところでしょうか。


<画像の説明>大善寺本堂と屋根下の木組み


 大善寺本尊は、薬師如来坐像です。薬師如来と脇侍の日光月光菩薩は現在秘仏となっており、5年に一度だけ御開帳されます。私は40年位前にお参りさせて戴いたことがありますが、その際は普通に拝ませて戴けましたので、その件をお寺の方にお聞きしたところ、昭和60年代に一度盗難にあい、その際は無事に戻ってきたが、以降秘仏にしているとのことでした。

 秘仏の薬師三尊は平安時代前期の製作とされます。また、それとは別に、鎌倉時代の日光月光菩薩と十二神将は御開帳されており、常時拝ませて戴けます。こちらは鎌倉時代の作成です。これら十七体(秘仏の薬師三尊、御開帳の日光月光菩薩、十二神将)すべてが国の重要文化財に指定されています。十七体の並ぶさまは爽快です。

<画像の説明>画像左または下:大善寺本尊薬師如来坐像
       画像右または上:大善寺薬師三尊像、十二神将

       厨子内の薬師三尊像は秘仏です。両側の日光・月光像と十二神将は拝観可能です。
       いずれも撮影禁止です。
       当画像は、大善寺で購入した絵葉書をスキャンさせて戴きました。

 

 ところで、薬師如来が通常左手に持つ薬壷の代わりに葡萄を持ちます。本体とは同時代のものではないようですが、いつごろ薬壺が葡萄に変わったのかはわからないようです。


大善寺の看板には「葡萄寺」、戴いたパンフレットには「葡萄薬師」と紹介されています。JRの駅名「勝沼ぶどう郷駅」への改称も相まって当地は葡萄一色です。

 

画像の説明:大善寺入り口の看板

 

 

 

 

(*1)鎌倉以前の和様建築は、屋根をそれぞれの柱で受ける構造です。一方、大仏様、禅宗様では、貫を通すことによって、木箱の一面で屋根を受ける構造になっています。
 大仏様、禅宗様についてこのHPでは、過去に何度か取り扱っています。ジャンプ先もご参照ください。

  禅宗様建築垂木について 正福寺・建長寺・円覚寺
  円覚寺舎利殿
  正福寺地蔵堂
  大仏寺(甘粛省)と東大寺大仏殿

(*2)木鼻(きばな)は、木端の意味で、貫(水平材)の端を、柱を突き抜かせ装飾的な彫刻を施したことを言います。大善寺の場合は、その部分が簡単に彫刻されています。時代が更に下ると、象や獅子の彫刻がみられるようになります。木端があれば、少なくともその部分は平安以前には遡れないことになります。

2020年10月19日

大國魂神社(東京都府中市)

 大國魂神社は、東京都府中市に位置します。神社本殿は北面しています。源頼義、義家父子が奥州平定の「前九年の役」の途次、当神社に立ち寄り自分たちの擁護を祈願しました。これが、当神社が北面している理由だと伝えられています(*1)。頼義、義家の心情として、自分たちの武運長久を願ってのことか、東北ににらみを利かせるためだったのか、或いは怨霊退散その他の理由があったのか詳細の理由には興味があるところですが、如何でしょうか。

 



 

 

<画像の説明>画像左又は下:大國魂神社本殿 画像右又は上:源義家像(大國魂神社参道近く)

 そもそもこの地は、古代武蔵国の府中(国衙があった場所)で、古代において当神社は、武蔵国国衙域内にありました。大國魂は、大国主神(オオクニヌシ)の別名で、大和朝廷の進出前に、当地にも出雲系の神様が広く普及していたことが想像されます。

 中世以降、当社は、六所宮或いは武蔵総社と呼ばれました。当社が六所宮と呼ばれるのは、武蔵国内の六神社の祭神を合祀しているからです(*2)。

 時代は下り、1590年(天正18年)徳川家康が江戸入府し、武蔵国の総社として社領500石が寄進され、社殿等が刷新されました。慶長年間に造営された社殿は、楼門は朱塗り、楼門を入った右手に三重塔がそびえていました。中央の本殿は、三間朱塗りの檜皮葺で唐破風が付いていました。

 

<画像の説明>大國魂神社参道

 1646年(正保3年)の大火で当社も焼失しました。再建に当たり、楼門は随身門となり、三重塔は再建されませんでした。この時の建造物が現在の社殿の基本となり、本殿は、東京都の有形文化財に指定されています。
 府中は、古代から中世には武蔵国の中心として、近世には、甲州街道に面した門前町宿場町として発展し現在に至ります。

(*1)『府中市の歴史』によりますと、下記記載があります。
『源威集』という源氏の歴史を綴った書物に、1051年(永承6年)、源頼義が「前九年の役」出陣に際して、「武蔵国に逗留の間、府中六所宮、もと南向きを俄に北向きに立改む、奥州合戦の間、擁護の為なり」。

(*2)武蔵国は、近世においても現在の東京都の外、埼玉県のほぼ全域、神奈川県の川崎市、横浜市の大部分を含む意外と広い地域です。現在JRの駅名に、武蔵浦和(埼玉県さいたま市)、武蔵小杉(神奈川県川崎市)など武蔵の付いた地名が、埼玉県、神奈川県に点在します。
 六所宮に合祀された元社も武蔵国一帯に広がります。武蔵国一之宮は、現在の小野神社(東京都多摩市)に比定されています。有名な氷川神社(埼玉県さいたま市)は三之宮、椙山神社(神奈川県横浜市緑区)は六之宮に比定されます。

2020年09月14日

浅草寺(東京都台東区)

 浅草寺縁起によりますと、浅草寺の創建は、推古天皇36年(628年)とのことです。第2次世界大戦で浅草寺は空襲を受け堂宇を焼失しましたが、戦後その焼跡から奈良時代の仏具が出土しました。浅草寺縁起による飛鳥時代前期の創建の真偽はともかくも、奈良時代には何らかの仏教施設があった事が示唆されます。


 浅草寺が、実際の歴史に表れるのは、吾妻鏡です。1192年(建久3年)5月8日後白河法皇の49日の百僧供の仏事が、鎌倉勝長寿院(*1)で行われましたが、僧が招集された寺院16寺の1寺として浅草寺から僧3名が参加したことが記録されています。この行事には、伊豆、相模、武蔵から16寺が選ばれていますので、浅草寺は、この時代、既に地方寺院としての地位が確立されていたと考えられます(*2)。
 

<画像の説明>浅草寺五重塔

 

 

浅草寺が歴史の表舞台に表れるのは、1590年(天正18年)8月1日です。徳川家康が関東に入府し、江戸を本拠として新たな領国経営を始めることになりますが、その際、浅草寺を徳川家の祈祷所と定めました(*3)。


 その際、浅草寺は500石を与えられました。500石は旗本でいえば、中の下か下の上程度の家格ですが、寺社では、何千石、何万石といった格はそれほど多くないことから、相対的には格の高い寺院と見做されたとのではないでしょうか(*4)。


<画像の説明>画像左又は下:仲見世通りより宝蔵門を眺める
       画像右又は上:1855年(安政2年)の大地震で九輪の曲がった五重塔(*5)

 

 

浅草寺は、従来隅田川に向けて東面していましたが、1649年、火災から復興した際には南面させました。墨田川は相変わらず重要な交通路でしたが、既にこの頃には、浅草は江戸の町の一部となっており、参詣者の利便を考えて南面させたと考えられます。これにより、南側に参道が発達し、現在の仲見世の礎となりました(*6)。


(*1)勝長寿院は、源頼朝が鎌倉大御堂ヶ谷に建立した寺院です。

(*2)吾妻鏡の1181年(養和元年)の項に、「鶴岡若宮の造営に関して審議があったが、鎌倉中には    然るべき大工がいないので、武蔵国浅草の大工を召し進めるよう」との記載が残ります。この    場合、浅草は地名で、この大工と浅草寺の関係は不明ですので、吾妻鏡においては、1192年を    浅草寺の初出とさせて戴きました。
    なお、吾妻鏡に関しまして、五味文彦、本郷和人<編>『現代語訳吾妻鏡』(吉川弘文館)を    参照させて戴いております。

(*3)ほぼ同時期に、増上寺は徳川家の菩提寺と定められました。

(*4)寛永寺1万1千石は別格です。

(*5)浅草寺日並記研究会<編>『江戸浅草を語る』(東京美術)より複写させて戴きました。

(*6)この時代に建立された五重塔も新たに南面させました。

2020年08月10日

長寿寺(鎌倉市)

 足利尊氏の法名は、京都では等持院殿(*1)と呼ばれていますが、鎌倉では長寿寺殿と呼ばれています。長寿寺は、足利尊氏が自身の邸宅跡に1336年に創建後、子供の2代鎌倉公方足利基氏(*2)によって、当地に七堂伽藍が整えられました。

 鎌倉五山(*3)がいわば公的な寺院だったのに対して、長寿寺は鎌倉公方家の私的な寺院と見做すことができます。更に、長寿寺殿の名前も、基氏によって意識的に整えられたと言っても良いと思います。というのも、元弘の乱の際、尊氏は、丹波国篠村で旗上げ、北条氏を裏切り、後醍醐天皇方につきました。尊氏は、京都を奪還し、後醍醐天皇を京都に向い入れたことで、建武の中興第一の功臣となりました。その後中先代の乱の平定のために鎌倉に下向、一時的に鎌倉を本拠とする動きを見せた事もありますが、基本的に京都に本拠を置き、鎌倉という土地と尊氏自身の関係はそれほど濃厚ではありません。

 そのような状況でしたが、基氏は、京都に対抗するべく、父尊氏と鎌倉の関係を強調し、武士の忠誠を高めていったと考えられます。その精神的支柱がこの長寿寺だったのでは無いでしょうか。鎌倉公方家は、基氏後、子供の氏満(3代)、孫満兼(4代)と権力を継承しました。

画像の説明:長寿寺本堂

 ここで留意しなければならないことは、鎌倉は、南北朝、室町時代に至っても鎌倉時代と同様、京都とともに東西の政治の中心であり続けたことです。鎌倉幕府が滅亡したことにより、鎌倉が焼け野原になったと思われる方も多いと思いますが、そういうことはありませんでした。長寿寺も鎌倉五山の建長寺円覚寺といったそうそうたる寺院と同じ北鎌倉に位置します。鶴丘八幡宮から北鎌倉一帯が鎌倉の繁栄が最もしのばれる場所です。

 足利尊氏は室町幕府の初代将軍です。その知名度は、現在では、同じ初代将軍となった源頼朝や徳川家康に比べてあまり高くありません。しかし、室町時代には、京都将軍家にとっても、鎌倉公方家にとっても、尊氏が精神的支柱だったことは紛れもありません。そのことが、尊氏の法号が、京都と鎌倉2か所に存在する理由と考えられます。

画像の説明:左又は下:長寿寺内部
 右又は上:足利尊氏像(栃木県足利市)

 

 

追記:
 尊氏は、足利荘(足利市)で生まれたという説もありますが、現在では、母の実家上杉氏の本貫地京都府で生まれたとする説が有力だそうです。足利尊氏と地元足利荘の関係は希薄です。十分に調べた訳では無いのですが、尊氏が地元の足利荘に戻ったという事実は確認できませんでした。(どなたかご存知の方があればぜひご教授ください。)

 足利尊氏と足利荘の関係が希薄なためか、足利尊氏像(*4)を地元足利市に建立するにあたり、製作に当たって反対運動もあったそうです。明治以降、朱子学、そしてそれをベースとした皇国史観により足利尊氏の評価は下がってしまったことも関係しているのかもしれません。

(*1)等持院の写真が、どうしても自分の写真アーカイブから見つけ出せませんでした。日頃の整理が悪いので想定内ですが、今、コロナ禍で簡単に京都へもいけません。申し訳ありませんが、等持院の写真は、移動がスムーズになり次第、別途準備させて戴きます。
ところで、雑学ですが、等持院最寄り駅の京福電車‘等持院立命館大学衣笠キャンパス前’は、文字数・音読数ともに日本一長い駅名となったことが、マスコミで報道されていました。

(*2)初代鎌倉公方は足利義詮ですが、短期間でかつ臨時的なものでしたので、基氏が事実上の初代と考えられます。

(*3)五山は、室町幕府三代将軍足利義満の時代に最終的に決定されました。最上位は、京都の南禅寺とし、その下に同格に京都五山、鎌倉五山が整えられました。

(*4)建武の三忠臣と言われる楠木正成像や、新田義貞像が、勇ましい騎馬乗姿なのに対して、足利尊氏像は武具も付けない公家姿です。像として見劣りもしますし、武士の棟梁、室町幕府初代将軍の像としては、少し残念な気がします。

2020年07月13日

池上本門寺 (東京都大田区) 五重塔

 池上本門寺は、東急池上線池上駅から徒歩10分くらいのところに位置します。東急池上線が歌謡曲でも歌われて有名になりました。池上本門寺の名前もその流れで考えてしまいそうですが、当然のことですが、東急池上線より池上本門寺の方がずうっと古いからあります。

 池上本門寺は、日蓮宗の大本山です。1282年この地で日蓮が入滅(臨終)したのち、この地の領主だった池上氏により寺域が寄進され、池上本門寺の歴史が始まりました。以後、関東武士の厚い信仰を受け、又江戸時代には、徳川家はじめ多くの有力大名の寄進もあって、寺院として発展し続けました。

 第2次世界大戦末期(1945年4月15日)には、アメリカの爆撃機B29による攻撃で、当寺も焼夷弾の直撃を受け、祖師堂、釈迦堂はじめ56棟が焼失しました(*1)が、五重塔は、奇跡的に焼失を免れました。

<画像の説明>本門寺五重塔 画像左又は下:近景 画像右又は上:遠景

 五重塔は、1608年建立、国の重要文化財となっています。関東に残る最古の五重塔とされます。高さは、29.47m(礎石を含めて31.8m)ということで、規模感としては、法隆寺(31.45m)、日光東照宮(31.8m)等と同程度の建立物です。

 当五重塔は、1614年(1618年という説もあります)の地震により傾いたため、徳川家の支援で1702年―03年に再建されました。徳川第五代将軍綱吉の時代です。
 この塔は、1層目のみが和様(*2)で、2層目以降が禅宗様(*2)となっています。私は塔の内部を見させて戴いたことはないのですが、1層目の内部は禅宗様だそうで、装飾の蟇股や桟唐戸の内側の装飾もそのまま移築されているそうです。再建の際に、1層目の外回りだけが、和様へ変更がなされたようで、その意図は私には知る由もないのですが、文化財のユニークさの点では間違いなく一点物です。

 塔の三層、四層の屋根は、銅板葺きがされています。野地板部分で嘉永6年(1853年)の墨書きが発見されたこと、比較的新しい0.18mm程度の伸銅が使われていたことから、江戸末期以降、おそらく、明治になってから銅板葺きに葺替えられたことが、昭和の修理の際に判明しました。


<画像の説明>画像左又は下:本門寺五重塔 寺内の墓地より 画像右又は上:本門寺経蔵


 江戸時代の塔は、逓減率(*3)が小さいため、どうしても重心が上に移動して、宙に浮くように見えてしまいます。これは、技術の進歩の結果可能になったと考えられます。現在では、重厚感のある中世以前の塔に人気が集まりますが、江戸時代の塔は、繊細感、安定感があります。また、多様な装飾も見どころとなります。

(*1)『池上本門寺百年史』を参照させて戴きました。

(*2)和様、禅宗様或いは大仏様そしてそれらの折衷様は、鎌倉時代以降出現した建築様式の呼び名です。このHPで以前に何度か扱いました。リンクを張りますので、当該項目を参照ください。
  
  禅宗様➡円覚寺舎利殿正福寺地蔵堂禅宗様建築垂木について
  大仏様➡東大寺大仏殿(及び中国甘粛省大仏寺)
  折衷様➡鑁阿寺
  和様➡興福寺関連 中金堂(2019年復興)、五重塔等

(*3)逓減率は、屋根が上層程徐々に小さくなる割合のことを言います。近世の塔は、一般的に、下層に比して上層があまり小さくならないといえます。

2020年06月08日

日本三毘沙門天 特に朝護孫子寺像

 表題に掲げた日本三毘沙門天という言葉ですが、オフィシャルなこのような言葉があるわけではありませんし、内容に関しても様々な説がある様です。ただ、先月ご紹介した鞍馬山鞍馬寺と今回ご紹介する朝護孫子寺の毘沙門天は、どのような説でも、日本三毘沙門天に含まれています。

 三毘沙門天の三つ目は、大阪府高槻市の神峯山寺(*1)或いは京都山科の毘沙門堂と解説される例は多い様です。関東では、栃木県足利市の大岩寺が候補に挙げられることもある様です。大岩寺には私は行ったことがないのですが、どのような毘沙門天が祀られているのか、また公開されているのか、ネット情報だけでははっきりしません。ご存知の方どなたかご教授戴ければ助かります。

 なお、今回の奈良博の特別展「毘沙門天-北方鎮護のカミ-」では、鞍馬寺と朝護孫子寺の毘沙門天は、展示品に入っていました。


 朝護孫子寺の本尊は毘沙門天ですが、そのことは余り知られておらず、国宝「信貴山縁起絵巻」の舞台として有名です。当寺は、聖徳太子の開基伝承があります。毘沙門天が太子の前に現れ、その加護によって物部氏に勝利したことから、太子自身が594年(推古2年)にこの朝護孫子寺を創建したという古い伝説を持ちます。

 但し、実際のところは、信貴山縁起絵巻の主人公命蓮以前のことはほとんどわかっていません。命蓮は、9世紀末に信貴山に入り、毘沙門天一躯を安置しました。命蓮が再興した朝護孫子寺ですが、戦国時代織田信長と松永久秀の戦いによりお寺は、灰塵に帰しました。その際おそらく寺宝の多くがお寺とともに失われたと思われます。

 

<画像の説明>画像左又は下:朝護孫子寺遠景 張子のトラとともに(*2)
       画像右又は上:朝護孫子寺参道
 

<画像の説明>朝護孫子寺 兜跋毘沙門天立像(*3)
 

 掲載した毘沙門天(*3)は、兜跋毘沙門天ですが、下部の地天が失われ別途作られた岩座の上にのります。宝冠と両腕の海老籠手は、日本の兜跋毘沙門天の代表例とされる東寺像と同じ特徴を持ちます。小札紋が、下半身にうっすらと残りますが、唐風の特徴とされる獅噛(*4)はありません。また、西域風の特徴とされる刀剣も佩いていません(*5)。兜跋毘沙門天が日本に請来されて、かなり時間を経た作品と想定されます。奈良博の特別展の図録には、10世紀の作品と記載があります。なお、当寺の本尊は、秘仏となっており、当像は本尊ではありません。




 

 

 

 

 



 

<画像の説明>

 画像左又は下:獅噛の例(*4)
 画像右又は上:四川邛崃龍興寺址出土毘沙門天立像(四川大学博物館蔵)前面に佩いた刀剣に注目してください。

 

 

 

 

 

(*1)神峯山寺については、橋本章彦先生の「毘沙門天―日本的展開の諸相―」に詳細に述べられています。

(*2)日本では、毘沙門天のお使いがトラという事になっているそうですが、朝護孫子寺では、毎年2月に寅祭りが開催されます。因みに中国では、毘沙門天のお使いは、北方つながりで、ネズミ(子))ということになっています。

(*3)本毘沙門天ですが、今回の「毘沙門天-北方鎮護のカミ-」にも展示されました。画像は、信貴山縁起絵巻展(2016年奈良博特別展「信貴山縁起絵巻」)の際に買い求めた絵葉書から複写させて戴きました。「毘沙門天-北方鎮護のカミ-」図録にも同じ構図で前面、後面が、掲載されています。

(*4)獅噛は、獅子が腰回りの帯を噛んだ図です。画像は、東寺兜跋毘沙門天立像を東博特別展の図録より複写させて戴きました。(➡東寺兜跋毘沙門天立像

(*5)兜跋毘沙門天が刀剣を佩く画像を掲載します。画像は、四川邛崃(qionglai)龍興寺址出土毘沙門天立像(四川大学博物館蔵)です。日本では、智泉様にその例があります。智泉様は、智泉(空海の甥でかつ高弟)が821年に記した「四種護摩本尊并眷属図像」のことを言います。

2020年05月11日

鞍馬寺毘沙門天(京都市) 主に鞍馬様(くらまよう)のこと

 奈良博の「特別展 毘沙門天―北方鎮護のカミ―」は、2020年2月4日~3月22日開催予定でしたが、今回のコロナウイルスの影響で館自体が閉館されたため、途中で打ち切りになってしまいました。残念です。捲土重来できないものでしょうか。



 今回の特別展では鞍馬寺の毘沙門天が紹介されましたので、再度鞍馬寺毘沙門天を取り上げてみました。もちろん毘沙門天は本HPのメインテーマですので、鞍馬寺毘沙門天については、詳細は本編(2.7幸福神としての毘沙門天)またブログ(鞍馬寺と由岐神社)にも紹介記事があります。そちらも、あわせてご覧ください。

 

 今回奈良博特別展で展示された毘沙門天は、右手に戟をもって、左手は額に当て、遠く南方の京都(平安京)を見守る姿をとるとされます。毘沙門天の最大の特徴で、他の仏尊との区別も付けやすい、仏舎利の入ったとされる宝塔は持ちません。この独創的な像容、眉をひそめた重厚な表情、そしてずんぐりした体付きには存在感がみなぎります。

 しかし、この有名な毘沙門天は、鞍馬寺の本尊ではありません。本尊は秘仏でもちろん私も拝ませて戴いたことないのですが、左手を上げて戟をとり、右手を腰に押しつける姿で、左右に吉祥天(*)と善弐師童子(*)を従えているそうです。宝塔を持たないこの様な様式の毘沙門天像は、日本では他に例は少なく、鞍馬寺の史料には、鞍馬様と記載されています。

 

 

 『毘沙門天儀軌』は、毘沙門天について記載された中国の仏典ですが、根本印として、「右押左叉」と述べられています。これが、右手を腰に押し当て左手に叉(戟)をもつ鞍馬寺の毘沙門天の像容に当たると、私は考えています。

 

 

 中国にも鞍馬寺本尊の像容は残っています。例えば、夾江(jiajiang)千仏岩107窟です。兜跋毘沙門天の3尊像です。左は吉祥天像です。右ははっきりしませんが毘沙門天、吉祥天の関係から禅弐師童子の可能性が高いです。夾江千仏岩は、他の石窟との関係で9世紀中頃の作品と考えられています。

<画像の説明>鞍馬寺 毘沙門天立像

奈良国立博物館特別展 「毘沙門天ー北方鎮護のカミー」図録より(一部画像補正しています

 


 

 

<画像の説明>夾江(jiajiang)千仏岩107窟

 

 

 鞍馬寺の左手を額に当てる像容は、鎌倉時代、鞍馬寺の火災後の補修の際に元の形に改修しようとしたが、技術的な理由で、この形にしか改修できなかったと考える人がおられます。しかし、寄進する庶民がもっと自分たちを見守ってほしいと懇願したため、仏師が以前の像容や経典の示す像容ではなく、このような形に改修したと考えるとロマンがあります。如何でしょうか。

 いずれにしても改修をした仏師の技量は相当なもので、今の形で違和感は全くありません。鞍馬寺が王城守護と庶民にとっては幸福神としてのファンクションを持つことのシンボル的像容として大成功していると思います。

(*)毘沙門天儀軌によると、吉祥天は、毘沙門天の妻、善弐師童子は、毘沙門天の第1子とされます。

2020年04月13日

尖り石遺跡と諏訪大社(上社前宮)(長野県茅野市)

 今回は仏教遺跡から離れて、縄文遺跡の尖り石遺跡と諏訪大社(上社前宮)のご紹介です。昨年は、出雲と大和(東京国立博物館)或いは一昨年唐古・鍵遺跡(奈良県)のコーナーで弥生時代は扱ったことありますが、縄文時代は初めてです。

 尖り石遺跡は、八ヶ岳山麓において今から5000年くらい前に栄えた縄文遺跡です。遺跡全体が国の特別史跡に指定されています。時代区分では、縄文時代中期から後期に当たります。この遺跡からは、様々な意匠を凝らした縄文土器が数多く見つかっていますが、中でも、「縄文のビーナス」あるいは「仮面の女神」と呼ばれる土偶がとくに有名です。これらの土偶は、大型・完形で発掘され、両方とも国宝に指定されています。

 

<画像の説明>画像左又は下:土偶 縄文のビーナス
       画像右又は上:土偶 仮面のビーナス
       両画像とも、尖り石縄文考古館にて展示されています。

 この地は、ナラ・クルミ・クリ等の落葉広葉樹や多様な動物が繁殖していました。又、石器の材料になる黒曜石の原産地が近辺に数多く散在し、このことが、縄文人が多く住居し、多いに栄えた要因となりました。縄文時代後期には、気候が変動により当地の遺跡は減少していきました。

 当地の遺跡発掘は、明治時代から始まり、第2次世界大戦前には、既に国の史跡保存地に指定されています。また、昭和27年には国の特別史跡に指定されました。今は、周辺一帯が、史跡公園として整備が進められています。

 

<画像の説明>両画像とも、縄文土器 尖り石縄文考古館で展示


 稲作が始まると、人々は、標高の低い地に、生活の場を移しましたが、諏訪地方は、稲作文化を基盤とする弥生時代においても、日本の先進地の一つだったと思われます。弥生時代においても、黒曜石の生産が大きな経済的裏付けになったのではないでしょうか。

 

<画像の説明>画像左又は下:諏訪大社(上社前宮)まっすぐに立つ柱が結界を表します。
       画像右又は上:尖り石の地名の語源となった尖り石(横に説明板が設置されています)


 古事記によりますと、諏訪の地名は、出雲の国譲りの段に表れます。
 大和勢力タケミカヅチの攻勢で、出雲のオオクニヌシと子供のコトシロヌシを屈服させました。オオクニヌシのもう一人の子供タケミナカタは納得せず、タケミカヅチに戦いを挑みましたが敗れ、逃げ出しました。逃げ先が、信濃の国の諏訪湖だったとされます。タケミナカタは、タケミカヅチに降参し、この地に封印されました。上諏訪神社(上社前宮)には封印したとされる結界が今も残ります。

 諏訪大社の起源の詳細については良くわかっていないようですが、祭神は上述のタケミナカタで、当大社の結界内に封印(*1)されていると伝承されます。


 諏訪大社は、上社本宮、上社前宮、下社春宮、下社秋宮の四社からなります(*2)。平安時代に編纂された延喜式では、信濃国一之宮として信仰されていたことが知られています。上述の通り、当社は弥生時代から続く、日本における最古の神社の一つとして、現在でもその繁栄を維持しています。


(*1)掲示した前宮の写真では、2本の垂直に立つ柱がご覧戴けると思います。これらの柱は、礎石は無く直接地中に埋められています。この様な柱が社の周囲4か所に埋められており、結界を表しているとされます。実際には、これらの柱をしめ縄のようなもので結んでいたのかもしれません。

(*2)諏訪大社上社本宮が諏訪市、前宮が茅野市、下社は、下諏訪町に位置します。

2020年03月16日

三渓園(横浜市)旧燈明寺三重塔

 三渓園は原三渓翁の自宅と庭園を明治39年に一般に開放したものです。原三渓は明治時代に生糸貿易で財を成した原富太郎氏の号です。三渓園では、多種多様の古建築が、池を中心に展開する庭園内に展開し、「建築の博物館」とも言われています。今は桜の名所としても有名です。これらの古建築は翁が、古建築の移築保存を忠実に行われた結果(*1)です。移築保存は、明治35年~大正12年の間に行われましたが、関東大震災以降は、翁による三渓園への移築は行われていません。復興に力を注いだからと言われています。

 当園の建築物では、10棟程の国の重要文化財とそれ以上の横浜市指定有形文化財があります。仏教関連では、旧東慶寺仏殿(*2)と旧燈明寺三重塔が特に目につきます。もちろん重要文化財です。どちらもオリジナルは、室町~江戸時代のものです。

<画像の説明>三渓園旧燈明寺三重塔(手前大池)

 旧燈明寺三重塔は、1914年(大正3年)に当園に移築されました。この三重塔は小高い丘の上にあり園内様々な方角から見え、大池の景観と相まって、園のシンボル的建造物です。この塔は、京都府木津市加茂町にあった燈明寺から移築されました。私は、燈明寺跡へは行ったことないのですが、今は、燈明寺鎮守社だった御霊神社があるそうです。燈明寺は当時既に廃寺になり荒れ果てていましたが、丁寧に解体し、材料を横浜まで運びました。当塔の建築様式は和様です。当HPでは、以前にもそれ以外の建築様式の禅宗様大仏様を紹介しましたので、参照ください。

 建物の建築年代は、様式的には室町期と考えられています。内部は今見ることができませんが、心柱は初重天井の梁の上に載っており、初層床までは届いていないようです。

(*1)三渓園には、新築もあります。例えば、鶴翔閣は、明治42年(1909年)の新築ですが、金持ちの道楽というような金ぴかではなく、周囲の景観にマッチした落ち着いた日本建築です。

<画像の説明>画像左又は下:三渓園鶴翔閣 画像右又は上:三渓園大池
 
(*2)旧東慶寺仏殿(鎌倉市)は、1907年(明治40年)に当園に移築されました。東慶寺は、以前当HPで取り扱いましたが、今も縁切寺として有名です。建物は禅宗様の建造物で、様式的には室町期のものですが、実際には、江戸時代1634年(寛永11年)の建立です。

2020年02月17日

東京国立博物館 特別展示 「出雲と大和」


 今回は東京国立博物館で、開催中(2020/1/15-3/8)の特別展示「出雲と大和」についてです。東博の特別展としては、それほどの混雑ではないのですが、同時に開催中の「高御座と御帳台」(2019/12/22-2020/1/19)の特別展示と重なって、こちらは大変な混雑状況となっています。

<画像の説明>画像左又は下: 「出雲と大和」展案内のポスター(東博正門左)
       画像右又は上: 東博本館前 高御座見学の待ち行列は2時間以上でした

 今回の特別展示は、「出雲と大和」ということですが、時代的には、弥生時代から白鳳時代(飛鳥時代後期)までそれぞれの出雲と大和の特徴を抽出しながらの展示となっています。出雲と言えば、銅鐸と銅剣が大量に出土したことで有名です。以前は、銅鐸文化圏、銅剣文化圏と地域を象徴する文化財と考えられていましたが、出雲では、その両方が見つかっています。

 加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)では多くの銅鐸が見つかっていますが、今回の特別展示では埋納状況を復元した模型も展示されています。銅鐸のいくつかが「入れ子」の状態で、また、鰭(ひれ)を立てた状態で埋納された様子が復元されています。神事に使用されたと目されますが、詳細の意味合いは良くわかっていないと聞いています。銅鐸は単独で埋められた例が多い様ですが、この地方に大量に埋められたことは、この時代(弥生時代後半)には、間違いなく日本の最先端技術の地域だったと思われます。


<画像の説明>加茂岩倉遺跡 埋納状況のレプリカ 

 

 荒神谷遺跡(島根県出雲市)では、1984年農道工事に先立つ発掘調査において、計358本もの埋納された銅剣が発見されました。今回はそのうち168本が展示されました。全長50㎝、重量は約500gだそうです。重要な点は、銅剣の特徴に共通点が多く、製作者や製作地の異なる複数のグループの銅剣が寄せ集められた訳ではない事です。これは、材料の確保から製作、埋納までをワンストップで行うことができる、当時でいえば最先端技術を持った技能集団が存在したことを示唆します。 荒神谷遺跡の銅剣の発見は、大陸に近く当時は日本の最先端地域と考えられていた北九州地域で発見されていた銅剣の総数を上回っていたため、邪馬台国論争にも一石を投じました。

 今回の展示では、出雲大社本殿の模型が展示されていました。神明造(伊勢神宮)では平入り(入口が棟に平行)ですが、大社造(出雲大社)は妻入りとなります。鰹木の数が偶数か奇数か、千木が横に切られるか縦に切られるか等でも神明造と大社造の特徴付がされます。女神と男神の違いで説明されることもありますが、征服神と被征服神の違いで説明されることもあるある様です。

 

 


仏像では、當麻寺金堂の持国天立像が衆目の逸品です。7世紀後半、脱活乾漆像(*1)としては、日本最古のものです。髭を蓄えた四天王像としても異色です。一緒に祀られた本尊が塑像のため、脱活乾漆像の四天王の方が格上とみられ、別の寺院から移されたとの説が有力です。
今回の特別展のテーマは、出雲と大和となっていますが、飛鳥時代には、中心地が大和になっていたためか、経済力に大きな差ができてしまっていたことがわかります。

<画像の説明>画像左又は下:出雲大社レプリカ(東博で購入した絵葉書より)
       画像右又は上:當麻寺金堂 持国天立像(東博で購入した絵葉書より)

(*1)脱活乾漆像は、7世紀後半に中国より移入されました。木などの芯の上に漆をしみこませた布を何重にも張り付けていき、漆が完全に固まってから芯を抜く(脱活する)製法です。高価な漆が大量に必要なこと、漆が固まるまでに長期間必要なこと等から、大変高価な仏像ですが、細かな成形が可能な事、軽量堅固なことから、奈良時代を中心に富裕層に大変好まれました。

2020年01月20日

塩釜神社(宮城県塩釜市)

 塩釜神社(*1)は、陸奥国の一宮です。弘仁式、延喜式にも名前が見えるというので、9世紀以前に成立していた古い神社です。祭神は、別宮:塩土老翁神(しおつちおぢのみこと)左宮:武甕槌神(たけみかづちのみこと)右宮:経津主神(ふつぬしのみこと)の三柱です。現地の説明書きによりますと、武甕槌神、経津主神は大和朝廷の武官で、陸奥国鎮定して当地に祀られました。また、塩土老翁神は、彼らの先導役で、鎮定後も当地に留まり、塩作りを教え広めたとされます。

 境内の社殿14棟と鳥居1基がすべて国の重要文化財に指定されています。社殿は、伊達氏によって建立、江戸時代前期、元禄から宝永年間に順次完成しています。鳥居をくぐると石段の先に朱塗りの随身門(*2)が見えます。3間入母屋造り、銅板葺きです。随身門の先に唐門があります。唐門とはいうものの、屋根は唐破風にはなっていません。なぜ唐門というのか、良くわかりません。

 

 

 

 

 



 

<画像の説明>画像左又は下:塩釜神社参道 画像右または上:塩釜神社随身門

 

<画像の説明>塩釜神社本殿

 

 唐門の先に、正面に社殿があります。左宮:武甕槌神右宮:経津主神を祀ります。建物は、桁行(梁に対して直角方向)7間、梁間(梁に対して平行方向)4間、入母屋造り、銅板葺きです。本殿に向かって右側3間が左宮、向かって左側が右宮(左右は私たち参拝者ではなく、神様から参拝者を見た向きです)。本殿背面には左宮本殿・右宮本殿があります。これらの関係は、言葉では説明がややこしいのですが、域内の説明パネルを撮影させて戴きましたので、これをご覧になれば、お分かりいただけると思います。


 

<画像の説明>画像左又は下:塩釜神社本殿説明図 画像右または上:塩釜神社別宮


 別宮拝殿は、塩土老翁神を祀ります。桁行5間、梁間3間入母屋造、銅板葺きです。別宮拝殿も、回廊によって拝殿とつながっているとのことです。

 塩釜神社に関してもう1点特徴を申し上げますと、屋根はシンプルですが、屋根上の鰹木(かつおぎ)も千木(ちぎ)(*3)もなく、一瞬見た感じは、仏教寺院と見間違いそうな点です。


 神社建築は、日本においては、仏教建築より古くからありました。様式としては、大社造(出雲大社)、神明造(伊勢神宮)、或いは春日造(春日大社)等が有名です。これらの様式は上古以来かなり受け継がれてきたと考えられていますが、20年或いは60年というような造替を繰り返しますので、造替のたびに、時代時代の仏教建築の影響を受けてきました。
 要因は主に二つあると考えられます。一つは、宮大工と言われる人たちが、寺院、神社両方の建築に携わってきたことです。また、もう一つは、日本では、神仏習合が行われて、神社と寺社の区別をつけることに大きな意味を持たなくなってきたことです。
 この結果、地域によって程度の差はありますが、江戸時代には、神社にもかかわらず、仏堂に近い建物が多くみられるようなりました。この様なことで、現在の塩釜神社は、江戸時代の神社建築の特徴をいかんなく発揮しているといえます。

(*1)塩釜神社は、正式には、鹽竈神社と書きます。読み方は、同じ「しおがま」です。漢和辞典では、鹽は、塩の旧字体、釜と竈は、別字ですが、意味は同じく「かま」だそうです。ネットで配信する都合上、塩釜で統一させて戴きました。

(*2)随身は、貴人の外出時に警護のために勅撰によってつけられた近衛府の官人を言いますが、神社の場合神門の左右に安置する官人の風をした像を言います。寺院でいうところの金剛力士像(仁王像)に相当します。

(*3)鰹木は、神社の屋根に並べた中ぶくれの円形の装飾の木、また千木は、神社の屋根の上にある交差した装飾用の木のことで、神社建築の特徴の一つとされます。

2019年12月01日

川崎大師(川崎市)

 寺の縁起によりますと、川崎大師は、1128年(大治3年)尊賢上人と平間兼乗が建立しました。平間兼乗にちなみ、同寺は、正式には川崎大師平間寺(へいけんじ)といいます。古くから厄除けのお大師さまと親しまれ、現在も厄除けはじめ諸願成就の護摩祈願が行われています。

 江戸時代には、門前町が整備され、毎年、正月には初詣の参拝者で大変な賑わいだったそうです。明治になって、川崎大師への参拝客を運ぶため或いは縁日の客を運ぶため、六郷橋から大師まで関東地方で初めての電車、大師電気鉄道(現、京浜急行電鉄)が営業を開始しました。今、初詣の参拝客は、約302万人で、日本全体で僅差の第2位(*1)となっています。

(*1)初詣の参拝客(2018年度)は、1位が明治神宮(約316万人)、3位が成田山新勝寺(約300万人)となっています。

 

<画像の説明>画像左又は下:川崎大師八角五重塔 画像右又は上:大本堂



 当寺は、真言宗智山派の寺院です。真言宗智山派は、覚鑁(かくばん)の創設した広義(*2)の真義真言宗の一派に位置付けられます。境内には大本堂や薬師殿、八角五重塔、仏教の経典が納められている経蔵などがあります。当寺のこれらの建造物や文化財は、殆どが昭和年間の建立です。古い歴史を持つ当寺ですが、建築物等が文化財としての重みをもつのは今後のことです。


(*2)覚鑁の創設した根来寺は、豊臣秀吉との確執の末に討伐を受け壊滅しました。その後、僧侶たちは、奈良や京都へ逃れ長谷寺(豊山)や智積院(智山)において新義真言宗の教義を根付かせ、現在の新義真言宗(根来寺)、真言宗豊山派、真言宗智山派の基礎を作りました。

 その様な中で、当HPでは、信徒会館のロビーステンドグラスと山門の四天王像を取り上げたいと思います。

 

<画像の説明>川崎大師信徒会館 迦陵頻伽を題材としたステンドグラス

 ステンドグラスは、教会の屋根や壁に取り付けられているケースが多いと思います。ヨーロッパの教会建築において発達しました。そのため、日本の寺院におけるステンドグラスは大変珍しいです。私は寺院では初めて拝見させて戴きました。
 当寺においては、信徒会館の内部の荘厳さと華麗さの両方を醸し出し、好印象です。このような成功例がありますと、今後、他の寺院でも建造物の一部にステンドグラスが採用される例が増えてくるのではないでしょうか。

 当寺のステンドグラスは、3面のシーンから成り立ちます。中央が迦陵頻伽(*3)、左が釈迦降魔成道図(*4)右は釈迦涅槃図(*5)、何れも大作です(*6)。ステンドグラスの手前には噴水が準備されています。噴水とステンドグラスのハーモニーは素晴らしいです。

(*3)迦陵頻伽(かりょうびんが)は、頭・顔は人、極楽に住み、妙音を出すという仏法上の想像の人/鳥です。迦陵頻伽については、本HPで何度か扱っています。
 詳細は、こちらへジャンプしてご確認ください(➡)。

(*4)釈迦降魔成道図(しゃかこうまじょうどうず)は、釈迦の生涯を表した仏伝図の1つです。釈迦が修行中に悪魔から様々な妨害を受けたが、悟りを開くまでの姿を表しています。

(*5)釈迦涅槃図(しゃかねはんず)も、釈迦の生涯を表した仏伝図の1つです。釈迦が入滅(死ぬこと)した際に、彼の弟子はもちろん、一般の人そして動物までもが泣き悲しむ姿を表しています。迦陵頻伽が描かれることも多いのですが、本涅槃図には描かれていませんでした。

(*6)このステンドグラスは、株式会社大竹ステンドグラスという東京都中野区のステンドグラスデザイン制作・ステンドグラス製作・施工の専門会社の作成(1973年)です。

 

<画像の説明>川崎大師山門内兜跋毘沙門天像 

 当寺山門の四天王は、東寺講堂の四天王を模刻されたそうです。真言宗の祖空海に繋がりたいという思いから建立されたことと存じます。東寺講堂の多聞天(毘沙門天)は、地天に乗った兜跋毘沙門天です。東寺兜跋毘沙門天は、宝物殿の毘沙門天(*7)が有名ですが、地天の上に通常の多聞天が乗る像容ですので、兜跋多聞天という方が正しいように思います。(もちろんそのような言い方はありません。)こちらもぜひ長くお祀りして戴きたいと思います。

(*7)東寺宝物殿の毘沙門天は、西域風の像容をもつ毘沙門天で、当HP本編に詳しく記載させて戴いています。こちらにジャンプして確認してください(⇨)

 

<画像の説明>東寺兜跋毘沙門天像
  左又は下:西域風兜跋毘沙門天(2019年東博特別展で購入した絵葉書より)
  右又は上:講堂の兜跋毘沙門天(2016年に東寺で購入した絵葉書より)

 

 


2019年11月03日

禅宗様建築垂木について 正福寺(東京都) 建長寺・ 円覚寺(鎌倉市)

 日本の歴史的建造物は、和様、禅宗様(唐様)、大仏様(天竺様)そしてそれらの折衷様等に分類されます。()内の唐様、天竺様は、最近は使われることがあまりなくなりました。
禅宗様は、鎌倉時代に禅宗とともに日本に請来された宋で行われた建築様式です。また、大仏様は鎌倉時代に東大寺大仏殿の再建に当たって大勧進職を果たした重源が、宋よりもたらした建築様式です。

 禅宗様の建造物で現存最古のものは正福寺地蔵堂(国宝)、又有名な円覚寺舎利殿(国宝)も、以前このHPでも取り上げました。その際禅宗様の特徴として、詰め組、弓連子又華頭窓等を紹介しました。禅宗様は、大変繊細な装飾方法をもち、日本人の感性によくあっていました。そのため、部分的に和様に取り込まれて、折衷様が生まれました。このHPでは、折衷様の例として、以前、鑁阿寺を取り上げました。

 今回は以前のブログでは取り上げなかった垂木にについてご紹介したいと思います。和様において垂木は、軒下を守る重要な構造材でしたが、鎌倉時代以降、屋根をバランスよく支えるために桔木が採用されるようになりました。そのため、垂木の構造材としての重要性は下りました。桔木は、当時宋から輸入された重要な建築技術の一つです。

<画像の説明>正福寺地蔵堂の垂木 本屋根(上の屋根)の垂木は扇垂木、
         裳階屋根(下の屋根)の垂木は並行垂木となっていることがわかります。



 

<画像の説明>右側又は下の画像:正福寺地蔵堂全景
       左側又は上の画像:大仏寺大仏殿 隅の垂木のみが扇垂木になっていることが見えます

 鎌倉時代以降、垂木は構造材というよりも、軒下を装飾する役割が大きくなりました。垂木は大きく、並行垂木と扇垂木に分類されます。並行垂木は、最も一般的で、広く使われました。現在も使われています。扇垂木は、屋根の四隅が扇状になった垂木を言います。中央部分は並行ですが、四隅のみ扇のものと、建物全体が完全な放射線状になったものがあります。完全な放射線状の扇垂木は多くの場合多宝塔等平面が正方形の建物ですが、垂木を幾何学的に中央に延長すると、中央の1点に集約できることになります。(*1)

 全体が扇垂木になっている場合は、垂木の曲率、断面図、長さ等でそれぞれ1本ずつ違ったものを造り(左右対称、点対象はあると思いますが)、それぞれの角度に配置する必要があり、扇垂木の実装は手間がかかる作業でした。そのため、宮大工の世界では、「大工と雀は軒で泣く」という言葉が伝わりました。

 禅宗様は、技法と構法が、禅宗とともに中国からもたらされた建築様式を規範としたため、その装飾方法は画一的です。本屋根の垂木は扇垂木、裳階の垂木は並行垂木と固定化されています。このことは、江戸時代ももちろん、昭和年間に至りコンクリート造りになっても、継承されています。建長仏殿 (*2)円覚寺仏殿(*3)の例をご覧ください。

 

<画像の説明>画像左又は下:建長寺仏殿 画像右または上:円覚寺仏殿
       両方の画像とも、上屋根が扇垂木、下屋根が並行垂木となっています。

(*1)大仏様の垂木として、大仏寺(中国甘粛省)の例をご紹介します。こちらは以前本HPで取り上げました。

(*2)建長寺仏殿。1647年正保4年 東京芝の増上寺より徳川2代将軍秀忠の夫人で小督の方の霊屋を移築したものです。

(*3)円覚寺仏殿 関東大震災で倒壊後、1964年(昭和39年)に再建されました。

2019年10月06日

東寺帝釈天(京都市)東博特別展時より

 東京国立博物館の東寺展では、通常は東寺講堂に祀られる帝釈天騎象像が展示され、しかも、撮影が許可されるとあって、多くの人を集めました。帝釈天は、仏像の中でもイケメンと評判で、特に女性ファンで盛況でした。

 当帝釈天と興福寺の阿修羅は現在の仏像人気を2分する好敵手です。阿修羅と帝釈天はインド神話の神様で、この2神は長い間戦争に明け暮れました。この2神の争いの場を修羅場(しゅらじょう)と言います。闘争戦乱の激しい場所を今も転じて修羅場(しゅらば)と言います。

 

<画像の説明>左または下:東寺帝釈天騎造像(東博展示会より)
       右または上:興福寺阿修羅像(興福寺中金堂落慶法要のポスターより)


 かつて、萩尾望都の『百億の昼と千億の夜』(*1)が少年チャンピオンに連載され、その果てしない戦闘ぶりが題材になりました。もちろん、そのどちらもイケメンに描かれていました。

 東寺講堂は立体曼荼羅(*2)と言われ密教でいう宇宙の真理を具体化したものですので、本来大日如来が中心です。帝釈天は、講堂に祀られる21体の仏様の1体に過ぎないのですが、今回の東博展では、帝釈天がメインゲストです。帝釈天は今や東寺像のイメージが強く、象に載っているものと思いがちですが、奈良時代、例えば東大寺三月堂の梵天や帝釈天はどちらも立像です。そのため、像に乗る帝釈天は、空海が請来した当時としては最新の図像だったと考えられています。

 

<画像の説明>左または下:東博東寺特別展のポスターより
       右または上:東寺帝釈天騎造像(東博展示会より)

 東寺帝釈天は、ヒノキ一木造、内刳を施しています。漆仕上げ箔を押して色彩しています。像は着甲、右手に金剛杵(*3)を持ちます。当帝釈天は修理が甚だしいので、現存の状況では、建造段階を推定するのは難しいとのことでした。イケメンの顔も後世の補作であるといわれるそうですが、ではイケメンの顔はいつの時代の顔なのでしょうか、これについてはわからない様です。

この像の評価を上げる要因のもう一つは、象の重量感、皮膚の質感が素晴らしい点だと思います。この像の作家は、象を見たことなかったと思いますが、見たこともない象をここまでリアルに表現できる技量に驚くばかりです。


 ところで、今回、東寺兜跋毘沙門天像が左手に新たな宝塔を乗せた形で展示されました。宝塔は仏舎利を収めるためのもので、毘沙門天像の特徴の一つですが、当像の宝塔は、1968年に盗難にあい、以降左手は、釘がむき出しになっていました。

(*1)今回念のために確認しましたが、萩尾望都の『百億の昼と千億の夜』は、『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)に1977年から1978年まで連載されました。

(*2)密教の曼荼羅は、金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅が有名です。一方、日本では阿弥陀浄土変相図のことも曼荼羅と言い、浄土三曼荼羅は、智光、清海そして當麻曼荼羅を言います。以前當麻寺を取り上げた際に、勘違いされていた方がいらっしゃいましたので、念のために取り上げました。

(*3)金剛杵は、古代インドの武器です。密教では、煩悩(ぼんのう)を打破するためのシンボル的な道具として用います。

 

<画像の説明>東寺兜跋毘沙門天像(新たに宝塔を奉戴)
       東博特別展において購入した絵葉書をスキャンさせて戴きました。

2019年09月01日

興福寺中金堂(奈良市)

 中金堂が落慶法要はこの秋に執り行われるそうですが、この春から一般公開が始まりました。
 中金堂の復元は、興福寺の寺域を私たち一般人に明確に示してくれました。今までは、奈良公園のなかに興福寺の様々なモニュメントが散らばっているような印象を受けていましたが、今回の中金堂の建立で興福寺としてまとまりがでてきました。
 今回中金堂回廊が発掘調査により復元されたため、創建当時の伽藍配置も良くわかるようになってきました。中金堂から見て、回廊の外左手に五重塔が見えることから、四天王寺式のような左右対称ではないし、法隆寺のように塔が回廊内にあるタイプでもありません。興福寺は、平城京で最初に建立された寺院です。まさに奈良時代当時としては最新の伽藍が展開されています。

画像の説明:興福寺中金堂 

 

画像の説明:画像左又は下:興福寺中金堂回廊内から見た五重塔
      画像右又は上:興福寺中金堂回廊内から見た南円堂

 中金堂は、創建当初の伽藍配置や建物の規模・形式を守り続けています。創建当初の礎石66個のうち2個が後世取り換えられただけで、今回の再建も創建当時の礎石を殆どそのまま使用しているそうです。興福寺では、現在国宝になっている東金堂(室町時代の再建)、五重塔(室町時代の再建)、北円堂(鎌倉時代の再建)も同じ場所に同じ規模で再建されています。


 しかし、建立には時代の最新のテクノロジーを使用しています。鎌倉時代は鎌倉時代の、室町時代は室町時代の象徴的な和様建築です。
 中金堂は、復興建立にあたっては、中金堂自体が貴重な文化財になりますし、内部は、貴重な文化財を祀る施設となるため、再建にあたっては、ハンディキャップ対応も必須ですし、数々の近代的な防災施設も必要です。中金堂は、その様な点が考慮、新旧のバランスが実に良いと思います。再建にあたって、木を使うことだけに執着し、良しとしてしまうどこかの市長とは違います。
 興福寺中金堂はもちろん木造建築ですが、近代的な消火設備、鉄筋や、LED照明などを上手く組み合わせていることでしょう。一方で昔ながらの趣を醸し出す。興福寺は、そのバランスが実に素晴らしいと思います。

 ところで、中金堂のすぐ隣に国宝館があります。阿修羅の人気は相変わらず絶大です。私が中金堂へ行った際も、国宝館開門前の時間でしたが、既に観光バスが何台も止まっており、多くの人が待たれていました。実は中金堂にも阿修羅のファンがおられました。中金堂に阿修羅が祀られていると勘違いされたらしいのですが、このポスターが原因らしいです。どうでしょうか。中金堂の落慶法要のポスターですが、阿修羅が中金堂に祀られていると思ってしまう人いるのではないでしょうか。

 

画像の説明:
画像左又は下 興福寺中金堂 工事中(2018年6月)
画像右又は上 興福寺中金堂落慶法要のポスター

(追記)最近仏像界はまたまた盛り上がっています。そのけん引役は、今回話題にした阿修羅と東寺のイケメン帝釈天です。東寺帝釈天は、今年、東京国立博物館で特別展示され、しかも、撮影可とのことで多くの仏像ガールが押しかけました。次回は、帝釈天を取り上げたいと思います。

2019年08月04日

東京大仏(東京都板橋区)

 大仏は、丈六超の仏像とされています。丈六は、1丈6尺のことで、約4m80㎝のことです。坐像の場合は、もし立ち上がったら2倍になるという考え方があって、その半分の2m40㎝ということになっています。

 東京大仏は、板橋区赤塚の乗蓮寺の大仏のことです。かつては、中山道板橋宿にありましたが、1973年の国道の拡幅工事に伴い移転、1977年に現在の位置に建立されました。青銅阿弥陀如来、像高8.2mです。かつては、東京一巨大な仏様と言われましたが、2018年日の出村に建立された大仏(鹿野大仏)は像高12mあり、東京大仏は、現在では東京23区最大の大仏ということになりました。

 

<画像の説明>画像左又は下:乗蓮寺阿弥陀如来坐像 画像右又は上:高徳院阿弥陀如来坐像

 東京大仏は、板橋区の小高い丘の上にあります。整備が行き届いていますし、御朱印を求める人もとても多く、大仏が観光スポットとしての役割を持っています。ここに大仏を造像されたお寺の意図は存じませんが、近年の大仏の巨大化競争とは一線を画した、印象深い空間を形成できているように思います。

東京大仏を奈良東大寺の大仏や 鎌倉大仏等他の大仏と比較すると下記の通りとなります。

 

  像高(単位m) 像容 ロケーション
東京大仏 8.2 阿弥陀如来坐像 東京
東大寺大仏 14.9 盧舎那仏 奈良
鎌倉大仏 11.4 阿弥陀如来坐像 鎌倉
日の出村大仏 12 釈迦如来坐像 東京
牛久大仏 120 阿弥陀如来立像 茨城(*1)

 

 中国では、歴史的な銅像の大仏は残っていません。各地に多く残る大仏は、石像または、石芯塑像(*2)です。楽山の大仏は、史上最大の大仏です。残念なことに、螺髪の修理に、コンクリートを使用しています。近代的な大仏建造競争ではなく、歴史的な文化財の保存、維持にもう少し力を注いで戴ければと考えてしまいます。

 

<画像の説明>画像左又は下:楽山大仏全景 画像右又は上:楽山大仏頭部

 

  像高(単位m) 像容 ロケーション
楽山大仏 71 弥勒如来?倚像 四川省
炳霊寺大仏(169窟) 27 釈迦如来倚像 甘粛省
天悌山大仏(13窟) 23 釈迦如来?倚像 甘粛省
敦煌北大仏(96窟) 34.5 弥勒如来倚像 甘粛省
敦煌南大仏(130窟) 26 弥勒如来倚像 甘粛省
バーミヤン大仏(西大像)(*3) 55 大日如来立像 アフガニスタン
バーミヤン大仏(東大像)(*3) 38 釈迦如来立像 アフガニスタン

<画像の説明>画像左又は下:炳霊寺大仏(169窟)画像右又は上:天悌山大仏(13窟)

 炳霊寺は、私が訪れた際は工事中でしたが、今完成しているようです。ネットで見る限り、周囲とは全く違う色に仕上がっています。完成した現物を見てみたいと思いますが、すぐには実現しそうにありません。

 石仏は、上から、足場を組みながら石を下へ掘り進めていく方式です。高温に融解した銅を予め作成した型に一挙に流し込む手法に比べて、どちらかというと、人力集約型です。乱暴な言い方ですが、一人一人が1日に少しずつでも掘り進めば、時間はかかりますが、いつかは完成します。事実、楽山大仏は、常時工事がなされたわけではありませんが、凡そ80年かけて完成しています。

(*1)牛久大仏は、像高120mという巨大な仏像ですが、鉄筋の構造体の周囲を仏像の姿に作り上げた構造だそうで、近代的ビルディングと考えたほうが良さそうです。
(*2)石芯塑像は、石を仏像の形に掘り出したのち、粘土で周囲を仕上げた仏様です。

(*3)バーミヤン大仏は、残念ながら、2001年に、タリバンによって、爆破されてしまいました。

2019年07月07日

円応寺(鎌倉市)

 円応寺では、木造閻魔王坐像・木造初江王坐像・木造倶生神坐像2躯の以上4躯が重文に指定されています。但し、木造初江王坐像・木造倶生神坐像は、鎌倉国宝館に寄託(*)されており当館で、常設展示されています。

 

<画像の説明>画像左又は下:円応寺入口 画像右または上:円応寺本堂


 木造閻魔王坐像は、像高190.5cm。1673年(寛文13年)に像の補修を行った際、胎内から文書が発見され、1250年(建長2年)の作で、1520年(永正17年)に修理が行われた旨の記述があったそうです。頭部のみが鎌倉時代の作です。像の表情が笑っているようにも見えるため「笑い閻魔」とも呼ばれます。「笑い閻魔」と呼ばれる由縁について次の伝承が残っています。

 

<画像の説明>画像左又は下:円応寺閻魔王 立て看板より
       画像右または上:木造初江王坐像(鎌倉国宝館図録より再録させて戴きました。)


 運慶が死んで地獄に落ちたが、閻魔大王に「生き返らせてやるから自分の像を作れ」といわれ、蘇生した。生き返った運慶が笑いながら彫ったため、閻魔像も笑っているような表情になった。このため、この閻魔像は笑い閻魔と呼ばれるようになった。

 木造初江王坐像、倶生神坐像は、写実的な表情、複雑な衣文表現には運慶派の特徴とともに宋風彫刻の影響が感じられる一品です。閻魔王、初江王は、十王の尊格のひとつです。倶生神坐像は、人が生まれた時からその両肩にいて、その人の善行悪行をすべて記録しているとされます。倶生神の坐像。阿形像・吽形像の2体からなります。

 

<画像の説明>画像左又は下:円応寺倶生神坐像開口
  画像右又は上:円応寺倶生神坐像閉口(両画像とも鎌倉国宝館図録より再録させて戴きました。)


 十王(じゅうおう)とは、道教や仏教で、地獄において亡者の審判を行う十尊の、いわゆる裁判官的な尊格です。人間を初めとするすべての衆生は、初七日 - 七七日(四十九日)及び百か日、一周忌、三回忌には、順次十王の裁きを受けることとなります。生前に十王を祀れば、死して後の罪を軽減してもらえるという信仰を「預修」或いは「逆修」と呼んでいます。十王は死者の罪の多寡に鑑み、地獄へ送ったり、六道への輪廻を司るなどの職掌を持つため、畏怖の対象となりました。日本では後に、七、十三、三十三回忌が追加され、十三仏と呼ばれるようになり、また、十三仏はそれぞれが、仏教の仏尊に割り当てられました。因みに、
 初江王 しょこうおう 釈迦如来 二七日(14日目)
 閻魔王 えんまおう 地蔵菩薩 五七日(35日目)
に割り当てられています。
 十王、十三仏思想は、関東地方では、民間宗教の一つとして大変盛んだったようです。十王、十三仏思想の盛隆は、地域的濃淡が大きいように思います。

(*)寄贈、寄託は、文化財の保管・展示等の管理を博物館へ委任することです。寄贈は所有権ごと博物館に移譲すること、寄託は所有権を留保する点に違いがあります。

2019年06月02日

瑞巌寺(宮城県松島町)

 瑞巌寺は、伊達政宗によって建立されました。政宗は、豊臣秀吉の建立した聚楽第をはじめとした上方先進地域の技術を奥州に移管、そして当時として最新の(伊達な)建造物を追求したと考えられています。現在、本堂、庫裡、渡り廊下が国宝、また、中門そして松島湾に突き出した五大堂は、重文に指定されています。

 

<画像の説明>画像左又は下:瑞巌寺本堂及び中門 画像右または上:瑞巌寺本堂彫刻欄間
      (本堂内部は撮影禁止です。瑞巌寺にて購入した絵葉書をスキャンさせて戴きました。)

 本堂は、1609年(慶長14年)に建立されました。桁行13間、一重入母屋造り、どっしりした豪華な建造物です。庫裏は、一重切妻造り、切妻の二重虹梁の様式美は秀逸です。これらの建物は、桃山建築の典型的な形式美を備えると言っても良いと思います。

 

<画像の説明>瑞巌寺庫裏

 五大堂へは、陸から小橋、透かし橋が架かっており島に通じています。五大堂は、慈覚大師(*)円仁が瑞巌寺を建てた際に、五大明王を安置したと伝えられます。現在安置される五大明王は、平安時代の作品と考えられていますが、円仁と同時代かはわかりません。五大明王は、33年に一度の御開帳とのことで、通常は拝観できません。


<画像の説明>

画像左又は下:瑞巌寺五大堂
画像右または上:瑞巌寺五大堂に安置された不動明王
(雑誌『目の眼』「2016年9月号 松島 瑞巌寺 伊達の至宝」よりスキャンさせて戴きました。)

 

 現状の瑞巌寺が位置するこのエリアには、平安時代からお寺がありました。このお寺は、慈覚大師(*)円仁開基の伝説を持つ天台宗のお寺で、延福寺と称されました。その後、鎌倉時代に北条時頼が、臨済宗の寺院に改め、名前を円福寺と改称したとされます。瑞巌寺の詳名は松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとう せいりゅうざん ずいがん えんぷくぜんじ)となっていますが、瑞巌寺と省略して呼ばれるようになりました。東日本大震災以降、発掘が進み、様々な遺物が発掘され、瑞巌寺に併設された博物館に保管展示されています。


 瑞巌寺には、周辺に石窟があります。また、庫裡には、展望櫓が準備されています。周辺のがっしりした石垣と相まって、政宗が瑞巌寺を城郭と見做し仙台城が落ちた後、瑞巌寺で最後の一戦を想定していたとされることの証左かもしれません。

(*)慈覚大師(円仁)開基の伝説を持つ寺院は、東北地方に140寺あるといわれています。これについては、下記で言及していますので参照してください。

  ➡中尊寺、毛越寺へリンクします。

2019年05月05日

浄妙寺(鎌倉市)金沢街道沿道のこと

 金沢街道は、鎌倉雪の下から、東方に向かい、金沢八景に至ります。街道沿いには、杉本寺(*1)、浄妙寺そして報国禅寺(*2)等数々の古刹が点在します。

 浄妙寺は、鎌倉五山の第五位の由緒ある寺院です。何という「山」ですかと聞かれることありますが、「山」は寺院のことです。鎌倉五山を一覧にしました。

 

順位 寺院名 創建時期 開基 開山 本尊
建長寺 1253年 北条時頼 蘭渓道隆 地蔵菩薩
円覚寺 1282年 北条時宗 無学祖元 宝冠釈迦如来
寿福寺 1200年 北条政子 栄西 宝冠釈迦如来
浄智寺 1281年 北条師時 南洲宏海
大休正念
兀庵普寧
阿弥陀如来
釈迦如来
弥勒如来の三世仏(*3)
浄妙寺 1188年 足利義兼 退耕行勇 釈迦如来


 五山の開基は、浄妙寺以外は北条氏です(*4)。浄妙寺の開基の足利義兼(*5)は、源頼朝の時代の人です。なぜ足利氏が開基の浄妙寺が、五山の一角を占めているのでしょうか。それには、五山制度の歴史と現在の私たちの歴史認識のギャップが影響しているように思います。

 「鎌倉」は、日本の歴史では、「鎌倉時代」という時代を象徴する都市です。新田義貞の鎌倉侵攻で陥落して以来「鎌倉時代」は終わり、「鎌倉」の都市機能も衰退したとみられがちです。しかし、「鎌倉」は決してそうではなかったようです。「鎌倉」は、南北朝時代、室町時代に入っても、室町幕府が、関東10か国を統治するために設置した鎌倉府がおかれ、東日本の政治、文化の中心都市として、継続して繁栄しました。

 一方、五山の制度は、鎌倉時代に始まりましたが、最終的には、室町時代足利義満の時代に決りました。浄妙寺は、鎌倉時代には、極楽寺と言われ、密教系の寺院でしたが、権力者となった足利尊氏のサポートで、足利氏の鎌倉における氏寺的な存在(*6)として発展しました。そのため、鎌倉五山が決定された義満の時代には、23の塔頭を持つ大寺院となっており、五山の一角に滑り込んだと考えられるのではないでしょうか。

 

<画像の説明>画像左または下:浄妙寺本堂
       画像右または上:杉本寺本堂へ続く石段(但し、通行止め)

(*1)杉本寺は、鎌倉幕府成立前から、当地にあった鎌倉で最も古い寺院の一つと言われます。本堂内には、重要文化財の十一面観音立像が安置されています。お寺の行事の際には、厨子が開くそうですが、普段は扉も締まり、お参りさせて戴けません。苔むした石段が印象に残ります。

(*2)報国禅寺は、竹の寺とも呼ばれる、竹林の大変きれいなお寺です。開基は、足利家時(足利尊氏の祖父)或いは、上杉重兼と言われます。浄妙寺の塔頭だった時代もあるようです。

 

<画像の説明>画像左または下:報国禅寺の竹林
       画像右または上:浄智寺三世仏

(*3)三世仏(さんぜぶつ)とは、過去・現在・未来における教化仏のことです。法隆寺金堂のように、一般的には薬師如来・釈迦如来・阿弥陀如来の三如来があてられます。また、京都泉涌寺や当寺のように、阿弥陀・釈迦・弥勒菩薩(如来)があてられる場合もあります。

(*4)浄妙寺以外は、北条氏の地盤の山ノ内或いは扇ヶ谷に立地するのに対して、浄妙寺は唯一金沢街道沿いに立地します。

(*5)足利義兼(?-1199年)は、足利氏2代当主足利尊氏の6代前のご先祖です。足利氏の鑁阿寺(ばんなじ)は、義兼の居館に建立した持仏寺を義氏の代に整備したものとされます。また、運慶作と伝わる光得寺(足利市)と真如苑の大日如来像は、義兼の発願に依るものとされます。

(*6)足利貞氏(足利尊氏の父)も浄妙寺を経済的に支えました。浄妙寺境内には、足利貞氏の墓と伝えられる宝形印塔が残ります。

2019年04月07日

清凉寺 (京都市) 建長寺(鎌倉市)人間_釈迦如来像

 清凉寺釈迦如来像は、釈迦生存中37歳の時にインドで造られた三国伝来(*1)生身の釈迦如来とされます。釈迦生前の生き姿を現したものとの伝説を持ちます。この像の特色は、縄に巻き付けたように大きく渦を巻く頭髪で、これはガンダーラ様式と言われます。如来の特徴と言われる螺髪がありません。また、袈裟は、両肩をつつみ、体に張り付く様に密着して、衣文線を同心円状とした流水文を表します。更に三段に重なった「すそ」も特徴の一つです。

<画像の説明>清凉寺釈迦如来像(清凉寺にて購入した絵葉書よをスキャンさせて戴きました。)
 

 本尊は、清凉寺の開基奝然(ちょうねん)により、当時の北宋より請来されました。日本に自生しない魏氏桜桃で作られています。この釈迦像の模刻像は、奈良・西大寺本尊像をはじめ、日本各地に100体近くあることが知られ、「清凉寺式釈迦像」と呼ばれています(*2)。

 仏教は、人間釈迦の教えで始まりました。しかしその後、釈迦は、歴史的人格性とか実在性を離れて、超歴史的・超人格的な存在になりました。つまり、釈迦は、人間として生まれ、苦しい修行によって、悟りを開いた如来に進化したとされました。釈迦如来像は、その様な悟りを開いた(解脱した)超人的な姿で表されます。

 では、解脱する前の人間_釈迦はどの様な像容であらわされるのでしょうか?その一つの解が、清凉寺の釈迦立像です。清凉寺仏は、螺髪(*3)を持つ如来像とは違い、頭はちぢれた髪を結う姿です。解脱する前の人間味を持った釈迦の姿です。


 解脱する前の苦行中の人間釈迦を表した像の例として、建長寺に祀られる釈迦苦行僧が例示されます。修行中の釈迦を表した像ですが、がりがりにやせ細っています。釈迦は、苦行を行いましたが、結果、苦行もやりすぎは良くない、中道(何事もほどほどが良い)が良いことを悟ったといわれています。苦行が無意味だと知ったことが仏教の出発点だという考えもありますが、この苦行があったからこそ中道に至ったのだとも言えます。

 

<画像の説明>画像下又は左:建長寺法堂(はっとう) 釈迦苦行僧
      画像上または右:円覚寺 宝冠釈迦如来像


 本像は、パキスタン北西部ガンダーラ文明の遺産 ラホール中央博物館に安置されている像をもとに製作され、2005年愛知万博に陳列されたのち、パキスタン国より建長寺に寄贈されました。

(*1)三国伝来は、インド - 中国 - 日本と伝来したことから呼ばれています。

(*2)清凉寺式釈迦像は、例えば、西大寺(奈良)、極楽寺(鎌倉)、称名寺(横浜)等に残ります。
(*3)螺髪は、悟りを開いた如来の特徴を表す三十二相八十種好の一つと言われ、如来となった釈迦 の象徴です。螺髪を持たない清凉寺釈迦如来像は、釈迦に生き写しとされ「生きているお釈迦様」と 呼ばれています。奝然が、北宋開封でこの釈迦如来像を模刻させ日本に請来しました。以前、扱いま した、宝冠釈迦如来像も人間釈迦像の一例と考えられます。

 

  ➡以前取り扱いました清凉寺のページはこちらから

2019年03月03日

中尊寺(岩手県平泉町) 迦陵頻伽の華鬘

 迦陵頻伽(かりょうびんが)は、頭・顔は人、極楽に住み、妙音を出すという仏法上の想像の人/鳥です。羽があって、体は鳥ですが、手もあります。華鬘(けまん)は、須弥壇や仏間を荘厳するため、仏堂内の梁や長押などにかける装飾品です。なお、伽陵頻(かりょうびん)は、天冠をつけ、鳥の翼を付けた童子が銅拍子を打ちながら舞う雅楽で、名前は迦陵頻伽からとったものでしょうが、基本的には本稿とは関係ありません。

 中尊寺の華鬘は、従来、当寺の金色堂の須弥壇に飾られていました。金色堂内部の阿弥陀如来を荘厳するためのものでした。今は、新装なった讃衡蔵(さんこうぞう)に保管、展示されています(*1)。全部で6面現存し、いずれも、金銅製、大きさは、約、縦29㎝、横33㎝。奥州藤原時代(12世紀)のものです。宝相華唐草紋透かし彫りの上に、中央に縄目の紐のようなものをたらし、その左右に向かい合う形で迦陵頻伽を配します。

 

<画像の説明>中尊寺迦陵頻伽の華鬘と部分写真
       (中尊寺で購入した絵葉書をスキャンさせて戴きました)

 金色堂の須弥壇は、奥州藤原氏の初代清衡、2代目基衡、3代秀衡の3人分の須弥壇ひとつにつき2面の華鬘があり、全部で6面となります。出来栄えとしては、初代清衡のそれが、最も優れているといわれています。

 日本では、中尊寺以外、仁和寺所蔵の国宝「三十帖冊子」を収めた宝相華迦陵頻伽蒔絵冊子箱に描かれたものが有名です。

 <画像の説明>宝相華迦陵頻伽蒔絵冊子箱表面の迦陵頻伽(東博で購入したクリアファイルをスキャンさせて戴きました。)

 

 

 

 

 

 更に、丹念に探すとその他にも何点か見出すことができます。
 例えば、曼荼羅では、元興寺智光曼荼羅(浄土変相図)に描かれています。また、鎌倉称名寺本尊の弥勒菩薩光背右下に彫刻されています。


 昨年三井記念美術館で行われた特別展で迦陵頻伽立像(個人蔵)が展示されました。この像は、展示会の図説によると、鎌倉覚園寺の本尊薬師三尊像の光背に付き、現在は亡失している中の1体であることが指摘されているとのことです。
 中国では、敦煌莫高窟の各種経変を描いた壁画においても発見することができますが、迦陵頻伽は特定の時代、特定の経変に表れるものではないようです(*2)。

 

(*1)1952年には、金色堂にあった華鬘4枚が盗難にあったことがありました。無事戻ってきましたが、以降は、金色院に保管され非公開となっていました。セキュリティーの関係上、博物館の設備を持つ讃衡蔵での公開は致し方ないことと理解していますが、本来の場所の金色堂に戻すことはできないでしょうか。金色堂の荘厳化の一部品だったと思いますので。

(*2)観無量寿経変、薬師浄土経変、阿弥陀浄土経変等に描かれていることがあります。また、時代的にも、初唐(7世紀)から吐蕃支配期(8世紀末から9世紀初頭)まで様々です。

2019年01月06日

達谷窟(岩手県)と清水寺(京都市)

 達谷窟(たっこくのいわや)は、岩手県平泉町に位置します。東北新幹線一ノ関駅から車で20分くらいのところです。お寺のパンフレットに依りますと、お寺の正式名は、達谷西光寺とされます。

 達谷窟毘沙門堂縁起によりますと(お寺で戴くパンフレットを要約させて戴きました)、
「蝦夷の首領『悪路王』がこの巌に塞を構え、反乱を起こしたが、征夷大将軍の坂上田村麻呂(*1)によって平定された。田村麿は、戦勝は毘沙門天のご加護と感じ、その御礼に清水の舞台を模して、九間四面(*2)の精舎を建てて、百八体の毘沙門天を祀った。」

 この『悪路王』は、一説では、阿弖流為(アテルイ)に当たるとされます。
 阿弖流為等は、捕虜となって、田村麻呂と一緒に都に上りました。田村麻呂の助命嘆願にも拘わらず、朝廷の命令に依り、河内の国で処刑されました。

 吾妻鏡<第9巻>文治5年(1189年)9月28日の項には、源頼朝が奥州追討の帰途に田谷窟(たつこくのいわや)に立ち寄った記載が残ります。達谷窟は、源頼朝の奥州追討以前から、この地に坂上田村麻呂に関する言い伝えが存在したことが分かります。

 

<画像の説明>画像左または下:達谷窟本堂 画像右または上:岩面大仏

 現在、当地には舞台造りの毘沙門堂があります。舞台造りは、崖造(がけづくり)ともいわれます。崖等に建物を長い柱と貫で固定し、床下を支える方式です。当寺には、多くの毘沙門天が祀られているそうですが、秘仏のため、通常は、直接拝観することはできません。

 背後の岸壁には、前九年の役、後三年の役で亡くなった敵味方の諸霊を供養するために源義家が、弓で彫りつけたと伝えられる岩面大仏があります。当寺では、阿弥陀如来として祀っておられます。

 清水寺の開基創建については諸説ありますが、坂上田村麻呂がその創建に大きな役割を果たしたことは間違いありません。平安京遷都は、桓武天皇による奈良の仏教勢力との決別が大きな要因でしたが、そのため、権力者の桓武天皇は、私寺の建立を厳しく制限していました。清水寺は、この時代では、田村麻呂の東北遠征の功績によって建立が認められた数少ない例です。

 清水寺の本尊は、千手観音、脇侍は地蔵菩薩と毘沙門天です。この組み合せは珍しいと思います。その由緒として、田村麻呂が、蝦夷の大軍に包囲されて風前の灯火になった際に、地蔵菩薩と毘沙門天に助けられたという伝説が残ります。

 

<画像の説明>画像左または下:清水寺舞台造(*3) 画像右または上:阿弖流為、母礼の顕彰碑

 清水寺は舞台造りの舞台が有名です。この舞台が作られた時期は正確にはわかりませんが、平安時代末期の事と考えられています。藤原成通という蹴鞠の名人と謳われた公家が「舞台の高欄を沓を履いて渡った」という文書が残されています。

 達谷窟と清水寺は、坂上田村麻呂、阿弖流為そして舞台造り、毘沙門天のつながりを持ちます。そして、今、清水寺には、阿弖流為と母礼(モレ)の顕彰碑が残ります。

(*1)797年征夷代将軍、811年没(54歳)。東北地方には、数多くの田村麻呂伝説が残ります。福島県田村市、田村郡三春町等地名の由来の多くが田村麻呂伝説に結び付けられています。

(*2)母屋の桁行が九間、四面に裳階(庇)があることを言います。

(*3)清水の舞台は今修復中です。インバウンドの人達でにぎわい、更に混雑の度を増しています。

2018年12月16日

覚園寺 大山寺(神奈川県) 鉄像不動明王坐像

 覚園寺像の不動明王は、‘試みの不動尊’と言われています。大山寺の開基願行上人(*1)に関する大山寺の伝承が残ります。その伝承は次の通りです。
 願行上人が江の島弁天(*2)に祈って得た材料(鉄)の三分の一で‘試みの不動尊’(覚園寺不動明王坐像)を作り、残り(三分の二)で大山寺の不動尊像を造った。
 つまり、この伝承では、覚園寺の不動明王も、大山寺の不動明王も鉄製の不動明王であり、しかも、覚園寺のそれは試作で、大山寺の半分(材料の三分の一が覚園寺用、三分の二が大山寺用)の大きさということになります。覚園寺像と大山像がどちらも鉄像不動明王坐像であり、願行上人と密接に結びついて現在に伝えられています(*3)。

 覚園寺像は、像高593㎜、鉄像にも関わらず、現在は玉眼を見ることができます。過去は漆で作った玉眼が貼り付けてあったとのことです。かなり腐食が進んでいます。歴史的には大楽寺の本尊でしたが、明治初期の廃寺により覚園寺に移されました。この鉄像は、お寺の方から毎正時に説明を戴け、その際に拝観をすることができます。


 大山寺不動明王坐像は、像高は977㎜、重量は、約480㎏とされます。また、左右の二童子像は、伽羅童子(こんがらどうじ、960㎜)、制多伽童子(せいたかどうじ、954㎜)です。大山寺像は、重要文化財ですが、通常は厨子が閉られています。毎月8の付く日(8日、18日、28日)にご開帳されます。両眼を大きく見開いて、上牙で下唇を噛みます。迫力の点で覚園寺像に勝ります。玉眼を付け、頭上に蓮華、左肩に弁髪を垂らす形式です。

  ➡大山寺は下記も参照ください。大山寺像はが、撮影禁止です。 


 


 

 

 

<画像の説明>画像左または下:大山寺本堂
画像右または上:鉄像不動明王坐像 「日本の美術5鉄仏」(至文堂)よりスキャンさせて戴きました)

 

 

 

 

 

 

<画像の説明>画像左または下:覚園寺山門 画像右または上:覚園寺鉄像不動明王坐像

 

 大山寺像は、覚園寺像と比べて高さ方向で1.6倍、これは、立体的に横幅、奥行が同じ割合であれば、重量的に数倍になるでしょうが、鋳造の場合、内部は空間になっていますので、単純には比較できません。凡そ2‐3倍の範囲に入っていると考えられますが、願行上人の伝説はその範囲では矛盾はないと思います。
 時代的には、大山寺像は、鎌倉時代末の像容で、願行上人の時代のものです。覚園寺像は、鎌倉時代の前半の像容で両者には100年以上の時代差がみられます。残念ながら‘試みの不動尊’の伝説はやはり伝説ということになりそうです。

 ところで、この時代、なぜ鉄仏が、東日本のみで鋳造されたのでしょうか。私は、主に三点を考えています。
①仏像のスポンサーとなった鎌倉武士には、当時最も堅い金属だった鉄に対する信仰心が強かった。更には、その信仰心は、戦場において、鉄の甲冑によって命拾いした経験を持つ人がいて、鉄の堅牢さを一族で共有していた。
②鉄仏のもつ荒々しさや見た目が鎌倉武士の好みと重なった。
③甲冑等の鉄製品を鋳造する鋳物師が、武士世界で広く活躍しており、その結果、技術的に鉄像は実現可能となっていた。
 とはいうものの、鉄は融点が高く(*4)、鋳造には銅のそれより高い技術が必要ですし、そのまま銅を鉄に置き換える事はできませんでした。鉄像は鋳型のずれを完成後調整できない点等、その他技術的な問題点も多く、製作には大きな困難があったと想像されます。鉄仏が、武士の信仰を広く集め、東日本に存在しながら、残存する数がそれほど多くない理由には、’鉄’に関する技術的な問題が考えられます。

(*1)1215年頃~1295年 81歳で死去。

(*2)江の島弁天
  江島弁天神社には、二つの弁才天が残ります。一つは、源頼朝が文覚上人に命じて藤原秀衡調伏を祈願したと伝えられる鎌倉初期の弁才天です。ヒノキの寄木造りで現在は県の重要文化財となっています。もう一つは、裸弁才天といわれる弁天様で、こちらも鎌倉時代の作品とされます。

(*3)この2像に関しては、下記に興味深い論文が提出されています。
『日本の鉄仏の形とその造型』(中野俊雄 平成9年 鋳造工学第69巻(1997)第10号)によると、全国に鉄製不動明王像は5体残存し、そのうち、立像が3体、坐像が2体とされます。この2体が、覚園寺像と大山寺像に当たるようです。
 なお、この論文の著者、中野俊雄氏は鋳造技術の観点で全国をくまなく調査されており、鉄像毘沙門天坐像の数に関しては、特に参考にさせて戴きました。

(*4)鉄を溶融するためには、大量の木材が必要となります。コークスの利用が始まるまでは、鉄の利用のために、溶融のエネルギーを得る手段が大きな問題になりました。

2018年12月02日

弘明寺(横浜市) 鉈彫十一面観音立像

 弘明寺(ぐみょうじ)は、横浜市内では、最古とされるお寺です。本尊は、十一面観音立像で、重要文化財に指定されています。昨年まではお参りだけをさせて戴けませんでしたが、今は、拝観料を納めれば、本像のすぐ側まで行って、お参りさせて戴けます。

 

画像の説明:画像左または下:弘明寺十一面観音立像 東京国立博物館提供
      画像右または上:天台寺(*1)聖観音菩薩立像 東京国立博物館(東北歴史博物館提供)
          「みちのくの仏像展」(2015年)のパンフレットよりコピーさせて戴きました。
              
 お寺の説明書きを参考にさせて戴きますと、本尊の十一面観音立像は、ハルニレ(*2)の一木造、181.7cm、平安中期の作です。お寺の由縁には、善無畏(*3)の伝承が残ります。当寺になぜ善無畏の伝承が残るのかは良く分らないそうです。

 鉈彫(なたぼり)は、表面にノミ目を残す一木造りの仏像です。鉈彫といいますが、円空仏のように鉈で彫った仏像ではありません。鉈彫は、仕上げを丸鑿(のみ)で削り、ノミ目を際立させる造像様式です。

 鉈彫は、表面を仕上げる前の製作途中の作品ではありません。京都、奈良といった仏像の先進地域には存在しません。東日本地の域性が明確であり、しかも、時代的にも平安時代末期(11-12世紀)に集中している点から、今は彫像の一形式とみられています。

 改めて、当寺像を見たときに、鉈彫の意味が分かったように思いました。それは、ローソクの光の当り方により、暗いところと明るいところのコントラストがうっすらと現れることです。これは、一寸オーバーな言い方ですが、きらきらと輝き、まるで、金箔を押した金銅仏の趣です。鉈彫像であっても、宝物館或いは博物館では、光の加減が一定で、又、全体的に明るいため鉈彫の効果が表れにくいと思います。ローソクのゆらゆらした光があれば、見事に鉈彫りの凹凸面が浮き上がります。



 

 

 

画像の説明:画像左または下:日向薬師(神奈川県)薬師如来坐像(*4)
      画像右または上:日向薬師日光菩薩立像
      金沢文庫博物館特別展「日向薬師」(2015年)ポスターより

 

 弘明寺の鉈彫り像の凹凸面は、他の鉈彫り像より断然そのノミ面が浮かび上がります。おそらく、ノミの打ち方が整然としてかつ深いのだろうと思います。又、私が過去に見た他の鉈彫像と違い、当寺の像は、顔にも鉈彫りが施されており、顔にもうっすらと明暗が浮き、顔自体が浮び上がることもその理由と思います。弘明寺像は、間違いなく、鉈彫の最高傑作です。

 


画像の説明:画像左または下:藤里兜跋毘沙門天立像(岩手県奥州市) 画像右または上:同地天像


(*1)天台寺 岩手県二戸市の天台宗寺院

(*2)漢字表記は、春楡。日本産ニレ科の落葉高木。なお、当像の説明では、カツラの一木と注記した説明書或いはケヤキと記載した説明書もあります。

(*3)善無畏(637年 - 735年)インドの密教僧。大日経を中国にもたらしました。大雑把で恐縮ですが、大日経は、善無畏―不空―恵果―空海と受け継がれ日本にもたらされました。

(*4)日向薬師の薬師三尊像の御開帳は、正月3ヶ日、初薬師(1月8日)、御開帳大法会(4月15日)のみです。

2018年11月18日

中尊寺と毛越寺(岩手県平泉町)

 中尊寺は、2011年に世界遺産に登録されました。最近は、登録直後の喧騒からは少し落ち着いた様です。2018年の今は、登録以前のあまりの静寂さとは違ったほど良い熱気を感じます。

 中尊寺は金色堂が特に有名です。金色堂の優美さは、何物にも勝ると言われます。金色堂の須弥壇には、阿弥陀三尊像(阿弥陀如来、脇侍に観音・勢至菩薩)、更に六体の地蔵菩薩、そして持国天、増長天が祀られています。この様な像容は、他に例が無く珍しい配置です。吾妻鏡9巻(1189年)にもこの像容の記載があること等により、源頼朝の奥州侵攻当時からこの配置だったことが分かります。

 六体の地蔵菩薩は、六地蔵と呼ばれ各地に残ります(地名としても残ります)。6体がそれぞれ違う像容ということが多いですが、当寺の場合は、6体とも同じ像容です。六地蔵は、六道それぞれで地蔵菩薩が衆生を救済することを表します。

 

画像の説明:画像左または下:現在の中尊寺本尊 
      画像右または上;中尊寺金色堂(金色堂内部は撮影禁止のため、現地で購入した
                     『世界遺産中尊寺』よりスキャンさせて戴きました。)


 ところで、中尊寺、毛越寺は二寺とも円仁の開基と伝えられます。東北地方には、円仁(慈覚大師)の開基と伝えられる寺院は、140寺(*1)もあり、この数値は、他の地方を圧しています。円仁の事績に注目しますと、東北との関係では、天長6,7年頃(829年‐830年)当地を巡行したとされます。

 一方で、中尊寺・毛越寺の開基は嘉祥3年(850年)と伝えられています。東北地方で円仁が開基した寺院の開基は、各寺院の寺伝に依り、おおむね、嘉祥から貞観(848年~876年)となっています。

 円仁は、遣唐僧として唐に渡ったのが、承和5年(838年)、帰国が承和14年(847年)、唐で武宗の仏教弾圧(*2)を間近に経験し、無事帰国して以降は、京都で一躍時の人となりました。帰国以降の動静は文献上にも比較的明確ですので、承和以降の東北巡行(長期に及ぶ京不在)は考えられません。

 円仁の開基伝説は、天台宗の当地への浸透に伴い、かつて東北を巡行したことのある円仁に開基を結び付けた伝説と考えられます。これは、他の地域において、役行者や空海(弘法大師)開基の寺院が多くあることと同じような状況と考えられます。

 中尊寺は、藤原清衡によって創建されました。藤原清衡(*3)は、後三年の役(1087年に終了)において勝者となり、南東北の統一に成功しました。中尊寺は、境内から発掘された遺物類の出現年代からも12世紀初期に完成したと考えられています。中尊寺は、多宝寺、釈迦堂には釈迦如来が、そして金色堂、二階大堂(*4)には阿弥陀仏が祀られました。京の都から遠く離れた平泉に、釈迦信仰、阿弥陀信仰の霊場が出現しました。

 毛越寺は、藤原清衡の子基衡によって創建されました。中心の円隆寺は、丈六の薬師如来を本尊としました。また、東西に廊が出て、その先端には鐘楼、経廊があったことが分かっています。毛越寺は、薬師信仰と観音信仰を基調とした伽藍でした。

 

画像の説明:画像左または下:毛越寺浄土池 
      画像右または上:毛越寺及び観自在王院(*5)伽藍復元図(現地の説明パネルより)
                  中央の鶴翼を持った伽藍が円隆寺、右端が観自在王院です。

 父の清衡が、釈迦信仰と阿弥陀信仰の寺院を建立、基衡はその補完のために、薬師信仰、観音信仰の寺院を建立したと考えられています。二つの伽藍が、重複、対立しない点が重要です。


画像の説明:画像左または下:毛越寺鑓水の水路(発掘再現)
      画像右または上:毛越寺常行堂宝冠阿弥陀如来
              (何故、阿弥陀如来が宝冠を冠しているかの由来は不明です。)

 最後になりましたが、毛越寺のパンフレットより下記をご紹介させて戴きます。
毛越寺は、モウツウジと読みます。通常、越という字をツウとは読みません。越は、慣用音でオツと読みます。従ってモウオツジがモウツジになり、更にモウツウジに変化したということです。

(*1)佐伯有清 『円仁』(吉川弘文館)に依ります。同書に依りますと、更に、東北地方には、円仁の中興とするものが22寺、円仁に関係する仏像などの遺芳があるのは169寺あるとされます。

(*2)強大になる仏教勢力を制限するべく行った、中国の皇帝に依る仏教弾圧事件のうち最大規模のものです。845年に始まり、846年皇帝武宗の死で終了しました。円仁は、838年に遣唐僧として唐に入国し、847年に帰国しました。円仁はこの時の事を『入唐求法巡礼行記』に記録しました。894年に菅原道真の上奏に依り、遣唐使は以降中止されましたので、結果的に円仁は最後に帰国した遣唐使となりました。

(*3)前九年の役で、藤原清衡の父藤原経清は清原氏に敗れ去りました。母が清原氏に再婚したため、当初、清原清衡を名乗りましたが、後三年の役で勝者となり、藤原清衡と改めました。

(*4)中尊寺二階大堂には、3丈(坐像4.5m)の阿弥陀仏と9体の丈六阿弥陀仏(坐像2.4m)が祀られていました。後に、源頼朝は、この二階大堂を模して鎌倉に永福寺二階堂を建立しました。

(*5)基衡の妻が、毛越寺の直ぐ隣に観自在王院を建立しました。又、三代秀衡も、無量光院を建立しましたが、いずれも阿弥陀堂で、阿弥陀信仰が最も重視されていたことがわかります。

2018年11月04日

永福寺(鎌倉市) 中尊寺(岩手県)を模して

 『吾妻鏡』(*1)に依りますと、永福寺は、源頼朝が1189年、①奥州合戦で亡くなった数万の怨霊を慰め、②中尊寺(*2)の二階大堂と呼ばれる大長寿院を模して ③寺院を金銀・宝石で飾り、更に絵画を加え(*3)、鎌倉に創建・造営した寺院です。

 源氏にとって、東北は、源頼義、義家親子の勢力圏になるはずでした。前九年の役、後三年の役で源氏は苦労して勝利を得ましたが、結局当地において利を得たのは、清原清衡(後の藤原清衡)でした。源頼朝にとって義家は4代前、頼義は5代前の先祖です。

 源頼朝は、1189年、藤原泰衡が義経を匿ったことを理由に、後白河法皇の制止を振切って、奥州征服を断行しました。藤原氏は、後三年の役の終了(1087年)以降、凡そ、百年の平和を謳歌しており、戦に明け暮れた関東武者の攻撃に、軍事力においても組織的にもなす術もなく敗れ去りました。

 二階大堂は、本尊は三丈(坐像の場合、高さ凡そ4.5m)の阿弥陀如来、脇に丈六(坐像の場合、高さ凡そ2.4m)の阿弥陀像9体が祀られていました。九体仏で有名な浄瑠璃寺(*4)のような構成だったのでしょうか。勿論、二階大堂の規模は、浄瑠璃寺よりずっと大きかったはずです。二階大堂の発掘は進んでいるそうですが、史料は入手できていません。

 永福寺の伽藍は、中心となる二階堂は釈迦如来が本尊、左右対称に北側に薬師堂、南側に阿弥陀堂が祀られていました。現存しないため祀られた仏像の規模はわかりませんが、堂の規模からは、それぞれ最低でも丈六、おそらく、2丈から3丈規模の像容であったと推測されています。

 

画像の説明:画像左または下:永福寺伽藍(復元) 
      画像右または上:永福寺伽藍復元図(現地の説明板より)

 形は、平等院鳳凰堂と似ていたと考えられますが、永福寺の場合、左右の鶴翼が、独立した薬師堂と阿弥陀堂となっており、鶴翼が装飾的構造物で人が立って歩けない平等院に比べても規模は巨大です。中尊寺が釈迦信仰と阿弥陀信仰、毛越寺(*5)が薬師信仰を基調としていますが、永福寺は、一寺でその両方を祀っています(*6)。

 永福寺は、二階大堂を模して二階堂と呼ばれました。しかし、上述の通り祀る仏様の性格も違いますし、伽藍もそれほど似たものでは無かった様に思われます。結果的に、伽藍の荘厳さや規模において二階大堂を模したということになります。

 ところで、永福寺は、鎌倉においては、最古最大の浄土庭園を持つ寺院でした。東を正面にして、建造物の全長が南北130m、前面の池は、南北200m以上であったことが、長年の発掘調査によって、詳細に確められています。関係者各位のご努力に敬意を表させて戴きます。

 

画像の説明:画像左または下:毛越寺浄土池(復元)
      画像右または上:称名寺浄土庭園(復元)
        称名寺の浄土庭園は、称名寺絵図並結界記(元亨3年1323年)により、
                  当時の伽藍の配置と共に完成時の姿を知ることができます。


 最後になりましたが、冒頭に記載しました、「①奥州合戦で亡くなった数万の怨霊を慰め」、に関して少し述べさせて戴きます。そもそも、戦乱による生き死が常だった関東の武士団には怨霊を恐れる必要はありません。実際、永福寺は、完成以降、「供養」や「結縁」といった宗教儀式のために使用される幕府の重要なモニュメントとして存在しました。怨霊は、京都で生まれ育った頼朝のトラウマの中だけに存在し、それ以外の人は意識の中に怨霊は存在しなかったということではないでしょうか。

(*1)現代語訳『吾妻鏡』五味文彦・本郷和人編(吉川弘文館)より多くを参照させて戴きました。

(*2)岩手県平泉町、世界遺産に指定されて著名。藤原清衡の創建です。

(*3)永福寺の内部の絵画は、円隆寺(毛越寺金堂)を模したことが、『吾妻鏡』に記載されています。

(*4)京都加茂。9体仏の寺院として有名。中央の阿弥陀仏坐像が、高さ2.24m、他の8体が、高さ1.38m。

(*5)岩手県平泉町、藤原基衡(藤原清衡の子)の創建です。

(*6)薬師如来像、釈迦如来像、阿弥陀如来像を一堂に祀る寺院として、法隆寺金堂が有名です。仏像のこの並びは、薬師(過去仏)、釈迦(現在)、阿弥陀(未来)を表していると説明を受けたことがあります。

2018年10月21日

円覚寺 その2 舎利殿(鎌倉市)

 円覚寺の舎利殿は、当初のものは13世紀末或いは14世紀初めころに建立されたと言われています。円覚寺は、再三火災があり、なかでも永禄六年 (1563) に全焼しました。復興に当たって、舎利殿は、鎌倉尼五山の一つであった大平寺(廃寺)の仏殿を、天正年間 (16世紀後半)に移築した建造物です。更に、関東大震災で倒壊しましたが、1929年(昭和4年)復元されました。景観が、正福寺地蔵堂に似ていることから、移築された舎利殿は、正福寺と同時代(15世紀初頭)に建立されたものとされます。

 円覚寺は、無学祖元を開山として1282年、北条時宗によって建立されました。そのため、円覚寺は、鎌倉時代の代表的寺院で鎌倉五山の第2位とされ、禅宗様建築の代表的遺構としてもポピュラーです。以前は、日本史の教科書にも掲載されていましたが、今はどうでしょうか。再建されたことが確認され(舎利殿が当初のもでないことが明らかにされ)ましたので、トーンが落ちているのではないでしょうか。

 

<画像の説明>円覚寺舎利殿 現地の舎利殿前のポスターの写真より       

 円覚寺舎利殿は、奥まって、以前は見られませんでした。今は、近寄れませんが、門から辛うじて屋根のみを見ることができます。正月三カ日等、特別の日には拝観可能です。残念ながら、通常は、木が生い茂り、遮断物も多く、最も美しい屋根の反りや軒下を見ることはできません。また、禅宗様の特徴の花頭窓や波連子の飾りも直接見ることもできません。軒下の詰め組は、禅宗様の特徴ですが、現地の掲示板の写真で、多少、その美しい建造物を確認することができます。

 正面の下部を見ると 五間ですが、両端は 裳階(もこし)(*1)が付加されたもので、主屋(おもや)は三間です。屋根は入母屋作りの柿葺(こけらぶき)(*2)です。昭和42年に大修理が行われましたが、それまでは茅葺(かやぶき)(*3)でした。

 外廻りの裳階は 中央間を棧唐戸(さんからど)の両開き、両脇間の戸口の両端は、花灯窓(かとうまど)となっています。波欄間(なみらんま)が上部を一周します。波欄間を通して入る日の光が独特の雰囲気をかもし出す様子が容易に想像されます。なお、花頭窓や波欄間の実際は、正福寺地蔵堂の写真を掲載させて戴きますのでご確認ください。

 

<画像の説明>正福寺 桟唐戸、花頭窓、波欄間


 円覚寺舎利殿は、美しさは秀逸です。しかし、度重なる火災により、建造物の古さという点では、他の建造物にその地位を譲ります。歴史的な展開でより古いと考えられる、関東地方の建造物として、私も訪れたことのある建造物が何点か(*4)現存します。

(*1)建物の軒下に差しかけて作った屋根で、外観は二重屋根に見える。法隆寺五重塔、金堂
 薬師寺等が有名です。

(*2)ヒノキ・マキなどの薄板で葺いた屋根

(*3)茅(かや)で葺いた屋根

(*4)
  鑁阿寺 (ばんなじ)(栃木県足利市)は、足利氏の居館跡と伝えられる真言宗の寺院で、寺伝によると足利氏2代足利義兼(源義家の曾孫に当たる)により開創されたとのことです。写真の本堂は、1299年に建立されました。2013年に重要文化財から国宝に昇格しました。和様と禅宗様の和様に近い折衷様という感じです。
 覚園寺薬師堂(鎌倉市)は、1354年建立。薬師堂の梁に足利尊氏の署名(征夷大将軍正二位源朝臣高氏)が残り、当初のものは、1354年に建造されたものと考えて良いと思います。その後、仏殿は江戸時代1689年に大改修が行われました。なお、足利尊氏には、長寿寺殿と等持院殿の2つの法号を持ちます。当寺では、長寿寺(本人の署名)が残っているそうです。
  正福寺地蔵堂(東村山市)は、昭和9年改修の際発見された墨書銘により、室町時代の1407年の建立とわかりました。年代が明らかな東京都下最古の建造物です。若干専門的なことになりますが、円覚寺舎利殿と正福寺地蔵堂は、ともに普通の繋虹梁でもよいくらいの高低差の少ないところに海老虹梁が用いられています。繊細な曲線を賞用する禅宗様ではやはりこの方がよく似合うとされます。

2018年10月07日

円覚寺 その1 宝冠釈迦如来坐像(鎌倉市)

 円覚寺は、北鎌倉駅から直ぐのところに位置します。鎌倉五山(*1)の一寺ですが、建長寺に次いで、第2位とされます。1282年北条時宗の招致した無学祖元によって開山されました。鎌倉時代後半には、蘭渓道隆や無学祖元といった宋の高僧が、鎌倉幕府執権家の要請によって来日しました。そのため、彼らの影響は主に鎌倉エリアに残ります。

 その影響のひとつが、例えば、円覚寺の本尊、丈六の宝冠釈迦如来坐像(*2)です。文化の中心地だった京都を素通りして鎌倉へ直接伝えられました。このことが、宝冠釈迦如来が京都には無く、鎌倉にのみ存在する主な理由と考えられます。ところで、なぜ、釈迦如来が宝冠を冠しているのか?釈迦如来は解脱した存在ですので、宝冠のような装飾品は付けていないのですが一般的だから不思議です。

 

<画像の説明>円覚寺本尊 宝冠釈迦如来

 その答えは禅宗の考え方にあります。私のようなシロートの言い方で恐縮ですが、禅宗では、釈迦も人間だし修行中と考えられているとのことです。禅宗は、釈迦は自分たちの先人ではあるが、ひたすら拝むのみの対象ではない、とも仰います。修業は永遠に続く、死ぬまで続くと考えられています。釈迦も我々同様、人間として生まれたのだから、釈迦が自身の頭を飾り立てても違和感は無いと考えられるわけです。
 繰り返しになりますが、宋で盛隆した禅宗では、そもそも仏陀を、唯一絶対の一神教のような人間を完全に超越した姿ではとらえません。むしろ、誰よりも一生懸命解脱しようと精進‘修行’した先人としてとらえ、自分もあのようになりたいと考えます。解脱する前の釈迦は人間であり解脱前と考えることができます。禅宗のこのような考え方が、宝冠釈迦如来を祀る理由と考えられます。

 ところで、円覚寺は、寺の境内をJR横須賀線によって分断されています。文化財の豊富な円覚寺を分断するルート以外にルートは作れなかったのかと考えてしまいます。明治時代、海軍の最重要軍港の横須賀へのアクセスのため、相当強引に用地買収が行われたようです。

 

<画像の説明>画像左または下:円覚寺寺内を走るJRの踏切 画像右または上:円覚寺白鷺池

 

 ただ、結果的に横須賀線の開通、そして北鎌倉駅の開業により、円覚寺周辺を北鎌倉の一等地に押し上げました。今、円覚寺周辺は、観光客や座禅を志向され円覚寺に向かう人達であふれています。境内を出て踏切を渡ったところ、北鎌倉駅までの道すがら、白鷺池があります。ここもれっきとした円覚寺寺域の一部です。白鷺池は、開山の無学祖元をこの地まで道案内した白鷺の舞い降りた池と言い伝えられているそうです。

(*1)日本の禅宗のうち、臨済宗の寺院を格付けする制度。鎌倉幕府の5代執権・北条時頼の頃、中国の五山の制に倣って導入したのが始まりです。最終的には、京都と鎌倉にそれぞれ五山、その上に最高寺格として南禅寺が置かれました。

(*2)無学祖元が円覚寺を開山した1282年には、元寇(文永の役(1274年)、弘安の役(1281年))はすでに終わっている時代です。既に鎌倉時代末期に入っています。その点、鎌倉において今回のテーマの宝冠釈迦如来が祀られた時期が、きわめて短期間だったことが想像されます。
 如来像のうち、大日如来以外の如来が宝冠を冠しているのは全国的には珍しいと思います。鎌倉では、宝冠釈迦如来は、五山第3位の寿福寺本尊としても祀られています。また、鎌倉国宝館にも入口右側直ぐに展示されています。

2018年09月16日

建武の中興三銅像(栃木県足利市、東京都)

 以前東京三銅像について取り上げたことがあります。
 東京三銅像は、西郷隆盛像、楠木正成像そして大村益次郎像でした。東京三大銅像と言われることもあります。時代も功績も造立のいきさつもそれぞれで、なぜこの3人が選ばれのかは、私には良く分かりませんが、西郷隆盛は上野山、楠木正成は皇居、そして大村益次郎は靖国神社とそれぞれ東京の一等地に位置しています。この際は、造立のエピソードも興味深い西郷隆盛像を中心に書かせて戴きました。

 今回は、建武の新政(中興)三傑の銅像つまり、足利尊氏像、新田義貞像、楠木正成像を取り上げることにしました。この三人が選ばれるのは、建武の新政から南北朝時代を取り扱った太平記に次のことが記載されているからと思っています。
 新政の功臣第一は、京都から北条勢力を追放した足利尊氏、第二は、鎌倉を攻め落とした新田義貞、第三の功臣は、大軍の鎌倉勢を寡兵で以って河内の赤坂城、千早城に引き付けて、倒幕の機運を決定的とした楠木正成と、建武の中興を成し遂げた後醍醐天皇が評価しました。

 

<画像の説明>楠木正成像 東京都千代田区皇居内(*1)

 


 

<画像の説明>足利尊氏像 栃木県足利市(鑁阿寺前)(*2)

 

新田義貞像 府中市京王線分倍河原駅前(*3)

 足利市は、足利氏の本貫地ですが、足利高氏(尊氏)は足利生まれではありません(*4)。育ちは鎌倉です。そのため、地元では尊氏の銅像を足利で顕彰することに、批判的な意見もあるそうです。しかし、室町幕府の創設、征夷大将軍になる等、足利氏興隆の最大の功労者であることには違いありません。

 私は、今回紹介した他の銅像の様に騎乗姿でない理由が良く分かりません。理由は、次の2つのどちらかでは無いでしょうか。
1)後醍醐天皇の政権の簒奪者としては、未だに足利尊氏の武将姿を潔しとしない風潮がある。
2)騎乗姿は、予算的に難しかった。
或いは他に理由があるのでしょうか。関係者の方に、一度お聞かせ戴ければと思います。

 何年か前にNHKの大河ドラマで、真田広之主演の足利尊氏主人公の大河ドラマが放映されました。これにより、足利尊氏は多少ポピュラーになりました。しかし、征夷大将軍となった源頼朝や徳川家康に比べて知名度はいま一つであることは否めません。

 建武の中興から南北朝時代は、未だに多くの日本人にとって、時代のイメージが最も定着しない時代ではないでしょうか。私自身も未だに太平記から抜け出せないでいます。もう少し大きく、歴史の流れの中での再評価戴ければと思います。足利尊氏に関しても、再評価が必要と思います。

(*1)楠木正成像は、皇居の中、馬場先門を入って、左手に少し歩いたところにあります。今はインバウンド客が大勢、写真撮影を楽しんでいらっしゃいます。

(*2)新田義貞像は、鎌倉に攻め入ることをイメージして、鎌倉方面をむけて造像したために、駅からはそっぽを向いてしまいました。そのためか、この像が新田義貞像ということは、地元でもご存知の方は多く無い様です。
(*3)鑁阿寺足利学校 については以前に扱いました。
(*4)いくつかの説がある様で、出生地がはっきりしません。

追記:

<画像の説明>小田原駅に設置された二宮尊徳像
      (小田原は二宮尊徳のふるさとです。)


 最近偉人の銅像に関して、歴史の再評価がされず、とても残念なことが起こっています。例えば、全国各地の学校内に多くある二宮尊徳像についてです。本を読みながら歩く姿が、’ながらスマフォ’を助長するとして、二宮尊徳像の撤去の要求があるそうです。残念なことです。足利尊氏同様、二宮尊徳も、歴史的評価が定まらない人の一人では無いでしょうか。
 過去には、二宮尊徳の背負った薪は(貧乏で買うお金も無かったんだから)泥棒したんじゃないかといった笑えない笑い話もありました。今の感覚や常識で歴史や歴史的人物を評価してしまうのは、芸のない事と思います。

 

 

 

 

2018年09月02日

薬師寺聖観音菩薩立像(奈良市)

 薬師寺は近年ずうっと工事中です。以前は東塔だけが目立っていましたが、今は、西塔、金堂そして講堂が再建されて存在感を発揮しています。薬師寺建立直後は、このような朱色の眩い建物だったと想像できます。最新の堂宇は、暫く時間が経過すると、彩色にも古色がでて、渋い建物になっているのではないでしょうか。


<画像の説明>画像左または下:薬師寺西塔 画像右または上:薬師寺金堂 いずれも平成の再建

 

 高田好胤氏ならではの剛腕でこれらの再建も可能になったのでしょうが、再建なった建造物には、それぞれ個別に入場料が必要になりました。一寸凝った入場券になっており、建物毎に入口で四方のとんがりを1枚ずつ切り取ってもらうようになっています(*1)。

 

 今再建は終わりましたが、今度は従来からあった東塔が、修復のため薦を被っています。この薦が取れる時が楽しみです。東塔、西塔、金堂そして講堂を、一堂に見ることができれば壮観です。

 

<画像の説明>解体修理中の薬師寺東塔


 ところで、本尊の薬師如三尊像は、建立年代がプロの先生方の間では議論になります。私レベルが言うことではないのですが、一寸説明させて戴きます。

 薬師寺は、藤原京に建立され、その後平城京に移設されたとされます。しかし、近年の発掘では、薬師寺は移設されたのではなく平城京で新たに建立され、藤原京・平城京で2寺併存し、藤原京の薬師寺は本薬師寺と称されたことが分かってきました。

 現薬師寺の本尊の薬師三尊像は、藤原京で造像され移設されたか、平城京で造像されたかが、長く議論されていますが、上記のように2寺併存が分かってきますと、平城京造像派が、有利になってきました。現存の薬師三尊像が、白鳳仏(飛鳥時代後期)では無く、天平仏ということを強く示唆しており、仏像史においてはとても重要となります(*2)。

 今回は、その議論の中で良く議論される、東院堂の聖観音菩薩立像について取り上げさせて戴きます。当聖観音菩薩立像と金堂三尊像の月光菩薩は、像容が良く似ています。なお、聖観音菩薩立像の模造品が東京国立博物館にあります。

 

 

<画像の説明>画像左または下:薬師寺聖観音菩薩立像(模造)
               本画像は、東京国立博物館提供のコンテンツです。
              「東京国立博物館提供画像加工(C-1830)」
               [http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0098344](*3)
       画像右または上:薬師寺月光菩薩(望遠レンズにて外部より撮影)


 聖観音菩薩立像では、腰から足首にかけて裾が下方に垂れています。本尊の月光菩薩は裾が後ろにたなびかず、横に広がっています。月光菩薩は、腰をくねる変化を見せますが、聖観音菩薩は、天平仏の様に胸飾り等の華やかさがある一方、飛鳥仏と同じく、正面観、全体的に左右対称な像容を持ちます。

 側面観をもち左右非対称の月光菩薩より、東院堂聖観音菩薩立像は古いと言えます。つまり、時代的には、下記流れとなります。

白鳳仏➡東院堂聖観音菩薩立像➡月光菩薩➡天平仏


 西の京駅をでて、左に行けば唐招提寺、右に行けば薬師寺です。ほとんど隣り合わせの2寺ですが、一方は、平成の時代に多くの堂宇を再建し、一方は、昔ながらの寺様を維持しています。今後の両寺の継続と発展は楽しみです。


(*1)
薬師寺の特別入場券。1角、西塔特別拝観権を記念に残しました。


(*2)
奈良国立博物館において、2015年に実施された白鳳展では、薬師寺の薬師如来立像が、紹介されていました。ここでは、薬師如来が白鳳仏として紹介されていました。

 

(*3)本画像は、クルムとアルク 中山良氏より情報提供戴きました。。
    中山さんありがとうございました。

2018年08月19日

興福寺中金堂(奈良市)

 奈良は、今空前のインバウンドブームで賑わっています。興福寺周辺奈良公園も外国人で一杯、鹿にせんべいを与える様子も随分変わってきています。中国人のそれは、もう、とことん、鹿に‘待て’をさせるので、鹿が怒りだすのではないかとひやひやしてしまいます。

 興福寺は、平安時代以降何度も被災炎上しました。その中で、特に有名なのは、平重衡による南都攻め(1180年)ですが、都度、興福寺は、伝統的な和様建築を用いて再建しました。伝統的な和様建築の五重塔は、今も奈良公園の一等地において一等の存在感を発揮しています(*1)。

 

<画像の説明>画像左または下:興福寺五重塔  国宝(室町時代に再建)
       画像右または上:興福寺三重塔  国宝(鎌倉時代)

 今、興福寺では、中金堂の再建が進んでいます。こちらは、今年(2018年)秋の完成予定です。出来上がり完成図で見る限り、外観はおそらく旧来からの和様建築です。もちろん、旧来の和様建築といいましても、巨大な重機が使われますし、柱等の材料も最新の製材方法で作られていることは、言うまでもありません。鎌倉時代の五重塔復活の際も、当寺の最新の技術を用いながら、復古したことと推察します。

 

<画像の説明>画像左または下:興福寺中金堂完成予想図 画像右または上:再建中の興福寺中金堂

 今、旧来の文化財の再建に関して、何が何でも、材木のみで作りたいという考え方が一部にある様です。例えば、昔の建物のはずなのにエレベータとかコンクリートが見えるのはおかしいと言われるのが癪で、歴史的価値や文化財としての価値も考えないで、昔ながらの材木だけの技術で再建したいとおっしゃる政治家もいらっしゃいます。しかし、薄っぺらなノスタルジーだけでは、文化財の再建はできません。

 

 実際には、内部に保存・展示する文化財保護の観点から、火災対策や地震対策が必要と思いますし、又、ハンディーキャップの対策も必須です。工期の件からも、材料も工法も近代的にならざるを得ません。木材加工には実際には、高性能のチェーンソー等の使用が必要ですし、近代的重機で組み立てのが現実です(*2)。

<画像の説明>画像左または下:興福寺北円堂 国宝(鎌倉時代)
       画像右または上:興福寺南円堂 重文(江戸時代)


 単に材料のみに注目して、材木だけにこだわることに、私はそれほどの価値は感じません。建立直後には、内部に安心安全を前提に何を展示するか、どうすれば多くの人に来館願えるかを意図する方がずうっと重要です。その時代時代によって、ニーズは違いますし、美意識や価値観も変わります。その結果、数百年後には、無くてはならない文化財に発展するはずですし、そのことが重要と考えます。

 興福寺中金堂は、長い歴史のなかで、興福寺の再建が総じてそうだったように、最新のテクノロジーと旧来の技術を上手く組み合わせて再建されていることと存じます。数百年後を想像して、今の完成が楽みです。今、だいぶ姿を現しました。鴟尾も今はまだ薦を被っています(*3)が、お披露目も間近と思います。今後も長きに亘って継続、発展してほしいと思います。

(*1)東大寺の再建の過程は、興福寺とは大きく異なりました。東大寺は再建に当たり、当時宋より  もたらされた最新のテクノロジーの大仏様を採用しました。

   ➡東大寺の大仏様についてはこちらを参照ください

(*2)古建築の再建に、私は二つの例を提示させて戴きます。
その1.1975年に再建された法輪寺三重塔では、材木と鉄筋の組合せの建立が議論になりました。また、西岡常一氏、小川三夫氏による槍鉋による製材が行われました。

   ➡再建された法輪寺にリンクします。

その2.小田原城銅門は、材木のみを使用して再建されました。しかし、想定が江戸時代との割に、柱の製材に大量生産的な技術が見えてしまいます。

   ➡小田原城銅門にリンクします


(*3)掲載の写真は、2018年6月1日に撮影したものです。7月30日このブログをアップした直後、既に鴟尾の薦は外された旨、茅野市在住のAさんより連絡を戴きました。
Aさんありがとうございました。

2018年08月05日

達身寺その2(兵庫県丹波市)

 今回は、達身寺方式について述べさせて戴きます。私は、前回達身寺方式の毘沙門天を鎌倉時代の仏像と申し上げましたが、それは、達身寺方式の存在です。

 達身寺では、下腹が大きく出た立像が多く残ります。この像容は、大変珍しく、恐らく他にはありません。そのため、達身寺様式と呼ばれています。この像容は、金剛力士像の様にぐっと下腹に力を入れ腹筋が逞しく浮き出た様なものではなく、妊婦のお腹がふっくらと出ている様子を表したものです。尚、達身寺様式は仏像、仏容には、依存しません。

 私は、これをいくつかの由来を考えました。


(その1)吉祥天が毘沙門天の妻として並んで祀られていますが、先ずは、吉祥天のお腹が膨らむ像容が発生し、その後、その他の仏様のお腹もまた膨らませるように像容が発展した。

(その2)鎌倉時代以降、毘沙門天が幸福神になったこと、そしてその後七福神の1神になったこと関連付け幸福の一表現として考え出された。

(その3)毘沙門天が観音三十三変化の一つと考える思想があるが、観音三十三変化の一つとして、毘沙門天の新たな像容が現れた。

 私はそのくらいしか考えられない(妄想??)が、どうでしょいうか。これらの中では、その2の「毘沙門天が幸福神」の考え方が、もっとも考えやすいと実感しています。
 

<画像の説明>達身寺様式の仏容

 

 鎌倉時代以降、毘沙門天は、それまでの都の守護神、軍神という力強い存在から一般の市民を守る幸福神という存在に発展しました。特にこれらは、京都では、1238年に全焼した鞍馬寺と本尊の毘沙門天の復興が大きく影響したと考えられています。 鞍馬寺は私寺であり、朝廷や幕府そしてその有力者からの寄進を多くは期待できない中、火災後の復活において、庶民の寄進に多くを頼る必要がありました。この時代京都は、日本一のハイテク工業地帯で、庶民の力が強く大きくなっていました。そのような中で、鞍馬寺では、一般庶民に寄進を求めるため、本尊毘沙門天がこの世で民衆を幸せにするという幸福神のファンクションが強調されていきました(*1)。

 

<画像の説明>達身寺様式兜跋毘沙門天立像


 京都の商工業者は、自分たちの取り扱う商品をもって地方へ下る中、幸福神としての毘沙門天信仰も一緒に持ち回りし、京都周辺の地方へ拡散していきました。このような一環で、丹波地方にも毘沙門天信仰が浸透していきました。当地では、安産を願う人々が、毘沙門天を妊婦に見立てる民間信仰が発展したのではないでしょうか。妊婦のお腹を持つ毘沙門天は、当地の発願者のリクエストだったろうと思います。京都の毘沙門天信仰と地方の民間信仰が合体した結果でしょうか、妊婦は、これから生まれてくる子供の幸せを毘沙門天に託したのではないでしょうか。

 

(*1)幸福神としての毘沙門天は、本編でも詳しく述べさせて戴きました。幸福神としての毘沙門天は、下記を参照ください。

  ➡2.7 幸福神としての毘沙門天

 

 毘沙門天=幸福神の信仰は、更に発展して、室町時代以降、七福神の一つに選ばれるに至りました。
 

 ほかにも、達身寺には、特徴がいくつかありますが、最後に達身寺に多い一木造について、簡単に述べさせて戴きたいと思います。達身寺の仏像は、基本が一木造です。それは、残る仏像の殆どに縦しまの割れ目が現れていることからも明らかです。このことは、定朝以来、この現象を嫌いその対策として中刳りを徹底するため寄木造を発明し、また一木造であっても割矧ぎを発明してそれを良しとし実践した鎌倉時代以降仏師の中心となった慶派の仏師とは、一線を画するものであり、この地方独自の仏師の存在の可能性を彷彿させます。

 

 地方仏師の工房と幸福神としての毘沙門天信仰が結びついた結果が今に残る達身寺の像容では無いでしょうか。すみません。今回は殆ど想像の世界になってしまいました。

2018年07月22日

達身寺その1(兵庫県丹波市)

 達身寺は、大阪から福知山線を1時間半ほど、昔の言い方では丹波国に位置します。公共の交通機関がほとんどなく、JR柏原駅又は石生駅からタクシー(或いはレンタカー)に頼るしか到着の手段はありません。達身寺には、阿弥陀如来、薬師如来、十一面観音、兜跋(とばつ)毘沙門天、吉祥天など、80余躯の仏像が納められています。指定文化財としても、国の重要文化財が12躯、兵庫県指定文化財が34躯あります。このことで、何処からともなく、「丹波の正倉院」と呼ばれたとのことです。

 通常では、本尊となる(つまり1つのお寺では通常は1体しかない)尊像ばかり、数十体あることが、達身寺の最大の特徴であり、また最大の謎です。このWEBのメインテーマとなっている兜跋毘沙門天も、1つのお寺に1体が普通ですが、それが当寺には16体あります(*1)。

 

<画像の説明>画像左または下:達身寺本堂 画像右または上:達身寺薬師如来


 そのため、達身寺は、中世には、僧兵を抱えた広大な寺域を持つ有力な寺院があったが、明智光秀の丹波攻め(1573年~1579年)の際に滅んで跡形もなくなり(寺名も伝わらず)、仏像だけが一カ所に集められて残ったという言い伝えがあります。しかし、そのような強勢を誇った寺院が、他の史料にも全く現れず、寺名すら伝わらない或いは一切発掘されないのは奇妙です。

 そのためか、郷土史家の船越昌氏は、1980年代に、同種の仏像が多数あること、未完成の仏像が多い事から、当寺は、丹波仏師の工房・養成所であり、多くの仏師が、造仏に従事していたのではないか、という説を掲げられました。

 この説は、達見です。当寺が工房跡と考えれば、これらの謎が解けるからです。しかし、この工房跡説だけでは、日本全国で100体程度しかなく、それほどポピュラーとは言えない兜跋毘沙門天兜跋毘沙門天が多数祀られていることの説明はできていないと、私は考えました。兜跋毘沙門天ばかりを欲する発願者(スポンサー)の依頼がそれほど多いとも思えないからです。

<画像の説明>達身寺 兜跋毘沙門天立像(左)と吉祥天立像(右)

 

<画像の説明>達身寺 小仏群

 

 ともあれ、現状残る達身寺の兜跋毘沙門天の像容をご説明させて戴きます。同寺の兜跋毘沙門天は、 ①唐風の甲制を着甲している
②宝冠を冠さない
③獅噛がない(下図獅噛を参照下さい)
④直立してまっすぐ前方を睨んでいる(東寺像の様に宝塔の方向を睨んでいない)
⑤吉祥天とペアになっているケースがある(*2)

 

<画像の説明>画像左または下:東寺兜跋毘沙門天立像獅噛
       画像右または上:東寺兜跋毘沙門天立像宝冠


 このような点で、9世紀中頃に中国より請来された東寺兜跋毘沙門天と比べると、かなり和風化が進んでおり、時代的には開きが大きいと考えます(*3)。そのため、当寺の作像年間は、時代はかなり下って考える方がリーズナブルで、像容からは平安時代末期以降のものと考えられます。もう少し極論させて戴きますと、私は、鎌倉時代の造像と考えますが、これについては、次回説明させて戴きます。


 ところで、当寺の毘沙門天は、像容からは、毘沙門天像であることは間違いありません。しかし、すべて手がもがれており、残念なことですが、どれ一つ毘沙門天の特徴の宝塔を確認できないことです。最初に私は考えたことは、地域的に考えて鞍馬寺との関係でした。鞍馬寺の影響があるのなら当寺のケースも宝塔を持たない鞍馬式の毘沙門天の可能性もあると考えていました(*4)。しかし、今残る当寺の毘沙門天像では、その判断は、できませんでした。

 


(*1)現在達身寺には、兜跋毘沙門天が16体残されており、隣接した地域の同形像を含めると21体残っているとのことです。


(*2)最勝王経では、吉祥天と毘沙門天は夫婦と説明されています。兜跋毘沙門天に限らずこれらの2像はペアで祀られることがあります。例えば、法隆寺金堂や鞍馬寺はその例です。鞍馬寺においては、本尊は秘仏ながら毘沙門天、妻吉祥天(右)、長子善弐師童子(左)の組合せで祀られていることは確実だそうです。
  ➡2.7幸福神としての毘沙門天


(*3)日本において最古の兜跋毘沙門天と考えられる東寺像が、9世紀中頃から末頃の中国からの請来であることを本PCの本編にて考証しました。(東寺像が平安京朱雀門の階上に祀られ、朱雀門倒壊東寺に引き取られたことは伝説に過ぎないことも本編でも詳細に述べさせて戴きました。)
  ➡2.3兜跋毘沙門天について


(*4)鞍馬式の毘沙門天像は、左手を高く上げて戟を持ち、右手は宝塔を持たず腰に当てます。これについては、毘沙門天儀軌の「以二手右押左内相叉」を実践したものと考えられています。宝塔を持たない毘沙門天は、鞍馬寺の毘沙門天の特徴です。 詳細は下記に記載しています。
 ➡「鞍馬寺」にリンクします

 

 それにしても、当寺の仏像は、更に多くの特徴を持ちます。そのほとんどが一木造であること、そして、最近注目されている達身寺様式と呼ばれる腹部がふくらんだ独特の像容を持つことです。これらについては、次回紹介させて戴きます。


2018年07月08日

唐招提寺その2(奈良市)

 先月(2018年5月)に唐招提寺を取り上げました。しかし、一部の方から、唐招提寺の周辺情報ばっかりだ、せっかく立派な国宝が祀られているのだから、それについて言及するようにと、お叱りを受けました。ということで、再度唐招提寺を取り上げました。

 

<画像の説明>画像左または下:唐招提寺金堂全景
       画像右または上:唐招提寺金堂軒下( 整然とした純和様の軒下に注目)


 唐招提寺金堂には、他の寺院には無い組合せの三尊像が祀られています。三尊像は南面していますが、東から薬師如来立像、廬舎那仏坐像、千手観音菩薩立像です。東側に薬師如来が祀られるのは、薬師が東方瑠璃光浄土の教主ということで理解できるように思いますが、それ以外は、私には良く分かりません。寺の史料にも、具体的教義との関係は良く分からない旨が書かれていたように記憶しています。

 ただ、教義はともかく、当寺の金堂は、この三尊像はもちろん東西に置かれた梵天、帝釈天及び四隅の四天王も創建以来一度の変更もなく今日に至っており、このことが、仏教美術的には、当寺の計り知れない価値になっていると思います。私を叱って下さった方もこのことを強調されていました。

 

<画像の説明>画像左または下:唐招提寺金堂内陣 画像右または上:唐招提寺廬舎那仏
              いずれも、唐招提寺で購入した絵葉書をスキャンさせて戴きました。


 中央の廬舎那仏は、寺の説明書きに依りますと、丈八とあります。しかし、実際の像高は304㎝、2丈といっても良いと思います。当寺の説明書きに、丈八と説明されるのは、下記でご説明する千手観音菩薩との兼ね合いがあると考えます。当仏は、奈良時代に主流だった脱活乾漆像です。最近、唐招提寺は建造物も仏像も平安時代に時代を下らせる議論が多いですが、制作方法において、当廬舎那仏は、千手観音や薬師如来より一等古く、奈良時代の匂いのより濃い作品です。迫力のある大きな頭部、量感を強調した肩、そして横幅の広い体つきは、平安時代の仏像とは一線を画しています。このクラスでは、史上最後の脱活乾漆像では無いでしょうか。

 西方の千手観音と東方の薬師如来は、木芯乾漆像(*1)です。この時代の薬師如来は、薬壺を持っている訳ではありません。当像も薬壺を持っている訳ではなく、見た目だけでは、薬師如来と判断できません(*2)。
 千手観音菩薩像は、丈八(像高536㎝)です。中央の廬舎那仏と千手観音を同等の大きさと考えることに依り、同等の価値の本尊と考えられます。当寺の千手観音は、大手42本、小手911本、計953本の手を持っています。当初は、きっちり1000本あったものとされています。日本には、実際に千手ある千手観音は、そう多くはありません。

 ➡実際に千手ある千手観音については、こちらをご覧ください

(*1)脱活乾漆像は、木芯に漆を染み込ませた布を何重にも貼り付け、乾燥させた後、中の芯を抜く工法です。乾燥した漆が自立体となります。脱活は、芯を抜くことを意味するそうです。それに対して、木芯乾漆像は、木芯に対して漆を塗って乾燥させますが、芯を抜けるほど(自立できる程には)厚く漆を塗りません。

(*2)薬壺を日本にもたらしたのは、清凉寺の開祖、奝然(ちょうねん、平安時代中期)と言われています。奈良初期の薬師寺や平安初期の唐招提寺の薬師如来は薬壺も持たず、釈迦如来と区別が難しいです。このことは、以前、武蔵国国分寺の項で述べました。
 
  ➡武蔵国国分寺の薬師如来についてはこちらをご覧ください


尚、唐招提寺前回分は、こちらをご覧ください。
  
  ➡唐招提寺へジャンプ

2018年06月24日

四天王寺(大阪市)

 四天王寺は、大阪の交通の要衝天王寺から歩いて凡そ10分、広大なエリアが維持されています。四天王寺の建造物は殆ど戦後のものですが、それらは建てられた当初の飛鳥時代に外観復元されました。
 今、建て替えに際して何が何でも木造でという意見が世間に充満していますが、材料としては木材であってもその工具や工法が現在のものであれば文化財としてそんなに映えるでしょうか。外観復元は、よく考えられた現実的な手法と思います。
 周囲には繁華街もありますが、寺域は良く管理されています。四天王寺の景観は、まさに、関係者各位の日頃の努力の賜物と存じます。

 四天王寺は、伽藍配置が、中門 塔 金堂 講堂が一直線に並ぶ、所謂四天王寺様式と呼ばれ、日本で最も古い伽藍様式の一つです。金堂と塔が横並びの法隆寺より一世代古い伽藍様式です。法隆寺においては、現存の伽藍の前に存在し、今その礎石だけが残る若草伽藍が、まさに四天王寺様式でした。

 

<画像の説明>画像左または下;四天王寺中門南よりバックに五重塔の九輪が見える
       画像右または上;四天王寺五重塔(現状改装中、中には入ることができます。)


 四天王寺の本尊は、今は救世観音半跏像、中世から近世にかけては、如意輪観音だったそうです。今、なぜ本尊が救世観音なのか少し調べましたが、良く分かりません。

 

<画像の説明>四天王寺金堂内陣(寺内で販売する絵葉書のサンプルより、中央が救世観音半跏像)


 創建時は、四天王が本尊(*1)だったと思います。厩戸皇子(聖徳太子)は、物部守屋との戦いの際、、白膠木(ぬるで)の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願しました。勝利すれば仏塔をつくり仏法を広めると誓い、守屋との戦いに勝利しました。その結果建立されたのが、四天王寺でした。

 

 聖徳太子と四天王寺の関係は、金剛組(こんごうぐみ)の活動にも表れます。
 金剛組は、578年創業で現存する世界最古の企業です。578年、四天王寺建立のため聖徳太子によって百済より招かれた3人の宮大工のうちの1人である金剛重光により創業されました。593年、四天王寺創建に関わりました。宮大工として、現在まで、活動を継続しています(*3)。

 

 

 

 

 ところで、大阪の名物として、四天王寺の石鳥居は今も健全です。四天王寺式の伽藍に対して、西門の役割をしています。四天王寺の長い歴史の中で、神仏習合の一つの表れと考えられます。当初は木造でしたが、忍性(*2)が石作に改めたと伝わります。れっきとした重要文化財です。上方落語のネタにも頻出する、大坂の古くからの著名な風物詩です、今は、周りに石鳥居より高い建造物ができて、あまり目立ちません。少し残念です。

                  <画像の説明>四天王寺石鳥居 左は四天王寺高校
            人が途切れず画像に入り、どうしても下部からの撮影はできませんでした。

 

(*1)東大寺法華堂は、最勝王経に則っており、四天王、梵天、帝釈天、仁王2体八尊一具を本尊として祀っているとされます。現在中央に祀られる不空羂索観音が本尊とは限らないのです。このことは、以前下記で若干ですが述べています。
 
  ➡東大寺法華堂、四天王が本尊

(*2)忍性は、西大寺中興の祖として著名です。下記に若干ですが、忍性について記載しています。

  ➡忍性については下記をご覧ください。

 

(*3)今、聖徳太子不在論がにぎやかですが、四天王寺という名称が現在にきちんと伝えられていることや金剛組が長い歴史の中で連綿と活動を継続していることに関して、どのようにお考えでしょうか?聖徳太子(厩戸皇子)不在でそのようなことが可能なのでしょうか。

2018年06月10日

唐古・鍵遺跡(奈良県田原本町)

 私の持つ昭和時代の日本史の年表では、稲作とともに始まった弥生時代の開始は、BC紀元前2-3世紀頃と記載されています。その後、私は、炭素14年代測定法の開発で、弥生時代の始まりが紀元前5世紀まで遡ったことを知りました。

 21世紀に入って、国立歴史民俗博物館(歴民博)は、短い時間で高精度に測定できる AMS(加速器質量分析法)を駆使し(*1)、土器についたススやコゲの様な少量の炭素を使用した、年代測定を発表しました。それに依りますと、本格的な水田稲作が、北部九州で始まったのはBC10世紀頃となりました(*2)。弥生時代の開始時期が一挙に500年ほど、早まったことになります。

 歴民博の見解によりますと、弥生時代は、紀元前10世紀から、古墳時代の始まる直前の紀元後2世紀まで、おおよそ1200年間続いたことになります。北九州で稲作が始まってから、2-300年くらいかかり、紀元前8世紀頃に、近畿地方に稲作が伝わったとされます。

 唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡は、稲作農耕の始まった弥生時代を代表する環濠集落遺跡です。遺跡面積は42万㎡、奈良市から南下する国道24号線の両側に展開しています。大和地方では、弥生時代研究の原点となる遺跡で、遺跡発見から100年以上発掘の歴史があります。遺跡自体は、約600年間継続したことが判明している遺跡です。

 最初になぜAMSを用いた炭素14年代測定法を紹介したかを申しますと、実は唐古・鍵遺跡の始まった時期がどの資料を見ても明確に記載されていないからです。唐古・鍵遺跡は、相対的には600年の期間、遺跡が存在したことは明らかになっています(*3)が、開始時期についての絶対的な年代観は通常の史料には記載されていません。唐古・鍵遺跡についても、AMSを用いた炭素14年代測定法を使用した絶対的な年代観を私は知りたいと思っています。(実は私が知らないだけでもう公知なのかもしれません。その際はどなたかご教授戴ければ幸いに存じます。)

 唐古・鍵(からこかぎ)遺跡の特徴のうち、一つは、青銅器鋳造関連遺物です。この遺跡から出土した遺物には、多くの土製の鋳型外枠を利用した鋳型で、銅鐸や銅ぞくなどが鋳造されました。


<画像の説明>唐古・鍵遺跡 渦巻付きの楼閣


 もう一つの特徴は、楼閣と大型建物を描いた土器です。土器には、2層の屋根、渦巻状の棟飾り、三羽の鳥が描かれています。楼閣を描いた絵画土器に基づき、遺跡のランドマークをとして楼閣が復元されています。屋根は茅葺きで、丸太で放射状に配置されています。また、渦巻状の屋根飾りは藤葛で復元されています。
 ランドマークという言葉は、唐古・鍵ミュージアムで戴いたパンフレットに掲載された言葉ですが、極めて謙虚な言葉です。確かに、楼閣を描いた土器が出ただけで、その様な楼閣が有ったことの確証が得られた訳ではありません。しかし、弥生人が想像だけで描けるものではないと思いますので、そのような楼閣が有った可能性は高いと考えられています。唯、この様な渦巻状の装飾を持った楼閣が、何時頃作られたのか、絶対的な年代観は、どのように考えらているのでしょうか。

(*1)年代年輪法との併用で、例えば、年代の解明された材木の炭素の採取、計測することに依り、特定の年代の正確な炭素14の含有量を解明することができます。

(*2)専門的な資料がたくさん発表されていると思いますが、私は、下記で知りました。
藤尾慎一郎 『弥生時代の歴史』 2015年 ㈱講談社
 (尚、藤尾慎一郎氏は、国立歴史民俗博物館副館長(当時)です。

(*3)考古学では、層位(土器等の出土した地層による年代判定)と型式(土器等の変遷に注目した年代判定)を駆使した年代判定が行われます。これらは、相対的により古いか或いはより新しいかについて、有効と考えられます。弥生時代について言えば、考古的資料と、年代を明記した史料が同じ地層から出土する訳ではないので、層位と型式だけでは、絶対年代についての確定は難しいと考えられています。

 ところで、AMS炭素14年代測定法は、海洋リザーバー効果や、ススの古木効果の疑いについて更に議論が必要な旨の主張がされています(*4)。このことは、弥生時代の開始時期等の大雑把な年代観と特定はともかく、邪馬台国の様なより詳細な年代観に影響がでるとされます。因みに、私は、AMS炭素14年代測定法が、統計学的な手法である以上、測定結果がある程度積みあがることに依り、このような議論は、自然に収斂していくと考えています。

(*4)例えば、安本美典氏『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』において、歴民博の発表したAMS炭素14年代測定法を痛烈に批判されています。

2018年05月27日

唐招提寺(奈良市)

 鑑真は、唐より苦労して日本に渡り戒律を日本に伝えた僧として有名です。754年に平城京に到着しました。鑑真のために、常設の東大寺戒壇院が建立されました。その後、759年に唐招提寺に移りました。唐招提寺にも戒壇院跡が今も残ります。

 

<画像の説明>唐招提寺  戒壇院跡

 鑑真は、多くの仏師を同行したと言われています。鑑真のもたらした木彫仏像は、当時、唐で隆盛したもので、白檀を材料とした一木造、高精細の仏像でした。また、木の木霊を重視して内刳りを行わないものでした。

 実は、日本は、高温高湿地帯で木材が充実しているにも関わらず奈良時代脱活乾漆像(*1)と塑像(*2)の時代でした。法隆寺には、飛鳥時代後期の救世観音といった木彫が残されていますが、奈良時代には少なくとも平城京とその周辺では、木彫の造仏技術は途絶えました。

 木彫一木造の技術を鑑真に同行した仏師が唐よりもたらしたため、初期の唐風木彫仏は唐招提寺に残されています。唐招提寺の木造伝薬師如来立像、木造伝衆宝王菩薩立像、木造伝獅子吼菩薩立像と現在も講堂にある持国天、増長天立像は作風に唐風が強く残されています。これらの各像はいずれもヒノキまたはカヤの一木造で、素地仕上げとし、内刳りを施さず、足下の台座蓮肉まで一木で造るなど、技法に共通点が多いと言われています。

 日本には白檀は自生しません。白檀の代りにどの様な木が白檀と同じ香りを持つか、或いは、内刳りをせずにどうやってひび割れのない木彫の仏像を作るかといったことは、当時の最先端の舶来技術だったと思いますが、その後徐々に和様化されていきました。

 木彫の技術は、下って、平安時代中期の定朝や末期から鎌倉時代初めの運慶、快慶につながっています。寄木作り、内刳、割矧といった日本のオリジナル技術が発明されました。

 鑑真は、日本での戒律の確立のために日本に招聘したとされます。戒律は、仏教僧の生活規律の事を言います。決めごとですので、日本独自で決めれば良さそうなものですが、仏教が先進地域の唐から伝わったこともあって、日本独自で戒律は確立できませんでした。多くの人を納得させるために、唐からその権威を招聘する必要があったということだろうと考えられます。

 

<画像の説明>唐招提寺講堂

 ところで、唐招提寺の講堂は、平安京に遷都した後の平城京の東朝集殿(朝廷に仕える官僚が利用した会議場)の木材が使われています。鎌倉時代に大幅に改造されたと言われますが、今となっては貴重な平城京の遺跡です。

  ➡平城京についてはこちらをご覧ください。

(*1)脱活乾漆像は、木芯に漆を染み込ませた布の形を整えながら多層に張り付けてゆき、固まった後、中の木芯を抜いたもの(脱活)です。張り子の虎のようなものです。奈良が何度も戦乱にあったにもかかわらず、軽く堅牢な脱活乾漆像は、戦いが始まる前に、比較的容易に疎開させることができたことで、現在に多くが残ります。

(*2)塑像は、木芯に粘土を貼り付けたものです。脱活乾漆像に比べて納期もかからず、安価です。塑像は焼結されません。それは、当時焼結のための大きな窯が作れなかったためだそうです。そのため、経年変化には極めて弱いもので、常にメンテナンスを必要としました。


2018年05月13日

清浄光寺(藤沢市)、無量光寺(相模原市)一遍上人像

 浄土教は、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く教えです。平安時代中期には、浄土信仰に基づく造寺や造像がなされました。臨終に来迎を待つ風潮もこの時代に広まりました。空也(*1)や源信(*2)などの活躍により、一般民衆にも浄土信仰が広まりました。

 時宗(じしゅう)は、鎌倉時代に興った浄土教の一宗派です。開祖は一遍ですが、一遍には新たな宗派を立宗しようという意図はなく、一生を遊行に費やしました。一遍亡き後、彼が率いた時衆は自然消滅しました。それを再結成したのは、有力な門弟の他阿(たあ)です。他阿はバラバラであった時衆を再統制し、遊行を再開しました。

 1304年遊行を3世他阿に譲り、自らは相模国に草庵を建立して定住しました。この草庵が、後に当麻道場金光院無量光寺(*3)となりました。その後、4代目を巡って当麻道場無量光寺と藤沢道場清浄光院(のち清浄光寺(しょうじょうこうじ))に分裂しました。やがて藤沢道場が優勢となりました。清浄光寺は、近世になって遊行寺(ゆぎょうじ)と通称されるようになりました。

 

<画像の説明>左または下:無量光寺本堂 右または上:清浄光寺本堂


 無量光寺は、一遍上人立像が本尊です。秘仏で年1回の開帳です。相模原市博物館に模刻像(レプリカ)が飾られます。無量光寺の境内に、一遍らとならんで墓塔の宝篋印塔があるそうです(*4)。清浄光寺の本尊は、阿弥陀如来です。現在改修中の本尊に代わって、写真撮影した画像が飾られます。

 

<画像の説明>一遍上人像(相模原博物館蔵) 無量光寺本尊一遍上人像模刻

<画像の説明>清浄光寺本尊阿弥陀如来坐像(写真) 本尊は、改修中です。

 

(*1)空也は、平安時代中期の僧。阿弥陀聖(あみだひじり)と称されます。口称念仏の祖、民間における浄土教の先駆者と評価されます。融通念仏や一遍にも多大な影響を与えたと言われます。融通念仏については、過去にも鞍馬寺の項で扱いました。

  ➡鞍馬寺へのジャンプはこちらから

(*2)源信は、平安時代中期、藤原道長の時代の人です。恵心僧都(えしんそうず)と尊称されます。浄土教の祖とされ浄土宗を興した法然やその弟子の親鸞に影響を与えました。

(*3)無量光寺の寺伝に依れば、1261年一遍により草庵が設けられたのが始まりとされます。

(*4)無量光寺には、案内板もなく、確認できませんでした。

2018年04月29日

正福寺地蔵堂(東京都東村山市)

 正福寺は、北条時宗が1278年に開いたと伝えられる臨済宗の寺です。

 正福寺地蔵堂は、昭和9年改修の際発見された墨書銘により、室町時代の1407年の建立とわかりました。それでも、年代が明らかな関東禅宗仏殿の最古例です(*1)。東京都内で、唯一の国宝建築物になっています。

 


<画像の説明>正福寺地蔵堂

 

 正福寺地蔵堂の特徴を列挙しますと、桁行3間四方、裳階付、入母屋作り、杮葺き(こけらぶき)、裳階銅板葺きとなります。添付の画像を見て戴くとお解り戴けると思いますが、屋根は、強い軒反りを持ちます。また、禅宗様の特徴の詰組(斗栱を柱間にも配置する)、弓連子(或いは波連子)の連子窓や上部が花頭曲線の花頭窓を持ちます。

 

<画像の説明>画像左または下:正福寺地蔵堂 詰組(柱間の斗供に注目してください)
       画像右または上:正福寺地蔵堂 花頭窓と連子窓

 直接見ることはできませんが、現地の説明書きによりますと、内部は土間床、鏡天井となっています。禅宗様として多い四半敷(床石を45度傾けて敷く)の石畳では無いようです。鏡天井は、文字通り天井板を鏡の様に平面に並べたシンプルな天井ですが、禅宗様に多いタイプです。

 尚、円覚寺舎利殿は、13世紀に建てられましたが、1563年の大火で焼失し、現在のものは鎌倉尼五山の一つ大平寺の仏殿を移築したものです。正福寺地蔵堂に似ていることから、同時代に建立されたものとされます。禅宗様建築の代表的遺構として、大変ポピュラーです(*2)。
 正福寺地蔵堂は、知名度という点で残念ながら円覚寺舎利殿には及びませんが、文化財的な意義という点で、円覚寺舎利殿に勝ります。

(*1)鎌倉の覚園寺に現存する薬師堂は、典型的な禅宗様の建築物です。1354年、足利尊氏により再建されました。現存する薬師堂は足利尊氏再興時の部材を残しています(足利尊氏の自筆の銘が天井板に残ります)が、江戸時代に改築に近い大修理を受けています。

(*2)私の高校時代の日本史の教科書には鎌倉時代の典型的な仏閣として掲載されていました。

2018年04月15日

浄真寺九品仏(東京都世田谷区)

 九品仏浄真寺は、九品仏駅を出ますと左手にすぐに参道があります。九品仏駅は、東急大井町線のれっきとした駅です。世田谷区の街中で広大な寺域を維持するのは、大変なお手数と存じます。

 九品仏は、『観無量寿経』でいうところの上品・中品・下品という3つの階位の一つずつの品を更に上生・中生・下生と三つに分けて9階位の事です。
 上品上生は、最も素晴らしい功徳をもって往生を願う人を西方浄土に導きます。上品上生では、阿弥陀仏と脇侍の観音・勢至そして多くの浄土の住人が迎えに来ます。徐々に階位が下がって、最下位の下品下生は、悪行を重ねたが、阿弥陀如来の教えを受け、南無阿弥陀仏を唱えて往生を願いたいと希望している人に対応します。ここでは、浄土からのお迎えは貧素で、自分で努力しないといけません。
 落語風に言えば、上品上生では、浄土からハイヤーでお迎えが来ます。下品下生では、トボトボ歩いて浄土に向かうといったところでしょうか。

 当麻寺はこのHPでは過去に何度か扱いましたが、当麻寺曼荼羅には九品仏が表現されています。今私たちは直接現物を見ることはできません。本物の写しの更にレプリカの10分の一印刷物(当麻寺で購入)が手元にありますので、九品の部分のみ掲載させて戴きます。上の説明から、上品上生~下品下生の意味合いを理解いただけるのではないでしょうか。

 

 

<画像の説明>上図右端 上品上生 下図左端下品下生

 さて、浄真寺の九品仏ですが、九品を手の位置と印(指の形)で表します。九品仏は坐像で、像高は、すべて2.8m(所謂丈六)です。徳によるすべての階位を、(その容易さは様々ですが)一様に浄土に導て戴けると理解すれば良いと思いますが、如何でしょうか。ここで大事なのは、九体すべてが同じ大きさだということです。どのような階位の人でも、等しく極楽に到達することができるからです(*1)。

 

<画像の説明>浄真寺上品堂 阿弥陀如来坐像

 

<画像の説明>浄真寺中品堂 阿弥陀如来坐像

 

<画像の説明>浄真寺下品堂

 当寺の阿弥陀様は、彼方(かなた)の西方浄土にいらっしゃいますので、東面されています。一方、此方(こなた)には本堂があります。本堂と阿弥陀堂の間には池があり、東方の本堂から西方の阿弥陀様に迎えられるという『観無量寿経』の基本的な形を東京23区内で見ることができます(*2)。

 今、九品仏は、修理改修中です。1体ずつ実施されていますので、9体すべての修理改修が完了するのは、2024年だそうです。写真の通り(2018年1月段階では、中品上生が修理中)、当分一体欠けた状態が続くようです。

(*1)浄瑠璃寺(京都府木津川市)の九体仏は、平安時代の文化財(国宝)です。中尊は下品上生(浄真寺の解釈に依ります)、脇尊は上品上生の二品のみであり、像高は中尊(像高221㎝)と脇尊(像高140㎝) と大きさが違います。浄瑠璃寺は、九体仏ですが、九品仏ではないと解釈されます。

(*2)九品仏は、新潟県村上市、熊本県熊本市はじめ数か所に残るそうです。

2018年04月01日

葛井寺 千手観音坐像(大阪府藤井寺市)*東博特別展より

 東京国立博物館で開催された「仁和寺と御室派のみほとけ展」では、葛井寺の千手観音菩薩坐像が展示されました。この仏様は、通常秘仏で、また、葛井寺が東京からは思いのほか不便な場所なので、なかなか実物を見る機会に恵まれませんでした。今回どうしても拝ませて戴きたかったのは、この千手観音像が、本当に千手持つからです。(自分で数えた訳ではありません)。

 通常千手観音は、40本で千手を表します。1本の手で25本分を表しますので、40本×25本=1000手という訳です。千手とは別に、前の2手を持ちます。千手観音は、通常1手に1眼が書かれていますので、千手千眼観音と言われることもあります。

 

<画像の説明>葛井寺千手観音坐像(東京国立博物館屋外のポスターより)

 実際に千手を持つ千手観音は、葛井寺以外には、唐招提寺(*1)、寿宝寺(*2)都合3体が有名です。国内で国宝・重文クラスはこの3体のみです。また、下記は、中国重慶大足宝頂山の千手千眼観音像です。実際に千手あるそうです。また、手に描かれた「眼」も肉眼で確認可能です。

 

<画像の説明>中国重慶市大足宝頂山の千手千眼観音坐像

 葛井寺の千手観音像は、像高約145cmの坐像。脱活乾漆像、国宝です。東博の説明書きによると、大手38本、小手1001本、計1039本の手を持っているとのことです。手に描かれた眼は、一眼鏡を使用してもなかなか見ることはできませんでした。墨で書かれたのなら、薄くなって、殆ど認識できないのかもしれません。
 千手を仏像の本体でどのように支えているのか、不思議に思っていましたが、今回は、仏像の後にも回ることができたため、納得できました。千手は直接仏像本体につながっているのではありません。本体の背中側に木製のアダプタがあり、アダプタに手が接続されていました。もちろん前面から撮った写真では、アダプタは見えません。250本が1ユニットになっているそうです。メンテナンスや移動のためにもユニット化は有効です。

(*1)唐招提寺千手観音観音像は、像高約536cmの巨像。奈良時代末期の作。木心乾漆像。現在では大手42本、小手911本、計953本の手を持っています。当初は、きっちり1000本あったものとされています。

(*2)寿宝寺(京都)重要文化財。平安時代 一木造り。身体の正面に合掌の手2本、定印の手2本、錫杖を持つ手2本、計6本の手があり、更に身体の周りを円状に囲むように持物を持つ大手が20本、その他小手を合わせて、1000本あるとされます。

2018年03月18日

タール寺(青海省西寧)

 タール寺(塔爾寺(*1))は、青海省西寧市に位置します。西寧には多くの日本人が旅しますが、皆さん青海湖(*2)に行かれます。タール寺は、立派なチベット密教の寺院ですが、日本人には、あまり人気がありません。

 中国におけるチベット密教の本拠地は、チベットのラサです。チベット密教について紹介したいのなら、有名なラサのポタラ宮を紹介したいのですが、私は行くチャンスがありませんでした。チベット自治区全土が、現状においても、外務省の危険情報でレベル1(十分注意、危険を避けるためには、滞在には特別な注意が必要)となっています。中国共産党とダライラマ14世の関係を考えますと、簡単では無いです。そのようなこともあって、今回は青海省西寧のタール寺を取り上げました。

 チベット密教は、8世紀から10世紀頃にかけてインドで展開した仏教の1派で、密教の生まれたインドから直接チベットに伝えられました。日本では、チベット密教というよりラマ教という方がポピュラーかもしれません。空海が日本にもたらした真言密教と同根です。

 

<画像の説明>タール寺 入口付近

 チベットは、8世紀頃は、吐蕃と呼ばれ、勢力は盛んでした。吐蕃によって、四川は、何度も蹂躙されましたし、一時期唐の都長安までが占領されたこともありました。また、敦煌をはじめ、河西回廊を勢力下に納めていました。

 唐と吐蕃の抗争については、本編でも取り上げました。「不空と空海の毘沙門天」をご覧ください。
  ➡http://bishamonten.info/custom2.html

 

<画像の説明>タール寺 本殿。

 チベット密教は、中国本土にも影響を及ぼしました。元時代には、サチャ派のパクパは、クビライの信任を得て、中国全土の仏教の統率者としての地位を公認されまた。元時代は、チベット密教の最盛期でした。

 タール寺は、西寧郊外にあるチベット寺院です。チベット仏教ゲルク派(黄帽派)の寺院です。ゲルク派の開祖ツォンカパの生誕地としても知られています。青海省におけるチベット密教の主要拠点のひとつです。

 掲載したタール寺の写真は、同行したA氏の撮影です。いつもご協力をありがとうございます。

 チベット仏教の多くの寺院は、チベット動乱(1956年~1959年)から文化大革命(1966年~1976年)の間に破壊されました。タンカ(*3)等の多くの文化財は破壊されました。

 チベット動乱により、ダライラマ十四世をはじめ各宗派の指導部の大半が、インドに逃れました。そして、宗教を許容しない文化大革命によって止めを刺されました。例えば、カギュー派総本山ツルプ寺は、多量の寺宝を携えてブータンに向いましたが、携帯できず、後に残された美術品は、文化大革命中にダイナマイトで爆破されてしまいました。

 タール寺は、チベットとは異なり、中国国境まで遠く離れており、僧侶を始めとした指導部は海外に逃れることはできませんでした。また、西寧地方は、漢族の住居地域に隣接した地域であり、元来、寺院としての権力が政治的に小さかったため、巧妙に立ち回れた結果だったと言われています。

 現在、中国共産党が、ダライラマ14世率いるチベット密教を圧迫する中で、決してすべての宗教を弾圧しているのではないことを示すため、タール寺をあえて保存・保護していると聞きました。政治色が見え隠れするためか、お寺自体は、信仰の場という点では、ぎこちなさを感じてしまいます。それが、日本人には、あまり人気が無い要因ではないかと考えました。

(*1)塔爾寺(塔尔寺)は、中国での呼び名です。中国の発音は、taersiです。
(*2)青海湖については、下記にて取り上げたことがあります。
     ➡青海湖の問題のある風景
(*3)掛け軸上の仏画。

2018年03月11日

金沢文庫博物館(神奈川県横浜市) *運慶展より

 2017年秋には東京国立博物館でそして2018年には金沢文庫で相次いで運慶展が開催されました。場所柄もあると思いますが、運慶の東国での活躍に焦点が当てられていました。
 運慶の作品と言えば、東大寺南大門の金剛力士像や興福寺北円堂の無著・世親像などが有名で、高校の日本史の教科書にも掲載されていたと思います。運慶の作品は、如来、菩薩、明王、天そして無著・世親といった肖像彫刻まで、多岐にわたります。そのすべてに優れた作品を残しています。

 金沢文庫博物館の今回の特別展では、東国の作品が重視されています。このことは、特別展示のポスターにも表れています。

 

<画像の説明>画像左または下:滝山寺梵天立像 金沢文庫博物館に掲げられたポスターより
       画像右または上:願成就院毘沙門天立像 東京国立博物館に掲げられたポスターより
         (いずれも、ポスターの一部を省略させて戴きました。)

 運慶の作品は、今31体が残ります(*1)が、そのうち、およそ半分が東国に残ります。運慶の東国での最初の作品は、1186年の願成就院の諸像であり、最晩年の作品は、称名寺塔頭の明王院の大威徳明王です。この作品は、1216年、運慶66歳頃の作品とされています。

 願成就院は、源頼朝の岳父北条時政が、建立した寺院です。運慶は、願成就院で、阿弥陀如来坐像、不動明王および二童子立像、毘沙門天立像を造像しました。運慶36歳の頃の作品です。


   ➡願成就院の紹介へジャンプします。
   ➡願成就院 *東京国立博物館運慶展よりへジャンプ

 

<画像の説明>画像左または下:
         金剛峰寺制多伽童子像
  東京国立博物館の公式サイト運慶学園より
  運慶学園には、下記より入ることができます。
  リンクは張っていませんので、コピーしてお使い  ください。http://unkei2017.jp/gakuen
  (期間限定です。)
  画像右または上:明王院大威徳明王像
  金沢文庫博物館で購入した絵葉書をスキャン
  させて戴きました。

 

 運慶が、願成就院の諸仏を自らが下向した鎌倉近郊で作ったか、本拠地の奈良で作り東国に運んだのか、定かでは無い様です。しかし、運慶が、制作の過程で東国風の勇ましい武士の姿を毘沙門天のイメージにオーバーラップしていきました。東国において、日々鎌倉武士に接しながら造像していった結果と、私は信じたいです。

 運慶は、東国での作品に、鎌倉武士に抱く自らのイメージを重ねました。厚い胸、丸い顔、そして、腰高で躍動感にあふれています。特に願成就院の毘沙門天立像は、北条時政が望んだ東国武士好みの戦う仏像のイメージです。願成就院の毘沙門天を契機として、東国には、慶派の様式が広まりました。

 ところで、運慶はなぜ東国に下向したのでしょうか。それは、仏師間の勢力争いとも深く関係しています。
 康尚、定朝親子は、藤原道長から頼通の時代に活躍した仏師ですが、始めて寺院から独立した仏像工房を開きました。そして、以降の日本では主流になる寄木作りや割矧ぎ作りを確立しました。定朝は、仏師として初めての僧綱位(*2)法眼に叙されました。

 定朝以降仏師は、定朝の正嫡覚助の印派、定朝の弟子長勢の円派に分かれました。印派は、定朝以来の藤原氏の仕事を多く請け負いました。円派は、新興の院の仕事を請け負いましたが、院が勢力を増すに従って、大発展をしました。又、院派の傍流には、京都では良い仕事に恵まれず、奈良に拠点を定めた一派があり、奈良仏師と呼ばれました。

 奈良仏師の更に傍流からは、運慶の父康慶が出ました。康慶は、長く興福寺の造仏に携わり、徐々に実績を上げていきましたが、新たな活躍の場を東国にも求めていきました(*3)。

 鎌倉幕府が権力を掌握後、鎌倉幕府要人は、院や平氏の息のかかった、院派や円派を避け、更に南都炎上以来平氏に恨みを持つ東大寺や興福寺の意向もあって、奈良仏師に秋波を送りました。その結果、奈良仏師の中で、当時主流になりつつあった康慶、運慶親子に下向の要請がかかりました。以降の鎌倉幕府と運慶の深いつながり、そして運慶の活躍は、上述した通りです。

(*1)運慶の作品は、東博の浅見龍介氏によれば、像内納入品や付属品から確認可能なものが17体、同時代の史料から確認できるものが1体、像内納入品のX線写真や作風から推定されるものが13体とのことです。異論もあります。

(*2)僧綱位は、法橋、法眼、法印と位が上がります。仏像の造像に対する褒賞と考えられます。定朝の叙位は、仏師の活動が社会的に認知された結果とも考えられます。後に、運慶は、法印に叙されました。

(*3)1185年平氏滅亡の直後に、奈良仏師の正嫡康朝の子供とされる成朝が下向しました。源頼朝が勝長寿院を建立する際に仏師として携わったとされます。成朝の作品は、伝えられていませんが、奈良仏師と鎌倉幕府のコンタクトは、成朝により始められました。。
 吾妻鑑の文治2年(1186年)3月2日の記事に成朝が鎌倉に下向している間に、成朝の大仏師の地位を狙っている人がいるので、やめさせてほしいといった訴えを源頼朝に挙げたことが書かれています。成朝が早々に奈良に戻り、以降の鎌倉下向が成朝から運慶に変わったのもこの事が関係しているのかもしれません。
 成朝という人は、以降どのような活動が有ったのは良く分かっていません。梓澤要氏の小説『荒仏師運慶』では、運慶の名声に圧されて酒におぼれていく姿が描かれています。

2018年02月25日

称名寺(神奈川県横浜市)

 称名寺の創建は鎌倉時代中期に遡ります。称名は、「阿弥陀の名を称える」の意味です。境内は国の史跡に指定され、赤門、仁王門、金堂、釈迦堂などが復元されています。10年にわたり称名寺内の庭園・苑池の発掘調査と保存整備事業が行われました。更に、「称名寺絵図並結界記」(*1)に基づいて平橋、反橋の復元と庭園の整備が行われました。

 

<画像の説明>称名寺浄土庭園

 南の仁王門から池を東西に分けて反橋、中島、平橋を渡り金堂に至る形式は、平安中期以降盛んに築造された浄土式庭園(*2)の最後の遺例として貴重です。

 称名寺の浄土式庭園は、金沢貞顕の代に完成しました。金沢貞顕は、北条貞顕ともよばれ、鎌倉幕府第15代執権となりました。祖父の北条実時が創設した「金沢文庫」を国内屈指の武家の文庫に創りあげるとともに、称名寺の伽藍や浄土式庭園の整備を行い、称名寺の最盛期を築きあげました。

 

<画像の説明>画像左または下:称名寺仁王門  画像右または上:称名寺光明院表門

 金沢貞顕は当時では一流の文化人であり、六波羅探題時代に多くの文化人と交遊がありました。鎌倉帰還後も様々な京都の文化を鎌倉で実現しました。浄土式庭園は、そのような環境の中、完成していったと考えられます。

 称名寺塔頭(*3)光明院には、かつて大威徳明王像(*4)が祀られていました。現在は、金沢文庫博物館に保存されています。この大威徳明王像は、1216年、運慶の最晩年の作品であることが、2006年修理の際に取り出された納入品(*5)から明確になりました。もとは、大日如来と愛染明王とともに三尊を構成していましたが、今はこの像のみが残されています。発願者は、源実朝の養育係だった大弐局だということも判明しました。

 

 ➡関東地方での運慶の活躍については、「願成就院」の項で以前取り上げました。
  こちらも一緒にご覧ください。

  
(*1)「称名寺絵図並結界記」は、1323年作製 称名寺蔵、重要文化財に指定されています。

(*2)浄土式庭園とは、浄土曼荼羅に基づいて配置された庭園のことで、平安時代末期に盛んにつくられました。

(*3)塔頭(たっちゅう)。子院の事。

(*4)大威徳明王は、五代明王の一尊ですが、時として、単独像としても祀られます。

(*5)像内には内刳りによって設けられた空間があり、そこに長方形の包み紙がはめ込まれていました。

    次回は、称名寺の隣り合せに位置する金沢文庫博物館の運慶展を取り上げたいと思います。

2018年02月11日

西大寺(奈良市)&極楽寺(鎌倉市)

 765年に、称徳天皇(孝謙上皇が重祚)が、金銅製の四天王像を鋳造して祀ったのが西大寺の興りです。西大寺という名前は、もちろん東大寺に対比して名付けられました。
東西11町・南北7町の広大な寺域に薬師、弥勒の金堂をはじめ多くの堂宇が建てられ、南都七大寺の一つに数えられました。
 しかし、称徳天皇がお亡くなりになり天武天皇の系統が途絶え、更に天智系の桓武天皇が平安京に遷都してしまうと、寺盛は衰え興福寺の末寺となりました。


<画像の説明>画像左または下:西大寺本堂跡 画像右または上:西大寺現本堂


 鎌倉時代半ば、荒廃した当寺を再生したのが、叡尊上人でした。叡尊上人は、戒律振興や救貧施療などの独自な宗教活動を推進しました。西大寺は叡尊上人の復興によって真言律宗(しんごんりっしゅう)という密・律の根本道場という新たな中世寺院に再生されました。

 

<画像の説明>叡尊の墓
 叡尊の墓は、現在は西大寺の寺域外、西大寺より徒歩10分くらいのところにあります。

 叡尊は、その後も弟子の忍性などの高僧を輩出するとともに、荒廃した諸国の寺院を真言律宗の道場として復活させていきました。忍性は、1267年鎌倉極楽寺等の寺院を復活させました。叡尊が十分に達成できなかった民衆への布教の拠点となり、施薬院等の施設も持ちました。清凉寺式釈迦如来立像が安置されますが、秘仏になっており通常は公開されていません。

 

<画像の説明>極楽寺(寺内は、撮影禁止です)  

2018年01月28日

高徳院鎌倉大仏(神奈川県鎌倉市)

 鎌倉高徳院の大仏は、鎌倉大仏として有名です。しかし、この様なHPで、この大仏を取り上げるのは少々難しいところがあります。それは、この仏様は、国指定の立派な大仏で、事実大変有名なのですが、なぜか、その発願者(スポンサー)はもちろん、仏師(作者或いは現場責任者)また、制作された時期も明確になっていません。
 そのため、制作の目的、時代的・歴史的背景やそのうんちくを殆ど語ることが難しいのですが、私なりに少し書かせて戴きました。

 簡単に大仏について紹介させて戴きます。高さ14.7メートルの銅像です。今回の補修工事の際に、測定したところ、重量約121トンだったとのことです。平面的な面相、低い肉髻、猫背気味の姿勢、頭部のプロポーションが大きい点など、鎌倉期に流行した「宋風」の仏像の特色を示しています。

 この大仏は、今は露座(仏殿が無い)ですが、過去仏殿がありました。近年の発掘調査では、横行約44m、奥行約42.5m、5間裳階付、瓦屋根ではなかったとのことです。今も、礎石が残ります。この礎石は、大仏と同時代に既に置かれていたことが分かっています。
 この礎石の上に建っていた大仏殿は、大仏のみが祀られ、脇侍等を祀るスペースはありません。ほぼ正方形で、にょきっと塔の様に地上から突き出た仏殿だったと思います。


<画像の説明>鎌倉大仏正面 3.5頭身くらいでしょうか。両隅の礎石にご注目ください。


<画像の説明>鎌倉大仏 猫背気味のお姿


<画像の説明>大仏殿礎石

 大仏に使われた銅は、宋銭を鋳つぶしたものということが、近年の研究で明確になりました(*3)。当時大量の宋銭が輸入され流通していました。庶民の経済的余裕と実力によって、この大仏が作られました。このことが、公的な記録に発願者が記載されていないことの傍証となると思います(*4)。
 なぜこの場所に大仏が作られたのかの直接的な答えは出せないのですが、執権家によって建立され、主に北鎌倉に位置する鎌倉五山とは対照的です(*2)。

 ところで、鎌倉大仏は、奈良の大仏と違い、阿弥陀如来です。これは、体の前、膝上で定印(上品上生)を結ぶことでもわかります(*5)。阿弥陀如来は、一般の人々を極楽浄土に導いてくれる仏様です。戦を生業とした武士にも、自分たちの極楽往生のために阿弥陀如来が重要でしたので、この地に阿弥陀如来があっても不思議ではありません。
 ここの阿弥陀如来は、南面しています。ここでは、阿弥陀如来が極楽往生のためのみならず、毘盧遮那仏や大日如来の様に全世界を一元的に治める汎神論的な存在と考えられていたのではないでしょうか(*6)。
 この大仏について、語られることの一つが、鎌倉大仏裏側の観月堂の傍らに建てられた有名な与謝野晶子の歌碑についてです。
 「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」
与謝野晶子が、鎌倉大仏が阿弥陀如来であることを知らなかったのかは、私にはわかりませんが、少なくとも、歌の調べの点では、阿弥陀仏より釈迦牟尼がぴったりとすると思いますが、如何でしょうか。

 

(*1)この時代、京都では鞍馬寺が、1238年に全焼後1248年にほぼ再興されましたが、京都の公家は力を失い、また、鎌倉幕府は全面的な後ろ盾にはなってくれませんでした。鞍馬寺の再建は、融通念仏の大勧進によって成し遂げられました。1258年勧進の銅燈篭には、女性を交えた結縁者(庶民)の名前が残されています。鞍馬寺に関しては、以前本HPで、扱いました。

 ➡鞍馬寺に関しては、こちらをご覧ください。

 

(*2)私は、極楽寺を開山した忍性が、勧進の中心人物ではなかったかと想像しています。忍性は、布教のため、1252年に奈良西大寺より関東に下り、1267年極楽寺を開山しました。

(*3)銅に含まれる鉛の成分分析や、鉛の同位体分析により、その産地が詳細に分かるようになっています。奈良時代以降、日本でも、銅は生産されました。奈良の大仏は、山口県美祢市にあった長登銅山(ながのぼりどうざん)の銅が使われました。

(*4)鎌倉大仏は、一説に、当時の困窮した鎌倉では人身売買が行われており、その利益の宋銭が使われたとある本で読んだことがあります。庶民が寄進した宋銭が大仏の建立に使用されたと考えるのは、リーズナブルと考えますが、人身売買の利益がどのくらい含まれるのでしょうか。

(*5)この時代、阿弥陀如来は、立像は来迎印(右手を挙げ、左手を下げる)を結ぶのに対し、坐像は膝上で両手を組む定印(じょういん)を結ぶのが一般的です。

(*6)平安時代、東側から西方の阿弥陀如来を信仰することについて、過去に何度か取り上げました。これについては、下記をご覧ください。

  ➡当麻寺について

  ➡元興寺について

2018年01月21日

五百羅漢寺(神奈川県小田原市)

 五百羅漢は全国にありますが、電車の駅名になっているのは、小田急大雄山線の五百羅漢駅のみと思います。

 羅漢はお釈迦様のお弟子さんで、サンスクリットの、ahhat(アラカン)の音写です。一時期、アラカンは、‘around 還暦’の略で、60歳くらいの意味で使われましたが、アラカンをお釈迦様のお弟子さんのことと理解していた私は、その際は、歯がゆい思いをしました。尤も、鞍馬天狗のファンだった私の友人は、アラカンは、永遠のヒーローだと言っていました。

  <画像の説明>小田急線大雄山駅五百羅漢駅


 羅漢はお釈迦様のお弟子さんですので、定義としては、興福寺北円堂の有名な無著、世親も羅漢といって良いそうです。また、敦煌石窟などでは、1尊2菩薩2比丘(*1)といった表現をしますが、お釈迦様のお弟子さんは比丘と呼ばれています。比丘も羅漢と近い存在です。

 五百羅漢は、釈迦の死後、仏典編集会議に集ったお弟子さんが 500人であったことから、この言葉が生まれたとされます。確かな根拠は無いようですが、中国の禅宗が、五百羅漢崇拝の源流とされています。

 五百羅漢はじめ十六羅漢、十八羅漢等**羅漢は、中世以降仏教界に新たに現れた数少ない像容の一つです。
 東京(江戸)木彫の五百羅漢の嚆矢は、目黒の五百羅漢寺(天恩山五百羅漢寺)ではないでしょうか。当時の五百羅漢は、元禄時代に松雲元慶(しょううんげんけい)が、江戸の町を托鉢して集めた浄財をもとに、十数年の歳月をかけて彫りあげたものです。松雲元慶は、京都黄檗宗万福寺の僧、仏師から僧に転身した人で、大分耶馬渓の石仏五百羅漢に触発されて、江戸に五百羅漢を祀ることを決心したそうです。十数年間の苦労の末、1710年に完成させました。

 

<画像の説明>小田原の五百羅漢寺


 小田原の五百羅漢寺は、正式には天桂山玉宝寺と呼ばれて、曹洞宗香雲寺(秦野市)の末寺です。小田原市教育委員会発行の『小田原の文化財』を要約しますと、
 この羅漢像は、享保15年(1730)村内の添田氏が出家し、智鉄と号して広く篤信者から浄財の寄進を求め、五百羅漢像の造立を発願したことに始まります。そして、7年間に170体を造立しましたが、志を果たせず病没してしまいました。そこで、智鉄の弟が出家し、真澄と号し、兄の意思を継いで、28年間の歳月をかけて、宝暦7年(1757)に五百羅漢像を完成させました。像高24cmから60cmの羅漢像526体が祀られます。
 根拠はありませんが、添田氏がこの事業を始めるにあたっては、目黒の五百羅漢の実際に拝して、その壮観さに触発されたのではないでしょうか。
 小田原の五百羅漢寺は、目黒に比べて一体一体は小さいですが、ひとつずつは、表情が違い、笑顔、談合、阿鼻叫喚が表せられています。本堂内に所狭しに並列する様は、釈迦の説法を聞く羅漢の姿です。ひび割れが出ていないので、内刳りが十分なされているのだと思います。小田原で活躍した地域密着型の仏師の存在が彷彿されます。

(*1)サンスクリット語で bhikṣuの音写。修行僧の事を言います。

 

<画像の説明>画像左または下:成田不動尊釈迦堂羽目板五百羅漢
       画像右または上:目黒大圓寺の石像五百羅漢
 なお、五百羅漢(目黒)は、撮影禁止で、掲載できません。

2018年01月14日

龍門石窟(河南省洛陽)

 龍門石窟は、大同の雲崗石窟、敦煌の莫高窟とともに中国の三大石窟の一つに数えられます。北魏孝文帝が、都を大同から洛陽に遷都後、龍門石窟の開窟が本格化しましたが、北魏時代に完成した窟はそれほど無く、その多くは、唐時代に入ってから完成しました。

<画像の説明>龍門石窟奉先寺洞 中央は毘沙門天


龍門石窟の特徴は、雲岡石窟と比べてその硬さにあります。開窟に時間がかかったのは、堅い岩石を彫る技術的問題が大きかったと考えられます。今私たちが普通に見ることができる奉先寺洞も唐高宗の発願になるもので、675年に完成しました。

2018年01月07日

平城京跡(奈良県奈良市)

 平城京跡は、奈良平城京の大内裏等遺跡の跡地の整備そして建造物の復元を進めている特別史跡です。1998年に、遺跡としては日本で初めて、世界遺産に登録されました。
大極殿(第一次)・朱雀門・東院庭園地区の復元等が完了しています。これらの費用は、全額国費で賄われています。

 

<画像の説明>画像左または下:平城京朱雀門 画像右または上:平城京大極殿

 遺跡は、建物の規模や概略の形式を特定することができますが、復元するうえで詳細にはわからないことが多いそうです。例えば、朱雀門の鴟尾が、果たしていつごろから有ったのかは、意見が分かれるそうです。

 

<画像の説明>画像左または下:平城京朱雀門の鴟尾 画像右または上:平城京朱雀門の軒下

 奈良時代、平城京に都が定められていましたが、恭仁京(*1)、難波京、紫香楽京と奠都(てんと)されました。建物の外観を決めるうえで、その都度解体され、そして再建されたことが複雑化の理由の一つです。

平城京跡には、当時の建造物は一切残されていませんが、唐招提寺講堂は、平城京東朝集殿を移築したものです。鎌倉時代に切妻屋根を入母屋に改築されていますが、平城宮唯一の建築遺構として貴重です。

<画像の説明>画像左または下:唐招提寺講堂 画像右または上:平城京跡の近鉄奈良線

今、敷地内を近鉄奈良線が走っています。2017年に移設に関して、奈良市、奈良県と近鉄の間で協定が結ばれました。近鉄は、文化財の保存に多く貢献をされている実績があります(*2)。沿線には、文化財がたくさんあり、費用面からは大変と思いますが、ぜひ頑張ってほしいと思います。

(*1)恭仁京の発掘調査も、京都府教育委員会により現在も進められ、多くの成果が上がっています。
(*2)例えば、奈良市学園前の大和文華館は、1960年、近鉄の創立50周年を記念して開館しました。

2018年01月07日

成田不動尊(千葉県成田市)*関東三大不動尊の一つとして

 関東三大不動尊の最後は、成田不動尊です。成田不動尊は、正式には、成田山新勝寺と呼ばれています。三大不動尊のその他は大山不動尊と高幡不動尊(*1)です。

 JR成田、或いは京成成田を下車してから、参道を10分一寸歩いて成田不動尊に到着できます。初詣では、日本最高の参詣者を集める寺院です(*2)。

 成田不動尊の参道は、なぜか直前で大きくカーブして、坂を下り改めてお寺を眺め上げることになります(*3)。正面の総門をくぐると重要文化財の仁王門が見え、更に大本堂に至る高い階段を仰ぎ見ることができます。

 仁王門は、金剛力士像が見えますが、この仁王門の裏側には、広目天と毘沙門天(多聞天)が祀られます。私は毘沙門天が好きなので、これはラッキーです。

 

<画像の説明>画像左または下:成田不動尊多聞天立像 画像右または上:成田不動尊釈迦堂

 ➡毘沙門天と多聞天の語源等についての説明はこちらをご覧ください。

 石段を上がりきると、正面に大本堂が見えます。また、大本堂に向かって、右には、三重塔、左には釈迦堂があります。ところで、大本堂は、現在の本堂ですが、釈迦堂はその一世代前の本堂です。更に言えば、大本堂の後方に控える光明堂は、釈迦堂のその前の本堂です。更に釈迦堂の前の本堂は、現在は薬師堂と呼ばれています。
 成田不動尊では、現在の本堂とは別に、その前の本堂、前の前の本堂、前の前の前の本堂が現在も残っており、丁重に祀られています。

 

<画像の説明>画像左または下:成田不動尊三重塔 画像右または下:成田不動尊光明堂
(成田不動尊は参拝者が多く、何度か人の途切れるタイミングを狙いましたが、実現していません。)

 成田不動尊には、仁王門、釈迦堂、光明堂、額堂そして三重塔の都合五軒の重要文化財があります。また、これらの建造物には、すべからく木彫の宝庫です。例えば、釈迦堂には、五百羅漢(*4)の羽目板が残ります。三重塔の連子窓の部分には、十六羅漢(*4)、軒下の斗供や垂木にはすばらしい木彫が彫り込まれています。

 

<画像の説明>成田不動尊三重塔軒下の彫刻と模様

 

<画像の説明>画像右または下:成田不動尊釈迦堂五百羅漢
       画像左または上:成田不動尊五重塔十六羅漢

 江戸時代の重要文化財の建築と木彫がこれほどきちんと残っているところは珍しいと思いますし、他の有名寺院にはない充実ぶりです。これらの建造物の相乗効果で、その荘厳さを発露していますし、過去の本堂が4代前まで残ることが、寺院としての継続性を知らしめます。
 特に、明治時代の廃仏毀釈を乗り切ったことは、お寺の関係者が、自身の生命を顧みずにお寺を守られた結果だろうと思います。

(*1)それぞれのリンク先はこちらです。
 ➡大山不動尊へのリンク
 ➡高幡不動尊へのリンク

(*2)神社を含めると日本一は明治神宮だそうです。

(*3)このことは、NHKブラタモリで取り上げられたことがありました。やはり、下の方から、石段を改めて上がる方がありがたく感じるということでしょうか。

(*4)羅漢は、釈迦のお弟子さんの事です。五百羅漢はじめ十六羅漢、十八羅漢等、**羅漢は、江戸時代に新たに表れた像容の一つです。江戸時代の木彫、特に五百羅漢については、別途取り上げたいと考えています。

2017年12月24日

高幡不動尊(東京都日野市) *関東三大不動尊の一つとして

 高幡不動尊は、正式には高幡山金剛寺と言います。京王線或いは多摩モノレール高幡不動駅より徒歩5分、両側にお土産屋さんやお蕎麦屋さんの並ぶ参道を過ぎた、突き当たりに仁王門があります。

 仁王門は、総門から大日堂に至る現在の寺のメインストリートからは外れて建てられており、現在本殿として使われている不動堂と相対しています。(実際には、不動堂に対して左に少しふれています)。どういう経緯でこのような伽藍配置になったかは、良く分かっていませんが、創建以来、何度か戦乱に巻き込まれたことと関係あると考えられます。大日堂と仁王門は、重要文化財です。

 

 

 

 

 

<画像の説明>画像左または下:高幡不動不動堂  画像右または上:高幡不動五重塔

 

 当寺の不動明王坐像は、丈六(*1)、脇侍の矜羯羅童子(こんがらどうじ)、制托迦童子(せいたかどうじ)は、半丈六、3体とも重要文化財です。丈六の不動明王は、大変珍しく、不動明王としては、国内でも最大の大きさです。(*2)

 巻き髪で弁髪をたらし、目は怒り目、口は牙をむき出しにしています。像の大きさと相まって像がもたらす迫力は十分です。いずれにしても、関東三大毘沙門天の一つであることは、疑いようはありません。

 

<画像の説明>画像左または下:高幡不動仁王門 画像右または上:高幡不動大日堂


 不動明王坐像は、本堂(不動堂)の裏手の奥殿に祀られています。入場料を払えばすぐ近くから直接拝観することができますが、撮影禁止です。

 関東三大不動尊については、こちらをご覧ください。
  ➡大山寺にリンクします。

(*1)丈六は1丈6尺のことです。唐尺では1尺は30.3cm、1丈は3.03m、1丈6尺は、約4.8mとなります。丈六仏は、立像(りゅうぞう)の場合、4.8m、坐像の場合は、半分の2.4mの像を言います。丈6より大きいのを一般には大仏と呼ばれます。
 なお、周尺では、1尺は22cm、丈六は352cmとなります。そのため、この大きさのものを、丈六仏とよぶこともあります。

(*2)当寺の説明資料によると、丈六の不動明王(重要文化財)は、他に4例あるとされます。

2017年12月17日

大山寺(神奈川県伊勢原市)*関東三大不動尊の一つとして

 関東三大不動尊の一つは、成田不動尊、そうして、高幡不動尊ということは、衆目一致するところの様です。ただ最後の一つには、いろんな意見がある様です。東武伊勢崎線加須駅総願寺や、つくばみらい市不動院という人もいらっしゃい、まちまちです。しかし、最後の一つとして、伊勢原の大山不動尊を挙げる意見が有り、私はその意見に従いたいと思います。決まったルールがないようですので、お許しください。

 

<画像の説明>画像左または下:高幡不動五重塔 画像右または上:成田山新勝寺三重塔

 江戸中期以降、豊作や商売繁盛などの祈念のため、そして庶民の娯楽のため、「大山詣で」が盛んになり、関東各地に「大山講」が組織されました。大山寺は関東での修験道の中心地でしたが、それらの修験者が御師(おし)として参詣に向かう人々の先導役を務めました。大山の周辺は、参詣者向けの宿坊が軒を連ね、門前町として栄えました。

 明治維新後、神仏分離が強制され、阿夫利神社と大山寺は分離されました。今、ケーブルカーに乗ると、最初の駅が大山寺、終点で降りると阿夫利神社に行くことができます。徒歩でも、バスの終点から、参道を15分でケーブルカー駅、そこから、急ですが、山道を約20分で大山寺に着くことができます。


<画像の説明>画像左または下:阿夫利神社本殿 画像右または上:大山寺本堂


 大山寺のご本尊は、鉄造不動明王坐像です。日本では鉄造の仏像は、鎌倉時代、関東地方を中心に制作されています。鉄は銅に比べて衣文などの細部の鋳造が難しく(*)、鋳造後の表面の仕上げも困難なため、作品自体少ないです。しかし、仏像のスポンサーとなった鎌倉武士には、当時最も堅い金属だった鉄に対する信仰や、鉄仏のもつ荒々しさが、鎌倉武士の好みと重なり、鎌倉時代の関東地方では、鉄像の仏像が好まれたと考えられています。

 優れた作品は多く有りませんが、大山寺の不動明王坐像は、鎌倉時代の鉄仏のなかでは、秀作の1つに数えられるものです。黒光りする本体と玉眼が対象的に映え、お顔の表情もそうですが、迫力は申し分ありません。
 不動明王坐像および左右の二童子像は、いずれも、像高は1m弱ですが、二童子像は立像です。不動明王像に比べ、二童子像は鋳型のずれが見られるなど、やや技法的に難が見られます。不動明王坐像の重量は、約480㎏とされます。
 鉄造不動明王坐像は、重要文化財となっており、本堂裏の防火扉のついた建造物に安置されています。毎月8・18・28日に御開帳されていますが、撮影禁止で、画像は掲載できません。

 

<画像の説明>画像左または下:本堂前の急峻な階段 画像右または上:本堂の彫刻

(*)日本には、溶鋼にコークスを使用する技術は育たず、木材や木炭が使われました。そのため、鉄の鋳造には温度が足りず、造仏は銅が主材料となりました。また、鉄は、日本刀の制作等主に鍛造に使われました。

 次回は、関東三大不動尊のうちから、高幡不動尊を取り上げたいと思います。

2017年12月08日

石山寺(滋賀県大津市)

 紫式部が源氏物語の構想を得た寺院として知られます。また、蜻蛉日記の作者や更級日記の作者が参籠したことが日記の中に記載されています。平安文学を語る上では、最も重要な寺院の一つです。もちろん、平安時代には既に有名な寺院でした。

 石山寺で最も有名な建造物は多宝塔です。
 多宝塔は、三重塔、五重塔とは、ルーツがちょっと違います。三重塔、五重塔が、楼閣の上に相隣をのせた多層式建造物なのに対して、多宝塔は、インドのスツーパ(*1)の原型に近く、スツーパに相当する漆喰が1階の屋根上に露出しています。仏堂と相輪を一つにつないだ二重の塔ですが、二重の塔とは言いません。

 当寺の多宝塔は、三間、檜皮葺、鎌倉時代1194年源頼朝が創建、塔内に大日如来が安置されています。日本の現存する多宝塔では最古です(*2)。

<画像の説明>石山寺多宝塔

 屋根の軒先の張りが大きく、勾配が緩やかで、反りが良い、優美な姿です。また、漆喰部分の露出は、バランスが取れています。建物としての均斉美もそうですが、周りの景色との調和も素晴らしいと思います。

 更に私にとって外せないのは、毘沙門堂の兜跋(とばつ)毘沙門天像(*3)です。

 

<画像の説明>石山寺兜跋毘沙門天



 兜跋毘沙門天は、東寺像が、基本仏となって、12世紀には、模刻像が作られました(*4)。東寺像は、西域風の着甲ですが、以降、唐風の甲制に変化した像も多く作られました。

 石山寺の兜跋毘沙門天は、唐風を着甲しています。作成された時代については、いくつかの意見が出されていますが、唐風を着甲している点から、一連の模刻像以降の11世紀以降との意見もあります。一方、石山寺像は、宝塔を横睨みしている点で東寺像の睨みを模刻している点から、9世紀末頃ではないかとの論文も出されています。(*5)

 

<画像の説明>中国四川 大足5窟 兜跋毘沙門天とその眷属


 私は、中国四川の毘沙門天を数多く見てきましたが、例えば、大足5窟毘沙門天立像は、横睨みしています(*6)。このような毘沙門天の図像が、既に9世紀末には日本にも伝わっていた可能性は高く、私もその当時の作品と考えています。

 

<画像の説明>いずれも目は左手の宝塔を睨んでいます。
       画像左または下:大足5窟兜跋毘沙門天 画像右または上:石山寺兜跋毘沙門天

 

(*1)スツーパは、サンスクリットではstupa、卒塔婆の漢字を当てます。仏陀の骨や髪を祀るため、土饅頭に盛った建造物の事を言います。

(*2)日本最古の多宝塔は、空海が高野山頂に建立したと言われる大塔です。何度か火災、落雷による焼失と再建を繰り返し、現在は、1937年に再建されたものです。鉄筋コンクリートの上にヒノキをかぶせた仕上げになっています。

(*3)兜跋毘沙門天の紹介は、本HPのメインテーマです。紹介ページにジャンプします。

(*4)東寺像は撮影禁止です。春と秋の特別拝観の時期のみ公開されます。模刻像は、清凉寺、奈良国立博物館で拝観できますが、いずれも撮影禁止です。

(*5)詳細は、本編に掲載していますので、ご覧ください。➡掲載ページにジャンプします。

(*6)大足5窟像は、892年銘の題記が残されています。


2017年12月03日

東京三大銅像 *主に西郷隆盛像のこと

 今回は、一寸テイストを変えて銅像について書きたいと思います。
雑誌の記事やネット上では、東京三大銅像とか東京三銅像という言葉が出てきます。東京三(大)銅像は、一般的には
・西郷隆盛像(上野公園)
・大村益次郎像(靖国神社)
・楠木正成像(皇居前公園)
を指すようですが、誰が決めたのか、どういう基準で決めたのか、また、他の選択があるのかもしれませんが、私は知りません。
 各像の状況を簡単にご紹介させて戴きます。
 西郷隆盛像は、上野恩賜公園の一角、南東を向いて立ちます。東京の街並みを見下ろす形で建てられています。大村益次郎像は、北東、九段下方面に向かって立ちます。皇居の周りを周回するように通る靖国通りに沿って立ちます。楠木正成像は、皇居の南に西向きに立ちます。この像は、騎馬姿になっており、本人の顔は俯き加減です。

 

<画像の説明>画像左または下:楠木正成像 画像右または上:大村益次郎像

 この3像のうち、ストーリー性があり、最も有名なのが西郷隆盛像です。西南戦争を起こして、国に対して反乱を起こした国賊として切腹した人が、なぜ、首都東京を見渡す場所に建てられているのか、なぜ軍人だった西郷隆盛が、軍服姿では無く、くだけた普段着姿なのか、また、これも有名な話ですが、除幕式の際糸子夫人が、「うちの主人は、こげんなお人ではなかった」と叫んだというエピソードが伝えられていますが、この銅像は、本当に西郷隆盛に似ているのか、といった話題もあります。


<画像の説明>画像左または下:西郷隆盛像 画像右または上:西郷隆盛像顔のアップ


 西郷隆盛像は、海軍大将、海軍大臣だった、樺山資紀が、建設委員長を務め、明治26年着工、同31年に除幕式が行われました。除幕式の参加は、山形有朋、勝海舟、大山巌、東郷平八郎等そうそうたるメンバーで、西郷隆盛の弟西郷従道の令嬢によって幕が引かれました。この際、上で書いた通り、西郷隆盛の糸子未亡人が、「うちの主人は、こげんなお人ではなかった」と叫んだ話が伝えられています。

 西郷隆盛は、生前の写真が一切伝えらえておらず(*)、顔が似ているかどうかは、今となっては、確かめようはありません。しかし、銅像の制作者の高村高雲は、作成に当たって、本人の弟西郷従道、従兄弟の大山巌の顔をベースにして、西郷の生前を知る人たちにもヒアリングをして像を作り上げたと伝えられており、そう銅像の顔かたちがかけ離れていたとは思えません。「こげんなお人ではなかった」は、顔ではなく、その服装だったのではないかと、私は思います。
 
 軍服ではなく、くだけた普段着姿としたのは、建設委員長の樺山資紀の意向と伝えられています。伊藤博文等は、陸軍大将の服装を主張しましたが、同じ薩摩閥の樺山資紀は、軍人でありながら、戦に敗れて切腹した西郷隆盛の軍服姿を、見るに忍びず、「西郷が平生好む山野で狩りをし、脱浴の趣」を表しました。樺山はこの姿が、西郷への慰霊になると考えたのではないでしょうか。
 冒頭に、東京の街並みを見下ろすともっともらしく書きましたが、実は、今JR上野駅前のヨドバシカメラに遮られて、見晴らしはあまり良くなくなりました。少し、残念です。大村益次郎、楠木正成像の話は、別の機会に書かせて戴きます。

(*)西郷隆盛の写った写真が、何度か発表されたことありますが、都度、別人として否定されています。西郷隆盛は、幕末隠密行動が多かったので、本人と特定される写真は、一切残さなかったとされています。

2017年11月26日

敦煌石窟57窟 素心伝心展より

 敦煌石窟は、莫高窟、楡林窟、西千仏洞の3窟を総称して言いますが、質量とも莫高窟が図抜けています。そのため、敦煌石窟というと普通は莫高窟の事を指します。 

 

名称
敦煌中心部からの位置
管理されている窟の数
石窟傍の河
莫高窟 東南 25㎞ 735窟 大泉河
楡林窟 東 170㎞ 東壁西壁合わせて42窟 楡林河
西千仏洞 西南 30㎞ 22窟 党河

 

 敦煌中心部の反弾琵琶のオブジェ、莫高窟入口風景、楡林窟には、下記よりご覧いただけます。

 ➡敦煌石窟関連の画像にリンク

 東京芸術大学の素心伝心展では、莫高窟57窟を再現しました。
   (尚、今回使用した画像も素心伝心展に同行のA氏の作品を使用させて戴きました。)

 

<画像の説明>敦煌莫高窟57窟 南壁 素心伝心展より

                    

<画像の説明>画像左または下:平山郁夫展のポスター
       画像右または上:敦煌莫髙窟57窟 東壁2 素心伝心展より


 故平山郁夫氏は、57窟の観音菩薩の壁画を、こよなく愛されました。平山郁夫氏は、この観音様を何度も描かれたそうで、そのことが、自身の著述にも、同行した中国人の回想録にも描かれています。そのため、平山郁夫展においても、本人の描いたイラストがそのポスターに使われました(*1)。


 57窟は、初唐期の開窟です。唐時代の華やかな作風の影響を受けています。ここで注意戴きたいのですが、敦煌の文化は、この時代、中原の影響を色濃く受けていることです。
 仏教文化は、当初、西域より中原に流れ込みましたが、唐が中国を統一したことに依り、57窟が開窟された時代は、既に、唐の影響下にありました(*2)。
 西域の仏教文化は、唐の都長安で更に昇華されて、鏡に反射するように西域に向かいましたし、一部は透過して日本に向かいました。唐の影響を大きく受けた日本の白鳳期の仏教絵画、特に法隆寺金堂の絵画との類似性を考えさせます。今回の素心伝心展で双方を同時に展示した功績は大きいと思います。

 

 ➡法隆寺金堂釈迦如来三尊像(素心伝心展)にリンク

(*1)山梨県北杜市の平山郁夫シルクロード美術館に展示されています。また、絵葉書も販売されています。
(*2)57窟の観音菩薩図と良く似た観音菩薩が、220窟東壁入り口上にあります。これは、平山郁夫シルクロード美術館で販売した57窟の絵ハガキに一時期220窟との説明書きがされたこともあったくらいこれらは良く似たタッチです。氏は、文化出版社の『敦煌』の中で、220窟の壁画のコメントとして、都長安で作成されたそれらの壁画の下図が西の敦煌へ、東の奈良へ分かれたものだろう、年代的にも記録上最も接近しているし、造形の原理が一致していると述べておられます。

2017年11月19日

法隆寺金堂釈迦三尊像 素心伝心展より

 素心伝心は、東京芸術大学で行われた、クローン文化財の特別企画展です。文化財は「保存」と「公開」の両立が求められますが、「保存」と「公開」は矛盾します。つまり、「公開」すれば、文化財に劣化のもととなる光を多く当ててしまいますし、人間の呼吸による二酸化炭素の攻勢にも晒されますので、「保存」という観点では、明らかにマイナスです。
 そのため、クローンを作り公開すれば、本物の公開時の様な制限は設ける必要は少ないし、来館者が写真を撮ることも許可し易くなります。素心伝心プロジェクトでは、3D等のデジタル技術、材料の選定、更に伝統的な作成方法を組み合せて、文化財を再生しました。内容としては、法隆寺金堂釈迦三尊像、敦煌57窟、キジル石窟航海者窟等です。
 下記の画像は、法隆寺金堂釈迦三尊像ですが、素心伝心で展示されたクローンです。本物と比べてください。本物との違いお分かりになりますか?

 尚、今回の写真は、いずれも素心伝心展に同行したHP管理人の友人A氏に撮影戴きました。

 

<画像の説明>素心伝心で展示された法隆寺金堂釈迦三尊像のクローン                   

 

 本物の画像は、掲載できませんので下記を参照ください。

 ➡法隆寺釈迦三尊像にリンク


 私が若いころは、法隆寺の建立は、教科書で、607年(*1)、世界最古の木造建築と習いました。当時、既に若草伽藍は発見されていましたが、再建説・非再建説は決着していませんでした。今は、670年に焼失した後、再建されたものであることが定説になっています。金堂の再建が何時だったか、専門家の間でも未だ決着ついていませんが、大筋では7世紀末頃の建築と考えられいますので、世界最古の木造建築であることは間違いありません。

 金堂の内陣には中央に釈迦三尊像、東側には東方瑠璃光浄土の教主薬師如来像、西側には西方極楽浄土の教主の阿弥陀三尊像の通常の寺院では、一体のみでも本尊とされる3組の本尊が一堂に安置されています。釈迦如来三尊像は、7世紀の中頃の造像と考えられていますが、火災にあった痕跡が見当たらないことから、法隆寺再建までは、別の寺院に祀られていたと考えられています。

 

<画像の説明>法隆寺6号壁阿弥陀三尊のクローン



 釈迦三尊像は、現状では、脇侍の両腕から体側に垂れる天衣が、釈迦如来に近い方が長く、遠い方が短くなっています(*2)。釈迦如来の陰に隠れる天衣を長く作るのは不自然、実際光背と像の取付け穴が上手く合わないため、左右逆に安置したことが先行研究で明確になっています。そのため、本展示会では、左右の脇侍が元の姿に戻されています。これが、上記の質問に対する答えです。

(*1)‘群れなす(607)民に法隆寺’と私は覚えました。

(*2)脇侍は以降の像では、左右が鏡対象になっています。法隆寺のみは、左右が同形になっていますので、確認してください。阿弥陀如来の脇侍については下記に関連する項目があります。

 ➡鶴岡八幡宮と鎌倉国宝館にリンクします

 冒頭に述べた素心伝心で展示されたクローンの文化財について、下記に関連項目があります。

 ➡法隆寺中門と金堂について


 ➡敦煌石窟について
  (敦煌57窟については、次回述べさせて戴きます。)

<画像の説明>敦煌57窟のクローン


 ➡キジル石窟について

2017年11月12日

願成就院(静岡県伊豆の国市) 運慶展より

 願成就院は以前取り上げましたが、内部の仏像が撮影禁止で十分ご紹介できませんでした。今回、東博の運慶展のポスターに願成就院の毘沙門天が採用されていましたので、改めて願成就院を取り上げました。

<画像の説明>東博運慶展のポスターより 右端:毘沙門天立像(願成就院 )
       (左端:無著菩薩立像(興福寺)中央:制多伽童子立像(金剛峰寺))
 

 当時、仏師の世界は、定朝の子に覚助,弟子に長勢がいました。定朝没後この二人を中心に仏師の世界は運営されましたが、1077年覚助は没し、一方長勢は長命だったため、長勢の一派(円派)は、以降の権力の中枢だった白河上皇の造仏には主導的地位をもって活躍しました。覚助の一派(院派)は、上皇派以外の藤原氏の造仏を行いました。覚助の一派だった頼助(奈良仏師)は、京都を離れ、興福寺を中心とした奈良の仕事を細々と請け負いました。奈良仏師のグループは、主流にはなれませんでした。
しかし、平氏が滅び、源氏が主流となって時勢が大きく変わりました。
 源氏は、院や京都の貴族と縁の強かった院派や円派をさけました。また、奈良仏師は、南都炎上を主導した平氏に対する反感から早くから源氏に秋波を送っていました(*1)。
 当時の奈良仏師の指導者だった康慶のおそらく子供だった運慶が、1186年北条時政の招致で、願成就院の造像を行いました。(*2)。

 願成就院の造仏が、奈良仏師の関東地方での活躍が活発となりました。願成就院の仏像は、運慶が鎌倉武士に描いていたイメージでした。毘沙門天は、腰高で躍動感に満ちています。また、阿弥陀如来と毘沙門天の組合せは、戦場での「生き死に」を生業としていた鎌倉武士の気持ちを表した組み合わせでした。つまり、毘沙門天は、この世で武士の戦場での働きを頼むための軍神、阿弥陀如来は、戦乱に明け暮れた自分たちを、死後、極楽浄土へ導いてくれる仏様でした(*3)。

(*1)源頼朝の招致で、1185年に、勝長寿院建立のため成朝(運慶の父康慶の弟子)が鎌倉下向し、奈良仏師と鎌倉政権の直接の関係がはじまりました。

(*2)今歴史の教科書では、鎌倉時代は平氏が滅んで、鎌倉政権が全国に守護地頭を置いた1185年よりと教えられるようになりました。表現としては、運慶が鎌倉に下向したのは、平安時代の末期ではなく、鎌倉時代と表現する方が、仏教美術史上からも都合が良く、運慶の仏像を、鎌倉時代を象徴する美術品として、説明しやすくなりました。
 尚、運慶の作品は、それ以前では、円城寺大日如来坐像(1176年)があります。この作品は、運慶の作品として(奈良仏師の作品として)ごく初期のものと考えられています。

(*3)今回の東京国立博物館の特別展では、残念なことですが、願成就院の阿弥陀如来は請来されていませんでした。

 願成就院は、伊豆急行線伊豆長岡駅より歩いて10分程度のところに位置します。1186年北条時政が奥州征伐を祈願して建てました。内部には、運慶が造像した阿弥陀如来坐像、毘沙門天立像、不動明王二童子像の5体の重要文化財が残ります。(拝観は可能ですが、写真撮影禁止です。)

 願成就院の造像は、康慶を中心とした奈良仏師と鎌倉幕府の結びつきを強くししました。以降の慶派の動的で男性的な造像と勢力拡大の嚆矢となりました。 境内には、北条時政や足利茶々丸のお墓等の史蹟が残ります。

 ➡以前の願成就院の紹介にジャンプします。

2017年11月05日

東慶寺水月観音坐像(神奈川県鎌倉市)

 鎌倉の東慶寺は、縁切寺と言う名で有名です。さだまさしの曲にも当寺を扱った曲があったと思います。JR北鎌倉駅から徒歩5分程度に位置します。本尊の聖観音立像は、粘土を型に入れて作った花形を貼り付けています。これは、中国で生まれた手法ですが、日本では、鎌倉地方に残ります。寄木造り、像高134.5㎝、重要文化財です。

 また、東慶寺には水月観音という他にはあまりない観音菩薩が祀られています。水月観音は、水辺に坐して、水面に映える月を眺める姿を現しています。水月観音は、中国では、宋時代に盛んにお軸に描かれたり、或いは仏像としても多く作られました。

 法華経の仏典によりますと、観音様は、救済する人々の身分や立場に合せて様々な姿で現れるとされており、三十三変化が説かれています。その一つが水月観音という訳ですので、由緒ある像容ではありますが、仏像に荘厳性を求める日本人の感性に合わないのか、日本では珍しい像容といえます。
 東慶寺の水月観音菩薩半跏像は、像高 34㎝(像の全長 55㎝)の小さな仏様です。今、御開帳は1日2回、時間を決めて行われています。

 東慶寺の水月観音坐像と最近中国でブレイクしている安岳毘卢洞(*)に残る石造の水月観音坐像を比べてみてください。ほぼ同時代の作品です。

 

<画像の説明>東慶寺水月観音像  
 当像は、撮影禁止のため、当寺にて購入した絵葉書をスキャンさせて戴きました。

 

<画像の説明>安岳毘卢洞(*)の水月観音坐像

(*)四川省東方、重慶市との市省境に近いところに位置します。不便なところにありますので、公共の交通機関では到着できないと思います。専用車を契約するのが良いと思います。

 ➡安岳毘卢洞のコーナーにジャンプ

2017年10月29日

武蔵国国分寺(東京都国分寺市)

 今回は、武蔵国国分寺の本尊薬師如来についてご紹介したいと思います。本尊の薬師如来坐像は、国の重要文化財になっています。現在は、10月10日にのみ御開帳されています。
本像は、平安末期から鎌倉時代初期の作品と考えられています。

 

<画像の説明>武蔵国国分寺薬師如来

 ところで、国分寺は、仏教による国家鎮護のため、741年に、聖武天皇が、日本の各国に建てたもので、正式名称は、「金光明四天王護国之寺(こんこうみょう してんのう ごこくのてら)」と呼ばれたものです。詔勅に依れば、国分寺は、釈迦仏を祀り、七重塔を建て、『金光明最勝王経(金光明経)』等の写経することが命じられました。

 

<画像の説明>画像左または上:薬師如来脇侍月光菩薩と十二神将
       画像右または下:金光明四天王護国之寺の扁額

 国分寺の場合、建立時点では、本尊は釈迦如来が祀られていましたが、何時の頃からか、おそらく、本尊が薬師如来に変わってしまいました。(*)。
 なぜ、薬師如来に変わったのでしょうか?私なりに考えてみました。

 平安時代以降、国分寺のような官寺は、国の庇護が無くなりました。国分寺は生き残るために、地方の支配層や民衆に迎合しようとしました。しかし、本尊が、釈迦如来では、民衆受けは良くなかったと思います。そもそも、釈迦如来は、気の遠くなるような修行を行い解脱した人ですので、現世利益を望む人々には、自分たちに何をしてくれる仏様か良く分からなかったと思います。(**)

 尤も、現世利益を望むなら、阿弥陀如来や観音菩薩もありそうです。平安時代に阿弥陀信仰に変え、時代を生き抜いた、当麻寺や元興寺の例をこのブログでも取り扱いました。
 では、国分寺の場合、なぜ、阿弥陀如来ではないのでしょうか? それは、本尊の釈迦如来を薬師如来に化けさせることができたのだと思います。薬壺を掌に置くだけで(多少の印相の違いはあっても)、右手の施無畏印は同じですし、薬師如来と言ってしまうことができます。
(印相の違いがあって、阿弥陀如来には、簡単にはなりません。)(***)

 

 ➡当麻寺のブログにリンク

 

 ➡元興寺のブログにリンク


 武蔵国国分寺の現在の薬師如来は、平安末期から鎌倉時代初期の作品です。それ以前の金銅仏の釈迦如来は現存しませんが、既に薬師如来に代わっていたのではないでしょうか。

 現在の武蔵国国分寺は、1333年の分倍河原の戦い(新田義貞が鎌倉に攻め込んだ戦い)で焼失し、1335年、新田義貞により再建されました。その際、薬師如来は戦災を免れたと考えられます。

(*)故北倉庄一氏の「国分寺の謎」によりますと、全国の国分寺のうち国宝または重要文化財の薬師如来が祀られる例は、他に美濃、飛騨、若狭、佐渡、土佐、筑前の6寺を数えるそうです。もちろん釈迦如来の例も、尾張、淡路の2寺があるそうですが、全体的な傾向としては、薬師如来が多いようです。

(**)同様のことは、弥勒如来にも言えると思います。56億7千万年後に、この世に表れて人々の解脱を助けると言われますが、民衆は、56億7千万年は、とても待てないと思ったに違いありません。そのため、日本では、弥勒菩薩も平安以降は、あまり作られませんでした。

(***)薬壺を日本にもたらしたのは、清凉寺の開祖、奝然(ちょうねん)と言われています。実際、奈良初期の薬師寺や平安初期の唐招提寺の薬師如来は薬壺も持たず、私には釈迦如来と区別が難しいです。

2017年10月22日

青龍寺空海記念碑(陝西省西安)

 隋唐時代は、中国の仏教の全盛期で、唐の都、長安では仏寺の建立が盛んでした。総計110坊の殆どに寺が分布していたとのことですので、100以上の寺院があったことになります。考古学的発見も多いので、今後更に増えることが考えられます。もちろん、これらの寺院では、建立から廃棄まで様々な段階があると思いますので、100以上の寺院が同時に存在したのではありません。

 

<画像の説明>画像左または下:西安都城 隅のやぐら 中は博物館風の売店になっています。
<画像の説明>画像右または上:西安都城風景 現在の西安都城は、明時代の建造です。

 青龍寺は、現在の行政区画では雁塔区鉄炉廟村にあります。創建は、隋時代(582年)です。創建当時は、霊感時と言われましたが、唐(711年)に青龍寺と改名されました。会昌の廃仏(845年)によって廃毀され、846年修復されました(*)。
 青龍寺において、空海が密教における金剛頂経と大日経の唯一の阿闍梨(後継者)だった恵果より灌頂(法を授けられる事))を受けたのは、恵果が亡くなる直前の805年でした。この事は、空海にとって重要なことでした。真言密教では、師より弟子へ直接教えを相続することが最も重要とされたからです。

 青龍寺の規模は、東西500m、南北260mでした。1973年から中国社会科学院考古学研究所によって発掘が進められ、多くの遺物や遺跡が発見されています。

 

<画像の説明>空海記念碑

「空海記念碑」は、日本の真言宗諸派や空海の故郷の香川県をはじめとした四国四県等の基金により、青龍寺跡に、1982年に建設されました。仏教界における、空海の果たした偉大な業績を称えています。高さは約10mです(**)。


(*)会昌5年(845年)7月の武宗による廃仏は、長安内の寺院は、4寺を除いて他のすべての仏寺は廃棄されました。「三武一宗の法難」は、北魏以来発生した3度の仏教の弾圧事件を言いますが、会昌5年の廃仏も、そのうちの1つとして数えられます。道教との権力闘争の一面と王朝が過度に仏教を保護し、造寺などで出費が増えてしまったことに対する反動の一面があります。
「法難」は、あくまで、仏教側が作った言葉です。会昌の廃仏後、廃棄されたとされる青龍寺ですが、846年武宗の死の直後、直ぐ復興していることから、この際の「法難」の実態がどのようなものだったのか、再評価が進められています。
 青龍寺が名実とも廃寺となるのは、唐の滅亡後、長安が廃墟化したためです。これは、唐時代、安史の乱後、不空により、密教が国家仏教として盛隆したことからは、唐滅亡により衰退する運命にあったと考えられています。

(**)直ぐ近くの恵果空海記念堂には、訪問を記念した記名用のノートが置いてあります。寺の担当者から名前を書くように求められますが、名前を書いてしまうと、しつこく寄付を求められました。まさに、現在の中国の仏教事情です。

2017年10月16日

タリム砂漠公道(新疆ウイグル自治区)

 一神教の発生するためには、永遠、無限そして絶対が条件と本で読んだことがあります。つまり、悠久の時間、無限の空間そして絶対に(永遠に)続くモノがない事だそうです。アラビア半島は、大きな砂漠があって、きっと歩いても、歩いても同じ景色が続くのだろうと思います。私は、アラビア半島には行ったことありませんが、確かに、この地域で、ユダヤ教、キリスト教そしてイスラム教が生まれました。

 今回のブログのご紹介は、中国新疆ウイグル自治区のど真ん中に位置するタリム砂漠(タクラマカン砂漠)公道です。冒頭に一神教をご紹介したのは、私がタリム砂漠を訪れた際に、確かに、永遠と無限そして砂以外殆どモノのない状態を直接見て、それを感じたからです。やはり、一神教は、砂漠とともに暮らす人々によって作られた思想が源流だと理解できます。

 

<画像の説明>タリム盆地砂漠道からタクラマカン砂漠を望む

 

 タリム砂漠の砂漠道は、シルクロードで言いますと、天山南道のクチャの近くから、西域南道のニヤ(ホータン東方)まで、南北約500㎞をほぼ直線で走るハイウェイです。車で、ほぼ一日、同じ景色の中を走り続けます。日本には無い景色です。ラクダしか交通手段のない時代に、夜の月の砂漠を1か月近くかけて(昼間は暑すぎて歩けない)歩いたことでしょう。

 中国人は、新疆の疆の字は新疆の地理を表すと説明します。旁の一番上の‘一’が、アルタイ山脈、上の‘田’が、ジュンガリア盆地、次の‘一’が、天山山脈、下の‘田’が、タリム盆地(タクラマカン砂漠)、下の‘一’が、崑崙山脈を表すそうです。その意味では、砂漠道は、下の‘田’の真ん中の|を表します。

 

(画像の説明)タリム砂漠 広大な砂漠に延々と送電線が走る

 

 

<画像の説明>画像下または左 グリーンベルトを維持する               ための太陽光パネル
       画像上または右 砂漠道入口の路標
          路標には、塔里木砂漠公路と記載
       (塔里木は、中国語ピンインでは、talimu)
 

 

 砂漠道は、メンテナンスしないと、直ぐに砂に埋もれてしまいます。そのため、ハイウェイの両側にはグリーンベルトが設けられています。グリーンベルトは、太陽光発電で電気を起こし、モーターを回して、くみ上げた水を散布して維持されています。
 地下水の弁を開けるために、全砂漠道の約30㎞おきに、1夫婦を配置し住まわせています。一日の仕事は、弁の開け閉めだけだそうです。訪れる人のほとんどいない一軒家で、一日中夫婦だけで顔を突き合わせているそうです。

 ハイウェイとこれらのグリーンベルトそしてメンテナンスのための夫婦の配置、夫婦の食料、水、そして燃料の配給(夜は太陽光発電ができないので、巨大なモータージェネレータが備わっていました)は、砂漠のなかの石油掘削会社によって維持されています。

 ここは、上海から4000㎞(時差で3時間(*))離れていますし、砂漠のど真ん中ですので、ここまで来ると流石に日本人はいないだろうと思っていましたが、日本人を載せた団体バスが1台通り過ぎていきました。ご老人がたくさん載っていらっしゃいました。老日本人、恐るべしです(**)。

(*)実際には、中国は全土で北京時間を使用しています。そのためか、例えば、学校は夜明け前に始業するのを、私は、省都のウルムチでみました。

(**)2011年のことです。少数民族問題が深刻で、現時点で旅行者が団体旅行を募集していないと聞きました。

2017年10月08日

箸墓古墳(奈良県桜井市)

 三輪山の西麓に広がる巻向(まきむく)古墳群は、前方後円墳発祥の地とみられています。この中で箸墓古墳は、巻向古墳群では最大の前方後円墳です。巻向古墳群は、纏向遺跡の一部をなします(*1)。

 箸墓は、宮内庁によって第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓として管理されています。しかし、考古学ではこの古墳を、3世紀後半の古墳と考えており、卑弥呼(或いは台与)の墓とする研究者はたくさんいらっしゃいます。

 墳丘の全長は、約280メートル、後円部の高さ約30メートルあります。自然の山に後から穴を掘って古墳にしたと錯覚される方も多いようです(実は初めは私もそうでした)が、土木工事を経て完成させた構造物です。当時の最新の技術を使用したハイテクな構造物でした。

 

<画像の説明>箸墓古墳

 

<画像の説明>ホケノ山古墳(*2)から箸墓古墳を遠望

 

 箸墓古墳の、後円部は四段築成で、四段築成の上に小円丘を築いています。出土遺物に埴輪の祖形の吉備系の土器が認められるそうです(*3)古墳の構造が一寸わかりにくいので、説明のために、近つ飛鳥博物館の前方後円墳のジオラマ(模型)を参考にさせて戴きます。近つ飛鳥博物館では、5世紀初めから半ばの大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)(*4)を再現しています。最新の研究成果が反映されており、学術的な考察が十分になされています。

 

<画の説明>大仙陵古墳のジオラマ
   前方後円墳は、完成直後はこのように埴輪により4段から5段程度の段差が造られていました。

 

 箸墓とは時間的なギャップはありますが、構造上の基本的な差はないようです。このジオラマにより、埴輪(箸墓は土器の一種)で断面を区切りながら、高く上に伸ばしていく工法が読み取れると思います。箸墓以降、全国各地の多くの前方後円墳は、墳丘の設計図を共有しており、数十年程度の比較的短い時間で北九州から東北南部に広がったと考えられる点から、統一後の初期大和朝廷のシンボル的存在とも考えられています。前方後円墳は、もっとも日本的なものの一つに挙げるべきでしょう。

(*1)巻向遺跡は、弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡。国の史跡に指定されています。飛鳥時代前期の藤原宮に匹敵する巨大な遺跡であり、日本で始めての都市型遺跡(後の条里制の様に道路が直交する、鋤鍬等の農機具の出土が少ない)であり、また、国際都市(出土した土器のうち30%程度が、大和以外(吉備、出雲、濃尾そして末期には北九州))です。
 尚、「纒向」の名は垂仁天皇、景行天皇の宮の名より名づけられました。

(*2)箸墓より古い。初期の前方後円墳に位置づけられる。全長80m。

(*3)箸墓は宮内庁によって管理されており、学術調査はもちろん入ることすらできませんが、過去に宮内庁によって調査された際の遺物が宮内庁に保存されているそうです。

(*4)宮内庁の比定では、仁徳天皇陵となっています。百舌鳥古墳群を構成する古墳の一つ。墳丘長486m、後円部の高さ36m、全国第1位の規模を誇ります。

 

2017年10月01日

大仏寺(甘粛省)と東大寺大仏殿

 大仏寺は、甘粛省、張掖市にあります。当寺の説明資料によりますと、1098年に創建されました。西夏時代(1038-1227)の建築です。今回、この建築を取り上げたのは、この建物が日本で言いう大仏様建築だからです。

 奈良時代から平安時代の建築は、日本では和様建築と呼ばれています。飛鳥時代から平安時代の仏教建築が和様建築です。鎌倉時代に、禅宗様、大仏様が生まれ3様式が並列しました。鎌倉時代末期から室町時代には、それぞれの技術が交じり合い、折衷様が生まれました。

 もちろん、和様建築という名前は、禅宗様、大仏様が発生した後、生まれた歴史的な用語です。私の若いころは、禅宗様は唐様、大仏様は天竺様(和様は和様)と呼ばれていました。

 禅宗様は、日本人の心にヒットしたのか、鎌倉時代以降、多く残っています。また、禅宗様と和様の折衷様も多く残っています。徐々に、和様建築の細部に禅宗様が入っていきました。室町時代には、折衷様の建築が多いです(*)。

 以前扱った鑁阿寺も折衷様です。 
 ➡鑁阿寺にリンクします


 しかし、大仏様は東大寺の大仏殿以外あまり日本には残っていません。また、大仏様と和様との折衷様を、私はあまり知りません(無い訳ではありません)。大仏様は、他の様式に比べて、使用される材木の量が少なくて済み、大きな建物の建築には向いていると言われています。東大寺再建の大別当だった重源が大仏殿再建のために、中国の宋から技術を導入しました。建物の豪快さ、軒下のシンプルさは、大仏殿の様な大きな建物を建てるには適していましたが、日本人の感性には、あまりミートしなかったのではないでしょうか(**)。大仏殿は、高さ49m、間口57m(7間)です。


<画像の説明>東大寺大仏殿 江戸時代の再建ですが、大仏様は継承しています。

 

 中国には木造建築は少ないのですが、大仏様は割合見ることがあります。中国でも、大きい建物を建てるために必要な技術だったと思われますが、日本の様に森林の多くない中国では、材木の使用量が少なくて済むことが、魅力だったのではないでしょうか。

 大仏寺は、甘粛省にあります。建築当初は、迦葉如来寺と呼ばれたそうですが、内部に涅槃の大仏(塑像、全長34.5m)、が祀られているためこの名前があります。大仏殿の高さは、33mあります。西夏時代、最大の仏教建築です。

 

<画像の説明>画像右または下:大仏寺大仏殿 画像左または上:大仏寺蔵経閣

 

<画像の説明>画像左または下:東大寺大仏殿軒下 画像右または上:大仏寺軒下

(*)その他、折衷様の国宝建築としては、功山寺仏殿(山口県下関市)、鑁阿寺(栃木県足利氏)等が有名です。

(**)東大寺大仏殿以外では、東大寺法華堂 浄土寺浄土堂(兵庫県、東大寺播磨国別所)等が大仏様の技術を使用していますが、いずれにしても、大仏様の技術は、重源ゆかりの建築だけで使用されたようです。

2017年09月24日

春日大社(奈良市)

 春日大社は、国宝・春日造りの御本殿を中心とした神社です。春日大社では、この度、式年造替が行われました。式年とは、定期的という意味です。春日大社の場合、式年造替は、20年ごとに、一旦、神様を、仮殿に移して、その間に、本殿を修復或いは建替えして、再度神様を本殿に戻す事業です。

今回の春日大社の場合は、
2015年 3月27日 仮殿遷座祭(下遷宮)執行
2016年11月 6日 本殿遷座祭(正遷宮)執行
されました。

 ところで、春日大社の式年像替は、一昨年国民的関心事項となった伊勢神宮の式年遷宮とはどう違うでしょうか。
 伊勢神宮の式年遷宮は、原則として20年ごとに、内宮・外宮を始め、すべての社殿を造り替えて神座を移す事業です。式年遷宮は、式年造替より更にハードルが高いと言えます。

 式年遷宮の制度が定められた天武天皇の時代、7世紀後半には、既に礎石を用いる建築技術も確立されていました。法隆寺の場合は、(再建説を採用したとしても)7世紀末の建築物でり、基本的な部分は、現在まで残っています。当時の国力・技術をもってすれば、神社も現在にも残る建物にすることは可能であったと思えます。

 興福寺と春日大社は、それぞれ、藤原氏の氏寺、氏社ですので、神仏習合の習俗の中では、建築技術も「習合」しても不思議ではなかったと思いますが、なされませんでした。神社建築には礎石は用いられませんでした。春日大社の場合は、山自体が神様ですので、そこに巨大な礎石を置くことが、憚れたのかもしれません。

 当初からそうだったかはわかりませんが、参考までに現在の中門の画像を掲載します。大筋は、和様建築です。

 

<画像の説明>春日大社中門・御廊(おろう) 重要文化財です。
                     この建物は本殿ではありません。念のために。

 ということであれば、定期的に膨大な費用を投じる式年遷宮や式年造替を良しとする理由はわかりませんが、あくまでも技術的な問題では無く、心の問題、文化の問題だったと考えられます。
 仏教は、あくまでも外来のもので、神社は日本古来のものです。寺院は、古いこと、歴史あることに意味を持たせ、神社は、常に新しい事に意味を持たせたのでしょうか、これは、私の想像です。


<画像の説明>春日大社本殿内部
     地面の高さに合せて神殿を作り上げた、春日造りの特徴が見て取れます。国宝です。
     正面からの写真撮影は禁止、側面からなら可でした。因みに、2015年4月2日撮影です。

 

 2016年には、春日大社の内部を見ることができました。式年造替の間(神様が本殿に居られない間)のみ解放されました。1時間以上並びましたが、20年に一度の事ですので、我慢できました。(唯、インバウンドの観光客が多いことが不思議でした。)

 ところで、このことは、上述しましたが、興福寺は藤原氏の氏寺、春日大社は、藤原氏の氏社です。日本において、神仏習合は長い歴史を持ちますが、明治以降、神仏分離が進みました。しかし、奈良では、必ずしもそのような単純なことにはなりませんでした。
 今でも、興福寺の貫主が毎年1月2日に春日大社にお参り、神前読経しておられます。今回の式年像替の際には正遷宮を祝い、6大寺(東大寺、興福寺、西大寺、唐招提寺、薬師寺、法隆寺)の僧侶がそろって読経されました。一神教の世界では、あり得ない話です。

 

<画像の説明>春日大社中門拡大写真軒下の組み物は、和様建築の寺院と似ています。

(追記)御造替の記念に春日三笠香という匂い袋を戴きました。春日大社は、お清めに「香」を用いるそうです。戴いた匂い袋は、2年以上経過した現在でも、良い香りを醸しています。

 

<画像の説明>春日三笠香  藤原氏に因んでか、藤が装飾されています。

2017年09月17日

飛鳥寺飛鳥大仏(高市郡明日香村)

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 飛鳥寺は、588年に百済から仏舎利(遺骨)が献じられたことにより、蘇我馬子が寺院建立を発願、596年に主要伽藍が完成しました。本格的な伽藍配置の日本で最初の大寺院でした。法興寺・元興寺ともよばれました。現在は安居院(あごいん或いはあんごいんとも)と呼ばれています。

 創建時の飛鳥寺は,塔を中心に東・西・北の三方に金堂を配し(*1),その外側に回廊をめぐらした伽藍配置でした。寺域は東西約200m,南北約300mありました。本格的な寺院の建立には、瓦の製作をはじめ、仏堂や塔等超高層建築、更には巨大な金銅仏の制作と、当時としては、超ハイテクな技術の結集が必要でした。

 今、「塔心礎の中心地下3m」の標識が、本堂前に残ります。この部分が飛鳥寺の伽藍の中心だったことが分かります。

 

<画像の説明>飛鳥寺飛鳥大仏

 当寺の本尊飛鳥大仏(釈迦如来像)は、年代のわかる現存の仏像では日本最古のものと言われています。資料には、推古天皇が止利仏師(とりぶっし)に造らせた丈六(*2)仏。605年に造り始め,606年に完成したとされます。1196年の落雷のため本堂とともに、飛鳥大仏も大部分焼失しました(*3)。

 法隆寺金堂の釈迦三尊像同様、止利仏師の作品とされます。平面的な風貌から、旧来、中国北朝の北魏の影響が指摘されていますが、近年は南朝の直接的影響も指摘されています。


(*1)飛鳥寺の建立時点の1塔、3金堂の構成は金堂より塔が、重要と考えられていたためです。以降、仏舎利を保存するための塔に対して本尊を安置する金堂の重要性が、相対的に高まっていきます。飛鳥後期建立の現法隆寺では、金堂と塔の配置が、左右1棟ずつとなり、天平期の東大寺や薬師寺では、1金堂、東西2塔の構成になります。
 なお、金堂は、本尊を祀るためだけ入れ物です。後の時代の本堂の様に仏事を行う、所謂外陣は持ちません。金堂は、仏事を屋外で行っていた時代の産物です。

(*2)丈六は、唐尺の場合、立像は、約4.85m、坐像の場合その半分とされます。飛鳥寺の場合は、中金堂の位置に安置されており、その台座を据えた凝灰岩の基壇も元のまま動いていないことが確認されています。一般には、丈六超を大仏と言いますので、本尊を飛鳥大仏と呼ぶことに、私は、違和感を感じます(ブログの題名では、飛鳥大仏と言っておきながら、済みません)。

(*3)当時のまま残っているパーツは、両眼と鼻、額を含む顔の上半分、髪際や肉髻前面部の螺髪と、右手の第1指から3指だけとされます。江戸時代(1828年)に補修され、現在の安居院に安置されました。

 平城京遷都とともに移転し,元興寺と名を変えました。このとき,飛鳥寺に使われていた建築材、瓦は、運ばれ再利用され、現在に至っています。しかし,大仏は本元興寺と名を変えた飛鳥寺に残りました。


<画像の説明>蘇我入鹿の首塚


 寺の西側には蘇我入鹿の首塚と呼ばれる五輪塔が残っています。飛鳥寺の境内を西に抜けたところに立つ五輪塔です。
 大化の改新のとき、飛鳥板蓋宮で中大兄皇子らに暗殺された時の権力者・蘇我入鹿の首がそこまで飛んできたとか、襲ってきた首を供養するためにそこに埋めたともいわれています。五輪塔自体は鎌倉時代または南北朝時代の建立と考えられています。高さ149cmの花崗岩製で、笠の形の火輪の部分が大きく、軒に厚みがあるのが特徴です。
 蘇我入鹿の首塚に関して、著名な割にその由緒や歴史。又なんでこの地にあるのか、全く分かっていないのが実情です。

2017年09月10日

当麻蹴速(たいまのけはや)塚(奈良県葛城市)

 当麻蹴速(*)は、『日本書紀』垂仁天皇記によれば,強力で相撲の技を誇り,常に力比べの相手を捜していましたが,その驕慢さを天皇に憎まれ,天皇が出雲から招いた野見宿禰と対決しました。
垂仁天皇の前で行われた野見宿祢と当麻蹴速の力比べが国技相撲の発祥とされ、また、我が国初の天覧相撲といわれています。垂仁天皇は、はつくにしらすすめらみこと、と言われた崇神天皇の子供ということになっており、時代的には、4世紀後半頃の人です。

「蹴速」という名前は、足技にすぐれたことにちなむ名の様ですが、二人の対決は、当麻蹴速が、脇骨を踏み砕かれ,腰を踏み折られて死んだといいます。相撲の発祥とはいうものの、彼らの対決は、手が地面に付いたら負けといった、私たちの相撲のイメージとはかけ離れています。

 当麻蹴速塚の五輪塔は、最上部の形や、火輪の形から鎌倉時代のものと考えられます。しかし、水輪の最大径が火輪の軒幅より13㎝も広く、形は良いとは言えません。他の場所から部分的に石を寄せ集め、作られたものの様ですが、当時も当麻蹴速の伝説が広範囲に流布されていたことが分かります。

 当塚は、近鉄南大阪線の当麻寺駅から当麻寺へ向かう東から西へ向かう参道沿いにあります。参道が東から西に向かうのは、平安時代、当麻寺が、当麻曼荼羅を本尊とした阿弥陀信仰を旨とする寺院に変貌したことに依ります。平安時代から鎌倉時代には、多くの庶民が、竹内街道から当麻寺を目指し、この参道を歩いたことと思います。その際、当麻蹴速塚にも手を合わせたのではないでしょうか。
 有名な当麻寺の東西の塔は、当麻蹴速塚からは、直線的に見えます。

 

<画像の説明>画像左または下:当麻蹴速塚の五輪塔(バックは、葛城市相撲館)
       画像右または上:当麻蹴速の五輪塔と当麻蹴速碑

 

<画像の説明>当麻蹴速塚より東方の当麻寺三重塔を遠望(西塔は修復工事中の覆いで隠れています)

 

  ➡当麻寺は、こちらをご覧ください。

 話は、古代に戻ります。展覧相撲の後、蹴速の土地は没収されて、勝者の野見宿禰に与えられました。以後、野見宿禰は、垂仁天皇に仕えました。垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の葬儀の時、それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を考え出し、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、土師氏の祖となりました。

 野見宿禰は、播磨国の立野(たつの・現在の兵庫県たつの市)で病により死亡し、その地で埋葬されました。病没した野見宿禰の墓を建てるために人々が野に立ち(立つ野)手送りで石を運んだ光景が、「龍野」「たつの」の地名の由来とされています。今、野見宿禰神社となっています。
 兵庫県たつの市とは別に東京都墨田区にも野見宿禰神社があります。両国国技館の近隣に所在し、日本相撲協会により管理されています。

(*)当麻蹴速の「蹴(け)」は、本来は「蹶」(JIS:6D2C)を書きます。


2017年09月03日

柴又帝釈天(葛飾区)

 柴又帝釈天には、色々な顔を持ちます。アテンションの順では、
寅さん>>矢切の渡し>帝釈天>日蓮宗のお寺>秀逸な彫刻>庚申参り>柴又七福神参り
でしょうか。もちろん、寅さんにまつわる話がダントツにアテンションが高いですが、本サイトは、管理人の興味の順に、寅さん以外の話をさせて戴きます。

 

<画像の説明>柴又駅駅前の寅さんと妹サクラの銅像。サクラ像は、2017年3月に除幕されました。
      一緒に写真に写りたい人や自撮りの人も多く、なかなかシャッターチャンスが訪れない。 

 

 京成線柴又駅の改札を出ると正面に「寅さんの像」があります。その向こうに参道の入り口が見えます。両側に草餅や塩せんべいの店を見ながら参道を進むと、徒歩3分で当寺に到着します。
 寺の縁起によりますと、江戸時代初期の1629年に開創された日蓮宗寺院で、正式には経栄山題経寺と言います。

 宗祖日蓮が自ら刻んだという伝承のある帝釈天の板本尊がありましたが、長年所在不明になっていました。それが、9代日敬の時代に、本堂の修理を行ったところ、棟木の上から発見されました。この板本尊は片面に「南無妙法蓮華経」の題目と法華経薬王品の要文、右手に剣を持った武人タイプの帝釈天像を表したものです。残念ながら、この板本尊は、私たちは、直接見ることができません。
 この板の発見されたのが1779年の庚申の日でしたので、60日に一度の庚申の日が縁日となりました。日敬の見事なマーケティングの成果です。

 参道の突き当たりに二天門が建ち、正面に帝釈堂、右に祖師堂(旧本堂)、その右手前に釈迦堂(開山堂)、本堂裏手に大客殿などが建ちます。二天門、帝釈堂などは彩細部には精巧な装飾彫刻が施されています。

 

<画像の説明>画像左または下:柴又帝釈天帝釈堂 画像右または上:柴又帝釈天二天堂 

 

 帝釈堂内殿の外部は東・北・西の全面が装飾彫刻で覆われています。中でも胴羽目板の法華経説話の浮き彫り10面は秀逸ですので、どの面を掲載するか迷いましたが、「多宝塔出現の図」を選ばせて戴きました。釈迦の説法がすばらしいので、塔が現れました。このサイトのメインテーマの兜跋毘沙門天像の地天にも同じように、釈迦の説法を聞きたくて、地神が地下から現れたと説明されることがあります。「多宝塔出現の図」の多宝塔の出現は、法華経のすばらしさを表現しています。

 江戸時代以降には、仏像には見るべきものはあまりありません。その代わり、日光東照宮をはじめとして、まさに彫刻の時代となりました。当寺も軒下、羽目板到るところに、江戸時代から昭和時代に至る秀逸な彫刻が残ります。まさに彫刻の寺と言われる由縁です。

 

<画像の説明>柴又帝釈天 帝釈堂の胴羽目板の彫刻「多宝塔出現の図」

 

 帝釈天は、バラモン教の武勇の神でしたが、仏教に取り入れられました。釈迦の説法を聴聞したことで、梵天と並んで仏教の二大護法善神となりました。仏教では、これらのバラモン教の神様を如来や菩薩の下に置くことにより、バラモン教に対する仏教の優位性を示すことになりました。帝釈天は、四天王や眷属を下界に送り、報告を受けるのも主な務めのひとつです。

 このサイトで以前扱った寺院には、帝釈天の祀られるお寺が2つあります。残念ながら、二尊とも写真撮影禁止で、掲載はできません。それぞれのHPで確認ください。
 一つは、東寺講堂の帝釈天です。この像は、白象に乗った木像(平安時代前期)で、一面三目二臂で金剛杵を持ち、白象に乗って半跏踏み下げの姿勢をとっています。因みに、梵天は正面の顔のみ額に第三の目を持っており、 4羽の鵞鳥(がちょう)が支える蓮花の上に坐しています。

 ➡東寺は、こちらよりリンク可能です。

 

 更にもう一つは東大寺法華堂の帝釈天(奈良時代)です。こちらも、主尊の不空羂索観音の両側に梵天・帝釈天像が祀られています。梵天・帝釈天像自体劣る訳ではありませんが、ここには国宝だけでも10体あり、金剛力士像の陰に隠れるようで、一寸損をしている様に思います(国宝は従来12体ありましたが、不空羂索観音の両サイドに祀られていた伝日光菩薩、伝月光菩薩は、東大寺ミュージアムに移されました。)。

 ➡東大寺法華堂は、こちらよりリンク可能です。

 

 東寺の様な密教系寺院とその他の寺院では、梵天・帝釈天像の像容は、大きく変わりますが、主尊に向かって、右が梵天、左が帝釈天という点でレイアウトは一致しています。帝釈天が、甲を着けた武人タイプ、梵天が兜を着けないのが一般的です。(と言いながら、東大寺法華堂の場合は、これが逆になっています。長い歴史の中で入れ替わったと指摘される先生もいらっしゃいます。)
 柴又帝釈天の場合は、甲は着装しませんが、武人タイプ、口ひげを蓄えます。

 

 ところで、当寺は、柴又七福神のうちの毘沙門天にあたります。帝釈天は、毘沙門天の報告を聞く人で、謂わば、毘沙門天の上司になります。近しいですが同じ尊格ではありません。毘沙門天と帝釈天を同じ尊格と考えた人がいたということでしょうか。
 二天門を入って、直ぐ左手に説明用のパネルが設置されています。柴又七福神は、葛飾区の公式サイトに説明が記載されています。

 

追記:
 軒下の彫刻が素晴らしい当寺ですが、鳥害糞害は深刻と思います。屋根下にプロテクタを付けるのは無粋です。何もつけないというお寺様のご英断に感激です。
 柴又帝釈天より数分歩くと江戸川の川岸に当たります。このあたりが、矢切の渡しのあった場所です。

<画像の説明>画像左または下:柴又帝釈天大鐘楼軒下  軒下には彫刻が見えますが、斗供には
            鳩が居ついています。鳩の下は斗供の先が糞で汚れているように見える。
       画像右または上:江戸川川べり。以前は、矢切の渡しがあったあたりです。

2017年08月27日

影向寺(ようごうじ)(川崎市)

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 影向寺には、重要文化財の薬師三尊像が祀られています。この一帯は、橘樹官衙遺跡群として、2015年に国史跡に指定された。京浜工業地帯の中心都市として発展した川崎ですが、史跡の国指定は喜ばしいことです。JR南武線武蔵新城駅から歩いて20分強の位置にあります。

 影向寺の寺伝に依りますと、当山は天台宗に属し、奈良時代の天平12年(740)、聖武天皇の命令を受けた高僧・行基によって開創されたと伝えられています。
 寺伝は、一般には寺の歴史的重みを増すため、実際の歴史より古く記すことが多いのですが、影向寺の場合は、近年の発掘調査と瓦の年代学的な研究が進んだ結果、実際の創建は、更に古く、7世紀後半の飛鳥後期(白鳳期)にまで遡ることが明確になりました。

 このことに関して、村田文夫氏『武蔵の国 国史跡・橘樹官衙遺跡群の古代学』(かわさき市民アカデミー 川崎学双書シリーズ)には、「縁起をさかのぼる寺院」というキャッチコピーが生まれたことが記されています。

 影向寺一帯は、相模ではなく、武蔵の国に属しますが、武蔵の国国分寺(国分寺市、府中市)建立以前から存在した郡寺の一つと考えられています。

 

<画像の説明>画像左または下:影向寺薬師堂 画像右または上:影向寺寺門 

 

 当寺の薬師三尊像は、従来は、本堂薬師堂に祀られていましたが、保存の観点から、現在は、十二神将等と一緒に裏手の安置堂に祀られており、年に数回公開日があります。

 

<画像の説明>画像左または下:薬師如来坐像と月光菩薩
       画像右または上:薬師如来坐像と日光菩薩


 薬師如来坐像は、ケヤキ材、日光月光菩薩立像は、サクラ材です。それぞれ、一木造、平安時代後期の作品です。作風からは、衣文のナチュラルさ、或いは、厚みの表現等から、見た目には定朝以降運慶以前(=平安時代後期)のものと考えられます。内刳りの有無はわかりません。

 薬師如来は、体のバランスも良く、お顔の表情も温和です。両脇侍は、薬師如来に比して、衣文線が、若干堅いように思えます。また、日光月光においては、髻の形の違い、或いは衣文線の違いから、作者或いは多少の時代的な違いがある可能性があると考えられます。

 安置堂の前に建てられた川崎市教育委員会の説明書きには、薬師如来と脇侍二尊という表現になっており、あえて薬師三尊像という表現は使っておられません。その理由は、定かではありませんが、外観から、両脇侍に比して、薬師如来が小さいということでしょうか。私は、薬師三尊像としてのバランスは、整っていると思います。

 

<画像の説明>画像左または下:影向寺薬師三尊像(安置堂前の説明用の看板より)
       画像右または上:安置堂前の説明用の看板

 

 この薬師三尊像に関して、更に一点疑問点があります。現在の日光月光菩薩の祀り方は、掲載画像の通り、薬師如来に近い方の手が上がっています(*)。一方、現地安置堂の前に置かれている川崎市教育委員会の立て看板の画像では、薬師如来に遠い方の手が上がっています(*)。どこかのタイミングで入れ替わったのでしょうか?日光月光菩薩は、像容からは区別がつかないことが多く、長い歴史の中では入れ替わりが起ることが起こるのかもしrません。

 しかし、この件に関して、お寺の方にお聞きしたところ、お寺では、昔からこの祀り方をしているときいている。ある時展示のために博物館に貸し出ししたところ、左右逆に展示されたことがあり、教育委員会の立て看板は、その際の画像と思うと仰っていました。

 『川崎市史 資料編』(川崎市 1988年)でも立て看板と同じ並びで説明がされており、これが川崎市の見解ということでしょうが、なぜ、敢てお寺の祀り方とは反対の並びで資料として収録されたのか、理由について記載はありません。機会があれば、伺ってみたいと思います。


(*)日光月光菩薩の印に関してもう少し説明させて戴きます。一般に、上げた手が、施無畏印、下げた手が与願印と呼ばれますが、当寺の場合、上げた手は、阿弥陀如来の中生の様に親指と中指で印を結んでいます。また、日光菩薩月光菩薩が、日輪月輪を持つ場合は、日輪月輪を外に開く形で持つことがあります。

 日輪月輪を外に開く形で持つ薬師三尊像については、本サイトにも下記に例があります。


 ➡勧蔵院 薬師三尊像について

 ところで、上で紹介しました『武蔵の国 国史跡・橘樹官衙遺跡群の古代学』に依りますと、影向寺に関していくつか興味深いことが記載されています。内容は保持していますが、説明のために、一部サイト管理人がリライト或いは追加説明しています。正確に把握されたい方は、別途購入されることをお勧めします。私は、川崎市民ミュージアムで購入しました。

-影向寺の伽藍配置は、法起寺式?
 発掘調査の結果、現在の薬師堂のほぼ同じ位置に金堂があったと推定されています。一方、この建物跡は、間口が広いので、講堂跡であり、伽藍形式で言えば、中門から見て、右に塔、左に金堂を配置する法起寺式(*1)という主張もあります。これに対して、著者の村田氏は、否定的な見解を述べられています。
-初代金堂の礎石
 推定金堂の礎石が残っており、建築時に造作した柱座(*2)跡を見ることができます。写真の通り、現在の薬師堂の礎石にも使用されています。

 

<画像の説明>画像右または下:薬師堂の礎石。
               柱座後から旧金堂の礎石を流用していることが分かります。
       画像左または上:影向石 三重塔の心礎石。中央に心柱の穴が見えます。


-影向寺の現在の薬師三尊像は、三代目或いは4代目?
 木彫仏が主流になるのは、9世紀以降(*3)、8世紀の仏様は、塑像仏の可能性が高い。現在の本尊の薬師如来坐像は、11世紀末の造立のため、おそらく、3代目か4代目に当たるであろうと述べられています。(2代目候補として、寺には二体の木彫破損仏が残されているそうです。)
-影向石の移動に関して
 現在残る影向石は、元は、寺の三重塔の心礎石でした。しかし、影向石の位置は、掘り込み基壇の中央部ではなく、南側に5m動いています。動かした理由や時期は良く分かりません。塔が建てられたのは、基壇下部から発掘された瓦から8世紀前半以降と考えられています。心礎石の規模から推定すると総高27m、現存する塔では、当麻寺(奈良県)相当だったと推定されています。当麻寺に関しては、下記リンクを参照ください。残念ながら今西塔は工事中ですが、画像から影向寺の規模がご理解戴けると思います。

 
 ➡当麻寺の画像はこちらでご覧ください


*1:法隆寺式とは金堂と塔の配置が左右逆。
*2:礎石の中央を丸く凸状に加工したもの。
*3:古来高温多湿の日本において、材木が豊富にあったにもかかわらず、奈良時代、木彫仏は殆ど作られていません。木彫像が日本で盛隆するのは、鑑真の渡来(763年)に同行して来日した仏師がもたらした白檀像やその精密な木彫技術でした。一木造の技法は、平安時代以降、急速に日本で普及しました。


 最後になりましたが、現在重要文化財の薬師三尊像を国宝に昇格させる運動が展開されています。本堂には、署名のための帳面も準備されています。私も署名させて戴きましたが、成就することを期待しています。

 橘樹官衙遺跡群の見学には、クルムとアルク博物学の中山良氏のレクチャーを受けました。中山さんありがとうございました。

2017年08月20日

清凉寺(京都市)

 清凉寺は、五台山清凉寺或いは嵯峨釈迦堂の名前で呼び親しまれています。国宝阿弥陀三尊坐像は、源氏物語の光源氏のモデル源融(みなもとのとおる)が造らせた像で、清凉寺の前身棲霞寺の旧本尊です。「光源氏写し顔」の伝説をもってます。

  左右の観音菩薩、勢至菩薩は、密教の手印を結ぶ形で珍しく、他に例は少ないと思います。張った肩、豊かな手足に対して腰は極端にくびれており、神秘的です。一方、観音菩薩は、冠正面に化仏(立像)、勢至菩薩は、冠正面に水瓶を飾る比較的オーソドックスなスタイルです。
 阿弥陀三尊坐像は、三尊ともにヒノキの一木造です。

 国宝釈迦如来立像は、インド―中国―日本と伝わった伝説をもち、三国伝来とよばれています。現在、当寺の霊宝館には、やはり、鎌倉時代の模刻像が安置されています。釈迦像の模造は、日本各地に100体近くあることが知られ、「清凉寺式釈迦像」と呼ばれています。

 

<画像の説明>仁王門 多宝塔 共に京都府指定文化財 江戸時代

 ➡本堂の画像にリンク

 

 清涼寺式釈迦像は、頭が螺髪の代わりに縄目状に表され、衣文線を同心円状に表します。
釈迦如来像体内納入品は、1953年に発見され、釈迦如来坐像とは別に国宝に指定されました。「チョウネン(*)上人へその緒書き」は、日本最古の平仮名書きとしても貴重です。

(*)チョウネンのチョウは、大をかんむりにして下に周をかいた字、ネンは然、<奝然>
<>内は、チョウネンを漢字で書いています。ブラウザの関係で、化ける可能性があります。

 兜跋(とばつ)毘沙門天立像は、制作時期は、平安後期、重要文化財です。東寺兜跋毘沙門天像の模刻像です。獅噛、胸当て、海老籠手等は、東寺像の模刻ですが、東寺像にある金鎖甲はありません(或いは色彩が施されていたが、現在は、色彩が消え去ったのかもしれません)。金鎖甲がないこととまっすぐ前を見、東寺像の様に横睨みしない点で、美術品としての迫力はかなり失われています。

 当寺の兜跋毘沙門天に関しては、本サイトの本編に詳細に記載していますので、そちらもご覧ください。

 ➡兜跋毘沙門天について

 

 ➡兜跋毘沙門天の展開

2017年08月14日

東光院(川崎市)

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 東光院(川崎市麻生区岡上)は、真義真言宗に属していましたが、現在は、単立寺院となっています。当院には、兜跋(とばつ)毘沙門天が安置されていますが、現在のところ、公開されていません。また、現在のところ、特に公開の予定はありません。

 兜跋毘沙門天は、本HPのメインテーマです。
 ➡兜跋毘沙門天については、こちらを参照ください

 

<画像の説明>東光院入口の石碑

 

 当院の兜跋毘沙門天は、一木造、像高96.6㎝、彫眼、宝冠を被らず髻を現します。右手に戟を持ち、左手で宝塔を捧げます。また、唐風の甲冑を着け、腰には、獅噛らしきものが確認できます。地天に載りますが、左右の二鬼はありません。当寺に設置された説明パネルの画像からは、地天の側面が垂直に切れており、かつては、両側に二鬼が配置されていたことが想像されます。
 像は、平安時代のものと考えられ、市の重要歴史記念物に指定されています。

                 <画像の説明>東光院山門

 

 ➡詳細は、こちらへ(毘沙門天を祀る寺院のコーナー)

2017年08月06日

よみうりランド聖地公園(川崎市)

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 よみうりランド 聖地公園は、遊園地よみうりランドの中にあります。重要文化財等の文化財が点在します(聖地公園だけであれば特にイベントのないとき、入場料は必要ありません)。季節により桜や紅葉を楽しむことができます。すぐ上を移動用のロープウェイが通過していきます。それにしても、著名な遊園地と歴史のある文化財の組合せは、面白いと思いました。ぜひ長く保存して戴きたいと思います。

 

<画像の説明>よみうりランド聖地公園  由緒ある多宝塔のすぐ上をロープウェイが通る。
    (ロープウェイのロープが、後で画像処理した様に見えますが、画像処理していません。)


 

<画像の説明>画像左または下:聖地公園多宝塔とロープウェイ
       画像右または上:聖地公園聖門


 重要文化財は、妙見菩薩像と聖観音菩薩立像です。妙見菩薩像は、鎌倉時代後期の作品です。温容と豪快さを兼ね備えています。聖観音菩薩立像は、平安時代前期の作品、現地の説明パネルによると、像高4尺6寸(約1.4m)、一木造です。双方とも内部が暗く殆ど見えません。もう少し明るいところで拝ませて戴きたいと思いました。

 

 重要文化財に指定されていないですが、形が優秀でぜひ大事にしていただきたいのは、多宝塔と聖門です。多宝塔は17世紀の創建、元は、兵庫県加古郡の無量寿院のあったものだそうです。聖門は、高麗門(*)です。600年前の建築で京都御所から竜安寺に移されていたものだそうです。

(*)高麗門は、背面両側に直角に出た屋根があって控え柱の上を覆うもので、屋根平面は、Πの形になった門です。

2017年08月05日

小田原城総構(小田原市)

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 小田原城は、15世紀初めに大森氏によって築城されましたが、15世紀末に伊勢宗瑞(北条早雲)に攻め取られ以降小田原北条氏(*3)5代の居城になりました。近年の研究では、小田原城攻めは、明応の政変(*1)の一環だったという説が有力です。その際の事でしょうか、早雲が、火牛の計(*2)を用いたというエピソードがあって、今JR小田原駅の北口(新幹線側)に、早雲と角に松明を付けた荒れ狂う3匹の牛の銅像が設置されています。

 

  <画像の説明>小田原駅北口に設置されている北条早雲の銅像(牛3匹とともに)

 早雲以来、小田原北条氏は、継続して小田原城の守りを充実させました。小田原城の最大の特徴は、城下町全体を城内に取り込む総構です(*4)。総構によって、小田原北条氏は、上杉謙信の攻勢からも武田信玄の攻勢(*5)からも守り切りました。上杉軍も武田軍もその主体は農民兵であり、農繁期にかかる前に兵を撤退させる必要があるため、長期の包囲には不向きでした。

 しかし、1590年、豊臣秀吉の攻勢によって、小田原北条氏は滅びました。豊臣軍は、常備軍であり、兵站や兵器の充実、そしてその経済力の前では、総構の守備力も殆ど役に立ちませんでした。一夜城を見せられたことにより北条氏政、氏直親子は戦意を喪失したと言われています。

 今、小田原城の総構の遺構は、整備が進んで、非常に良い散策コースに仕上がっています。お城の西側と北側を中心に遺構が残ります。観光資料には、約9㎞の遺構が残ると記されています。(東側と南側は訪れていませんが、殆ど遺構は残っていないそうです)。

 

<画像の説明>両画像とも小田原城総構の遺構(三の丸外郭付近)。写真の左側が郭外となります。

 

<画像の説明>画像左または下:小田原城天守閣 八幡山古郭より撮影
       画像右または上:総構を散策した際のGPSデータ(総距離は約7.4㎞でした)

 総構の散策は、伊勢原市在住のOさんにご案内戴きました。ありがとうございました。

 小田原城の天守閣は、明治3年に廃城になって、昭和35年に天守閣を復興しました。天守閣復興の際に、最上階には本来無かった展望台を設けました。このことで、外観が大きく変ってしまいました。平成28年に耐震補強工事を行い、大規模リニューアルを行いました。

 

<画像の説明>画像左または下:本来の天守閣の模型
  (天守閣内に展示されています。撮影可というで、ガラス越しですが、撮影させて戴きました。)
       画像右または上:現在の復興天守閣
           (最上階の展望台以外は、本来の天守閣が再現されているのが分かります。)

 今、小田原城をすべて木材で建て代えようという運動があるそうです。しかし、私には、木材のみで建立しても、今の工具、製材技術或いは建築技術で建てるのであれば、そんなに意味ある事とは思えません。

 かつて、法輪寺の再建の際に、法隆寺の西岡常一棟梁が木材のみを使用した旧来の工法を主張されました。それは、西岡棟梁の実績と技術があればこそ可能だった思います。宮大工棟梁と建築学の学者さんの深い議論が行われましたが、技術の継承の観点もあって、最低限の鉄筋を使うことで決着したそうです。今後の長いメンテナンスを考えれば、致し方なかったと思われます。(*6)

 電気(台)ガンナで製材した木材を使用して、現在の技術で組み立てる、つまり、材料として木材を使用するだけのプロジェクトであれば、それには疑問を感じてしまいます。当然現在の耐震基準のクリアも必要ですし、外観自体が本来のものとは同じにならない可能性もあります。私としては、現代の技術を使っても、天守閣の外観をできる限り本来の姿に戻すための改造の検討をして戴ければと考えてしまいます。
 この運動を頑張っている方には、大変に申し訳ありません。上記は、私の個人的な意見です。また、私の認識不足については、ご指摘賜れば幸いに存じます。

 

<画像の説明>小田原城銅門外観(平成9年復元)

 

 銅門(あかがねもん)は、見える範囲は木材のみで建てられた、ぜいたくな門です。大変良くできていますが、檜の梁は、電気(台)ガンナで、製材した後に、手斧か槍鉋のようなもので、再度成形されているように見えます。


<画像の説明>画像左または下:小田原城銅門内部の構造材
       画像右または上:小田原城銅門外部の構造材


(*1)明応の政変は、細川政元、日野富子そして伊勢貞宗(室町幕府政所執事)等がクーデターにより10代将軍足利義材を廃嫡し、従兄弟の足利義澄を11代将軍とした事件です。この際、義澄の義兄茶々丸(堀越公方)が、義澄を将軍にすることに反対したため、今川氏親の家臣だった伊勢宗瑞(伊勢貞宗の従兄弟)が、政元や上杉定正と連携して小田原への出兵が行われたとする見方です。
 なお、茶々丸の墓は、伊豆長岡の願成就院に残ります(諸説あります)。

 ➡願成就院の記事はこちらです。

(*2)火牛の計は、牛の角に松明を付けて、牛が赤い色に異常に反応して荒れ狂って、敵に突進させるという奇計です。有名なところでは、倶利伽羅峠の合戦の際に木曽義仲が平家を相手に用いたことが、源平盛衰記に掲載されています。少数の兵を多くに見せて、敵を混乱、壊滅させる戦法と言われていますが、早雲がその戦法を使った可能性は低いと思います。どうしてそのようなエピソードが残されたかはわかりませんが、やはり下剋上の雄とされた旧来の早雲のイメージに合っていたということでしょうか。


(*3)小田原を支配した北条氏は、鎌倉幕府の執権北条氏とは無関係で、室町幕府の政所執事を歴任した伊勢氏の一族です。執権北条氏と区別する観点で、後北条と言われることが多いですが、このHPでは、より分かり易いように小田原北条氏と記しています。


(*4)実は、当時、日本の最大の総構は、大坂城でした。


(*5)武田信玄の進攻に関しては、それほど大規模な侵攻では無かったという研究もあります。

 

(*6)法輪寺は、残念なことに世界遺産の登録がされませんでした。ブログで、以前法輪寺を取り上げたことがあります。
  ➡法輪寺の記事は、こちらです。

 

(追記)
 人気者だった象のウメ子は、2009年に死にました。

 

2017年07月30日

横浜ユーラシア文化館 騎馬民族征服王朝説は?

 本稿では、横浜ユーラシア文化館、横浜開港資料館、シルク博物館についてご紹介させて戴きます。今回は、ベイクオータからピア赤レンガまで、シーバスに乗りました。
今回の散策は、クルムとアルク(きくみるよむあるく博物学)の中山良氏にご案内戴きました。

 中山さん、ありがとうございました。

 

<画像の説明>上左:横浜開港資料館催しもの案内 
      上中央:シルク博物館入場券
       上右:シーバス乗車券(本来回収されるが、お願いすると鋏を入れたうえ戴けます)
       下左:横浜開港資料館パンフレット

       下右:上 横浜都市発展記念館常設展観覧券
       下右:下 横浜ユーラシア文化館常設展観覧券

 

<画像の説明>左または下:シーバスからの横浜ベイエリアの遠景
       右または上:シーバス~移動ルート
              (地図上の横浜開港記念館は、横浜開港資料館とは別の建物です)

 

<画像の説明>横浜レンガ倉庫 当日はイベントで大混雑でした。

 

 横浜開港資料館では、ペリー来航以降大きく変わった横浜の様子が紹介されています。江戸時代から大正・昭和初期に至る横浜関係資料(行政、海外、横浜の風景や風俗等)26万点が、展示されています。たまくすの木を中心にコの字型の新館と旧英国総領事館だった旧館より成ります。

 

<画像の説明>左または下:横浜開港資料館正門 
       右または上:獅子頭共用栓を写したつもりでしたが、残念ながら、人の影に
             なってしまいました。すみません。

 

 シルク博物館は、戦前日本の産業の一角を支えたシルクの魅力を伝えます。横浜開港当初、ジャーディン・マセソン商会のあったところに開設されたそうです。科学・技術の理解とともに実演が見ものです。糸口を取り出す実演は、興味がつきません。

 

<画像の説明>同じ建屋(旧「横浜中央電話局」の局舎)の中に、横浜都市発展記念館と横浜ユーラシア文化館が入ります。

 

 横浜ユーラシア文化館は、以前の「横浜中央電話局」の局舎を使用しており、横浜市認定歴史建造物となっています。江上波夫氏の集められた中国やシルクロード関連の考古・歴史・美術・民族資料約2500点、文献資料約25000点が展示の中心です。

 江上波夫氏は、シルクロードをポピュラーにし、そのロマンを日本に紹介した方です。展示品には、今や絶対に個人では手に入れることのできない貴重な文化財が含まれます。
 江上波夫の騎馬民族征服説は、東北アジアの騎馬民族によって、4世紀末ないし5世紀前半ごろ大和朝廷が創始され、統一国家が出現したという説でした。このサイトの管理人も含めて、60歳以上の人たちには、忘れられない人も多いと思います。

 しかし、この説が発表されるや考古学者を中心に否定的な意見が多く出されました。その多くは、日本独自の前方後円墳が、騎馬民族が襲来したとされる4世紀末の前後で特別な変化が見られない等、同時代には、戦乱の跡や文化的な変化点が見られないことが主な論旨でした。

 それでも、騎馬民族征服王朝説は、ユーラシア全体で民族の歴史を論じた点でロマンがありました。更に、手塚治虫の火の鳥黎明編で、この騎馬民族説がストーリーのモチーフにもなり、ストーリーは心のファンタジーとなりました。

 横浜ユーラシア文化館には、騎馬民族征服説に関する言及は一切ありません。学説としては、今や完全に否定されてしまったからでしょうか。シンポジウムで軽く発表されたにすぎないからでしょうか。例え学会で否定されても、戦後の歴史界に与えた影響、邪馬台国論争等の歴史ロマンを一般市民にも開放するきっかけとなった功績は、大きいと思いますが、如何でしょうか?

 本当のところ、江上氏が、騎馬民族征服説についてどのように考えられていたのか、生の史料を展示するコーナーを作って戴ければ、私はきっと食い入るようにその資料を見ると思います。少し残念でした。


2017年07月24日

生命の星・地球博物館 辰砂のこと(小田原市)

 <本稿は加筆しました(2017/7/17)>

生命の星・地球博物館は、箱根登山鉄道入生田駅のすぐそばにあります。名前の通り展示の中心は、宇宙関連、鉱物、化石等です。 その展示品の中に、奈良県宇陀市原産の辰砂がありました。考古学で取り上げられることのある辰砂について取り上げたいと思います。

 

<画像の説明>生命の星・地球博物館外観


初期の大和朝廷と辰砂の関係は、多くの人が指摘されています。纏向遺跡の発掘により初期の大和政権(敢て邪馬台国とは言いません)が、飛鳥地方より勃興したことが確実視されるようになりました。なぜ大和が権力の中心になることができたのかの議論の中に、国産の辰砂が近郊で生産されたことが一因とされる有力な説があります。 因みに、赤色は幼児が最初に覚える重要な色と言われます。太陽に対する信仰の表れともいわれることもあります。日本民族のみならず、世界中の多くの民族が信仰の対象とする色です(*)。

<画像の説明>生命の星・地球博物館において展示されていた辰砂(奈良県宇陀地方産)

 

 日本では、弥生時代や古墳時代、水銀朱が、死者の埋葬に使われました。朱色を作り出し、定着させるために必要な辰砂ですが、古墳時代には、その多くを丹生鉱山(三重県)或いは宇陀の鉱山(大和水銀鉱山)から採掘されたと考えられています。紀伊半島から四国にかけて中央構造線に沿って水銀鉱床群があります。朱を取り出すために、辰砂鉱石を粉砕して精製しました。その精製技術は、当時、最先端のハイテク技術でした。 最近の硫黄と水銀の同位体分析で、大和で出土する古墳からこれらの鉱山から採取された水銀と同じ同位体比が検出され、これらの鉱山と大和朝廷の関係が裏付けられました。  邪馬台国大和説は、巻向遺跡の発見以来特に優勢になっています。しかし、北九州に比べて後進国だったヤマトの政権がなぜ日本の統一王朝を作ることができたのかと疑問を呈する人も多くいらっしゃいます。ヤマトが辰砂鉱山とその精製技術を確保していたことも要因の一つと考えられます。

 

(*) 近畿大学理工学部生命科学科 南武志氏の地学クラブ講演報告『遺跡出土朱の起源』によりますと、「古代に用いられた無機赤色顔料化合物に朱(硫化第2水銀)、ベンガラ(酸化第2鉄)、鉛丹(四三酸化鉛)の3種類があり、これらは厳密に区別されていない。更に遺体周辺には貴重な朱を用い、周囲の壁などは、ベンガラを使い分けすることがある。」とされます。 この研究からは、朱色に染められた平城京のような古代の建築は、‘朱’では無く、ベンガラと考えた方がよさそうです。古代において、辰砂⊆朱(朱が辰砂とは限らない)、辰砂が主に埋葬に使われたことは、朱色という色も重要ですが、遺体の保全に水銀が重要だと古代の人が考えていたことを認識させて戴きました。
 (本資料については、クルムとアルクの博物学の中山良氏よりご教授戴きました。)

 

 



追記:<画像の説明>

 

 生命の星・地球博物館のある箱根登山鉄道入生田駅は、三線軌道(軌条)が見られます。また、一寸遠く見づらいですが、三線軌道の分岐も見られます。この駅のすぐそばに、箱根登山鉄道の電車の操車場があります。この駅では、上り(小田原方面)は通常の狭軌の軌道のみですが、下り(箱根湯本方面)は、三線軌道です。
 小田急線は複線の狭軌、箱根登山鉄道線は、単線の標準軌です。入生田駅~箱根湯本間は両方が乗り入れしているため、このような面白い風景が見られます。

2017年07月17日

鳩山会館 旧岩崎邸(東京都)

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 今や売れっ子作家となった万城目学氏の著書『ぼくらの近代建築デラックス!』(文芸春秋社)は、門井慶喜氏との近代建築に関する対談集で、京都、大阪、神戸、東京と地域別に様々な近代建築を紹介しています。その中に私が東京の建造物として気になっていた2つの建築が紹介されていましたので、急遽予定を変更して、ご紹介させて戴きます。


 一つ目は、鳩山会館です。鳩山会館は、1924年建築家岡田信一郎氏によって建てられました。大正時代の作品です。岡田氏には、他に歌舞伎座、明治生命館(国の重要文化財に指定)等の作品があります。明治以降の建造物は、スポンサーばかりか、設計者がわかりますので、設計者毎の横にらみの楽しみ方も可能となります。

 

<画像の説明>鳩山会館主要部分
 

 建物自体はすっきりしていて、素晴らしいです。文句はありませんが、鳩山家らしく?あちこちにハトのオブジェがあります。これも岡田氏のアイディアでしょうか?おそらくスポンサーの要求でしょうが、一寸やりすぎ感を感じます。


 内部は、公的な部分と私的な部分が混然一体となっています。鳩山一郎氏をはじめ鳩山家は歴代の総理大臣をはじめ政府高官を輩出しましたが、その私邸だったということなので、私的に様々な人々が訪れパーティーや或いは密談を凝らしたのでしょう。徳川幕府で言うところの中奥といった立ち位置でしょうか、階上には家族の生活空間があります。
 それにしても、「友愛」は地に落ちてしまいました。今や、『鳩山家に学ぶ教育法』は、アマゾンで、1円で売っています。

                     <画像の説明>鳩山会館の屋根に飾られる鳩のオブジェ

 

<画像の説明>旧岩崎邸母屋主要部分

 


 2つ目は旧岩崎邸です。旧岩崎邸は、岩崎弥太郎の子供岩崎久弥(三菱グループ第3代総帥(*))の自宅でした。青いドームが印象的です。石造りのように見えますが、実は木造建築です。1896年(明治29年)ジョサイア・コンドルによって建築されました。明治時代の作品です。
なぜ、わざわざ木造で建てたのか、またわざわざ石造りに見せたのかは良く分かりませんが、重厚感のある良い建物と思います。周辺の環境と一緒に楽しむことができます。

                      <画像の説明>旧岩崎邸母屋屋根上のオブジェ


(*)総帥と書きましたが、実際どう呼ばれていたのかは調べられませんでした。すみません。

2017年07月07日

三星堆博物館(四川省)

  三星堆遺跡は、約5000年前から約3000年前頃に栄えた古蜀(古代四川)文化です。三星堆博物館には、三星堆遺跡から発見された異様な造形が特徴な青銅製の仮面や巨大な人物像が多数展示されています。

 

<画像の説明>三星堆博物館の展示品(模刻)

 

 残念ながら、写真は撮れませんでしたが、目が大きく飛び出た(円柱が目から飛び出している)銅面は、印象深いです。なぜこのような造形がなされたのかいろいろ考えましたが、想像は尽きません。
それ以外にも、掲載した画像(模刻)も、四角く角張った顔、巨大な目、およそ今のアジア系の顔からは想像できません。古代蜀の地に住んだ宇宙人という評価も、あながち想像だけではないような造形です。

 

<画像の説明>
左或いは下:三星堆博物館の外部にあるオブジェ。前面は、太極図(巴のようなマーク)が描かれた太極拳の道場になっています。右または上:三星堆博物館の外部にあるオブジェ。

 

 中原の歴史で言えば、夏・殷(商)時代に相当します。考古学的には、最近は仰韶文化から竜山文化或いは二里頭文化と呼ばれる新石器時代から青銅器文化の時代です。殷(商)時代には、青銅器文化が花開きました。
 中原と四川の文明の関係は、ある程度の関係はあったというのは間違いないと思われます。しかし、具体的にどのような関係があったのかは、良く分かっていません。
星堆博物館において展示品を一通り確認しましたが、金石文は発掘されていない様です。この時代、中原では、多くの甲骨文字が発見され、以降の歴史時代とのつながりが、解明されていっています。その点、三星堆文化は、2000年以上文化が継続されましたが、次の時代につながることなく歴史から忘れさられました。
 中原の文化とは異なり、しかも高度に発達した四川地域の青銅器文化の存在は、中華文明の多源性を証明してくれると言われています。三星堆文明の更なる解明が期待されます。

2017年07月03日

足利学校(栃木県足利市)

 足利学校は、現地で戴いたパンフレットによりますと、足利学校の創設は諸説ありますが、あまりはっきりしていない様ですが、関東管領上杉憲実(うえすぎのりざね)により1432年頃に再興されたとされます。

 

<画像の説明>復元された足利学校の方丈と庫裏

 足利学校の実態は、それほど分かっていませんが、1549年、フランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介されました。フランシスコ・ザビエルが、当地に赴いたわけではないのに、どのようにしてこの情報を得たかは、私は良く知りません。

 

<画像の説明>足利学校入徳門

 富樫倫太郎氏の小説『早雲の軍配者』に、主人公の風間小太郎が、学問のために足利学校に入学するシーンがあります。北条早雲の晩年、フランシスコ・ザビエルが日本に来る数十年前の時代設定ですが、学徒3,000人、名実ともに日本の最高学府との記述があります。小説の記述ですので、本当である必要は無いのですが、現在の遺構からは学徒3,000人は想像できません。小説の中では、小太郎が、孫子、呉子、易経等を筆写しながら、独学で学んでいくシーンが描写されています。


 現地を見る限り、私のイメージですが、学校というより図書館に近いのではないかと考えました。 フランシスコ・ザビエルの記述はともかくも、室町時代、戦国時代の足利学校に関する記述が、中央の文献にそれほど多くないことからは、その時代の実態はあまりわからないのではないかと思います。更に詳細な調査をお願いしたいと思います。


 昭和57年より、「史跡足利学校跡保存整備事業」が実施され、平成2年江戸中期の姿がよみがえりました。足利学校は、日本遺産に認定されましたが、世界遺産を目指して活動されています。更に頑張って戴きたいと思います。

 

 

                   <画像の説明>足利学校入学証
           (入場時にパンフレットと一緒にもらえます。)

2017年06月19日

元興寺(奈良市)

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 元興寺は、我が国最初の本格的伽藍である飛鳥寺(法興寺)を前身とします。はじめ蘇我氏の氏寺でしたが、平城遷都に伴い官大寺として、現在地に移建され、元興寺と称せられる事となりました。 平安京遷都以降、寺勢は衰退しましたが、元興寺の命脈を支えることになったのは、奈良時代に智光が感得したと伝える智光曼荼羅(阿弥陀浄土変相図)でした。平安時代に起った阿弥陀信仰は、上流階級だけではなく一般庶民も極楽往生を願い、信仰の対象がこの智光曼荼羅となりました。 極楽坊は、従来の元興寺の唯一火災を免れた遺構です。鎌倉時代に、創建時の大僧坊を改装し、西方浄土(さいほうじょうど)を拝むために、東門を開きました。今も、東門からまっすぐ西方に極楽坊を見ることができます。

 

<画像の説明>元興寺極楽坊

 

 このことは、以前このコーナーで取り上げた當麻寺も同じ状況です。当麻寺の場合は、それまでの南向きに建てられた金堂、講堂とは別に、東向きに新たに本堂を建て、当麻曼荼羅を祀っています。

 

  ➡当麻寺はこちらをご覧ください。


 元興寺極楽坊のすぐ隣、有名な奈良時代の国宝五重小塔の安置された法輪館と呼ばれる収蔵庫には、毘沙門天立像が祀られています。ここの毘沙門天立像は、宝塔を持たない所謂鞍馬式です。毘沙門儀軌には、根本印として、「右押左叉」と述べられています。鞍馬寺をはじめとした右手を腰に当て左手に叉をもつ単独で祀られた毘沙門天の本来の像容と考えられます。  鞍馬式毘沙門天については、「鞍馬寺」或いは本編「2.7幸福神としての毘沙門天」の項で詳細に説明させて戴きました。

 

  ➡鞍馬寺式毘沙門天については、こちらをご覧ください。


  ➡「2.7幸福神としての毘沙門天」については、こちらをご覧ください。

2017年06月19日

長城第一墩(甘粛省)

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 万里の長城は、行ったことのある方も多いと思いますが、その多くは、北京近郊の八達嶺長城に行かれたのではないでしょうか。ここは、高速道路も整備されていますので、北京を訪れた中国人の多くもここを訪れます。

 

<画像の説明>北京近郊の八達嶺長城 人が鈴なりにつながる

 

 八達嶺長城は、北京から75kmのところにあります。長城が北京の街から如何に近いかと同時に、北京という中国の首都が如何に北に偏っているかを物語る一端でもあります。

 今回ご紹介するのは、甘粛省嘉峪関に近い、長城第一墩(dun)です。明代長城の最西端です。東の端の山海関(河北省)から延々と続く長城ですが、画像の討頼河という河(甘粛省嘉峪関)で終点となります。かなり崩れ落ちているところもありますが、規模や完成度の点でも、北京近郊とは比べるべくもない貧弱さです。

 討頼河には、展望台が突き出ていますが、床がガラスで、高所恐怖症の人では、足が出せないと思います。中国の信頼性の基準では?と思いながら、折角の記念なので、最先端まで行って写真を撮ってもらいました。

 

 

<画像の説明>討頼河(甘粛省嘉峪関)

 

 

<画像の説明>画像1:討頼河に突き出た展望台。
画像2:長城第一墩の標識。後方に修復中の
長城が見える。

2017年06月05日

東大寺法華堂 不空羂索観音を中心に

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 東大寺法華堂は建物として、国宝です。正面5間、側面8間、奈良時代創建の正堂と鎌倉時代再興の礼堂を融合させた建物です。

 

<画像の説明>東大寺法華堂。このあたりまで来ると、人口密度も鹿密度もだいぶ低くなります。

 

 法華堂のパンフレットによると、「堂内には御本尊の不空羂索観音立像を中心に合計10体の仏像が立ち並び..」と記載されています。確かに、四天王をはじめとした周囲の八尊は、不空羂索観音に従属する護法神に見えます。
 脇侍のはずの梵天(像高402㎝)、帝釈天(像高403㎝)が、不空羂索観音立像(像高362㎝)より大きいことから、梵天、帝釈天か不空羂索観音のどちらかが、他の場所から請来されたのではないかと言われることもあります。確かに、同時に作られた脇侍が本尊より大きいというのは考えづらいかもしれませんが、法華堂の四天王をはじめとした八尊は実は本尊です。

 「四天王をはじめとした八尊が本尊」は、このサイトのテーマの一つですので、別項にまとめておきました。


   ➡「四天王をはじめとした八尊が本尊」はこちらをご覧ください。

 

 法華堂に祀られた、10体の仏像は、すべての仏像が国宝です。不空羂索観音、四天王以下八尊一具、そしてもう一体は秘仏の執金剛神です。不空羂索観音の手前に安置された金剛力士像と秘仏の執金剛神の関係は、私には良く分かりません。また、執金剛神のみが秘仏(開扉は、12月16日です)となっている宗教的理由も良く分かりませんが、東大寺が成立する前の金鍾寺時代には、良弁の持念仏だったとの伝承を持つ古い仏像です。執金剛神は、粘土を固めただけの(焼成もされない(*))塑像ですが、体から離れたハク帯(ハクは、白の下に巾)が、躍動感を醸し出します(**)。執金剛神のみが塑像、他の9体は脱活乾漆像です。

 不空羂索観音は、八角の壇にのり、梵天、帝釈天より像高が高く見えるよう工夫されています。表情が厳しく、重量感、存在感を感じます。天衣はナチュラルです。

 

(*)この時代、仏像を焼成することのできる大きな窯はありませんでした。

 

(**)塑像として東大寺戒壇院の四天王が有名ですが、ハク帯を体に密着させています。塑像では、ハク帯を体から離すことは難しく、執金剛神の場合は、芯に補強のための金属が使われていると考えられます。

 

(追記)

 脱活乾漆像の制作方法と歴史について少し追加させて戴きます。木材の豊富な日本では、平安時代以降は、木彫が主流になりましたが、奈良時代は、塑像と脱活乾漆像が造像の中心でした。塑像は、安価で短納期ですが、強度的には脱活乾漆像には及びません。

 脱活乾漆像は、7世紀末に日本で発明されました。その最初期の遺品は、当麻寺の四天王、680年代の作品です。脱活乾漆像は、木材と粘土の芯の上に、漆を染み込ませた布を何重にも張り合わせていきます。脱活乾漆像の自立体は漆を染み込ませた布です。そのため、漆と布が十分乾燥した後は、木芯と粘土を抜き去ることができました。製作工程が複雑で短期間で完成させられない大変高価な方法でした。漆が如何に高価だったかは、『正倉院文書』に、730年代に建立された興福寺西金堂の脱活乾漆像が、「仏像用の漆の価格が堂の建築費に匹敵した」旨記録が残ります。この時代、国家によって造寺造仏が管理されていましたので、確かな記録として残っています。

 また、奈良時代末期(鑑真の来日)以降発生した木心乾漆像は、木芯の上から木屑と漆を混ぜた木屎(こくそ)を塗って更に漆で成形したものですが、その自立体は木芯です。そのため、木芯を内部に残す必要がありました。 
 平安時代以降、奈良は、戦乱によって何度も被災しました。軽量で丈夫だった脱活乾漆像は、その都度戦乱を避けて疎開が可能でした。このことは、金銅仏の大仏が何度も被災したことと対比すれば納得できます。

 

2017年06月05日

鶴岡八幡宮と鎌倉国宝館

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 鶴岡八幡宮は、源頼義が、前九年の役の戦勝を祈願して、京都の石清水八幡宮を鎌倉に勧請したのが始まりです。更に、頼義の長子八幡太郎義家が修復を加えました。義家の4代後の源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、武家社会の発展とともに発展を遂げていきました。

 

<画像の説明>画像1:鶴岡八幡宮本殿側面 画像2:鶴岡八幡宮本殿正面


 今の観光ブームは、鎌倉も例外ではありません。多くの外国人、着物を着た女性等大変な賑わいで、鶴岡八幡宮の写真もなかなか思うようには撮れません。
 公暁が実朝を殺害した際に身を隠したと伝えられていた隠れ銀杏の木は、2010年3月10日の大風で倒壊しましたが、今はわずかに芽が出ている状況です。身を隠せるくらい大きくなるのは、何百年もかかるのでしょう。

 

<画像の説明>鶴岡八幡宮と隠れ銀杏の木の切り株


 鎌倉国宝館は、昭和3年に開館しました。おそらく市レベルの博物館では最も早い開設です。関東大震災で被災した文化財を保存、そして一般の人に展示するために創設されたそうです。館内は、お寺の須弥壇に見立てたところに展示品が置かれています。展示品まで近く、しかもガラスの仕切りもなく直接鑑賞可能です。実際に寺院に祀られた状態をできる限り再現したいということだそうです。博物館のこのような形式の展示は、文化財の保存の観点で最近は難しいのではないかと思います。当館は、とっても来館者フレンドリーで素晴らしいと思いました。

 

 東京国立博物館をはじめとした国立の博物館(現在では、独立行政法人)が、昭和26年に成立した博物館法の対象外の中では、鎌倉国宝館は博物館法を設立の根拠とする博物館の中では、最も充実した博物館の一つだったと思いますし、今もそうだと思います。
 現在(2017年5月20日)は、阿弥陀三尊の特別展示がされています。今回祀られた阿弥陀三尊像は、「慶派のほとけ」とキャッチコピーが付いています。

 

<画像の説明>鎌倉国宝館(鶴岡八幡宮の敷地内に位置します)

 

 1186年には、若き運慶が北条時政に招来されて、伊豆長岡の阿弥陀如来、毘沙門天をはじめとした願成就院の諸像を造りました(*)。運慶の系統が関東地方に根付いていることは、歴史的にも、そして力強い武士のための躍動感豊富な彫刻が多いことも、私達は、実感として持つことができています。そのような背景のなかで、快慶の影響については、考えてもみなかったので、大変楽しみな展示テーマです。
 このことをもう少し説明させて戴きます。私たちは、慶派の作品として、東大寺南大門の金剛力士像を先ずはイメージします。運慶が最初からあのような力強い武士好みの作品をアウトプットした訳でなく、願成就院造像以降の運慶と鎌倉武士との交流が、東大寺南大門の金剛力士像のような力強く躍動感のある作品を生みました。東大寺金剛力士像は、運慶が鎌倉武士に描いていたイメージでした。一方、快慶は関東地方での活躍は希薄です。
 関東地方に安置されているにもかかわらず、展示の阿弥陀三尊は、柔らかで温和で、宋の影響を強くうけた作品です。教恩寺阿弥陀三尊像は、阿弥陀如来立像に対して、左右の菩薩像は中腰です。まるで、京都三千院阿弥陀三尊像の阿弥陀如来如来坐像が立ち上がると、大和坐りしていた左右の菩薩も思わず立ち上がり中腰になった感があります。

 館の説明資料では、肥後定慶の影響を認めつつも快慶の系統に近い面睨とコメントされています。言うまでもなく、秀逸な作品で、今回の特別展は私にとって有意義でした。

 

 ところで、阿弥陀三尊像は、阿弥陀様に向かって右の観音菩薩、左の勢至菩薩をセットにした祀り方です(**)。阿弥陀三尊像の観音菩薩、勢至菩薩の見分け方には、決まりがあまりありません。ほとんど同じ場合もあります。(***)。左右に配置された菩薩の根拠を、ご説明戴いた学芸員にお聞きしたところ、従来お寺に祀られている通りに展示している、長い歴史の中で、入れ替わっていてもわからないとのことでした。

 

(*)慶派(或いは慶派成立前の奈良仏師)と鎌倉武士のつながりは、1185年奈良仏師成朝が頼朝に招来されて、鎌倉の勝長寿院の仏像を造ったのが嚆矢とされます。奈良仏師と鎌倉武士のつながりは、平家滅亡の直後から開始され、更に運慶が発展させました。

 

(**)仏像の解説書では、阿弥陀様と仏像の並びで表現することが多いです。その場合は、左に観音菩薩、右に勢至菩薩と説明されています。仏様の並びはその通りですが、拝観する私たちは、向かって仏様を拝みますので、右が観音菩薩、左が勢至菩薩という方が、分かりやすいので、私はいつもこのように表現させて戴いています。
 ついでに言えば、このような菩薩の配置のルールにこだわるのは、日本ならではです。中国例えば敦煌では、観音様が如来の右側に祀られる例はたくさん見られます。

 

(***)阿弥陀三尊像の両脇侍の比較

<鎌倉国宝館の特別展示>

  右像(観音) 左像(勢至) コメント
金剛寺
左手に具物(1)

両手で具物(1)
秦野市
教恩寺(2)
両手を正面で揃える

正面で合掌
鎌倉市
両菩薩は中腰

(1)蓮の葉を丸めて先に蓮華座のようなものが付いています。固有名詞はわかりません。
(2)正面で揃えた手は、蓮華座が外れた(今は無い)のであれば、下記の三千院と同じ組み合わせとなります。

 

<著名な阿弥陀三尊像の例>

  右像(観音) 左像(勢至) コメント
清凉寺 冠正面に化仏 冠正面に水瓶 京都市
浄土寺浄土堂 冠正面に化仏
左手に水瓶
冠正面に化仏
両手で蓮華座
兵庫県
快慶作
三千院
正面で蓮華座

正面で合掌
京都市
大和坐り

 

 

(追記)

 古い商家に残された、商品或いは材料の搬入出使用されたと思われるトロッコ(荷車)用の線路です。
 鎌倉駅から本殿まで参道を歩く間に見かけた風景です。同行の方の指摘で思わず写真を撮りました。
 同商店は、鎌倉 「三河屋本店」というそうで、検索エンジンでもヒットしますしす。


 

 

 

2017年06月05日

秋篠寺 秋篠大元帥明王(奈良市)

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 秋篠寺は、本堂の伎芸天が有名です。名前から芸術家やタレントのタマゴが訪れることがあるそうです。確かに、首を一寸傾けた像は情感たっぷりです。現地で買い求めた写真を満載したパンフレットには、伎芸天が本来の尊名であったかは定かではないという記載がありますが、普通には観音菩薩立像に見えます。

 この像が理由も時期も良く分からないのですが、おそらく鎌倉時代の修理に際して首を傾けてしまった(或いは意識して首を傾けた(*))以降、他にはほとんど例のない伎芸天という尊像名を与えたことで、現在では、伎芸天が秋篠寺の人気を支えています。マーケティングの妙で、私は常々感心しています(伎芸天の人気に水を差すわけではありません)。

 

(*)伎芸天の頭部は奈良時代の乾漆像、体部は、鎌倉時代の木彫です。

 

<画像の説明>秋篠寺本堂 堂中に伎芸天が祀られます。

 

 今回ご紹介するのは、本堂の西の大元堂に安置された秋篠大元帥明王(だいげんすいみょうおう)です。なお、真言宗の寺院では、帥(すい)は、発言しないそうで、お寺が発行した資料には、「だいげんみょうおう」と記載されています。

 大元帥明王の図像は、遣唐僧 常暁(じょうぎょう)が、839年に日本に請来しましたが、6本の手をもち、体じゅうに蛇が巻き付いた忿怒像です。朝廷の鎮護国家の祈祷(国の怨敵や逆臣の調伏)のために重用されたため、朝廷の許可した真言寺院以外が大元帥明王を祀ることを禁じました。そのため、大元帥明王自体は、あまり多く作られなかったと考えられます。秋篠寺は、真言宗醍醐寺或いは朝廷との関係が深く、大元帥明王が祀られたと考えられます。

 

<画像の説明>画像1:旧本堂跡。本堂が平安時代末、被災した後、講堂(元、本堂)が、本堂として使われています。画像2:大元帥明王の祀られる大元堂。

 

 大元帥明王は、秘仏となっていますが、年に1日(6月6日)に一般公開されます。その日は、普段の静寂さとは打って変わって朝早くから、多くの人が来られ、列をなします。大型の観光バスで団体客も来られます。

 

<画像の説明>大元帥明王の御開帳日(6月6日)に順番を待つ人々。その多くは、御朱印を求めて集まった人です。当日は大型の観光バスらで来場する人もいます。2015年6月6日の風景です。

 

 しかし、よくよくその人たちに話を聞いてみると、私の様に大元帥明王を見たい人は殆どいなくて、大元帥明王の御開帳に合わせた特別な御朱印がもらえるという、御朱印人気にあやかったものでした。御朱印をもらうと、入場することなく、帰られる方が多く見受けられます。年に一度の特別拝観の日のみ特別の御朱印を授けるということで、これもマーケティングの結果をきちんと集客に反映させておられるのだと思います。

 追記:大元帥という言葉が、軍組織における大元帥や元帥の呼称の語源になったという説を聞いたことがあります。以前から気になっているのですが、個人的に調査したことはありません。どなたかご教授戴ければ嬉しいです。

2017年05月21日

法隆寺中門と金堂

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 私の高校時代に、哲学者梅原猛氏の著書『隠された十字架』は、大ベストセラーになりました。梅原氏はその中で、法隆寺は、聖徳太子の怨霊を鎮魂する目的で建てられたと主張されました。その根拠の一つが、掲載画像の中門が偶数の四間で、中央を閂で閉じているということだったと思います。確かに、普通中門は三間か五間で、中央が通れるようになっています。

 

<画像の説明>法隆寺中門 四間の門


<画像の説明>三間の門

 画像1:清凉寺山門  画像2:当麻寺仁王門

 

<画像の説明>五間の門
画像1:東大寺南大門  画像2:平城京朱雀門

 

 今改めて法隆寺の中門をみると、三間だと空間が狭いし、五間だと広過ぎると感じます。これは、塔と金堂が並列するという法隆寺の独特の伽藍配置と寸法が関係しているようです。四間の効能はわかりませんが、伽藍の横寸法からは、四間がビジュアル的に最も良いことは確かと思います。
 今、梅原氏の法隆寺=怨霊鎮魂は、学会ではほとんど否定されています。聖徳太子信仰自体が確立するのは、奈良時代中期以降で、この伽藍の成立よりだいぶ後のことだというのが、歴史的事実だからだと思います。

 

<画像の説明>法隆寺西院 並列に並んだ金堂と五重塔

 

 法隆寺西院伽藍内部には、金堂と五重塔があります。戦前(第二次世界大戦前)には、法隆寺再建説、非再建説で学会がにぎわったそうですが、若草伽藍の発掘で、私の高校時代には既に再建説が定説となりつつありました。日本史の教科書では、あくまで、607年建立(群れなす。。)と習いました。考古学の成果は、確かな証拠を歴史学に突きつけます。考古学により否定された説を降ろす学者の先生は難しいことになります。

 ともあれ、法隆寺は、日本書紀によると、670年に炎上し、今の場所に7世紀末から8世紀初めにかけて再建されたことになります。詳細の再建時期は、使用されている材木の年輪年代法により解明されつつあります。私は、再建時期もさることながら、そのスポンサーが誰だったかに興味があります。607年段階スポンサーだった聖徳太子とその子孫の上宮王家は、再建時期には既に滅んでいたからです。

 

 法隆寺金堂には、多聞天と毘沙門天が祀られています。一つの堂宇に多聞天と毘沙門天が祀られる珍しい像容形式になっています。

 ➡その理由に関しては、こちらをご覧ください。

 

 

2017年05月13日

鞍馬寺と由岐神社(京都市)

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 叡山電鉄鞍馬駅をでて、左に折れると直ぐに鞍馬寺仁王門が見えます。仁王門では、愛山費という名の入場料を支払います。ケーブルカーもありますが、由岐神社に行くには徒歩で山道を登る必要があります。

<画像の説明>鞍馬寺仁王門

 

 由岐神社の神前の説明書きによると、天変地異が続く都を鎮めるため940年に祀られたとのことです。重要文化財の拝殿は、1607年豊臣秀頼によって再建されました。中央に石段をとって、二室に分けた割拝殿(わりはいでん)をもつ桃山建築です。前方は、舞台造り(懸造り)となっています。由岐神社は、鞍馬の火祭の舞台としても有名です。由岐神社から鞍馬寺本殿までは、清少納言の枕草子に「近こうて遠きもの」と書かれた九十九折り(つづらおり)が大変な山道です。

 

<画像の説明>

<画像の説明>画像1:由岐神社割拝殿 画像2:由岐神社正面 舞台造り(懸造り)が見える。

 鞍馬寺の詳細は、こちらです。

 ➡毘沙門天の像容について

 ➡幸福神としての毘沙門天について

2017年05月02日

成島毘沙門天(岩手県花巻市)

 成島毘沙門天像は、子供の泣き相撲で有名な熊野神社の一角にあります(子供の泣き相撲は、5月上旬に毘沙門まつりのメイン催事として開催されます)。

 説明書きによると、本像は、坂上田村麻呂(758年-811年)の伝説とオーバーラップされています。確かに当地は、坂上田村麻呂の北進の限界である志波城(盛岡市、803年)にも程近くこのような伝説があっても不思議ではありません。

 

<画像の説明>成島毘沙門天立像(含む地天)と二鬼坐像地天(バックに伝吉祥天)

 

 兜跋(とばつ)毘沙門天像は、形式は、地天の上に直立する兜跋タイプです。甲制は、東寺像等とは違い、西域的要素は見られません。欅の一木造り、全長が4.73m(丈六)ある巨大な像です。地天の横に2鬼が分かれて祀られていますが、当初は、地天に連結されていたと考えられます。側に金光明最勝王経において毘沙門天の妻とされる吉祥天像(伝)が安置されています。毘沙門天とのバランスが悪く、当初から一緒に安置されていたのではないと考えられます。
 兜跋毘沙門天像、伝吉祥天像、二鬼坐像は、重要文化財に指定されています。

 

<画像の説明>熊野神社毘沙門堂(旧来本堂内に毘沙門天立像が祀られていました)

 

 11世紀頃の作品と考えられていますが、松浦正昭氏は、日本の美術NO315『毘沙門天像』の中で、比叡山の俗別当伴国道(*)発願像を原典とすると述べられています。

(*)伴国道(768年-828年、陸奥按察使(むつあぜち)828年)

2017年04月22日

朝日観音堂(神奈川県南足柄市)

 朝日観音堂は、伊豆箱根鉄道大雄山線の終点大雄山駅より徒歩で約30分のところにあります。
 本堂は、江戸時代に作られた茅葺き、1辺4間、宝形造り(ほうぎょうづくり)の建造物です。基礎は亀腹(土の表面を漆喰で塗り固めたもの)です。木造聖観音立像、木造兜跋(とばつ)毘沙門天立像等が祀られていたようですが、それらは、現在本堂の前に建つ収蔵庫に安置されているそうです。

 

 南足柄市教育委員会によると、17年に1度の御開帳で、次回の御開帳は、平成33年とのことです。収蔵庫の前に設けられた立て看板によると、本尊の聖観音立像は、像高133㎝、平安時代の作で内刳はない、兜跋毘沙門天像は、3体あり、そのうち痛みのひどい1体は、像高132.5㎝平安時代の作とのことです。その他、平安時代から江戸時代の小仏像13体が残ります。観音堂及びこれらの仏像は、県の指定文化財になっています。 周辺には、路傍の石仏や無縫塔(卵塔)等が残ります。

 

<画像の説明>画像1:朝日堂本堂全景 画像2:朝日堂本堂と収蔵庫

 

 なお、せきどよしお氏のウェブサイト「せきどよしおの仏像探訪記」によると、自治会長さんが管理しており、事前にお願いすれば、拝観可能とのことです。せきど氏のサイトには、更に詳細に像容が語られています。

2017年04月22日

東寺兜跋毘沙門天と講堂の多聞天

 東寺の兜跋(とばつ)毘沙門天像は、日本における兜跋タイプの毘沙門天像の基本仏です。これについては、本編で詳しく述べました。下記はリンク先です。

 ➡兜跋毘沙門天についてにジャンプ

 一方、東寺全体の仏像を論じる場合、秀逸なのは、講堂の立体曼荼羅です。講堂には、21体の国宝仏が安置されています。その中の多聞天は、地天に乗った兜跋タイプです。地天に乗った兜跋タイプの多聞天は珍しいと思います。なぜ、通常の多聞天ではなく、兜跋タイプなのでしょうか。

 もう少しこの問題を整理します。

 本サイトのトップページに記載していますが、四天王の1天として祀られる場合は多聞天、単独で祀られる場合は、毘沙門天と一般的には言われています。サンスクリット語の’ヴァイシュラヴァス神‘の子を漢訳した際の音訳が、毘沙門天、意訳が多聞天であるとされます。多聞天と毘沙門天は、本来同じ尊格ですが、多聞天は、一般には、邪鬼の上に乗ります。東寺の多聞天は、地天にのる多聞天であり、極めてユニークです。

<画像の説明>画像1 東寺五重塔遠景(東寺小子房より) 画像2東寺毘沙門天堂と説明パネル

 

 炳霊寺石窟(甘粛省臨夏回族自治州永靖県)28ガン(実際には 龕(ガン))には、四天王のうち、地天にのる広目天と多聞天が祀られていますが、中国でも極めてこのタイプは珍しいと思います。

 

『空海と密教美術展』(2011年東京国立博物館特別展資料)によると、「(東寺講堂の)多聞天は、補修が著しいが、近年の修理で面部は造像時の様子と大きく変わっていないことが判明した。」と述べられています。講堂諸像の開眼は839年、檜の一木造、木彫に薄い木屎漆で細部を塑形しているとのことです。

 

 多聞天は、補修が多いとのことですが、地天については、特に記載はありませんが、当初からのものと考えた方が良いと思われます。この兜跋タイプの多聞天は、西域風の甲制は着装せず、獅噛は着装しない通常の多聞天タイプです。右手に宝塔を持ち、左手に戟を逆手に握ります。兜は、唐風で、三手に分岐しています。東寺の四天王は、持国天が最も憤怒の様子を表しますが、多聞天は瞋目(目をいからすこと)が大変な力を感じます。

 

 講堂の多聞天が、なぜ、地天に乗るかに関しては、いくつか説がありますが、実は良く分かっていません。智泉様の毘沙門天の効能と従来からの多聞天の像容を併せ持つ像として東寺独特の像容を仏師集団が創造したのではないかと考えますが、シロートの邪推でしょうか。

2017年04月22日

藤里毘沙門天(岩手県奥州市)

 藤里毘沙門天は、地天の上に毘沙門天がのる兜跋(とばつ)形式の毘沙門天です。説明書きによると、トチノ木による一木造で内刳は施していません。総高232㎝、花巻の成島毘沙門天の半分の高さです。11世紀当地の作像と想定されています。 毘沙門天の安置された施設の前の説明書きには、本像は、成島毘沙門天同様やはり、坂上田村麻呂の伝説が残っていたとされます。

 

<画像の説明>画像1 兜跋毘沙門天(重要文化財)一木造 平安時代(11世紀) 鉈彫り

       画像2通常の毘沙門天(県指定文化財)寄木造 鎌倉時代 鉈彫り

 

 この像は、顔を除いて、鉈彫りがみられます。鉈彫りは、丸鑿の縞模様を残した仕上げを施した像をいう。鉈彫りは、中央には見られず分布は東日本に限られます。当寺のパンフレットによると、分布が限られるうえ、作成の時代も平安末期に集中しており、その作例が相当数見られることを考えれば、完成前の途中段階の作品ではなく、一つの造像技法と考える方が自然とのことです。 鉈彫りに関しは、私は、当寺の毘沙門天以外では、神奈川県宝城坊日向薬師坐像、岩手県天台寺聖観音菩薩立像を見たことがあります。もちろん私が知らないだけで、その他にもそれなりにあると思います。

 藤里毘沙門天は、元は智福寺というお寺に祀られていたようですが、該当の寺院も今はなく、伝世はわかりません。 当寺は、交通の便が悪いので、運転が可能なら、水沢江刺でレンタカーを借りるのが良いと思います。レンタカーであれば、1日で上記の成島毘沙門天を始め、いくつかの寺院を回ることができます。

 

2017年04月22日

殷墟(河南省安陽)

 殷墟は、「商」(日本では一般に「殷」と言われる)の都でした。「商」は都を転々としましたが、殷墟はその最後の都です。今の河南省安陽市にありました。ここでは、多くの甲骨文字が発掘展示されています。甲骨文字は、文字の書かれた骨が竜骨として売られていたものの中から、王懿栄氏が発見した話は有名です。

<画像の説明>甲骨文字(殷墟博物館において)

 

<画像の説明>いずれも殷墟博物館において

 

 ところで、殷以前の「夏」は伝説上の国とされていましたが、約200㎞南の鄭州市(河南省省都)の二里頭村の二里頭遺跡が、炭素14年代測定法により、殷時代以前であることが確定しましたので、中国では「夏」の存在が確実視されています。

 西安、北京、南京、洛陽を中国では旧来4大古都と言いましたが、宋の都だった開封(北宋)、杭州(旧臨安、南宋)が古都に加えられて、6大古都となり、更に1988年に安陽、2004年に鄭州が加えられて現在は8大古都と言われています。

 高校時代に、世界史の授業で、夏殷周秦・・・と中国の歴代の王朝を覚えさせられた人も多いと思いますが、河南省は、中国文明発祥の地です。8大古都のうち、鄭州(夏)、安陽(殷)、洛陽(周)の3古都が、河南省に位置しています。

2017年04月21日

宝城坊日向薬師(神奈川県伊勢原市)

 宝城坊日向薬師(ほうじょうぼう ひなたやくし)は、本堂の改修工事が、平成22年から6年間続き、平成28年11月に落慶式が行われました。4月15日は、年に一日の御開帳の日(正月には別途ご開帳されているとのことです)で、当日は大変混雑しています。

 本堂は、茅葺きで国内最大級です。落慶式の際の新聞報道によると、茅の重量は、約50トン、大半の木材が鎌倉・室町時代のもので、現在も使用可能だったとのことです。写真の通り、朱色に黒色の模様が施されていますが、これは、江戸時代の顔料を再現して塗り直したものです。

 

<画像説明>宝城坊日向薬師本堂

 

 宝物殿に安置されている本尊の丈六薬師如来三尊(丈六と説明書きがありますが、周尺の丈六で、普通の丈六より少し小さいです)は、鉈彫りにより仕上げられています。鉈彫りは、仕上げを丸鑿で削り、ごつごつ感を際立させています。一瞬、製作途中かとも思えますが、鉈彫りが、東日本に集中しており地域性が明確(奈良、京都を始め西日本にはありません)で、一様に顔以外に鉈彫りがみられ、しかも11-12世紀に集中している点から彫像の一形式とみられます。本尊薬師三尊の脇侍の日光菩薩、月光菩薩も鉈彫りにより仕上げられています。

 

 宝物殿の中央の壇上には本尊の薬師如来三尊像、十二神将、そして四天王が安置されています。多聞天は、右手に宝塔を持ち、右足に体の重心を置いた力強い作りです。鎌倉時代のおそらく慶派の技術を引く仏師の作と思います。向かって右側の壇上には、鎌倉時代の丈六薬師如来三尊像(こちらは、正真正銘の丈六)、左側の壇上には、鎌倉時代の阿弥陀如来坐像が祀られます。いずれも、重要文化財です。

 

 宝物殿の中は、いずれも写真撮影禁止です。画像は、宝城坊本堂が改築中の、2015年に金沢文庫博物館で日向薬師特別展が開催された際の博物館の外に出されたポスターの写真です。鉈彫りの跡がご覧戴けると思います。

 

<画像の説明>日向薬師薬師三尊像日光菩薩立像のポスター

 

 *新聞の説明記事には、日向薬師が日本三大薬師の一つとの紹介がありました。こういう三大××という表現は、良く使われますが、この場合三大薬師は、どこの薬師を指すのでしょうか。薬師寺、新薬師寺等薬師を寺名に冠したお寺も他にありますし、薬師如来の祀られた寺院は一杯あります。日本三大薬師と言わなくても、日向薬師の良さは十分伝えられると思います。

 

 

2017年04月16日

鑁阿寺(栃木県足利市)

  

 鑁阿寺(ばんなじ)は、足利氏の居館跡と伝えられる真言宗の寺院で、寺伝によると足利氏2代足利義兼(源義家の曾孫に当たる)により開創されたとのことです。写真の本堂は、1299年に建立されました。2013年に重要文化財から国宝に昇格しました。

 

<画像の説明>鑁阿寺本堂

 

 建築様式として、基本は和様ですが、禅宗様を取り入れたいわゆる折衷様建築の初期のもので建築史的にも重要です。禅宗様は、中国宋から伝わり、鎌倉時代に始まった建築様式で、折衷様は、主に室町時代に多くなる様式です。

 斗供(屋根下の組み物)が、柱の上だけではなく、柱と柱の間にもある等は、それまでの和様建築にはありませんでしたが、垂木は、禅宗様の扇垂木ではなく、平行垂木になっています。

 

 <画像の説明>画像1:鑁阿寺本堂斗供 柱間の斗供に注意 画像2:鑁阿寺本堂の平行垂木

 

 鎌倉の円覚寺舎利殿等が、室町時代の建築(私の高校時代の教科書には鎌倉時代の建築と記載されていました)とされるようになった今日では、鑁阿寺本堂が、関東地方における鎌倉時代の貴重な建築物であることは間違いありません。鑁阿寺境内には、国指定の重要文化財の鐘楼、経堂を始め、多数の県指定級の文化財が残ります。また、密教系の寺院らしく多宝塔も残ります。

 

<画像の説明>画像1:鑁阿寺経堂 画像2:鑁阿寺鐘楼

 

*建築様式においてかつては、「和様」の他は「唐様」「天竺様」という言い方がありました。「唐様」という言葉は、今もネットでも結構見られます。「唐様」=「禅宗様」とご理解ください。一方、旧来の「天竺様」という言い方は今は殆どなくなりました。「大仏様」と表現されています。

 

2017年04月16日

弘明寺(横浜市)

 ‘ぐみょうじ’と呼びます。この弘明寺から名付けられた同名の京急と横浜市営地下鉄の駅が、付近にあります。

 当寺には、鉈彫りの十一面観音が祀られています。寺の説明書きによると、像高181.7㎝、ケヤキ材、一木造、平安時代(11~12世紀)、国の重要文化財です。本像は、本堂の奥深くに祀られており、鉈彫り等の詳細は見えません。堂内が暗く、単眼鏡でも見えませんでした。護摩修行を希望する場合は、更に近づくことができるようです。

 <画像の説明>画像1 銅板葺きの弘明寺本堂(1976年に従来の茅葺きから銅板葺きに改修されました。)画像2 本堂最上部に設けられた獅子口(巴瓦の代わりに巴紋が描かれた?)

 

 鉈彫りは、分布が東日本に限られるうえ、作成の時代も平安時代(11~12世紀)に集中しており、また、顔には鉈彫りの跡は一様に見られないことから、完成前の途中段階の作品ではなく、一つの造像技法と考える方が自然です。

 鉈彫り像は、岩手県奥州市藤里兜跋毘沙門天立像、岩手県天台寺聖観音菩薩立像、神奈川県宝城坊日向薬師の薬師如来坐像等に取り入れられています。

2017年04月07日

鉄塔(河南省開封)

 鉄塔は、北宋の都だった開封にあります。北宋時代の皇祐元年(1049年)に建造されました。レンガ造りですが、慣習的に鉄塔と呼ばれています。写真を見て戴くとおわかり戴けると思いますが、結構細部にまでこだわっていて、軒下に斗供や垂木が見えています。もちろん構造材ではありません。
 八角13層、高さ約56mです。13層まで昇ることができますが、内部は狭く、頭を下げて中腰の姿勢でしか進めません。昇る人と下る人が途中でかち合うとすれ違いができません。そこで何カ所かすれ違い空間が設けてあります。最上階で向きを変えられるか心配でしたが、私は大丈夫でした。少し太った人は無理かもしれません。それぐらいの空間しかありません。
 現地の鉄塔の説明書きに、大型の「琉璃磚塔」(原文は、簡体字)との説明書きがあります。私は、琉璃を瑠璃のことと思いまして、瑠璃色は、ラピスラズリから作ったマリンブルー色のことをいうので、ちょっと違和感がありました。辞書で調べると、この場合の琉璃は、瑠璃とは違うようで、琉璃磚は、ラピスラズリ等の珪酸化合物を釉(うわぐすり)にして焼いた煉瓦(磚は中国でレンガのこと)のことをいうようです。確かに、鉄の錆色に見えます。

<画像の説明>画像1 鉄塔全景 画像2 鉄塔拡大図 軒下の斗供と垂木に注目してください

2017年04月04日

信貴山朝護孫子寺(奈良県)

 信貴山朝護孫子寺(奈良県生駒郡平群町)は、聖徳太子が、毘沙門天王を感得し、信貴山に戦勝を祈願し、そして自ら毘沙門天を勧請したこと始まりと寺の縁起では伝えられています。信貴山の語源は、‘信ずべし、貴ぶべし’ということです。しかし、中興の祖、信貴山縁起絵巻の主人公命連以前は良く分かっていないことが実情の様です。

 

 本寺は、国宝「信貴山縁起絵巻」で有名ですが、お寺で購入した案内本のキャッチコピーは、「毘沙門天王の総本山」となっています。

 

本尊は、毘沙門天像ですが、秘仏のため(御開帳は、毎年1月1日から10日と7月1日から5日)私は直接拝観したことはありません。前立ち本尊は、通常の毘沙門天と吉祥天女像、禅弐師童子の三尊像です。

兜跋(とばつ)毘沙門天は、平安時代(10世紀)の作像。県指定。宝冠と海老籠手等西域風を着装しますが、地天にはのらない像です。その他、霊宝館には、毘沙門天三尊懸仏がありますが、国の指定ではありません。 毘沙門天を本尊とする鞍馬寺等と同じ組み合わせです。

 

<画像の説明>画像1:本堂(毘沙門堂)の扁額 画像2:本堂(毘沙門堂)遠景 

 

 信貴山縁起絵巻は、国宝に指定されています。信貴山と言えば、縁起絵巻です。絵の面白さや物語の展開も秀逸です。縁起は、この場合、社寺などの由来または霊験などを記載したもので、信貴山縁起絵巻も、信貴山の再興に貢献した命連の活躍を描いています。尼君の巻で東大寺大仏に参籠した命連の姉が大仏の夢告を得て、信貴山に向かう段が記載されています。

 

 大仏殿の描写では、四天王が小さく見えています。私は、多聞天が描かれているか、気になっており、2016年5月、奈良国立博物館の特別展に信貴山縁起絵巻が出品された際に、詳細に確認しました。
(この部分以下少し変更しています。)
 信貴山縁起絵巻には、大仏の左奥で多聞天の居場所には、宝塔らしきものが確認できますが、多聞天が左手に宝塔を持っている様に見えます。

 

 

<画像の説明>画像1:五重塔と地蔵菩薩半跏椅像  画像2:多宝塔 大日如来を安置 1689年建立

 

 

 当寺は、日本の毘沙門天の三大聖地のひとつの席を確保していますが、美術史的には、毘沙門天の存在感は、強くないお寺です。生駒山の中腹にあり、山は急峻です。参道では、バンジージャンプの飛び込み台の工事中でした。(2017年3月16日現在)
2017年04月03日

嵩山少林寺(河南省)

 嵩山少林寺は、河南省洛陽から省都鄭州に至るまでの山間部にあります。少林寺自体は、歴史もある古刹ですが、今は一代テーマパークになっており、中国全土から団体客が集まります。劇場では、毎日、少林寺拳法を基本にしたショーが繰り広げられます。中国国家重点風景名勝区に指定されています。

 

2017年04月01日

八王子郷土資料館収蔵薬師如来像

八王子郷土資料館には、白鳳期の薬師如来像が、安置されています。詳しい伝世はわかりません。白鳳期は、白村江の戦い(663年)の敗戦により、多くの百済遺民が日本に移住し、その結果、百済文化が大量に日本に流入した時代です。この仏像は、百済の遺物かもしれませんが、顔の表情などは、純日本的です。

 

 

2017年03月30日

観蔵寺(東京都多摩市)

 観蔵院は、東京都多摩市の曹洞宗の古刹です。本堂には薬師三尊像が祀られています。日光菩薩像の像内より、建長7年(1255年)入仏の胎内文書が発見され、おおよそ、760年前の仏像であることが分かりました。薬師三尊は2002年に修復が行われました。
 薬師三尊像のほかに、十二神将、四天王等が一緒に祀られています。

2017年03月30日

深大寺白鳳仏(調布)

 深大寺の銅造釈迦如来倚像が、あらたに国宝に指定されることとなりました。私たちは、深大寺の白鳳仏と呼んでいます。今般、国の文化審議会が、国宝に指定するよう、文部科学大臣に答申しました。

 白鳳期(飛鳥後期)仏であることは、間違いないでしょうが、伝世等は一切わかっていないそうです。

 国宝は、重要な文化財のうち、特に作者が有名な人で、はっきりしているとか、伝世がはっきりしている等が重視されていましたが、国宝の審査に作品を重視する点では、良い判断と思います。

 画像は、ガラス越しですが、常時拝観可能です。

 

 

 

 

 

 

 画像下は、深大寺境内にあったなんじゃもんじゃの木です。同行した人によりますと、名前がわからなかったので「何の木じゃ?」呼ばれているうちに、いつのまにか「なんじゃもんじゃ」という名前になったとのことでした。

 

2017年03月26日

願成就院(伊豆の国市)

 
 願成就院は、伊豆急行線伊豆長岡駅より歩いて10分程度のところに位置します。1186年北条時政が奥州征伐を祈願して建てました。内部には、運慶が造像した阿弥陀如来坐像、毘沙門天立像、不動明王二童子像の5体の重要文化財が残ります。
(拝観は可能ですが、写真撮影禁止です。)
 願成就院の造像は、康慶を中心とした奈良仏師と鎌倉幕府の結びつきを強くし、以降の慶派の動的で男性的な造像と勢力拡大の嚆矢となりました。
 境内には、北条時政や足利茶々丸のお墓等の史蹟が残ります。

2017年03月23日

十輪院(東京国立博物館)

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十輪院は、奈良町の一角に位置します。お地蔵さまが本尊のこじんまりとしたお寺です。元興寺の塔頭だったそうですが、鎌倉以前のことはあんまりはっきりしない様です。国宝の本堂より、池のなかの河童や或いは川島英五のお墓の方が有名かもしれません。

 今回紹介したいのは、あんまり知られていないのですが、東京国立博物館の一角にある十輪院の宝蔵です。明治時代に奈良からこの地に移築されました。鎌倉時代、校倉造りの建物で、国の重要文化財です。

 

2017年03月23日

東大寺中門兜跋毘沙門天

 東大寺南大門を潜って、大仏殿まで行く中間に、中門があります。中門内の大仏殿に向かって右側に兜跋(とばつ)毘沙門天が祀られています。江戸時代の作品で、南大門の両側にある、運慶快慶等が製作に携わった金剛力士像程有名ではありませんが、このサイトのテーマの兜跋毘沙門天がこんなところにもあります。

 南門と回廊は、2017年3月17日現在改修工事中です。

 

<画像上段:兜跋毘沙門天立像>

 

<画像下段:兜跋毘沙門天立像の下の地天>

2017年03月20日

当麻寺(奈良県)

 当麻寺は、創建の由緒は別にありますが、金堂の弥勒如来(菩薩ではない)、多聞天以外の四天王は、飛鳥後期の造像であり、創建もその時代と考えることが妥当です。四天王は、あごひげをはやして、異国情緒があります。

 一方、現在の当麻寺は、参道が東から西に長く続き、本堂は、東向きに建てられています。当麻寺の「当麻曼荼羅」は、西方極楽浄土の様子を表しており、平安時代以降、阿弥陀信仰が、庶民の強い信仰の対象となりました。そのため、弥勒如来の安置された金堂と当麻曼荼羅の安置された本堂(曼荼羅堂)が併存しています。

 

 当麻寺は、創建当時の東塔と西塔の両方が現存する唯一のお寺としても有名です。東西両塔は、当麻寺の阿弥陀信仰が盛んになる前に建てられており、金堂と同じく南向きです。

 

<画像上段>
 現在西塔は、修復工事中で、平成32年頃の完成予定とのことです。

<画像下段>

 画像正面が本堂、左手が金堂。
 金堂内の広目天と多聞天は改修中で、現在、拝観できません。

(2017年3月17日現在)

 当麻寺は、寺名では、當麻寺、地名、駅名等は、当麻寺と表されることが多いですが、ここでは、すべて当麻寺で統一しました。

2017年03月20日

周庄(江蘇省)

 上海近郊の地名です。中国は大きな国ですが、海岸から100㎞以上離れても、海抜の低い地域が数多くあります。周庄もその1つです。

 これらの運河は、最終的に長江につながります。

 周庄は、上海から比較的近いため、再開発されて、既に観光地化されています。

2017年03月20日

石林(雲南省)

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 雲南省石林yi族自治区に所在する石林風景名称区の風景です。内部は、とっても広く電動のカートを使用しないととても回れません。中国のカリスト地形(*)の一つとしてユネスコの世界遺産に登録されています。

 地元の公園では、少数民族が彼等独自?の踊りを見せてくれますが、残念なことに動員がかかっているとのことでした。これも彼等の貴重な現金収入になっているということかもしれません。

 *カリスト地形は、石灰岩等の水に溶解しやすい岩石で構成された大地が、雨水や地下水で浸食されてできた地形です。鍾乳洞も含まれます。

 

2017年03月11日

崇聖寺(雲南省大理)

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 中国雲南省大理にある崇聖寺三塔公園にある仏塔です。主塔は、9世紀の創建です。この時代、吐蕃(チベット)と唐が雲南省や隣接した四川をめぐって戦闘を繰り広げました。
 この写真は、同行した友人の作品です。
 雲南省は風光明媚で、周囲の景色と調和して実にきれいな画像に仕上がりました。

 

 下図画像は遠景です

2017年03月11日

トンパ文字(雲南省)

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 トンパ文字は、ナシ族に伝わる象形文字です。掲載画像は、中国雲南省で撮影しました。上部に漢字(祝家人平安健康長寿幸福(家人は家族のことです))が書いてありますが、その意味をトンパ文字で書いたものです。これを先生と呼ばれる人が、1枚1枚書いていきます。

 

 先生は今筆を持っていますが、私の名前をトンパ文字で書いてくれているところです。このポスター?を購入したら、指定の名前をトンパ文字で入れてくれます。1枚1枚手書きなので、そんなにまけられないと言われましたが、150元というのを、100元にまけてもらった記憶があります(当時のレートで1500円くらい)。

 象形文字なのに、どのように日本人の名前を書くことができるか疑問に持ちませんか?私は先生に質問しました。どうも、彼らは、外国の文物や外国人の名前を表記するために、象形文字の一部分を使用するとかの方法で表音文字を持っているようです。私の知り合いの言い分では、万葉仮名のようなものだろう、と。

 トンパ文字の歴史的評価はともかく、今は観光化されています。観光化されることにより、先生の収入が確保され、トンパ文字が残存しているとも言えます。

2017年03月09日

天梯山大仏(甘粛省)

 天梯山石窟は、黄河のダム(炳霊寺のダムとは別)により水没した文化財を甘粛省省都の蘭州市の博物館に移動させたが、この大像だけは、移転できなかったために、ダムの中にさらにダムを設けて保護したそうです。

 文化財を水没から守る努力は素晴らしいですが、ダム湖の水面より低い位置にあるので、地面は、水で湿気ています。抜本的な対策が必要ではないでしょうか。

 

 

<画像の説明>天梯山大仏13窟

 

 

 

 

 

 

<画像の説明>天梯山13窟遠景。手前は黄河。ダムにより水位が上がった。その他の石仏は、水没するため、省都蘭州の博物館に移転された。13仏は大仏で移転ができず、ダム湖内ダムにより守られている。大仏の足元は、かなり湿気が多い。写真からはわかりにくいが、直ぐ近くまで、車道が通っている。

2017年03月08日

無量光寺(相模原市)

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 無量光寺は、相模原市、相模線原当麻駅から歩いて15分くらいのところにあります。一遍上人の所縁もあり、時宗の大本山でした。 一遍上人立像が本尊ですが、秘仏で年1回の開帳です。相模原市博物館にレプリカがあります。掲載画像は、相模原市博物館のレプリカです。相模原博物館は、原則写真撮影可、フラッシュ不可です。館内照明が暗いので、私の技術では、なかなか良い写真は撮れません。

 無量光寺の境内にも、一遍上人の銅像があります。

2017年02月04日

法輪寺三重塔(奈良県)



 法輪寺の三重塔は、世界遺産に登録されていません。再建だからだそうです。しかし、第2次世界大戦前までは現存しており、写真も残っています。

 かの法隆寺の宮大工西岡常一氏の唯一の内弟子である小川三夫氏の作ということで、時代考証も十分なされており、再建というよりも修復に近いと考えられます。

 斑鳩三棟がそろってこその世界遺産です。あえて外すことはなかったと思うのは、私だけでしょうか。

2017年02月01日

奈良町の町家ローソン

奈良町ローソン

 奈良市内の奈良町にある町家ローソンです。猿沢の池にほど近い、三条通沿いにあります。ちょっと風情があると思いませんか。
因みに奈良町は、猿沢の池の周辺から元興寺にかけての一帯のことで、行政上の区画ではありません。
 もちろん中で売っている商品も価格も、ほかのローソンとは違いありません。

2016年12月22日

ブログ始めました

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ブログ始めました。中国・日本のちょっと面白い風景をアップしていきたいと思います。

2016年10月01日