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唐古・鍵遺跡(奈良県田原本町)

 私の持つ昭和時代の日本史の年表では、稲作とともに始まった弥生時代の開始は、BC紀元前2-3世紀頃と記載されています。その後、私は、炭素14年代測定法の開発で、弥生時代の始まりが紀元前5世紀まで遡ったことを知りました。

 21世紀に入って、国立歴史民俗博物館(歴民博)は、短い時間で高精度に測定できる AMS(加速器質量分析法)を駆使し(*1)、土器についたススやコゲの様な少量の炭素を使用した、年代測定を発表しました。それに依りますと、本格的な水田稲作が、北部九州で始まったのはBC10世紀頃となりました(*2)。弥生時代の開始時期が一挙に500年ほど、早まったことになります。

 歴民博の見解によりますと、弥生時代は、紀元前10世紀から、古墳時代の始まる直前の紀元後2世紀まで、おおよそ1200年間続いたことになります。北九州で稲作が始まってから、2-300年くらいかかり、紀元前8世紀頃に、近畿地方に稲作が伝わったとされます。

 唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡は、稲作農耕の始まった弥生時代を代表する環濠集落遺跡です。遺跡面積は42万㎡、奈良市から南下する国道24号線の両側に展開しています。大和地方では、弥生時代研究の原点となる遺跡で、遺跡発見から100年以上発掘の歴史があります。遺跡自体は、約600年間継続したことが判明している遺跡です。

 最初になぜAMSを用いた炭素14年代測定法を紹介したかを申しますと、実は唐古・鍵遺跡の始まった時期がどの資料を見ても明確に記載されていないからです。唐古・鍵遺跡は、相対的には600年の期間、遺跡が存在したことは明らかになっています(*3)が、開始時期についての絶対的な年代観は通常の史料には記載されていません。唐古・鍵遺跡についても、AMSを用いた炭素14年代測定法を使用した絶対的な年代観を私は知りたいと思っています。(実は私が知らないだけでもう公知なのかもしれません。その際はどなたかご教授戴ければ幸いに存じます。)

 唐古・鍵(からこかぎ)遺跡の特徴のうち、一つは、青銅器鋳造関連遺物です。この遺跡から出土した遺物には、多くの土製の鋳型外枠を利用した鋳型で、銅鐸や銅ぞくなどが鋳造されました。


<画像の説明>唐古・鍵遺跡 渦巻付きの楼閣


 もう一つの特徴は、楼閣と大型建物を描いた土器です。土器には、2層の屋根、渦巻状の棟飾り、三羽の鳥が描かれています。楼閣を描いた絵画土器に基づき、遺跡のランドマークをとして楼閣が復元されています。屋根は茅葺きで、丸太で放射状に配置されています。また、渦巻状の屋根飾りは藤葛で復元されています。
 ランドマークという言葉は、唐古・鍵ミュージアムで戴いたパンフレットに掲載された言葉ですが、極めて謙虚な言葉です。確かに、楼閣を描いた土器が出ただけで、その様な楼閣が有ったことの確証が得られた訳ではありません。しかし、弥生人が想像だけで描けるものではないと思いますので、そのような楼閣が有った可能性は高いと考えられています。唯、この様な渦巻状の装飾を持った楼閣が、何時頃作られたのか、絶対的な年代観は、どのように考えらているのでしょうか。

(*1)年代年輪法との併用で、例えば、年代の解明された材木の炭素の採取、計測することに依り、特定の年代の正確な炭素14の含有量を解明することができます。

(*2)専門的な資料がたくさん発表されていると思いますが、私は、下記で知りました。
藤尾慎一郎 『弥生時代の歴史』 2015年 ㈱講談社
 (尚、藤尾慎一郎氏は、国立歴史民俗博物館副館長(当時)です。

(*3)考古学では、層位(土器等の出土した地層による年代判定)と型式(土器等の変遷に注目した年代判定)を駆使した年代判定が行われます。これらは、相対的により古いか或いはより新しいかについて、有効と考えられます。弥生時代について言えば、考古的資料と、年代を明記した史料が同じ地層から出土する訳ではないので、層位と型式だけでは、絶対年代についての確定は難しいと考えられています。

 ところで、AMS炭素14年代測定法は、海洋リザーバー効果や、ススの古木効果の疑いについて更に議論が必要な旨の主張がされています(*4)。このことは、弥生時代の開始時期等の大雑把な年代観と特定はともかく、邪馬台国の様なより詳細な年代観に影響がでるとされます。因みに、私は、AMS炭素14年代測定法が、統計学的な手法である以上、測定結果がある程度積みあがることに依り、このような議論は、自然に収斂していくと考えています。

(*4)例えば、安本美典氏『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』において、歴民博の発表したAMS炭素14年代測定法を痛烈に批判されています。

2018年05月27日

唐招提寺(奈良市)

 鑑真は、唐より苦労して日本に渡り戒律を日本に伝えた僧として有名です。754年に平城京に到着しました。鑑真のために、常設の東大寺戒壇院が建立されました。その後、759年に唐招提寺に移りました。唐招提寺にも戒壇院跡が今も残ります。

 

<画像の説明>唐招提寺  戒壇院跡

 鑑真は、多くの仏師を同行したと言われています。鑑真のもたらした木彫仏像は、当時、唐で隆盛したもので、白檀を材料とした一木造、高精細の仏像でした。また、木の木霊を重視して内刳りを行わないものでした。

 実は、日本は、高温高湿地帯で木材が充実しているにも関わらず奈良時代脱活乾漆像(*1)と塑像(*2)の時代でした。法隆寺には、飛鳥時代後期の救世観音といった木彫が残されていますが、奈良時代には少なくとも平城京とその周辺では、木彫の造仏技術は途絶えました。

 木彫一木造の技術を鑑真に同行した仏師が唐よりもたらしたため、初期の唐風木彫仏は唐招提寺に残されています。唐招提寺の木造伝薬師如来立像、木造伝衆宝王菩薩立像、木造伝獅子吼菩薩立像と現在も講堂にある持国天、増長天立像は作風に唐風が強く残されています。これらの各像はいずれもヒノキまたはカヤの一木造で、素地仕上げとし、内刳りを施さず、足下の台座蓮肉まで一木で造るなど、技法に共通点が多いと言われています。

 日本には白檀は自生しません。白檀の代りにどの様な木が白檀と同じ香りを持つか、或いは、内刳りをせずにどうやってひび割れのない木彫の仏像を作るかといったことは、当時の最先端の舶来技術だったと思いますが、その後徐々に和様化されていきました。

 木彫の技術は、下って、平安時代中期の定朝や末期から鎌倉時代初めの運慶、快慶につながっています。寄木作り、内刳、割矧といった日本のオリジナル技術が発明されました。

 鑑真は、日本での戒律の確立のために日本に招聘したとされます。戒律は、仏教僧の生活規律の事を言います。決めごとですので、日本独自で決めれば良さそうなものですが、仏教が先進地域の唐から伝わったこともあって、日本独自で戒律は確立できませんでした。多くの人を納得させるために、唐からその権威を招聘する必要があったということだろうと考えられます。

 

<画像の説明>唐招提寺講堂

 ところで、唐招提寺の講堂は、平安京に遷都した後の平城京の東朝集殿(朝廷に仕える官僚が利用した会議場)の木材が使われています。鎌倉時代に大幅に改造されたと言われますが、今となっては貴重な平城京の遺跡です。

  ➡平城京についてはこちらをご覧ください。

(*1)脱活乾漆像は、木芯に漆を染み込ませた布の形を整えながら多層に張り付けてゆき、固まった後、中の木芯を抜いたもの(脱活)です。張り子の虎のようなものです。奈良が何度も戦乱にあったにもかかわらず、軽く堅牢な脱活乾漆像は、戦いが始まる前に、比較的容易に疎開させることができたことで、現在に多くが残ります。

(*2)塑像は、木芯に粘土を貼り付けたものです。脱活乾漆像に比べて納期もかからず、安価です。塑像は焼結されません。それは、当時焼結のための大きな窯が作れなかったためだそうです。そのため、経年変化には極めて弱いもので、常にメンテナンスを必要としました。


2018年05月13日

清浄光寺(藤沢市)、無量光寺(相模原市)一遍上人像

 浄土教は、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し成仏することを説く教えです。平安時代中期には、浄土信仰に基づく造寺や造像がなされました。臨終に来迎を待つ風潮もこの時代に広まりました。空也(*1)や源信(*2)などの活躍により、一般民衆にも浄土信仰が広まりました。

 時宗(じしゅう)は、鎌倉時代に興った浄土教の一宗派です。開祖は一遍ですが、一遍には新たな宗派を立宗しようという意図はなく、一生を遊行に費やしました。一遍亡き後、彼が率いた時衆は自然消滅しました。それを再結成したのは、有力な門弟の他阿(たあ)です。他阿はバラバラであった時衆を再統制し、遊行を再開しました。

 1304年遊行を3世他阿に譲り、自らは相模国に草庵を建立して定住しました。この草庵が、後に当麻道場金光院無量光寺(*3)となりました。その後、4代目を巡って当麻道場無量光寺と藤沢道場清浄光院(のち清浄光寺(しょうじょうこうじ))に分裂しました。やがて藤沢道場が優勢となりました。清浄光寺は、近世になって遊行寺(ゆぎょうじ)と通称されるようになりました。

 

<画像の説明>左または下:無量光寺本堂 右または上:清浄光寺本堂


 無量光寺は、一遍上人立像が本尊です。秘仏で年1回の開帳です。相模原市博物館に模刻像(レプリカ)が飾られます。無量光寺の境内に、一遍らとならんで墓塔の宝篋印塔があるそうです(*4)。清浄光寺の本尊は、阿弥陀如来です。現在改修中の本尊に代わって、写真撮影した画像が飾られます。

 

<画像の説明>一遍上人像(相模原博物館蔵) 無量光寺本尊一遍上人像模刻

<画像の説明>清浄光寺本尊阿弥陀如来坐像(写真) 本尊は、改修中です。

 

(*1)空也は、平安時代中期の僧。阿弥陀聖(あみだひじり)と称されます。口称念仏の祖、民間における浄土教の先駆者と評価されます。融通念仏や一遍にも多大な影響を与えたと言われます。融通念仏については、過去にも鞍馬寺の項で扱いました。

  ➡鞍馬寺へのジャンプはこちらから

(*2)源信は、平安時代中期、藤原道長の時代の人です。恵心僧都(えしんそうず)と尊称されます。浄土教の祖とされ浄土宗を起こした法然やその弟子の親鸞に影響を与えました。

(*3)無量光寺の寺伝に依れば、1261年一遍により草庵が設けられたのが始まりとされます。

(*4)無量光寺には、案内板もなく、確認できませんでした。

2018年04月29日

正福寺地蔵堂(東京都東村山市)

 正福寺は、北条時宗が1278年に開いたと伝えられる臨済宗の寺です。

 正福寺地蔵堂は、昭和9年改修の際発見された墨書銘により、室町時代の1407年の建立とわかりました。それでも、年代が明らかな関東禅宗仏殿の最古例です(*1)。東京都内で、唯一の国宝建築物になっています。

 


<画像の説明>正福寺地蔵堂

 

 正福寺地蔵堂の特徴を羅列しますと、桁行3間四方、裳階付、入母屋作り、杮葺き(こけらぶき)、裳階銅板葺きとなります。添付の画像を見て戴くとお解り戴けると思いますが、屋根は、強い軒反りを持ちます。また、禅宗様の特徴の詰組(斗栱を柱間にも配置する)、弓連子(或いは波連子)の連子窓や上部が花頭曲線の花頭窓を持ちます。

 

<画像の説明>画像左または下:正福寺地蔵堂 詰組(柱間の斗供に注目してください)
       画像右または上:正福寺地蔵堂 花頭窓と連子窓

 また、直接見ることはできませんが、現地の説明書きによりますと、内部は土間床、鏡天井となっています。禅宗様として多い四半敷(床石を45度傾けて敷く)の石畳では無いようです。

 尚、円覚寺舎利殿は、13世紀に建てられましたが、1563年の大火で焼失し、現在のものは鎌倉尼五山の一つ大平寺の仏殿を移築したものです。正福寺地蔵堂に似ていることから、同時代に建立されたものとされます。禅宗様建築の代表的遺構として、大変ポピュラーです(*2)。
 正福寺地蔵堂は、知名度という点で残念ながら円覚寺舎利殿には及びませんが、文化財的な意義という点で、円覚寺舎利殿に勝ります。

(*1)鎌倉の覚園寺に現存する薬師堂は、典型的な禅宗様の建築物です。1354年、足利尊氏により再建されました。現存する薬師堂は足利尊氏再興時の部材を残しています(足利尊氏の自筆の銘が天井板に残ります)が、江戸時代に改築に近い大修理を受けています。

(*2)私の高校時代の日本史の教科書には鎌倉時代の典型的な仏閣として掲載されていました。

2018年04月15日

浄真寺九品仏(東京都世田谷区)

 九品仏浄真寺は、九品仏駅を出ますと左手にすぐに参道があります。九品仏駅は、東急大井町線のれっきとした駅です。世田谷区の街中で広大な寺域を維持するのは、大変なお手数と存じます。

 九品仏は、『観無量寿経』でいうところの上品・中品・下品という3つの階位の一つずつの品を更に上生・中生・下生と三つに分けて9階位の事です。
 上品上生は、最も素晴らしい功徳をもって往生を願う人を西方浄土に導きます。上品上生では、阿弥陀仏と脇侍の観音・勢至そして多くの浄土の住人が迎えに来ます。徐々に階位が下がって、最下位の下品下生は、悪行を重ねたが、阿弥陀如来の教えを受け、南無阿弥陀仏を唱えて往生を願いたいと希望している人に対応します。ここでは、浄土からのお迎えは貧素で、自分で努力しないといけません。
 落語風に言えば、上品上生では、浄土からハイヤーでお迎えが来ます。下品下生では、トボトボ歩いて浄土に向かうといったところでしょうか。

 当麻寺はこのHPでは過去に何度か扱いましたが、当麻寺曼荼羅には九品仏が表現されています。今私たちは直接現物を見ることはできません。本物の写しの更にレプリカの10分の一印刷物(当麻寺で購入)が手元にありますので、九品の部分のみ掲載させて戴きます。上の説明から、上品上生~下品下生の意味合いを理解いただけるのではないでしょうか。

 

 

<画像の説明>上図右端 上品上生 下図左端下品下生

 さて、浄真寺の九品仏ですが、九品を手の位置と印(指の形)で表します。九品仏は坐像で、像高は、すべて2.8m(所謂丈六)です。徳によるすべての階位を、(その容易さは様々ですが)一様に浄土に導て戴けると理解すれば良いと思いますが、如何でしょうか。ここで大事なのは、九体すべてが同じ大きさだということです。どのような階位の人でも、等しく極楽に到達することができるからです(*1)。

 

<画像の説明>浄真寺上品堂 阿弥陀如来坐像

 

<画像の説明>浄真寺中品堂 阿弥陀如来坐像

 

<画像の説明>浄真寺下品堂

 当寺の阿弥陀様は、彼方(かなた)の西方浄土にいらっしゃいますので、東面されています。一方、此方(こなた)には本堂があります。本堂と阿弥陀堂の間には池があり、東方の本堂から西方の阿弥陀様に迎えられるという『観無量寿経』の基本的な形を東京23区内で見ることができます(*2)。

 今、九品仏は、修理改修中です。1体ずつ実施されていますので、9体すべての修理改修が完了するのは、2024年だそうです。写真の通り(2018年1月段階では、中品上生が修理中)、当分一体欠けた状態が続くようです。

(*1)浄瑠璃寺(京都府木津川市)の九体仏は、平安時代の文化財(国宝)です。中尊は下品上生(浄真寺の解釈に依ります)、脇尊は上品上生の二品のみであり、像高は中尊(像高221㎝)と脇尊(像高140㎝) と大きさが違います。浄瑠璃寺は、九体仏ですが、九品仏ではないと解釈されます。

(*2)九品仏は、新潟県村上市、熊本県熊本市はじめ数か所に残るそうです。

2018年04月01日

葛井寺 千手観音坐像(大阪府藤井寺市)*東博特別展より

 東京国立博物館で開催された「仁和寺と御室派のみほとけ展」では、葛井寺の千手観音菩薩坐像が展示されました。この仏様は、通常秘仏で、また、葛井寺が東京からは思いのほか不便な場所なので、なかなか実物を見る機会に恵まれませんでした。今回どうしても拝ませて戴きたかったのは、この千手観音像が、本当に千手持つからです。(自分で数えた訳ではありません)。

 通常千手観音は、40本で千手を表します。1本の手で25本分を表しますので、40本×25本=1000手という訳です。千手とは別に、前の2手を持ちます。千手観音は、通常1手に1眼が書かれていますので、千手千眼観音と言われることもあります。

 

<画像の説明>葛井寺千手観音坐像(東京国立博物館屋外のポスターより)

 実際に千手を持つ千手観音は、葛井寺以外には、唐招提寺(*1)、寿宝寺(*2)都合3体が有名です。国内で国宝・重文クラスはこの3体のみです。また、下記は、中国重慶大足宝頂山の千手千眼観音像です。実際に千手あるそうです。また、手に描かれた「眼」も肉眼で確認可能です。

 

<画像の説明>中国重慶市大足宝頂山の千手千眼観音坐像

 葛井寺の千手観音像は、像高約145cmの坐像。脱活乾漆像、国宝です。東博の説明書きによると、大手38本、小手1001本、計1039本の手を持っているとのことです。手に描かれた眼は、一眼鏡を使用してもなかなか見ることはできませんでした。墨で書かれたのなら、薄くなって、殆ど認識できないのかもしれません。
 千手を仏像の本体でどのように支えているのか、不思議に思っていましたが、今回は、仏像の後にも回ることができたため、納得できました。千手は直接仏像本体につながっているのではありません。本体の背中側に木製のアダプタがあり、アダプタに手が接続されていました。もちろん前面から撮った写真では、アダプタは見えません。250本が1ユニットになっているそうです。メンテナンスや移動のためにもユニット化は有効です。

(*1)唐招提寺千手観音観音像は、像高約536cmの巨像。奈良時代末期の作。木心乾漆像。現在では大手42本、小手911本、計953本の手を持っています。当初は、きっちり1000本あったものとされています。

(*2)寿宝寺(京都)重要文化財。平安時代 一木造り。身体の正面に合掌の手2本、定印の手2本、錫杖を持つ手2本、計6本の手があり、更に身体の周りを円状に囲むように持物を持つ大手が20本、その他小手を合わせて、1000本あるとされます。

2018年03月18日

タール寺(青海省西寧)

 タール寺(塔爾寺(*1))は、青海省西寧市に位置します。西寧には多くの日本人が旅しますが、皆さん青海湖(*2)に行かれます。タール寺は、立派なチベット密教の寺院ですが、日本人には、あまり人気がありません。

 中国におけるチベット密教の本拠地は、チベットのラサです。チベット密教について紹介したいのなら、有名なラサのポタラ宮を紹介したいのですが、私は行くチャンスがありませんでした。チベット自治区全土が、現状においても、外務省の危険情報でレベル1(十分注意、危険を避けるためには、滞在には特別な注意が必要)となっています。中国共産党とダライラマ14世の関係を考えますと、簡単では無いです。そのようなこともあって、今回は青海省西寧のタール寺を取り上げました。

 チベット密教は、8世紀から10世紀頃にかけてインドで展開した仏教の1派で、密教の生まれたインドから直接チベットに伝えられました。日本では、チベット密教というよりラマ教という方がポピュラーかもしれません。空海が日本にもたらした真言密教と同根です。

 

<画像の説明>タール寺 入口付近

 チベットは、8世紀頃は、吐蕃と呼ばれ、勢力は盛んでした。吐蕃によって、四川は、何度も蹂躙されましたし、一時期唐の都長安までが占領されたこともありました。また、敦煌をはじめ、河西回廊を勢力下に納めていました。

 唐と吐蕃の抗争については、本編でも取り上げました。「不空と空海の毘沙門天」をご覧ください。
  ➡http://bishamonten.info/custom2.html

 

<画像の説明>タール寺 本殿。

 チベット密教は、中国本土にも影響を及ぼしました。元時代には、サチャ派のパクパは、クビライの信任を得て、中国全土の仏教の統率者としての地位を公認されまた。元時代は、チベット密教の最盛期でした。

 タール寺は、西寧郊外にあるチベット寺院です。チベット仏教ゲルク派(黄帽派)の寺院です。ゲルク派の開祖ツォンカパの生誕地としても知られています。青海省におけるチベット密教の主要拠点のひとつです。

 掲載したタール寺の写真は、同行したA氏の撮影です。いつもご協力をありがとうございます。

 チベット仏教の多くの寺院は、チベット動乱(1956年~1959年)から文化大革命(1966年~1976年)の間に破壊されました。タンカ(*3)等の多くの文化財は破壊されました。

 チベット動乱により、ダライラマ十四世をはじめ各宗派の指導部の大半が、インドに逃れました。そして、宗教を許容しない文化大革命によって止めを刺されました。例えば、カギュー派総本山ツルプ寺は、多量の寺宝を携えてブータンに向いましたが、携帯できず、後に残された美術品は、文化大革命中にダイナマイトで爆破されてしまいました。

 タール寺は、チベットとは異なり、中国国境まで遠く離れており、僧侶を始めとした指導部は海外に逃れることはできませんでした。また、西寧地方は、漢族の住居地域に隣接した地域であり、元来、寺院としての権力が政治的に小さかったため、巧妙に立ち回れた結果だったと言われています。

 現在、中国共産党が、ダライラマ14世率いるチベット密教を圧迫する中で、決してすべての宗教を弾圧しているのではないことを示すため、タール寺をあえて保存・保護していると聞きました。政治色が見え隠れするためか、お寺自体は、信仰の場という点では、ぎこちなさを感じてしまいます。それが、日本人には、あまり人気が無い要因ではないかと考えました。

(*1)塔爾寺(塔尔寺)は、中国での呼び名です。中国の発音は、taersiです。
(*2)青海湖については、下記にて取り上げたことがあります。
     ➡青海湖の問題のある風景
(*3)掛け軸上の仏画。

2018年03月11日

金沢文庫博物館(神奈川県横浜市) *運慶展より

 2017年秋には東京国立博物館でそして2018年には金沢文庫で相次いで運慶展が開催されました。場所柄もあると思いますが、運慶の東国での活躍に焦点が当てられていました。
 運慶の作品と言えば、東大寺南大門の金剛力士像や興福寺北円堂の無著・世親像などが有名で、高校の日本史の教科書にも掲載されていたと思います。運慶の作品は、如来、菩薩、明王、天そして無著・世親といった肖像彫刻まで、多岐にわたります。そのすべてに優れた作品を残しています。

 金沢文庫博物館の今回の特別展では、東国の作品が重視されています。このことは、特別展示のポスターにも表れています。

 

<画像の説明>画像左または下:滝山寺梵天立像 金沢文庫博物館に掲げられたポスターより
       画像右または上:願成就院毘沙門天立像 東京国立博物館に掲げられたポスターより
         (いずれも、ポスターの一部を省略させて戴きました。)

 運慶の作品は、今31体が残ります(*1)が、そのうち、およそ半分が東国に残ります。運慶の東国での最初の作品は、1186年の願成就院の諸像であり、最晩年の作品は、称名寺塔頭の明王院の大威徳明王です。この作品は、1216年、運慶66歳頃の作品とされています。

 願成就院は、源頼朝の岳父北条時政が、建立した寺院です。運慶は、願成就院で、阿弥陀如来坐像、不動明王および二童子立像、毘沙門天立像を造像しました。運慶36歳の頃の作品です。


   ➡願成就院の紹介へジャンプします。
   ➡願成就院 *東京国立博物館運慶展よりへジャンプ

 

<画像の説明>画像左または下:
         金剛峰寺制多伽童子像
  東京国立博物館の公式サイト運慶学園より
  運慶学園には、下記より入ることができます。
  リンクは張っていませんので、コピーしてお使い  ください。http://unkei2017.jp/gakuen
  (期間限定です。)
  画像右または上:明王院大威徳明王像
  金沢文庫博物館で購入した絵葉書をスキャン
  させて戴きました。

 

 運慶が、願成就院の諸仏を自らが下向した鎌倉近郊で作ったか、本拠地の奈良で作り東国に運んだのか、定かでは無い様です。しかし、運慶が、制作の過程で東国風の勇ましい武士の姿を毘沙門天のイメージにオーバーラップしていきました。東国において、日々鎌倉武士に接しながら造像していった結果と、私は信じたいです。

 運慶は、東国での作品に、鎌倉武士に抱く自らのイメージを重ねました。厚い胸、丸い顔、そして、腰高で躍動感にあふれています。特に願成就院の毘沙門天立像は、北条時政が望んだ東国武士好みの戦う仏像のイメージです。願成就院の毘沙門天を契機として、東国には、慶派の様式が広まりました。

 ところで、運慶はなぜ東国に下向したのでしょうか。それは、仏師間の勢力争いとも深く関係しています。
 康尚、定朝親子は、藤原道長から頼通の時代に活躍した仏師ですが、始めて寺院から独立した仏像工房を開きました。そして、以降の日本では主流になる寄木作りや割矧ぎ作りを確立しました。定朝は、仏師として初めての僧綱位(*2)法眼に叙されました。

 定朝以降仏師は、定朝の正嫡覚助の印派、定朝の弟子長勢の円派に分かれました。印派は、定朝以来の藤原氏の仕事を多く請け負いました。円派は、新興の院の仕事を請け負いましたが、院が勢力を増すに従って、大発展をしました。又、院派の傍流には、京都では良い仕事に恵まれず、奈良に拠点を定めた一派があり、奈良仏師と呼ばれました。

 奈良仏師の更に傍流からは、運慶の父康慶が出ました。康慶は、長く興福寺の造仏に携わり、徐々に実績を上げていきましたが、新たな活躍の場を東国にも求めていきました(*3)。

 鎌倉幕府が権力を掌握後、鎌倉幕府要人は、院や平氏の息のかかった、院派や円派を避け、更に南都炎上以来平氏に恨みを持つ東大寺や興福寺の意向もあって、奈良仏師に秋波を送りました。その結果、奈良仏師の中で、当時主流になりつつあった康慶、運慶親子に下向の要請がかかりました。以降の鎌倉幕府と運慶の深いつながり、そして運慶の活躍は、上述した通りです。

(*1)運慶の作品は、東博の浅見龍介氏によれば、像内納入品や付属品から確認可能なものが17体、同時代の史料から確認できるものが1体、像内納入品のX線写真や作風から推定されるものが13体とのことです。異論もあります。

(*2)僧綱位は、法橋、法眼、法印と位が上がります。仏像の造像に対する褒賞と考えられます。定朝の叙位は、仏師の活動が社会的に認知された結果とも考えられます。後に、運慶は、法印に叙されました。

(*3)1185年平氏滅亡の直後に、奈良仏師の正嫡康朝の子供とされる成朝が下向しました。源頼朝が勝長寿院を建立する際に仏師として携わったとされます。成朝の作品は、伝えられていませんが、奈良仏師と鎌倉幕府のコンタクトは、成朝により始められました。。
 吾妻鑑の文治2年(1186年)3月2日の記事に成朝が鎌倉に下向している間に、成朝の大仏師の地位を狙っている人がいるので、やめさせてほしいといった訴えを源頼朝に挙げたことが書かれています。成朝が早々に奈良に戻り、以降の鎌倉下向が成朝から運慶に変わったのもこの事が関係しているのかもしれません。
 成朝という人は、以降どのような活動が有ったのは良く分かっていません。梓澤要氏の小説『荒仏師運慶』では、運慶の名声に圧されて酒におぼれていく姿が描かれています。

2018年02月25日

称名寺(神奈川県横浜市)

 称名寺の創建は鎌倉時代中期に遡ります。称名は、「阿弥陀の名を称える」の意味です。境内は国の史跡に指定され、赤門、仁王門、金堂、釈迦堂などが復元されています。10年にわたり称名寺内の庭園・苑池の発掘調査と保存整備事業が行われました。更に、「称名寺絵図並結界記」(*1)に基づいて平橋、反橋の復元と庭園の整備が行われました。

 

<画像の説明>称名寺浄土庭園

 南の仁王門から池を東西に分けて反橋、中島、平橋を渡り金堂に至る形式は、平安中期以降盛んに築造された浄土式庭園(*2)の最後の遺例として貴重です。

 称名寺の浄土式庭園は、金沢貞顕の代に完成しました。金沢貞顕は、北条貞顕ともよばれ、鎌倉幕府第15代執権となりました。祖父の北条実時が創設した「金沢文庫」を国内屈指の武家の文庫に創りあげるとともに、称名寺の伽藍や浄土式庭園の整備を行い、称名寺の最盛期を築きあげました。

 

<画像の説明>画像左または下:称名寺仁王門  画像右または上:称名寺光明院表門

 金沢貞顕は当時では一流の文化人であり、六波羅探題時代に多くの文化人と交遊がありました。鎌倉帰還後も様々な京都の文化を鎌倉で実現しました。浄土式庭園は、そのような環境の中、完成していったと考えられます。

 称名寺塔頭(*3)光明院には、かつて大威徳明王像(*4)が祀られていました。現在は、金沢文庫博物館に保存されています。この大威徳明王像は、1216年、運慶の最晩年の作品であることが、2006年修理の際に取り出された納入品(*5)から明確になりました。もとは、大日如来と愛染明王とともに三尊を構成していましたが、今はこの像のみが残されています。発願者は、源実朝の養育係だった大弐局だということも判明しました。

 

 ➡関東地方での運慶の活躍については、「願成就院」の項で以前取り上げました。
  こちらも一緒にご覧ください。

  
(*1)「称名寺絵図並結界記」は、1323年作製 称名寺蔵、重要文化財に指定されています。

(*2)浄土式庭園とは、浄土曼荼羅に基づいて配置された庭園のことで、平安時代末期に盛んにつくられました。

(*3)塔頭(たっちゅう)。子院の事。

(*4)大威徳明王は、五代明王の一尊ですが、時として、単独像としても祀られます。

(*5)像内には内刳りによって設けられた空間があり、そこに長方形の包み紙がはめ込まれていました。

    次回は、称名寺の隣り合せに位置する金沢文庫博物館の運慶展を取り上げたいと思います。

2018年02月11日

西大寺(奈良市)&極楽寺(鎌倉市)

 765年に、称徳天皇(孝謙上皇が重祚)が、金銅製の四天王像を鋳造して祀ったのが西大寺の興りです。西大寺という名前は、もちろん東大寺に対比して名付けられました。
東西11町・南北7町の広大な寺域に薬師、弥勒の金堂をはじめ多くの堂宇が建てられ、南都七大寺の一つに数えられました。
 しかし、称徳天皇がお亡くなりになり天武天皇の系統が途絶え、更に天智系の桓武天皇が平安京に遷都してしまうと、寺盛は衰え興福寺の末寺となりました。


<画像の説明>画像左または下:西大寺本堂跡 画像右または上:西大寺現本堂


 鎌倉時代半ば、荒廃した当寺を再生したのが、叡尊上人でした。叡尊上人は、戒律振興や救貧施療などの独自な宗教活動を推進しました。西大寺は叡尊上人の復興によって真言律宗(しんごんりっしゅう)という密・律の根本道場という新たな中世寺院に再生されました。

 

<画像の説明>叡尊の墓
 叡尊の墓は、現在は西大寺の寺域外、西大寺より徒歩10分くらいのところにあります。

 叡尊は、その後も弟子の忍性などの高僧を輩出するとともに、荒廃した諸国の寺院を真言律宗の道場として復活させていきました。忍性は、1267年鎌倉極楽寺等の寺院を復活させました。叡尊が十分に達成できなかった民衆への布教の拠点となり、施薬院等の施設も持ちました。清凉寺式釈迦如来立像が安置されますが、秘仏になっており通常は公開されていません。

 

<画像の説明>極楽寺(寺内は、撮影禁止です)  

2018年01月28日

高徳院鎌倉大仏(神奈川県鎌倉市)

 鎌倉高徳院の大仏は、鎌倉大仏として有名です。しかし、この様なHPで、この大仏を取り上げるのは少々難しいところがあります。それは、この仏様は、国指定の立派な大仏で、事実大変有名なのですが、なぜか、その発願者(スポンサー)はもちろん、仏師(作者或いは現場責任者)また、制作された時期も明確になっていません。
 そのため、制作の目的、時代的・歴史的背景やそのうんちくを殆ど語ることが難しいのですが、私なりに少し書かせて戴きました。

 簡単に大仏について紹介させて戴きます。高さ14.7メートルの銅像です。今回の補修工事の際に、測定したところ、重量約121トンだったとのことです。平面的な面相、低い肉髻、猫背気味の姿勢、頭部のプロポーションが大きい点など、鎌倉期に流行した「宋風」の仏像の特色を示しています。

 この大仏は、今は露座(仏殿が無い)ですが、過去仏殿がありました。近年の発掘調査では、横行約44m、奥行約42.5m、5間裳階付、瓦屋根ではなかったとのことです。今も、礎石が残ります。この礎石は、大仏と同時代に既に置かれていたことが分かっています。
 この礎石の上に建っていた大仏殿は、大仏のみが祀られ、脇侍等を祀るスペースはありません。ほぼ正方形で、にょきっと塔の様に地上から突き出た仏殿だったと思います。


<画像の説明>鎌倉大仏正面 3.5頭身くらいでしょうか。両隅の礎石にご注目ください。


<画像の説明>鎌倉大仏 猫背気味のお姿


<画像の説明>大仏殿礎石

 大仏に使われた銅は、宋銭を鋳つぶしたものということが、近年の研究で明確になりました(*3)。当時大量の宋銭が輸入され流通していました。庶民の経済的余裕と実力によって、この大仏が作られました。このことが、公的な記録に発願者が記載されていないことの傍証となると思います(*4)。
 なぜこの場所に大仏が作られたのかの直接的な答えは出せないのですが、執権家によって建立され、主に北鎌倉に位置する鎌倉五山とは対照的です(*2)。

 ところで、鎌倉大仏は、奈良の大仏と違い、阿弥陀如来です。これは、体の前、膝上で定印(上品上生)を結ぶことでもわかります(*5)。阿弥陀如来は、一般の人々を極楽浄土に導いてくれる仏様です。戦を生業とした武士にも、自分たちの極楽往生のために阿弥陀如来が重要でしたので、この地に阿弥陀如来があっても不思議ではありません。
 ここの阿弥陀如来は、南面しています。ここでは、阿弥陀如来が極楽往生のためのみならず、毘盧遮那仏や大日如来の様に全世界を一元的に治める汎神論的な存在と考えられていたのではないでしょうか(*6)。
 この大仏について、語られることの一つが、鎌倉大仏裏側の観月堂の傍らに建てられた有名な与謝野晶子の歌碑についてです。
 「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」
与謝野晶子が、鎌倉大仏が阿弥陀如来であることを知らなかったのかは、私にはわかりませんが、少なくとも、歌の調べの点では、阿弥陀仏より釈迦牟尼がぴったりとすると思いますが、如何でしょうか。

 

(*1)この時代、京都では鞍馬寺が、1238年に全焼後1248年にほぼ再興されましたが、京都の公家は力を失い、また、鎌倉幕府は全面的な後ろ盾にはなってくれませんでした。鞍馬寺の再建は、融通念仏の大勧進によって成し遂げられました。1258年勧進の銅燈篭には、女性を交えた結縁者(庶民)の名前が残されています。鞍馬寺に関しては、以前本HPで、扱いました。

 ➡鞍馬寺に関しては、こちらをご覧ください。

 

(*2)私は、極楽寺を開山した忍性が、勧進の中心人物ではなかったかと想像しています。忍性は、布教のため、1252年に奈良西大寺より関東に下り、1267年極楽寺を開山しました。

(*3)銅に含まれる鉛の成分分析や、鉛の同位体分析により、その産地が詳細に分かるようになっています。奈良時代以降、日本でも、銅は生産されました。奈良の大仏は、山口県美祢市にあった長登銅山(ながのぼりどうざん)の銅が使われました。

(*4)鎌倉大仏は、一説に、当時の困窮した鎌倉では人身売買が行われており、その利益の宋銭が使われたとある本で読んだことがあります。庶民が寄進した宋銭が大仏の建立に使用されたと考えるのは、リーズナブルと考えますが、人身売買の利益がどのくらい含まれるのでしょうか。

(*5)この時代、阿弥陀如来は、立像は来迎印(右手を挙げ、左手を下げる)を結ぶのに対し、坐像は膝上で両手を組む定印(じょういん)を結ぶのが一般的です。

(*6)平安時代、東側から西方の阿弥陀如来を信仰することについて、過去に何度か取り上げました。これについては、下記をご覧ください。

  ➡当麻寺について

  ➡元興寺について

2018年01月21日

五百羅漢寺(神奈川県小田原市)

 五百羅漢は全国にありますが、電車の駅名になっているのは、小田急大雄山線の五百羅漢駅のみと思います。

 羅漢はお釈迦様のお弟子さんで、サンスクリットの、ahhat(アラカン)の音写です。一時期、アラカンは、‘around 還暦’の略で、60歳くらいの意味で使われましたが、アラカンをお釈迦様のお弟子さんのことと理解していた私は、その際は、歯がゆい思いをしました。尤も、鞍馬天狗のファンだった私の友人は、アラカンは、永遠のヒーローだと言っていました。

  <画像の説明>小田急線大雄山駅五百羅漢駅


 羅漢はお釈迦様のお弟子さんですので、定義としては、興福寺北円堂の有名な無著、世親も羅漢といって良いそうです。また、敦煌石窟などでは、1尊2菩薩2比丘(*1)といった表現をしますが、お釈迦様のお弟子さんは比丘と呼ばれています。比丘も羅漢と近い存在です。

 五百羅漢は、釈迦の死後、仏典編集会議に集ったお弟子さんが 500人であったことから、この言葉が生まれたとされます。確かな根拠は無いようですが、中国の禅宗が、五百羅漢崇拝の源流とされています。

 五百羅漢はじめ十六羅漢、十八羅漢等**羅漢は、中世以降仏教界に新たに現れた数少ない像容の一つです。
 東京(江戸)木彫の五百羅漢の嚆矢は、目黒の五百羅漢寺(天恩山五百羅漢寺)ではないでしょうか。当時の五百羅漢は、元禄時代に松雲元慶(しょううんげんけい)が、江戸の町を托鉢して集めた浄財をもとに、十数年の歳月をかけて彫りあげたものです。松雲元慶は、京都黄檗宗万福寺の僧、仏師から僧に転身した人で、大分耶馬渓の石仏五百羅漢に触発されて、江戸に五百羅漢を祀ることを決心したそうです。十数年間の苦労の末、1710年に完成させました。

 

<画像の説明>小田原の五百羅漢寺


 小田原の五百羅漢寺は、正式には天桂山玉宝寺と呼ばれて、曹洞宗香雲寺(秦野市)の末寺です。小田原市教育委員会発行の『小田原の文化財』を要約しますと、
 この羅漢像は、享保15年(1730)村内の添田氏が出家し、智鉄と号して広く篤信者から浄財の寄進を求め、五百羅漢像の造立を発願したことに始まります。そして、7年間に170体を造立しましたが、志を果たせず病没してしまいました。そこで、智鉄の弟が出家し、真澄と号し、兄の意思を継いで、28年間の歳月をかけて、宝暦7年(1757)に五百羅漢像を完成させました。像高24cmから60cmの羅漢像526体が祀られます。
 根拠はありませんが、添田氏がこの事業を始めるにあたっては、目黒の五百羅漢の実際に拝して、その壮観さに触発されたのではないでしょうか。
 小田原の五百羅漢寺は、目黒に比べて一体一体は小さいですが、ひとつずつは、表情が違い、笑顔、談合、阿鼻叫喚が表せられています。本堂内に所狭しに並列する様は、釈迦の説法を聞く羅漢の姿です。ひび割れが出ていないので、内刳りが十分なされているのだと思います。小田原で活躍した地域密着型の仏師の存在が彷彿されます。

(*1)サンスクリット語で bhikṣuの音写。修行僧の事を言います。

 

<画像の説明>画像左または下:成田不動尊釈迦堂羽目板五百羅漢
       画像右または上:目黒大圓寺の石像五百羅漢
 なお、五百羅漢(目黒)は、撮影禁止で、掲載できません。

2018年01月14日

龍門石窟(河南省洛陽)

 龍門石窟は、大同の雲崗石窟、敦煌の莫高窟とともに中国の三大石窟の一つに数えられます。北魏孝文帝が、都を大同から洛陽に遷都後、龍門石窟の開窟が本格化しましたが、北魏時代に完成した窟はそれほど無く、その多くは、唐時代に入ってから完成しました。

<画像の説明>龍門石窟奉先寺洞 中央は毘沙門天


龍門石窟の特徴は、雲岡石窟と比べてその硬さにあります。開窟に時間がかかったのは、堅い岩石を彫る技術的問題が大きかったと考えられます。今私たちが普通に見ることができる奉先寺洞も唐高宗の発願になるもので、675年に完成しました。

2018年01月07日

平城京跡(奈良県奈良市)

 平城京跡は、奈良平城京の大内裏等遺跡の跡地の整備そして建造物の復元を進めている特別史跡です。1998年に、遺跡としては日本で初めて、世界遺産に登録されました。
大極殿(第一次)・朱雀門・東院庭園地区の復元等が完了しています。これらの費用は、全額国費で賄われています。

 

<画像の説明>画像左または下:平城京朱雀門 画像右または上:平城京大極殿

 遺跡は、建物の規模や概略の形式を特定することができますが、復元するうえで詳細にはわからないことが多いそうです。例えば、朱雀門の鴟尾が、果たしていつごろから有ったのかは、意見が分かれるそうです。

 

<画像の説明>画像左または下:平城京朱雀門の鴟尾 画像右または上:平城京朱雀門の軒下

 奈良時代、平城京に都が定められていましたが、恭仁京(*1)、難波京、紫香楽京と奠都(てんと)されました。建物の外観を決めるうえで、その都度解体され、そして再建されたことが複雑化の理由の一つです。

平城京跡には、当時の建造物は一切残されていませんが、唐招提寺講堂は、平城京東朝集殿を移築したものです。鎌倉時代に切妻屋根を入母屋に改築されていますが、平城宮唯一の建築遺構として貴重です。

<画像の説明>画像左または下:唐招提寺講堂 画像右または上:平城京跡の近鉄奈良線

今、敷地内を近鉄奈良線が走っています。2017年に移設に関して、奈良市、奈良県と近鉄の間で協定が結ばれました。近鉄は、文化財の保存に多く貢献をされている実績があります(*2)。沿線には、文化財がたくさんあり、費用面からは大変と思いますが、ぜひ頑張ってほしいと思います。

(*1)恭仁京の発掘調査も、京都府教育委員会により現在も進められ、多くの成果が上がっています。
(*2)例えば、奈良市学園前の大和文華館は、1960年、近鉄の創立50周年を記念して開館しました。

2018年01月07日

成田不動尊(千葉県成田市)*関東三大不動尊の一つとして

 関東三大不動尊の最後は、成田不動尊です。成田不動尊は、正式には、成田山新勝寺と呼ばれています。三大不動尊のその他は大山不動尊と高幡不動尊(*1)です。

 JR成田、或いは京成成田を下車してから、参道を10分一寸歩いて成田不動尊に到着できます。初詣では、日本最高の参詣者を集める寺院です(*2)。

 成田不動尊の参道は、なぜか直前で大きくカーブして、坂を下り改めてお寺を眺め上げることになります(*3)。正面の総門をくぐると重要文化財の仁王門が見え、更に大本堂に至る高い階段を仰ぎ見ることができます。

 仁王門は、金剛力士像が見えますが、この仁王門の裏側には、広目天と毘沙門天(多聞天)が祀られます。私は毘沙門天が好きなので、これはラッキーです。

 

<画像の説明>画像左または下:成田不動尊多聞天立像 画像右または上:成田不動尊釈迦堂

 ➡毘沙門天と多聞天の語源等についての説明はこちらをご覧ください。

 石段を上がりきると、正面に大本堂が見えます。また、大本堂に向かって、右には、三重塔、左には釈迦堂があります。ところで、大本堂は、現在の本堂ですが、釈迦堂はその一世代前の本堂です。更に言えば、大本堂の後方に控える光明堂は、釈迦堂のその前の本堂です。更に釈迦堂の前の本堂は、現在は薬師堂と呼ばれています。
 成田不動尊では、現在の本堂とは別に、その前の本堂、前の前の本堂、前の前の前の本堂が現在も残っており、丁重に祀られています。

 

<画像の説明>画像左または下:成田不動尊三重塔 画像右または下:成田不動尊光明堂
(成田不動尊は参拝者が多く、何度か人の途切れるタイミングを狙いましたが、実現していません。)

 成田不動尊には、仁王門、釈迦堂、光明堂、額堂そして三重塔の都合五軒の重要文化財があります。また、これらの建造物には、すべからく木彫の宝庫です。例えば、釈迦堂には、五百羅漢(*4)の羽目板が残ります。三重塔の連子窓の部分には、十六羅漢(*4)、軒下の斗供や垂木にはすばらしい木彫が彫り込まれています。

 

<画像の説明>成田不動尊三重塔軒下の彫刻と模様

 

<画像の説明>画像右または下:成田不動尊釈迦堂五百羅漢
       画像左または上:成田不動尊五重塔十六羅漢

 江戸時代の重要文化財の建築と木彫がこれほどきちんと残っているところは珍しいと思いますし、他の有名寺院にはない充実ぶりです。これらの建造物の相乗効果で、その荘厳さを発露していますし、過去の本堂が4代前まで残ることが、寺院としての継続性を知らしめます。
 特に、明治時代の廃仏毀釈を乗り切ったことは、お寺の関係者が、自身の生命を顧みずにお寺を守られた結果だろうと思います。

(*1)それぞれのリンク先はこちらです。
 ➡大山不動尊へのリンク
 ➡高幡不動尊へのリンク

(*2)神社を含めると日本一は明治神宮だそうです。

(*3)このことは、NHKブラタモリで取り上げられたことがありました。やはり、下の方から、石段を改めて上がる方がありがたく感じるということでしょうか。

(*4)羅漢は、釈迦のお弟子さんの事です。五百羅漢はじめ十六羅漢、十八羅漢等、**羅漢は、江戸時代に新たに表れた像容の一つです。江戸時代の木彫、特に五百羅漢については、別途取り上げたいと考えています。

2017年12月24日

高幡不動尊(東京都日野市) *関東三大不動尊の一つとして

 高幡不動尊は、正式には高幡山金剛寺と言います。京王線或いは多摩モノレール高幡不動駅より徒歩5分、両側にお土産屋さんやお蕎麦屋さんの並ぶ参道を過ぎた、突き当たりに仁王門があります。

 仁王門は、総門から大日堂に至る現在の寺のメインストリートからは外れて建てられており、現在本殿として使われている不動堂と相対しています。(実際には、不動堂に対して左に少しふれています)。どういう経緯でこのような伽藍配置になったかは、良く分かっていませんが、創建以来、何度か戦乱に巻き込まれたことと関係あると考えられます。大日堂と仁王門は、重要文化財です。

 

 

 

 

 

<画像の説明>画像左または下:高幡不動不動堂  画像右または上:高幡不動五重塔

 

 当寺の不動明王坐像は、丈六(*1)、脇侍の矜羯羅童子(こんがらどうじ)、制托迦童子(せいたかどうじ)は、半丈六、3体とも重要文化財です。丈六の不動明王は、大変珍しく、不動明王としては、国内でも最大の大きさです。(*2)

 巻き髪で弁髪をたらし、目は怒り目、口は牙をむき出しにしています。像の大きさと相まって像がもたらす迫力は十分です。いずれにしても、関東三大毘沙門天の一つであることは、疑いようはありません。

 

<画像の説明>画像左または下:高幡不動仁王門 画像右または上:高幡不動大日堂


 不動明王坐像は、本堂(不動堂)の裏手の奥殿に祀られています。入場料を払えばすぐ近くから直接拝観することができますが、撮影禁止です。

 関東三大不動尊については、こちらをご覧ください。
  ➡大山寺にリンクします。

(*1)丈六は1丈6尺のことです。唐尺では1尺は30.3cm、1丈は3.03m、1丈6尺は、約4.8mとなります。丈六仏は、立像(りゅうぞう)の場合、4.8m、坐像の場合は、半分の2.4mの像を言います。丈6より大きいのを一般には大仏と呼ばれます。
 なお、周尺では、1尺は22cm、丈六は352cmとなります。そのため、この大きさのものを、丈六仏とよぶこともあります。

(*2)当寺の説明資料によると、丈六の不動明王(重要文化財)は、他に4例あるとされます。

2017年12月17日

大山寺(神奈川県伊勢原市)*関東三大不動尊の一つとして

 関東三大不動尊の一つは、成田不動尊、そうして、高幡不動尊ということは、衆目一致するところの様です。ただ最後の一つには、いろんな意見がある様です。東武伊勢崎線加須駅総願寺や、つくばみらい市不動院という人もいらっしゃい、まちまちです。しかし、最後の一つとして、伊勢原の大山不動尊を挙げる意見が有り、私はその意見に従いたいと思います。決まったルールがないようですので、お許しください。

 

<画像の説明>画像左または下:高幡不動五重塔 画像右または上:成田山新勝寺三重塔

 江戸中期以降、豊作や商売繁盛などの祈念のため、そして庶民の娯楽のため、「大山詣で」が盛んになり、関東各地に「大山講」が組織されました。大山寺は関東での修験道の中心地でしたが、それらの修験者が御師(おし)として参詣に向かう人々の先導役を務めました。大山の周辺は、参詣者向けの宿坊が軒を連ね、門前町として栄えました。

 明治維新後、神仏分離が強制され、阿夫利神社と大山寺は分離されました。今、ケーブルカーに乗ると、最初の駅が大山寺、終点で降りると阿夫利神社に行くことができます。徒歩でも、バスの終点から、参道を15分でケーブルカー駅、そこから、急ですが、山道を約20分で大山寺に着くことができます。


<画像の説明>画像左または下:阿夫利神社本殿 画像右または上:大山寺本堂


 大山寺のご本尊は、鉄造不動明王坐像です。日本では鉄造の仏像は、鎌倉時代、関東地方を中心に制作されています。鉄は銅に比べて衣文などの細部の鋳造が難しく(*)、鋳造後の表面の仕上げも困難なため、作品自体少ないです。しかし、仏像のスポンサーとなった鎌倉武士には、当時最も堅い金属だった鉄に対する信仰や、鉄仏のもつ荒々しさが、鎌倉武士の好みと重なり、鎌倉時代の関東地方では、鉄像の仏像が好まれたと考えられています。

 優れた作品は多く有りませんが、大山寺の不動明王坐像は、鎌倉時代の鉄仏のなかでは、秀作の1つに数えられるものです。黒光りする本体と玉眼が対象的に映え、お顔の表情もそうですが、迫力は申し分ありません。
 不動明王坐像および左右の二童子像は、いずれも、像高は1m弱ですが、二童子像は立像です。不動明王像に比べ、二童子像は鋳型のずれが見られるなど、やや技法的に難が見られます。不動明王坐像の重量は、約480㎏とされます。
 鉄造不動明王坐像は、重要文化財となっており、本堂裏の防火扉のついた建造物に安置されています。毎月8・18・28日に御開帳されていますが、撮影禁止で、画像は掲載できません。

 

<画像の説明>画像左または下:本堂前の急峻な階段 画像右または上:本堂の彫刻

(*)日本には、溶鋼にコークスを使用する技術は育たず、木材や木炭が使われました。そのため、鉄の鋳造には温度が足りず、造仏は銅が主材料となりました。また、鉄は、日本刀の制作等主に鍛造に使われました。

 次回は、関東三大不動尊のうちから、高幡不動尊を取り上げたいと思います。

2017年12月08日

石山寺(滋賀県大津市)

 紫式部が源氏物語の構想を得た寺院として知られます。また、蜻蛉日記の作者や更級日記の作者が参籠したことが日記の中に記載されています。平安文学を語る上では、最も重要な寺院の一つです。もちろん、平安時代には既に有名な寺院でした。

 石山寺で最も有名な建造物は多宝塔です。
 多宝塔は、三重塔、五重塔とは、ルーツがちょっと違います。三重塔、五重塔が、楼閣の上に相隣をのせた多層式建造物なのに対して、多宝塔は、インドのスツーパ(*1)の原型に近く、スツーパに相当する漆喰が1階の屋根上に露出しています。仏堂と相輪を一つにつないだ二重の塔ですが、二重の塔とは言いません。

 当寺の多宝塔は、三間、檜皮葺、鎌倉時代1194年源頼朝が創建、塔内に大日如来が安置されています。日本の現存する多宝塔では最古です(*2)。

<画像の説明>石山寺多宝塔

 屋根の軒先の張りが大きく、勾配が緩やかで、反りが良い、優美な姿です。また、漆喰部分の露出は、バランスが取れています。建物としての均斉美もそうですが、周りの景色との調和も素晴らしいと思います。

 更に私にとって外せないのは、毘沙門堂の兜跋(とばつ)毘沙門天像(*3)です。

 

<画像の説明>石山寺兜跋毘沙門天



 兜跋毘沙門天は、東寺像が、基本仏となって、12世紀には、模刻像が作られました(*4)。東寺像は、西域風の着甲ですが、以降、唐風の甲制に変化した像も多く作られました。

 石山寺の兜跋毘沙門天は、唐風を着甲しています。作成された時代については、いくつかの意見が出されていますが、唐風を着甲している点から、一連の模刻像以降の11世紀以降との意見もあります。一方、石山寺像は、宝塔を横睨みしている点で東寺像の睨みを模刻している点から、9世紀末頃ではないかとの論文も出されています。(*5)

 

<画像の説明>中国四川 大足5窟 兜跋毘沙門天とその眷属


 私は、中国四川の毘沙門天を数多く見てきましたが、例えば、大足5窟毘沙門天立像は、横睨みしています(*6)。このような毘沙門天の図像が、既に9世紀末には日本にも伝わっていた可能性は高く、私もその当時の作品と考えています。

 

<画像の説明>いずれも目は左手の宝塔を睨んでいます。
       画像左または下:大足5窟兜跋毘沙門天 画像右または上:石山寺兜跋毘沙門天

 

(*1)スツーパは、サンスクリットではstupa、卒塔婆の漢字を当てます。仏陀の骨や髪を祀るため、土饅頭に盛った建造物の事を言います。

(*2)日本最古の多宝塔は、空海が高野山頂に建立したと言われる大塔です。何度か火災、落雷による焼失と再建を繰り返し、現在は、1937年に再建されたものです。鉄筋コンクリートの上にヒノキをかぶせた仕上げになっています。

(*3)兜跋毘沙門天の紹介は、本HPのメインテーマです。紹介ページにジャンプします。

(*4)東寺像は撮影禁止です。春と秋の特別拝観の時期のみ公開されます。模刻像は、清凉寺、奈良国立博物館で拝観できますが、いずれも撮影禁止です。

(*5)詳細は、本編に掲載していますので、ご覧ください。➡掲載ページにジャンプします。

(*6)大足5窟像は、892年銘の題記が残されています。


2017年12月03日

東京三大銅像 *主に西郷隆盛像のこと

 今回は、一寸テイストを変えて銅像について書きたいと思います。
雑誌の記事やネット上では、東京三大銅像とか東京三銅像という言葉が出てきます。東京三(大)銅像は、一般的には
・西郷隆盛像(上野公園)
・大村益次郎像(靖国神社)
・楠木正成像(皇居前公園)
を指すようですが、誰が決めたのか、どういう基準で決めたのか、また、他の選択があるのかもしれませんが、私は知りません。
 各像の状況を簡単にご紹介させて戴きます。
 西郷隆盛像は、上野恩賜公園の一角、南東を向いて立ちます。東京の街並みを見下ろす形で建てられています。大村益次郎像は、北東、九段下方面に向かって立ちます。皇居の周りを周回するように通る靖国通りに沿って立ちます。楠木正成像は、皇居の南に西向きに立ちます。この像は、騎馬姿になっており、本人の顔は俯き加減です。

 

<画像の説明>画像左または下:楠木正成像 画像右または上:大村益次郎像

 この3像のうち、ストーリー性があり、最も有名なのが西郷隆盛像です。西南戦争を起こして、国に対して反乱を起こした国賊として切腹した人が、なぜ、首都東京を見渡す場所に建てられているのか、なぜ軍人だった西郷隆盛が、軍服姿では無く、くだけた普段着姿なのか、また、これも有名な話ですが、除幕式の際糸子夫人が、「うちの主人は、こげんなお人ではなかった」と叫んだというエピソードが伝えられていますが、この銅像は、本当に西郷隆盛に似ているのか、といった話題もあります。


<画像の説明>画像左または下:西郷隆盛像 画像右または上:西郷隆盛像顔のアップ


 西郷隆盛像は、海軍大将、海軍大臣だった、樺山資紀が、建設委員長を務め、明治26年着工、同31年に除幕式が行われました。除幕式の参加は、山形有朋、勝海舟、大山巌、東郷平八郎等そうそうたるメンバーで、西郷隆盛の弟西郷従道の令嬢によって幕が引かれました。この際、上で書いた通り、西郷隆盛の糸子未亡人が、「うちの主人は、こげんなお人ではなかった」と叫んだ話が伝えられています。

 西郷隆盛は、生前の写真が一切伝えらえておらず(*)、顔が似ているかどうかは、今となっては、確かめようはありません。しかし、銅像の制作者の高村高雲は、作成に当たって、本人の弟西郷従道、従兄弟の大山巌の顔をベースにして、西郷の生前を知る人たちにもヒアリングをして像を作り上げたと伝えられており、そう銅像の顔かたちがかけ離れていたとは思えません。「こげんなお人ではなかった」は、顔ではなく、その服装だったのではないかと、私は思います。
 
 軍服ではなく、くだけた普段着姿としたのは、建設委員長の樺山資紀の意向と伝えられています。伊藤博文等は、陸軍大将の服装を主張しましたが、同じ薩摩閥の樺山資紀は、軍人でありながら、戦に敗れて切腹した西郷隆盛の軍服姿を、見るに忍びず、「西郷が平生好む山野で狩りをし、脱浴の趣」を表しました。樺山はこの姿が、西郷への慰霊になると考えたのではないでしょうか。
 冒頭に、東京の街並みを見下ろすともっともらしく書きましたが、実は、今JR上野駅前のヨドバシカメラに遮られて、見晴らしはあまり良くなくなりました。少し、残念です。大村益次郎、楠木正成像の話は、別の機会に書かせて戴きます。

(*)西郷隆盛の写った写真が、何度か発表されたことありますが、都度、別人として否定されています。西郷隆盛は、幕末隠密行動が多かったので、本人と特定される写真は、一切残さなかったとされています。

2017年11月26日

敦煌石窟57窟 素心伝心展より

 敦煌石窟は、莫高窟、楡林窟、西千仏洞の3窟を総称して言いますが、質量とも莫高窟が図抜けています。そのため、敦煌石窟というと普通は莫高窟の事を指します。 

 

名称
敦煌中心部からの位置
管理されている窟の数
石窟傍の河
莫高窟 東南 25㎞ 735窟 大泉河
楡林窟 東 170㎞ 東壁西壁合わせて42窟 楡林河
西千仏洞 西南 30㎞ 22窟 党河

 

 敦煌中心部の反弾琵琶のオブジェ、莫高窟入口風景、楡林窟には、下記よりご覧いただけます。

 ➡敦煌石窟関連の画像にリンク

 東京芸術大学の素心伝心展では、莫高窟57窟を再現しました。
   (尚、今回使用した画像も素心伝心展に同行のA氏の作品を使用させて戴きました。)

 

<画像の説明>敦煌莫高窟57窟 南壁 素心伝心展より

                    

<画像の説明>画像左または下:平山郁夫展のポスター
       画像右または上:敦煌莫髙窟57窟 東壁2 素心伝心展より


 故平山郁夫氏は、57窟の観音菩薩の壁画を、こよなく愛されました。平山郁夫氏は、この観音様を何度も描かれたそうで、そのことが、自身の著述にも、同行した中国人の回想録にも描かれています。そのため、平山郁夫展においても、本人の描いたイラストがそのポスターに使われました(*1)。


 57窟は、初唐期の開窟です。唐時代の華やかな作風の影響を受けています。ここで注意戴きたいのですが、敦煌の文化は、この時代、中原の影響を色濃く受けていることです。
 仏教文化は、当初、西域より中原に流れ込みましたが、唐が中国を統一したことに依り、57窟が開窟された時代は、既に、唐の影響下にありました(*2)。
 西域の仏教文化は、唐の都長安で更に昇華されて、鏡に反射するように西域に向かいましたし、一部は透過して日本に向かいました。唐の影響を大きく受けた日本の白鳳期の仏教絵画、特に法隆寺金堂の絵画との類似性を考えさせます。今回の素心伝心展で双方を同時に展示した功績は大きいと思います。

 

 ➡法隆寺金堂釈迦如来三尊像(素心伝心展)にリンク

(*1)山梨県北杜市の平山郁夫シルクロード美術館に展示されています。また、絵葉書も販売されています。
(*2)57窟の観音菩薩図と良く似た観音菩薩が、220窟東壁入り口上にあります。これは、平山郁夫シルクロード美術館で販売した57窟の絵ハガキに一時期220窟との説明書きがされたこともあったくらいこれらは良く似たタッチです。氏は、文化出版社の『敦煌』の中で、220窟の壁画のコメントとして、都長安で作成されたそれらの壁画の下図が西の敦煌へ、東の奈良へ分かれたものだろう、年代的にも記録上最も接近しているし、造形の原理が一致していると述べておられます。

2017年11月19日

法隆寺金堂釈迦三尊像 素心伝心展より

 素心伝心は、東京芸術大学で行われた、クローン文化財の特別企画展です。文化財は「保存」と「公開」の両立が求められますが、「保存」と「公開」は矛盾します。つまり、「公開」すれば、文化財に劣化のもととなる光を多く当ててしまいますし、人間の呼吸による二酸化炭素の攻勢にも晒されますので、「保存」という観点では、明らかにマイナスです。
 そのため、クローンを作り公開すれば、本物の公開時の様な制限は設ける必要は少ないし、来館者が写真を撮ることも許可し易くなります。素心伝心プロジェクトでは、3D等のデジタル技術、材料の選定、更に伝統的な作成方法を組み合せて、文化財を再生しました。内容としては、法隆寺金堂釈迦三尊像、敦煌57窟、キジル石窟航海者窟等です。
 下記の画像は、法隆寺金堂釈迦三尊像ですが、素心伝心で展示されたクローンです。本物と比べてください。本物との違いお分かりになりますか?

 尚、今回の写真は、いずれも素心伝心展に同行したHP管理人の友人A氏に撮影戴きました。

 

<画像の説明>素心伝心で展示された法隆寺金堂釈迦三尊像のクローン                   

 

 本物の画像は、掲載できませんので下記を参照ください。

 ➡法隆寺釈迦三尊像にリンク


 私が若いころは、法隆寺の建立は、教科書で、607年(*1)、世界最古の木造建築と習いました。当時、既に若草伽藍は発見されていましたが、再建説・非再建説は決着していませんでした。今は、670年に焼失した後、再建されたものであることが定説になっています。金堂の再建が何時だったか、専門家の間でも未だ決着ついていませんが、大筋では7世紀末頃の建築と考えられいますので、世界最古の木造建築であることは間違いありません。

 金堂の内陣には中央に釈迦三尊像、東側には東方瑠璃光浄土の教主薬師如来像、西側には西方極楽浄土の教主の阿弥陀三尊像の通常の寺院では、一体のみでも本尊とされる3組の本尊が一堂に安置されています。釈迦如来三尊像は、7世紀の中頃の造像と考えられていますが、火災にあった痕跡が見当たらないことから、法隆寺再建までは、別の寺院に祀られていたと考えられています。

 

<画像の説明>法隆寺6号壁阿弥陀三尊のクローン



 釈迦三尊像は、現状では、脇侍の両腕から体側に垂れる天衣が、釈迦如来に近い方が長く、遠い方が短くなっています(*2)。釈迦如来の陰に隠れる天衣を長く作るのは不自然、実際光背と像の取付け穴が上手く合わないため、左右逆に安置したことが先行研究で明確になっています。そのため、本展示会では、左右の脇侍が元の姿に戻されています。これが、上記の質問に対する答えです。

(*1)‘群れなす(607)民に法隆寺’と私は覚えました。

(*2)脇侍は以降の像では、左右が鏡対象になっています。法隆寺のみは、左右が同形になっていますので、確認してください。阿弥陀如来の脇侍については下記に関連する項目があります。

 ➡鶴岡八幡宮と鎌倉国宝館にリンクします

 冒頭に述べた素心伝心で展示されたクローンの文化財について、下記に関連項目があります。

 ➡法隆寺中門と金堂について


 ➡敦煌石窟について
  (敦煌57窟については、次回述べさせて戴きます。)

<画像の説明>敦煌57窟のクローン


 ➡キジル石窟について

2017年11月12日

願成就院(静岡県伊豆の国市) 運慶展より

 願成就院は以前取り上げましたが、内部の仏像が撮影禁止で十分ご紹介できませんでした。今回、東博の運慶展のポスターに願成就院の毘沙門天が採用されていましたので、改めて願成就院を取り上げました。

<画像の説明>東博運慶展のポスターより 右端:毘沙門天立像(願成就院 )
       (左端:無著菩薩立像(興福寺)中央:制多伽童子立像(金剛峰寺))
 

 当時、仏師の世界は、定朝の子に覚助,弟子に長勢がいました。定朝没後この二人を中心に仏師の世界は運営されましたが、1077年覚助は没し、一方長勢は長命だったため、長勢の一派(円派)は、以降の権力の中枢だった白河上皇の造仏には主導的地位をもって活躍しました。覚助の一派(院派)は、上皇派以外の藤原氏の造仏を行いました。覚助の一派だった頼助(奈良仏師)は、京都を離れ、興福寺を中心とした奈良の仕事を細々と請け負いました。奈良仏師のグループは、主流にはなれませんでした。
しかし、平氏が滅び、源氏が主流となって時勢が大きく変わりました。
 源氏は、院や京都の貴族と縁の強かった院派や円派をさけました。また、奈良仏師は、南都炎上を主導した平氏に対する反感から早くから源氏に秋波を送っていました(*1)。
 当時の奈良仏師の指導者だった康慶のおそらく子供だった運慶が、1186年北条時政の招致で、願成就院の造像を行いました。(*2)。

 願成就院の造仏が、奈良仏師の関東地方での活躍が活発となりました。願成就院の仏像は、運慶が鎌倉武士に描いていたイメージでした。毘沙門天は、腰高で躍動感に満ちています。また、阿弥陀如来と毘沙門天の組合せは、戦場での「生き死に」を生業としていた鎌倉武士の気持ちを表した組み合わせでした。つまり、毘沙門天は、この世で武士の戦場での働きを頼むための軍神、阿弥陀如来は、戦乱に明け暮れた自分たちを、死後、極楽浄土へ導いてくれる仏様でした(*3)。

(*1)源頼朝の招致で、1185年に、勝長寿院建立のため成朝(運慶の父康慶の弟子)が鎌倉下向し、奈良仏師と鎌倉政権の直接の関係がはじまりました。

(*2)今歴史の教科書では、鎌倉時代は平氏が滅んで、鎌倉政権が全国に守護地頭を置いた1185年よりと教えられるようになりました。表現としては、運慶が鎌倉に下向したのは、平安時代の末期ではなく、鎌倉時代と表現する方が、仏教美術史上からも都合が良く、運慶の仏像を、鎌倉時代を象徴する美術品として、説明しやすくなりました。
 尚、運慶の作品は、それ以前では、円城寺大日如来坐像(1176年)があります。この作品は、運慶の作品として(奈良仏師の作品として)ごく初期のものと考えられています。

(*3)今回の東京国立博物館の特別展では、残念なことですが、願成就院の阿弥陀如来は請来されていませんでした。

 願成就院は、伊豆急行線伊豆長岡駅より歩いて10分程度のところに位置します。1186年北条時政が奥州征伐を祈願して建てました。内部には、運慶が造像した阿弥陀如来坐像、毘沙門天立像、不動明王二童子像の5体の重要文化財が残ります。(拝観は可能ですが、写真撮影禁止です。)

 願成就院の造像は、康慶を中心とした奈良仏師と鎌倉幕府の結びつきを強くししました。以降の慶派の動的で男性的な造像と勢力拡大の嚆矢となりました。 境内には、北条時政や足利茶々丸のお墓等の史蹟が残ります。

 ➡以前の願成就院の紹介にジャンプします。

2017年11月05日

東慶寺水月観音坐像(神奈川県鎌倉市)

 鎌倉の東慶寺は、縁切寺と言う名で有名です。さだまさしの曲にも当寺を扱った曲があったと思います。JR北鎌倉駅から徒歩5分程度に位置します。本尊の聖観音立像は、粘土を型に入れて作った花形を貼り付けています。これは、中国で生まれた手法ですが、日本では、鎌倉地方に残ります。寄木造り、像高134.5㎝、重要文化財です。

 また、東慶寺には水月観音という他にはあまりない観音菩薩が祀られています。水月観音は、水辺に坐して、水面に映える月を眺める姿を現しています。水月観音は、中国では、宋時代に盛んにお軸に描かれたり、或いは仏像としても多く作られました。

 法華経の仏典によりますと、観音様は、救済する人々の身分や立場に合せて様々な姿で現れるとされており、三十三変化が説かれています。その一つが水月観音という訳ですので、由緒ある像容ではありますが、仏像に荘厳性を求める日本人の感性に合わないのか、日本では珍しい像容といえます。
 東慶寺の水月観音菩薩半跏像は、像高 34㎝(像の全長 55㎝)の小さな仏様です。今、御開帳は1日2回、時間を決めて行われています。

 東慶寺の水月観音坐像と最近中国でブレイクしている安岳毘卢洞(*)に残る石造の水月観音坐像を比べてみてください。ほぼ同時代の作品です。

 

<画像の説明>東慶寺水月観音像  
 当像は、撮影禁止のため、当寺にて購入した絵葉書をスキャンさせて戴きました。

 

<画像の説明>安岳毘卢洞(*)の水月観音坐像

(*)四川省東方、重慶市との市省境に近いところに位置します。不便なところにありますので、公共の交通機関では到着できないと思います。専用車を契約するのが良いと思います。

 ➡安岳毘卢洞のコーナーにジャンプ

2017年10月29日

武蔵国国分寺(東京都国分寺市)

 今回は、武蔵国国分寺の本尊薬師如来についてご紹介したいと思います。本尊の薬師如来坐像は、国の重要文化財になっています。現在は、10月10日にのみ御開帳されています。
本像は、平安末期から鎌倉時代初期の作品と考えられています。

 

<画像の説明>武蔵国国分寺薬師如来

 ところで、国分寺は、仏教による国家鎮護のため、741年に、聖武天皇が、日本の各国に建てたもので、正式名称は、「金光明四天王護国之寺(こんこうみょう してんのう ごこくのてら)」と呼ばれたものです。詔勅に依れば、国分寺は、釈迦仏を祀り、七重塔を建て、『金光明最勝王経(金光明経)』等の写経することが命じられました。

 

<画像の説明>画像左または上:薬師如来脇侍月光菩薩と十二神将
       画像右または下:金光明四天王護国之寺の扁額

 国分寺の場合、建立時点では、本尊は釈迦如来が祀られていましたが、何時の頃からか、おそらく、本尊が薬師如来に変わってしまいました。(*)。
 なぜ、薬師如来に変わったのでしょうか?私なりに考えてみました。

 平安時代以降、国分寺のような官寺は、国の庇護が無くなりました。国分寺は生き残るために、地方の支配層や民衆に迎合しようとしました。しかし、本尊が、釈迦如来では、民衆受けは良くなかったと思います。そもそも、釈迦如来は、気の遠くなるような修行を行い解脱した人ですので、現世利益を望む人々には、自分たちに何をしてくれる仏様か良く分からなかったと思います。(**)

 尤も、現世利益を望むなら、阿弥陀如来や観音菩薩もありそうです。平安時代に阿弥陀信仰に変え、時代を生き抜いた、当麻寺や元興寺の例をこのブログでも取り扱いました。
 では、国分寺の場合、なぜ、阿弥陀如来ではないのでしょうか? それは、本尊の釈迦如来を薬師如来に化けさせることができたのだと思います。薬壺を掌に置くだけで(多少の印相の違いはあっても)、右手の施無畏印は同じですし、薬師如来と言ってしまうことができます。
(印相の違いがあって、阿弥陀如来には、簡単にはなりません。)(***)

 

 ➡当麻寺のブログにリンク

 

 ➡元興寺のブログにリンク


 武蔵国国分寺の現在の薬師如来は、平安末期から鎌倉時代初期の作品です。それ以前の金銅仏の釈迦如来は現存しませんが、既に薬師如来に代わっていたのではないでしょうか。

 現在の武蔵国国分寺は、1333年の分倍河原の戦い(新田義貞が鎌倉に攻め込んだ戦い)で焼失し、1335年、新田義貞により再建されました。その際、薬師如来は戦災を免れたと考えられます。

(*)故北倉庄一氏の「国分寺の謎」によりますと、全国の国分寺のうち国宝または重要文化財の薬師如来が祀られる例は、他に美濃、飛騨、若狭、佐渡、土佐、筑前の6寺を数えるそうです。もちろん釈迦如来の例も、尾張、淡路の2寺があるそうですが、全体的な傾向としては、薬師如来が多いようです。

(**)同様のことは、弥勒如来にも言えると思います。56億7千万年後に、この世に表れて人々の解脱を助けると言われますが、民衆は、56億7千万年は、とても待てないと思ったに違いありません。そのため、日本では、弥勒菩薩も平安以降は、あまり作られませんでした。

(***)薬壺を日本にもたらしたのは、清凉寺の開祖、奝然(ちょうねん)と言われています。実際、奈良初期の薬師寺や平安初期の唐招提寺の薬師如来は薬壺も持たず、私には釈迦如来と区別が難しいです。

2017年10月22日

青龍寺空海記念碑(陝西省西安)

 隋唐時代は、中国の仏教の全盛期で、唐の都、長安では仏寺の建立が盛んでした。総計110坊の殆どに寺が分布していたとのことですので、100以上の寺院があったことになります。考古学的発見も多いので、今後更に増えることが考えられます。もちろん、これらの寺院では、建立から廃棄まで様々な段階があると思いますので、100以上の寺院が同時に存在したのではありません。

 

<画像の説明>画像左または下:西安都城 隅のやぐら 中は博物館風の売店になっています。
<画像の説明>画像右または上:西安都城風景 現在の西安都城は、明時代の建造です。

 青龍寺は、現在の行政区画では雁塔区鉄炉廟村にあります。創建は、隋時代(582年)です。創建当時は、霊感時と言われましたが、唐(711年)に青龍寺と改名されました。会昌の廃仏(845年)によって廃毀され、846年修復されました(*)。
 青龍寺において、空海が密教における金剛頂経と大日経の唯一の阿闍梨(後継者)だった恵果より灌頂(法を授けられる事))を受けたのは、恵果が亡くなる直前の805年でした。この事は、空海にとって重要なことでした。真言密教では、師より弟子へ直接教えを相続することが最も重要とされたからです。

 青龍寺の規模は、東西500m、南北260mでした。1973年から中国社会科学院考古学研究所によって発掘が進められ、多くの遺物や遺跡が発見されています。

 

<画像の説明>空海記念碑

「空海記念碑」は、日本の真言宗諸派や空海の故郷の香川県をはじめとした四国四県等の基金により、青龍寺跡に、1982年に建設されました。仏教界における、空海の果たした偉大な業績を称えています。高さは約10mです(**)。


(*)会昌5年(845年)7月の武宗による廃仏は、長安内の寺院は、4寺を除いて他のすべての仏寺は廃棄されました。「三武一宗の法難」は、北魏以来発生した3度の仏教の弾圧事件を言いますが、会昌5年の廃仏も、そのうちの1つとして数えられます。道教との権力闘争の一面と王朝が過度に仏教を保護し、造寺などで出費が増えてしまったことに対する反動の一面があります。
「法難」は、あくまで、仏教側が作った言葉です。会昌の廃仏後、廃棄されたとされる青龍寺ですが、846年武宗の死の直後、直ぐ復興していることから、この際の「法難」の実態がどのようなものだったのか、再評価が進められています。
 青龍寺が名実とも廃寺となるのは、唐の滅亡後、長安が廃墟化したためです。これは、唐時代、安史の乱後、不空により、密教が国家仏教として盛隆したことからは、唐滅亡により衰退する運命にあったと考えられています。

(**)直ぐ近くの恵果空海記念堂には、訪問を記念した記名用のノートが置いてあります。寺の担当者から名前を書くように求められますが、名前を書いてしまうと、しつこく寄付を求められました。まさに、現在の中国の仏教事情です。

2017年10月16日

タリム砂漠公道(新疆ウイグル自治区)

 一神教の発生するためには、永遠、無限そして絶対が条件と本で読んだことがあります。つまり、悠久の時間、無限の空間そして絶対に(永遠に)続くモノがない事だそうです。アラビア半島は、大きな砂漠があって、きっと歩いても、歩いても同じ景色が続くのだろうと思います。私は、アラビア半島には行ったことありませんが、確かに、この地域で、ユダヤ教、キリスト教そしてイスラム教が生まれました。

 今回のブログのご紹介は、中国新疆ウイグル自治区のど真ん中に位置するタリム砂漠(タクラマカン砂漠)公道です。冒頭に一神教をご紹介したのは、私がタリム砂漠を訪れた際に、確かに、永遠と無限そして砂以外殆どモノのない状態を直接見て、それを感じたからです。やはり、一神教は、砂漠とともに暮らす人々によって作られた思想が源流だと理解できます。

 

<画像の説明>タリム盆地砂漠道からタクラマカン砂漠を望む

 

 タリム砂漠の砂漠道は、シルクロードで言いますと、天山南道のクチャの近くから、西域南道のニヤ(ホータン東方)まで、南北約500㎞をほぼ直線で走るハイウェイです。車で、ほぼ一日、同じ景色の中を走り続けます。日本には無い景色です。ラクダしか交通手段のない時代に、夜の月の砂漠を1か月近くかけて(昼間は暑すぎて歩けない)歩いたことでしょう。

 中国人は、新疆の疆の字は新疆の地理を表すと説明します。旁の一番上の‘一’が、アルタイ山脈、上の‘田’が、ジュンガリア盆地、次の‘一’が、天山山脈、下の‘田’が、タリム盆地(タクラマカン砂漠)、下の‘一’が、崑崙山脈を表すそうです。その意味では、砂漠道は、下の‘田’の真ん中の|を表します。

 

(画像の説明)タリム砂漠 広大な砂漠に延々と送電線が走る

 

 

<画像の説明>画像下または左 グリーンベルトを維持する               ための太陽光パネル
       画像上または右 砂漠道入口の路標
          路標には、塔里木砂漠公路と記載
       (塔里木は、中国語ピンインでは、talimu)
 

 

 砂漠道は、メンテナンスしないと、直ぐに砂に埋もれてしまいます。そのため、ハイウェイの両側にはグリーンベルトが設けられています。グリーンベルトは、太陽光発電で電気を起こし、モーターを回して、くみ上げた水を散布して維持されています。
 地下水の弁を開けるために、全砂漠道の約30㎞おきに、1夫婦を配置し住まわせています。一日の仕事は、弁の開け閉めだけだそうです。訪れる人のほとんどいない一軒家で、一日中夫婦だけで顔を突き合わせているそうです。

 ハイウェイとこれらのグリーンベルトそしてメンテナンスのための夫婦の配置、夫婦の食料、水、そして燃料の配給(夜は太陽光発電ができないので、巨大なモータージェネレータが備わっていました)は、砂漠のなかの石油掘削会社によって維持されています。

 ここは、上海から4000㎞(時差で3時間(*))離れていますし、砂漠のど真ん中ですので、ここまで来ると流石に日本人はいないだろうと思っていましたが、日本人を載せた団体バスが1台通り過ぎていきました。ご老人がたくさん載っていらっしゃいました。老日本人、恐るべしです(**)。

(*)実際には、中国は全土で北京時間を使用しています。そのためか、例えば、学校は夜明け前に始業するのを、私は、省都のウルムチでみました。

(**)2011年のことです。少数民族問題が深刻で、現時点で旅行者が団体旅行を募集していないと聞きました。

2017年10月08日

箸墓古墳(奈良県桜井市)

 三輪山の西麓に広がる巻向(まきむく)古墳群は、前方後円墳発祥の地とみられています。この中で箸墓古墳は、巻向古墳群では最大の前方後円墳です。巻向古墳群は、纏向遺跡の一部をなします(*1)。

 箸墓は、宮内庁によって第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓として管理されています。しかし、考古学ではこの古墳を、3世紀後半の古墳と考えており、卑弥呼(或いは台与)の墓とする研究者はたくさんいらっしゃいます。

 墳丘の全長は、約280メートル、後円部の高さ約30メートルあります。自然の山に後から穴を掘って古墳にしたと錯覚される方も多いようです(実は初めは私もそうでした)が、土木工事を経て完成させた構造物です。当時の最新の技術を使用したハイテクな構造物でした。

 

<画像の説明>箸墓古墳

 

<画像の説明>ホケノ山古墳(*2)から箸墓古墳を遠望

 

 箸墓古墳の、後円部は四段築成で、四段築成の上に小円丘を築いています。出土遺物に埴輪の祖形の吉備系の土器が認められるそうです(*3)古墳の構造が一寸わかりにくいので、説明のために、近つ飛鳥博物館の前方後円墳のジオラマ(模型)を参考にさせて戴きます。近つ飛鳥博物館では、5世紀初めから半ばの大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)(*4)を再現しています。最新の研究成果が反映されており、学術的な考察が十分になされています。

 

<画の説明>大仙陵古墳のジオラマ
   前方後円墳は、完成直後はこのように埴輪により4段から5段程度の段差が造られていました。

 

 箸墓とは時間的なギャップはありますが、構造上の基本的な差はないようです。このジオラマにより、埴輪(箸墓は土器の一種)で断面を区切りながら、高く上に伸ばしていく工法が読み取れると思います。箸墓以降、全国各地の多くの前方後円墳は、墳丘の設計図を共有しており、数十年程度の比較的短い時間で北九州から東北南部に広がったと考えられる点から、統一後の初期大和朝廷のシンボル的存在とも考えられています。前方後円墳は、もっとも日本的なものの一つに挙げるべきでしょう。

(*1)巻向遺跡は、弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡。国の史跡に指定されています。飛鳥時代前期の藤原宮に匹敵する巨大な遺跡であり、日本で始めての都市型遺跡(後の条里制の様に道路が直交する、鋤鍬等の農機具の出土が少ない)であり、また、国際都市(出土した土器のうち30%程度が、大和以外(吉備、出雲、濃尾そして末期には北九州))です。
 尚、「纒向」の名は垂仁天皇、景行天皇の宮の名より名づけられました。

(*2)箸墓より古い。初期の前方後円墳に位置づけられる。全長80m。

(*3)箸墓は宮内庁によって管理されており、学術調査はもちろん入ることすらできませんが、過去に宮内庁によって調査された際の遺物が宮内庁に保存されているそうです。

(*4)宮内庁の比定では、仁徳天皇陵となっています。百舌鳥古墳群を構成する古墳の一つ。墳丘長486m、後円部の高さ36m、全国第1位の規模を誇ります。

 

2017年10月01日

大仏寺(甘粛省)と東大寺大仏殿

 大仏寺は、甘粛省、張掖市にあります。当寺の説明資料によりますと、1098年に創建されました。西夏時代(1038-1227)の建築です。今回、この建築を取り上げたのは、この建物が日本で言いう大仏様建築だからです。

 奈良時代から平安時代の建築は、日本では和様建築と呼ばれています。飛鳥時代から平安時代の仏教建築が和様建築です。鎌倉時代に、禅宗様、大仏様が生まれ3様式が並列しました。鎌倉時代末期から室町時代には、それぞれの技術が交じり合い、折衷様が生まれました。

 もちろん、和様建築という名前は、禅宗様、大仏様が発生した後、生まれた歴史的な用語です。私の若いころは、禅宗様は唐様、大仏様は天竺様(和様は和様)と呼ばれていました。

 禅宗様は、日本人の心にヒットしたのか、鎌倉時代以降、多く残っています。また、禅宗様と和様の折衷様も多く残っています。徐々に、和様建築の細部に禅宗様が入っていきました。室町時代には、折衷様の建築が多いです(*)。

 以前扱った鑁阿寺も折衷様です。 
 ➡鑁阿寺にリンクします


 しかし、大仏様は東大寺の大仏殿以外あまり日本には残っていません。また、大仏様と和様との折衷様を、私はあまり知りません(無い訳ではありません)。大仏様は、他の様式に比べて、使用される材木の量が少なくて済み、大きな建物の建築には向いていると言われています。東大寺再建の大別当だった重源が大仏殿再建のために、中国の宋から技術を導入しました。建物の豪快さ、軒下のシンプルさは、大仏殿の様な大きな建物を建てるには適していましたが、日本人の感性には、あまりミートしなかったのではないでしょうか(**)。大仏殿は、高さ49m、間口57m(7間)です。


<画像の説明>東大寺大仏殿 江戸時代の再建ですが、大仏様は継承しています。

 

 中国には木造建築は少ないのですが、大仏様は割合見ることがあります。中国でも、大きい建物を建てるために必要な技術だったと思われますが、日本の様に森林の多くない中国では、材木の使用量が少なくて済むことが、魅力だったのではないでしょうか。

 大仏寺は、甘粛省にあります。建築当初は、迦葉如来寺と呼ばれたそうですが、内部に涅槃の大仏(塑像、全長34.5m)、が祀られているためこの名前があります。大仏殿の高さは、33mあります。西夏時代、最大の仏教建築です。

 

<画像の説明>画像右または下:大仏寺大仏殿 画像左または上:大仏寺蔵経閣

 

<画像の説明>画像左または下:東大寺大仏殿軒下 画像右または上:大仏寺軒下

(*)その他、折衷様の国宝建築としては、功山寺仏殿(山口県下関市)、正福寺地蔵堂(東京都東村山市)等が有名です。正福寺地蔵堂は、東京都唯一の国宝建築です。

(**)東大寺大仏殿以外では、東大寺法華堂 浄土寺浄土堂(兵庫県、東大寺播磨国別所)等が大仏様の技術を使用していますが、いずれにしても、大仏様の技術は、重源ゆかりの建築だけで使用されたようです。

2017年09月24日

春日大社(奈良市)

 春日大社は、国宝・春日造りの御本殿を中心とした神社です。春日大社では、この度、式年造替が行われました。式年とは、定期的という意味です。春日大社の場合、式年造替は、20年ごとに、一旦、神様を、仮殿に移して、その間に、本殿を修復或いは建替えして、再度神様を本殿に戻す事業です。

今回の春日大社の場合は、
2015年 3月27日 仮殿遷座祭(下遷宮)執行
2016年11月 6日 本殿遷座祭(正遷宮)執行
されました。

 ところで、春日大社の式年像替は、一昨年国民的関心事項となった伊勢神宮の式年遷宮とはどう違うでしょうか。
 伊勢神宮の式年遷宮は、原則として20年ごとに、内宮・外宮を始め、すべての社殿を造り替えて神座を移す事業です。式年遷宮は、式年造替より更にハードルが高いと言えます。

 式年遷宮の制度が定められた天武天皇の時代、7世紀後半には、既に礎石を用いる建築技術も確立されていました。法隆寺の場合は、(再建説を採用したとしても)7世紀末の建築物でり、基本的な部分は、現在まで残っています。当時の国力・技術をもってすれば、神社も現在にも残る建物にすることは可能であったと思えます。

 興福寺と春日大社は、それぞれ、藤原氏の氏寺、氏社ですので、神仏習合の習俗の中では、建築技術も「習合」しても不思議ではなかったと思いますが、なされませんでした。神社建築には礎石は用いられませんでした。春日大社の場合は、山自体が神様ですので、そこに巨大な礎石を置くことが、憚れたのかもしれません。

 当初からそうだったかはわかりませんが、参考までに現在の中門の画像を掲載します。大筋は、和様建築です。

 

<画像の説明>春日大社中門・御廊(おろう) 重要文化財です。
                     この建物は本殿ではありません。念のために。

 ということであれば、定期的に膨大な費用を投じる式年遷宮や式年造替を良しとする理由はわかりませんが、あくまでも技術的な問題では無く、心の問題、文化の問題だったと考えられます。
 仏教は、あくまでも外来のもので、神社は日本古来のものです。寺院は、古いこと、歴史あることに意味を持たせ、神社は、常に新しい事に意味を持たせたのでしょうか、これは、私の想像です。


<画像の説明>春日大社本殿内部
     地面の高さに合せて神殿を作り上げた、春日造りの特徴が見て取れます。国宝です。
     正面からの写真撮影は禁止、側面からなら可でした。因みに、2015年4月2日撮影です。

 

 2016年には、春日大社の内部を見ることができました。式年造替の間(神様が本殿に居られない間)のみ解放されました。1時間以上並びましたが、20年に一度の事ですので、我慢できました。(唯、インバウンドの観光客が多いことが不思議でした。)

 ところで、このことは、上述しましたが、興福寺は藤原氏の氏寺、春日大社は、藤原氏の氏社です。日本において、神仏習合は長い歴史を持ちますが、明治以降、神仏分離が進みました。しかし、奈良では、必ずしもそのような単純なことにはなりませんでした。
 今でも、興福寺の貫主が毎年1月2日に春日大社にお参り、神前読経しておられます。今回の式年像替の際には正遷宮を祝い、6大寺(東大寺、興福寺、西大寺、唐招提寺、薬師寺、法隆寺)の僧侶がそろって読経されました。一神教の世界では、あり得ない話です。

 

<画像の説明>春日大社中門拡大写真軒下の組み物は、和様建築の寺院と似ています。

(追記)御造替の記念に春日三笠香という匂い袋を戴きました。春日大社は、お清めに「香」を用いるそうです。戴いた匂い袋は、2年以上経過した現在でも、良い香りを醸しています。

 

<画像の説明>春日三笠香  藤原氏に因んでか、藤が装飾されています。

2017年09月17日

飛鳥寺飛鳥大仏(高市郡明日香村)

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 飛鳥寺は、588年に百済から仏舎利(遺骨)が献じられたことにより、蘇我馬子が寺院建立を発願、596年に主要伽藍が完成しました。本格的な伽藍配置の日本で最初の大寺院でした。法興寺・元興寺ともよばれました。現在は安居院(あごいん或いはあんごいんとも)と呼ばれています。

 創建時の飛鳥寺は,塔を中心に東・西・北の三方に金堂を配し(*1),その外側に回廊をめぐらした伽藍配置でした。寺域は東西約200m,南北約300mありました。本格的な寺院の建立には、瓦の製作をはじめ、仏堂や塔等超高層建築、更には巨大な金銅仏の制作と、当時としては、超ハイテクな技術の結集が必要でした。

 今、「塔心礎の中心地下3m」の標識が、本堂前に残ります。この部分が飛鳥寺の伽藍の中心だったことが分かります。

 

<画像の説明>飛鳥寺飛鳥大仏

 当寺の本尊飛鳥大仏(釈迦如来像)は、年代のわかる現存の仏像では日本最古のものと言われています。資料には、推古天皇が止利仏師(とりぶっし)に造らせた丈六(*2)仏。605年に造り始め,606年に完成したとされます。1196年の落雷のため本堂とともに、飛鳥大仏も大部分焼失しました(*3)。

 法隆寺金堂の釈迦三尊像同様、止利仏師の作品とされます。平面的な風貌から、旧来、中国北朝の北魏の影響が指摘されていますが、近年は南朝の直接的影響も指摘されています。


(*1)飛鳥寺の建立時点の1塔、3金堂の構成は金堂より塔が、重要と考えられていたためです。以降、仏舎利を保存するための塔に対して本尊を安置する金堂の重要性が、相対的に高まっていきます。飛鳥後期建立の現法隆寺では、金堂と塔の配置が、左右1棟ずつとなり、天平期の東大寺や薬師寺では、1金堂、東西2塔の構成になります。
 なお、金堂は、本尊を祀るためだけ入れ物です。後の時代の本堂の様に仏事を行う、所謂外陣は持ちません。金堂は、仏事を屋外で行っていた時代の産物です。

(*2)丈六は、唐尺の場合、立像は、約4.85m、坐像の場合その半分とされます。飛鳥寺の場合は、中金堂の位置に安置されており、その台座を据えた凝灰岩の基壇も元のまま動いていないことが確認されています。一般には、丈六超を大仏と言いますので、本尊を飛鳥大仏と呼ぶことに、私は、違和感を感じます(ブログの題名では、飛鳥大仏と言っておきながら、済みません)。

(*3)当時のまま残っているパーツは、両眼と鼻、額を含む顔の上半分、髪際や肉髻前面部の螺髪と、右手の第1指から3指だけとされます。江戸時代(1828年)に補修され、現在の安居院に安置されました。

 平城京遷都とともに移転し,元興寺と名を変えました。このとき,飛鳥寺に使われていた建築材、瓦は、運ばれ再利用され、現在に至っています。しかし,大仏は本元興寺と名を変えた飛鳥寺に残りました。


<画像の説明>蘇我入鹿の首塚


 寺の西側には蘇我入鹿の首塚と呼ばれる五輪塔が残っています。飛鳥寺の境内を西に抜けたところに立つ五輪塔です。
 大化の改新のとき、飛鳥板蓋宮で中大兄皇子らに暗殺された時の権力者・蘇我入鹿の首がそこまで飛んできたとか、襲ってきた首を供養するためにそこに埋めたともいわれています。五輪塔自体は鎌倉時代または南北朝時代の建立と考えられています。高さ149cmの花崗岩製で、笠の形の火輪の部分が大きく、軒に厚みがあるのが特徴です。
 蘇我入鹿の首塚に関して、著名な割にその由緒や歴史。又なんでこの地にあるのか、全く分かっていないのが実情です。

2017年09月10日

当麻蹴速(たいまのけはや)塚(奈良県葛城市)

 当麻蹴速(*)は、『日本書紀』垂仁天皇記によれば,強力で相撲の技を誇り,常に力比べの相手を捜していましたが,その驕慢さを天皇に憎まれ,天皇が出雲から招いた野見宿禰と対決しました。
垂仁天皇の前で行われた野見宿祢と当麻蹴速の力比べが国技相撲の発祥とされ、また、我が国初の天覧相撲といわれています。垂仁天皇は、はつくにしらすすめらみこと、と言われた崇神天皇の子供ということになっており、時代的には、4世紀後半頃の人です。

「蹴速」という名前は、足技にすぐれたことにちなむ名の様ですが、二人の対決は、当麻蹴速が、脇骨を踏み砕かれ,腰を踏み折られて死んだといいます。相撲の発祥とはいうものの、彼らの対決は、手が地面に付いたら負けといった、私たちの相撲のイメージとはかけ離れています。

 当麻蹴速塚の五輪塔は、最上部の形や、火輪の形から鎌倉時代のものと考えられます。しかし、水輪の最大径が火輪の軒幅より13㎝も広く、形は良いとは言えません。他の場所から部分的に石を寄せ集め、作られたものの様ですが、当時も当麻蹴速の伝説が広範囲に流布されていたことが分かります。

 当塚は、近鉄南大阪線の当麻寺駅から当麻寺へ向かう東から西へ向かう参道沿いにあります。参道が東から西に向かうのは、平安時代、当麻寺が、当麻曼荼羅を本尊とした阿弥陀信仰を旨とする寺院に変貌したことに依ります。平安時代から鎌倉時代には、多くの庶民が、竹内街道から当麻寺を目指し、この参道を歩いたことと思います。その際、当麻蹴速塚にも手を合わせたのではないでしょうか。
 有名な当麻寺の東西の塔は、当麻蹴速塚からは、直線的に見えます。

 

<画像の説明>画像左または下:当麻蹴速塚の五輪塔(バックは、葛城市相撲館)
       画像右または上:当麻蹴速の五輪塔と当麻蹴速碑

 

<画像の説明>当麻蹴速塚より東方の当麻寺三重塔を遠望(西塔は修復工事中の覆いで隠れています)

 

  ➡当麻寺は、こちらをご覧ください。

 話は、古代に戻ります。展覧相撲の後、蹴速の土地は没収されて、勝者の野見宿禰に与えられました。以後、野見宿禰は、垂仁天皇に仕えました。垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の葬儀の時、それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を考え出し、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、土師氏の祖となりました。

 野見宿禰は、播磨国の立野(たつの・現在の兵庫県たつの市)で病により死亡し、その地で埋葬されました。病没した野見宿禰の墓を建てるために人々が野に立ち(立つ野)手送りで石を運んだ光景が、「龍野」「たつの」の地名の由来とされています。今、野見宿禰神社となっています。
 兵庫県たつの市とは別に東京都墨田区にも野見宿禰神社があります。両国国技館の近隣に所在し、日本相撲協会により管理されています。

(*)当麻蹴速の「蹴(け)」は、本来は「蹶」(JIS:6D2C)を書きます。


2017年09月03日

柴又帝釈天(葛飾区)

 柴又帝釈天には、色々な顔を持ちます。アテンションの順では、
寅さん>>矢切の渡し>帝釈天>日蓮宗のお寺>秀逸な彫刻>庚申参り>柴又七福神参り
でしょうか。もちろん、寅さんにまつわる話がダントツにアテンションが高いですが、本サイトは、管理人の興味の順に、寅さん以外の話をさせて戴きます。

 

<画像の説明>柴又駅駅前の寅さんと妹サクラの銅像。サクラ像は、2017年3月に除幕されました。
      一緒に写真に写りたい人や自撮りの人も多く、なかなかシャッターチャンスが訪れない。 

 

 京成線柴又駅の改札を出ると正面に「寅さんの像」があります。その向こうに参道の入り口が見えます。両側に草餅や塩せんべいの店を見ながら参道を進むと、徒歩3分で当寺に到着します。
 寺の縁起によりますと、江戸時代初期の1629年に開創された日蓮宗寺院で、正式には経栄山題経寺と言います。

 宗祖日蓮が自ら刻んだという伝承のある帝釈天の板本尊がありましたが、長年所在不明になっていました。それが、9代日敬の時代に、本堂の修理を行ったところ、棟木の上から発見されました。この板本尊は片面に「南無妙法蓮華経」の題目と法華経薬王品の要文、右手に剣を持った武人タイプの帝釈天像を表したものです。残念ながら、この板本尊は、私たちは、直接見ることができません。
 この板の発見されたのが1779年の庚申の日でしたので、60日に一度の庚申の日が縁日となりました。日敬の見事なマーケティングの成果です。

 参道の突き当たりに二天門が建ち、正面に帝釈堂、右に祖師堂(旧本堂)、その右手前に釈迦堂(開山堂)、本堂裏手に大客殿などが建ちます。二天門、帝釈堂などは彩細部には精巧な装飾彫刻が施されています。

 

<画像の説明>画像左または下:柴又帝釈天帝釈堂 画像右または上:柴又帝釈天二天堂 

 

 帝釈堂内殿の外部は東・北・西の全面が装飾彫刻で覆われています。中でも胴羽目板の法華経説話の浮き彫り10面は秀逸ですので、どの面を掲載するか迷いましたが、「多宝塔出現の図」を選ばせて戴きました。釈迦の説法がすばらしいので、塔が現れました。このサイトのメインテーマの兜跋毘沙門天像の地天にも同じように、釈迦の説法を聞きたくて、地神が地下から現れたと説明されることがあります。「多宝塔出現の図」の多宝塔の出現は、法華経のすばらしさを表現しています。

 江戸時代以降には、仏像には見るべきものはあまりありません。その代わり、日光東照宮をはじめとして、まさに彫刻の時代となりました。当寺も軒下、羽目板到るところに、江戸時代から昭和時代に至る秀逸な彫刻が残ります。まさに彫刻の寺と言われる由縁です。

 

<画像の説明>柴又帝釈天 帝釈堂の胴羽目板の彫刻「多宝塔出現の図」

 

 帝釈天は、バラモン教の武勇の神でしたが、仏教に取り入れられました。釈迦の説法を聴聞したことで、梵天と並んで仏教の二大護法善神となりました。仏教では、これらのバラモン教の神様を如来や菩薩の下に置くことにより、バラモン教に対する仏教の優位性を示すことになりました。帝釈天は、四天王や眷属を下界に送り、報告を受けるのも主な務めのひとつです。

 このサイトで以前扱った寺院には、帝釈天の祀られるお寺が2つあります。残念ながら、二尊とも写真撮影禁止で、掲載はできません。それぞれのHPで確認ください。
 一つは、東寺講堂の帝釈天です。この像は、白象に乗った木像(平安時代前期)で、一面三目二臂で金剛杵を持ち、白象に乗って半跏踏み下げの姿勢をとっています。因みに、梵天は正面の顔のみ額に第三の目を持っており、 4羽の鵞鳥(がちょう)が支える蓮花の上に坐しています。

 ➡東寺は、こちらよりリンク可能です。

 

 更にもう一つは東大寺法華堂の帝釈天(奈良時代)です。こちらも、主尊の不空羂索観音の両側に梵天・帝釈天像が祀られています。梵天・帝釈天像自体劣る訳ではありませんが、ここには国宝だけでも10体あり、金剛力士像の陰に隠れるようで、一寸損をしている様に思います(国宝は従来12体ありましたが、不空羂索観音の両サイドに祀られていた伝日光菩薩、伝月光菩薩は、東大寺ミュージアムに移されました。)。

 ➡東大寺法華堂は、こちらよりリンク可能です。

 

 東寺の様な密教系寺院とその他の寺院では、梵天・帝釈天像の像容は、大きく変わりますが、主尊に向かって、右が梵天、左が帝釈天という点でレイアウトは一致しています。帝釈天が、甲を着けた武人タイプ、梵天が兜を着けないのが一般的です。(と言いながら、東大寺法華堂の場合は、これが逆になっています。長い歴史の中で入れ替わったと指摘される先生もいらっしゃいます。)
 柴又帝釈天の場合は、甲は着装しませんが、武人タイプ、口ひげを蓄えます。

 

 ところで、当寺は、柴又七福神のうちの毘沙門天にあたります。帝釈天は、毘沙門天の報告を聞く人で、謂わば、毘沙門天の上司になります。近しいですが同じ尊格ではありません。毘沙門天と帝釈天を同じ尊格と考えた人がいたということでしょうか。
 二天門を入って、直ぐ左手に説明用のパネルが設置されています。柴又七福神は、葛飾区の公式サイトに説明が記載されています。

 

追記:
 軒下の彫刻が素晴らしい当寺ですが、鳥害糞害は深刻と思います。屋根下にプロテクタを付けるのは無粋です。何もつけないというお寺様のご英断に感激です。
 柴又帝釈天より数分歩くと江戸川の川岸に当たります。このあたりが、矢切の渡しのあった場所です。

<画像の説明>画像左または下:柴又帝釈天大鐘楼軒下  軒下には彫刻が見えますが、斗供には
            鳩が居ついています。鳩の下は斗供の先が糞で汚れているように見える。
       画像右または上:江戸川川べり。以前は、矢切の渡しがあったあたりです。

2017年08月27日

影向寺(ようごうじ)(川崎市)

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 影向寺には、重要文化財の薬師三尊像が祀られています。この一帯は、橘樹官衙遺跡群として、2015年に国史跡に指定された。京浜工業地帯の中心都市として発展した川崎ですが、史跡の国指定は喜ばしいことです。JR南武線武蔵新城駅から歩いて20分強の位置にあります。

 影向寺の寺伝に依りますと、当山は天台宗に属し、奈良時代の天平12年(740)、聖武天皇の命令を受けた高僧・行基によって開創されたと伝えられています。
 寺伝は、一般には寺の歴史的重みを増すため、実際の歴史より古く記すことが多いのですが、影向寺の場合は、近年の発掘調査と瓦の年代学的な研究が進んだ結果、実際の創建は、更に古く、7世紀後半の飛鳥後期(白鳳期)にまで遡ることが明確になりました。

 このことに関して、村田文夫氏『武蔵の国 国史跡・橘樹官衙遺跡群の古代学』(かわさき市民アカデミー 川崎学双書シリーズ)には、「縁起をさかのぼる寺院」というキャッチコピーが生まれたことが記されています。

 影向寺一帯は、相模ではなく、武蔵の国に属しますが、武蔵の国国分寺(国分寺市、府中市)建立以前から存在した郡寺の一つと考えられています。

 

<画像の説明>画像左または下:影向寺薬師堂 画像右または上:影向寺寺門 

 

 当寺の薬師三尊像は、従来は、本堂薬師堂に祀られていましたが、保存の観点から、現在は、十二神将等と一緒に裏手の安置堂に祀られており、年に数回公開日があります。

 

<画像の説明>画像左または下:薬師如来坐像と月光菩薩
       画像右または上:薬師如来坐像と日光菩薩


 薬師如来坐像は、ケヤキ材、日光月光菩薩立像は、サクラ材です。それぞれ、一木造、平安時代後期の作品です。作風からは、衣文のナチュラルさ、或いは、厚みの表現等から、見た目には定朝以降運慶以前(=平安時代後期)のものと考えられます。内刳りの有無はわかりません。

 薬師如来は、体のバランスも良く、お顔の表情も温和です。両脇侍は、薬師如来に比して、衣文線が、若干堅いように思えます。また、日光月光においては、髻の形の違い、或いは衣文線の違いから、作者或いは多少の時代的な違いがある可能性があると考えられます。

 安置堂の前に建てられた川崎市教育委員会の説明書きには、薬師如来と脇侍二尊という表現になっており、あえて薬師三尊像という表現は使っておられません。その理由は、定かではありませんが、外観から、両脇侍に比して、薬師如来が小さいということでしょうか。私は、薬師三尊像としてのバランスは、整っていると思います。

 

<画像の説明>画像左または下:影向寺薬師三尊像(安置堂前の説明用の看板より)
       画像右または上:安置堂前の説明用の看板

 

 この薬師三尊像に関して、更に一点疑問点があります。現在の日光月光菩薩の祀り方は、掲載画像の通り、薬師如来に近い方の手が上がっています(*)。一方、現地安置堂の前に置かれている川崎市教育委員会の立て看板の画像では、薬師如来に遠い方の手が上がっています(*)。どこかのタイミングで入れ替わったのでしょうか?日光月光菩薩は、像容からは区別がつかないことが多く、長い歴史の中では入れ替わりが起ることが起こるのかもしrません。

 しかし、この件に関して、お寺の方にお聞きしたところ、お寺では、昔からこの祀り方をしているときいている。ある時展示のために博物館に貸し出ししたところ、左右逆に展示されたことがあり、教育委員会の立て看板は、その際の画像と思うと仰っていました。

 『川崎市史 資料編』(川崎市 1988年)でも立て看板と同じ並びで説明がされており、これが川崎市の見解ということでしょうが、なぜ、敢てお寺の祀り方とは反対の並びで資料として収録されたのか、理由について記載はありません。機会があれば、伺ってみたいと思います。


(*)日光月光菩薩の印に関してもう少し説明させて戴きます。一般に、上げた手が、施無畏印、下げた手が与願印と呼ばれますが、当寺の場合、上げた手は、阿弥陀如来の中生の様に親指と中指で印を結んでいます。また、日光菩薩月光菩薩が、日輪月輪を持つ場合は、日輪月輪を外に開く形で持つことがあります。

 日輪月輪を外に開く形で持つ薬師三尊像については、本サイトにも下記に例があります。


 ➡勧蔵院 薬師三尊像について

 ところで、上で紹介しました『武蔵の国 国史跡・橘樹官衙遺跡群の古代学』に依りますと、影向寺に関していくつか興味深いことが記載されています。内容は保持していますが、説明のために、一部サイト管理人がリライト或いは追加説明しています。正確に把握されたい方は、別途購入されることをお勧めします。私は、川崎市民ミュージアムで購入しました。

-影向寺の伽藍配置は、法起寺式?
 発掘調査の結果、現在の薬師堂のほぼ同じ位置に金堂があったと推定されています。一方、この建物跡は、間口が広いので、講堂跡であり、伽藍形式で言えば、中門から見て、右に塔、左に金堂を配置する法起寺式(*1)という主張もあります。これに対して、著者の村田氏は、否定的な見解を述べられています。
-初代金堂の礎石
 推定金堂の礎石が残っており、建築時に造作した柱座(*2)跡を見ることができます。写真の通り、現在の薬師堂の礎石にも使用されています。

 

<画像の説明>画像右または下:薬師堂の礎石。
               柱座後から旧金堂の礎石を流用していることが分かります。
       画像左または上:影向石 三重塔の心礎石。中央に心柱の穴が見えます。


-影向寺の現在の薬師三尊像は、三代目或いは4代目?
 木彫仏が主流になるのは、9世紀以降(*3)、8世紀の仏様は、塑像仏の可能性が高い。現在の本尊の薬師如来坐像は、11世紀末の造立のため、おそらく、3代目か4代目に当たるであろうと述べられています。(2代目候補として、寺には二体の木彫破損仏が残されているそうです。)
-影向石の移動に関して
 現在残る影向石は、元は、寺の三重塔の心礎石でした。しかし、影向石の位置は、掘り込み基壇の中央部ではなく、南側に5m動いています。動かした理由や時期は良く分かりません。塔が建てられたのは、基壇下部から発掘された瓦から8世紀前半以降と考えられています。心礎石の規模から推定すると総高27m、現存する塔では、当麻寺(奈良県)相当だったと推定されています。当麻寺に関しては、下記リンクを参照ください。残念ながら今西塔は工事中ですが、画像から影向寺の規模がご理解戴けると思います。

 
 ➡当麻寺の画像はこちらでご覧ください


*1:法隆寺式とは金堂と塔の配置が左右逆。
*2:礎石の中央を丸く凸状に加工したもの。
*3:古来高温多湿の日本において、材木が豊富にあったにもかかわらず、奈良時代、木彫仏は殆ど作られていません。木彫像が日本で盛隆するのは、鑑真の渡来(763年)に同行して来日した仏師がもたらした白檀像やその精密な木彫技術でした。一木造の技法は、平安時代以降、急速に日本で普及しました。


 最後になりましたが、現在重要文化財の薬師三尊像を国宝に昇格させる運動が展開されています。本堂には、署名のための帳面も準備されています。私も署名させて戴きましたが、成就することを期待しています。

 橘樹官衙遺跡群の見学には、クルムとアルク博物学の中山良氏のレクチャーを受けました。中山さんありがとうございました。

2017年08月20日

清凉寺(京都市)

 清凉寺は、五台山清凉寺或いは嵯峨釈迦堂の名前で呼び親しまれています。国宝阿弥陀三尊坐像は、源氏物語の光源氏のモデル源融(みなもとのとおる)が造らせた像で、清凉寺の前身棲霞寺の旧本尊です。「光源氏写し顔」の伝説をもってます。

  左右の観音菩薩、勢至菩薩は、密教の手印を結ぶ形で珍しく、他に例は少ないと思います。張った肩、豊かな手足に対して腰は極端にくびれており、神秘的です。一方、観音菩薩は、冠正面に化仏(立像)、勢至菩薩は、冠正面に水瓶を飾る比較的オーソドックスなスタイルです。
 阿弥陀三尊坐像は、三尊ともにヒノキの一木造です。

 国宝釈迦如来立像は、インド―中国―日本と伝わった伝説をもち、三国伝来とよばれています。現在、当寺の霊宝館には、やはり、鎌倉時代の模刻像が安置されています。釈迦像の模造は、日本各地に100体近くあることが知られ、「清凉寺式釈迦像」と呼ばれています。

 

<画像の説明>仁王門 多宝塔 共に京都府指定文化財 江戸時代

 ➡本堂の画像にリンク

 

 清涼寺式釈迦像は、頭が螺髪の代わりに縄目状に表され、衣文線を同心円状に表します。
釈迦如来像体内納入品は、1953年に発見され、釈迦如来坐像とは別に国宝に指定されました。「チョウネン(*)上人へその緒書き」は、日本最古の平仮名書きとしても貴重です。

(*)チョウネンのチョウは、大をかんむりにして下に周をかいた字、ネンは然、<奝然>
<>内は、チョウネンを漢字で書いています。ブラウザの関係で、化ける可能性があります。

 兜跋(とばつ)毘沙門天立像は、制作時期は、平安後期、重要文化財です。東寺兜跋毘沙門天像の模刻像です。獅噛、胸当て、海老籠手等は、東寺像の模刻ですが、東寺像にある金鎖甲はありません(或いは色彩が施されていたが、現在は、色彩が消え去ったのかもしれません)。金鎖甲がないこととまっすぐ前を見、東寺像の様に横睨みしない点で、美術品としての迫力はかなり失われています。

 当寺の兜跋毘沙門天に関しては、本サイトの本編に詳細に記載していますので、そちらもご覧ください。

 ➡兜跋毘沙門天について

 

 ➡兜跋毘沙門天の展開

2017年08月14日

東光院(川崎市)

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 東光院(川崎市麻生区岡上)は、真義真言宗に属していましたが、現在は、単立寺院となっています。当院には、兜跋(とばつ)毘沙門天が安置されていますが、現在のところ、公開されていません。また、現在のところ、特に公開の予定はありません。

 兜跋毘沙門天は、本HPのメインテーマです。
 ➡兜跋毘沙門天については、こちらを参照ください

 

<画像の説明>東光院入口の石碑

 

 当院の兜跋毘沙門天は、一木造、像高96.6㎝、彫眼、宝冠を被らず髻を現します。右手に戟を持ち、左手で宝塔を捧げます。また、唐風の甲冑を着け、腰には、獅噛らしきものが確認できます。地天に載りますが、左右の二鬼はありません。当寺に設置された説明パネルの画像からは、地天の側面が垂直に切れており、かつては、両側に二鬼が配置されていたことが想像されます。
 像は、平安時代のものと考えられ、市の重要歴史記念物に指定されています。

                 <画像の説明>東光院山門

 

 ➡詳細は、こちらへ(毘沙門天を祀る寺院のコーナー)

2017年08月06日

よみうりランド聖地公園(川崎市)

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 よみうりランド 聖地公園は、遊園地よみうりランドの中にあります。重要文化財等の文化財が点在します(聖地公園だけであれば特にイベントのないとき、入場料は必要ありません)。季節により桜や紅葉を楽しむことができます。すぐ上を移動用のロープウェイが通過していきます。それにしても、著名な遊園地と歴史のある文化財の組合せは、面白いと思いました。ぜひ長く保存して戴きたいと思います。

 

<画像の説明>よみうりランド聖地公園  由緒ある多宝塔のすぐ上をロープウェイが通る。
    (ロープウェイのロープが、後で画像処理した様に見えますが、画像処理していません。)


 

<画像の説明>画像左または下:聖地公園多宝塔とロープウェイ
       画像右または上:聖地公園聖門


 重要文化財は、妙見菩薩像と聖観音菩薩立像です。妙見菩薩像は、鎌倉時代後期の作品です。温容と豪快さを兼ね備えています。聖観音菩薩立像は、平安時代前期の作品、現地の説明パネルによると、像高4尺6寸(約1.4m)、一木造です。双方とも内部が暗く殆ど見えません。もう少し明るいところで拝ませて戴きたいと思いました。

 

 重要文化財に指定されていないですが、形が優秀でぜひ大事にしていただきたいのは、多宝塔と聖門です。多宝塔は17世紀の創建、元は、兵庫県加古郡の無量寿院のあったものだそうです。聖門は、高麗門(*)です。600年前の建築で京都御所から竜安寺に移されていたものだそうです。

(*)高麗門は、背面両側に直角に出た屋根があって控え柱の上を覆うもので、屋根平面は、Πの形になった門です。

2017年08月05日

小田原城総構(小田原市)

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 小田原城は、15世紀初めに大森氏によって築城されましたが、15世紀末に伊勢宗瑞(北条早雲)に攻め取られ以降小田原北条氏(*3)5代の居城になりました。近年の研究では、小田原城攻めは、明応の政変(*1)の一環だったという説が有力です。その際の事でしょうか、早雲が、火牛の計(*2)を用いたというエピソードがあって、今JR小田原駅の北口(新幹線側)に、早雲と角に松明を付けた荒れ狂う3匹の牛の銅像が設置されています。

 

  <画像の説明>小田原駅北口に設置されている北条早雲の銅像(牛3匹とともに)

 早雲以来、小田原北条氏は、継続して小田原城の守りを充実させました。小田原城の最大の特徴は、城下町全体を城内に取り込む総構です(*4)。総構によって、小田原北条氏は、上杉謙信の攻勢からも武田信玄の攻勢(*5)からも守り切りました。上杉軍も武田軍もその主体は農民兵であり、農繁期にかかる前に兵を撤退させる必要があるため、長期の包囲には不向きでした。

 しかし、1590年、豊臣秀吉の攻勢によって、小田原北条氏は滅びました。豊臣軍は、常備軍であり、兵站や兵器の充実、そしてその経済力の前では、総構の守備力も殆ど役に立ちませんでした。一夜城を見せられたことにより北条氏政、氏直親子は戦意を喪失したと言われています。

 今、小田原城の総構の遺構は、整備が進んで、非常に良い散策コースに仕上がっています。お城の西側と北側を中心に遺構が残ります。観光資料には、約9㎞の遺構が残ると記されています。(東側と南側は訪れていませんが、殆ど遺構は残っていないそうです)。

 

<画像の説明>両画像とも小田原城総構の遺構(三の丸外郭付近)。写真の左側が郭外となります。

 

<画像の説明>画像左または下:小田原城天守閣 八幡山古郭より撮影
       画像右または上:総構を散策した際のGPSデータ(総距離は約7.4㎞でした)

 総構の散策は、伊勢原市在住のOさんにご案内戴きました。ありがとうございました。

 小田原城の天守閣は、明治3年に廃城になって、昭和35年に天守閣を復興しました。天守閣復興の際に、最上階には本来無かった展望台を設けました。このことで、外観が大きく変ってしまいました。平成28年に耐震補強工事を行い、大規模リニューアルを行いました。

 

<画像の説明>画像左または下:本来の天守閣の模型
  (天守閣内に展示されています。撮影可というで、ガラス越しですが、撮影させて戴きました。)
       画像右または上:現在の復興天守閣
           (最上階の展望台以外は、本来の天守閣が再現されているのが分かります。)

 今、小田原城をすべて木材で建て代えようという運動があるそうです。しかし、私には、木材のみで建立しても、今の工具、製材技術或いは建築技術で建てるのであれば、そんなに意味ある事とは思えません。

 かつて、法輪寺の再建の際に、法隆寺の西岡常一棟梁が木材のみを使用した旧来の工法を主張されました。それは、西岡棟梁の実績と技術があればこそ可能だった思います。宮大工棟梁と建築学の学者さんの深い議論が行われましたが、技術の継承の観点もあって、最低限の鉄筋を使うことで決着したそうです。今後の長いメンテナンスを考えれば、致し方なかったと思われます。(*6)

 電気(台)ガンナで製材した木材を使用して、現在の技術で組み立てる、つまり、材料として木材を使用するだけのプロジェクトであれば、それには疑問を感じてしまいます。当然現在の耐震基準のクリアも必要ですし、外観自体が本来のものとは同じにならない可能性もあります。私としては、現代の技術を使っても、天守閣の外観をできる限り本来の姿に戻すための改造の検討をして戴ければと考えてしまいます。
 この運動を頑張っている方には、大変に申し訳ありません。上記は、私の個人的な意見です。また、私の認識不足については、ご指摘賜れば幸いに存じます。

 

<画像の説明>小田原城銅門外観(平成9年復元)

 

 銅門(あかがねもん)は、見える範囲は木材のみで建てられた、ぜいたくな門です。大変良くできていますが、檜の梁は、電気(台)ガンナで、製材した後に、手斧か槍鉋のようなもので、再度成形されているように見えます。


<画像の説明>画像左または下:小田原城銅門内部の構造材
       画像右または上:小田原城銅門外部の構造材


(*1)明応の政変は、細川政元、日野富子そして伊勢貞宗(室町幕府政所執事)等がクーデターにより10代将軍足利義材を廃嫡し、従兄弟の足利義澄を11代将軍とした事件です。この際、義澄の義兄茶々丸(堀越公方)が、義澄を将軍にすることに反対したため、今川氏親の家臣だった伊勢宗瑞(伊勢貞宗の従兄弟)が、政元や上杉定正と連携して小田原への出兵が行われたとする見方です。
 なお、茶々丸の墓は、伊豆長岡の願成就院に残ります(諸説あります)。

 ➡願成就院の記事はこちらです。

(*2)火牛の計は、牛の角に松明を付けて、牛が赤い色に異常に反応して荒れ狂って、敵に突進させるという奇計です。有名なところでは、倶利伽羅峠の合戦の際に木曽義仲が平家を相手に用いたことが、源平盛衰記に掲載されています。少数の兵を多くに見せて、敵を混乱、壊滅させる戦法と言われていますが、早雲がその戦法を使った可能性は低いと思います。どうしてそのようなエピソードが残されたかはわかりませんが、やはり下剋上の雄とされた旧来の早雲のイメージに合っていたということでしょうか。


(*3)小田原を支配した北条氏は、鎌倉幕府の執権北条氏とは無関係で、室町幕府の政所執事を歴任した伊勢氏の一族です。執権北条氏と区別する観点で、後北条と言われることが多いですが、このHPでは、より分かり易いように小田原北条氏と記しています。


(*4)実は、当時、日本の最大の総構は、大坂城でした。


(*5)武田信玄の進攻に関しては、それほど大規模な侵攻では無かったという研究もあります。

 

(*6)法輪寺は、残念なことに世界遺産の登録がされませんでした。ブログで、以前法輪寺を取り上げたことがあります。
  ➡法輪寺の記事は、こちらです。

 

(追記)
 人気者だった象のウメ子は、2009年に死にました。

 

2017年07月30日

横浜ユーラシア文化館 騎馬民族征服王朝説は?

 本稿では、横浜ユーラシア文化館、横浜開港資料館、シルク博物館についてご紹介させて戴きます。今回は、ベイクオータからピア赤レンガまで、シーバスに乗りました。
今回の散策は、クルムとアルク(きくみるよむあるく博物学)の中山良氏にご案内戴きました。

 中山さん、ありがとうございました。

 

<画像の説明>上左:横浜開港資料館催しもの案内 
      上中央:シルク博物館入場券
       上右:シーバス乗車券(本来回収されるが、お願いすると鋏を入れたうえ戴けます)
       下左:横浜開港資料館パンフレット

       下右:上 横浜都市発展記念館常設展観覧券
       下右:下 横浜ユーラシア文化館常設展観覧券

 

<画像の説明>左または下:シーバスからの横浜ベイエリアの遠景
       右または上:シーバス~移動ルート
              (地図上の横浜開港記念館は、横浜開港資料館とは別の建物です)

 

<画像の説明>横浜レンガ倉庫 当日はイベントで大混雑でした。

 

 横浜開港資料館では、ペリー来航以降大きく変わった横浜の様子が紹介されています。江戸時代から大正・昭和初期に至る横浜関係資料(行政、海外、横浜の風景や風俗等)26万点が、展示されています。たまくすの木を中心にコの字型の新館と旧英国総領事館だった旧館より成ります。

 

<画像の説明>左または下:横浜開港資料館正門 
       右または上:獅子頭共用栓を写したつもりでしたが、残念ながら、人の影に
             なってしまいました。すみません。

 

 シルク博物館は、戦前日本の産業の一角を支えたシルクの魅力を伝えます。横浜開港当初、ジャーディン・マセソン商会のあったところに開設されたそうです。科学・技術の理解とともに実演が見ものです。糸口を取り出す実演は、興味がつきません。

 

<画像の説明>同じ建屋(旧「横浜中央電話局」の局舎)の中に、横浜都市発展記念館と横浜ユーラシア文化館が入ります。

 

 横浜ユーラシア文化館は、以前の「横浜中央電話局」の局舎を使用しており、横浜市認定歴史建造物となっています。江上波夫氏の集められた中国やシルクロード関連の考古・歴史・美術・民族資料約2500点、文献資料約25000点が展示の中心です。

 江上波夫氏は、シルクロードをポピュラーにし、そのロマンを日本に紹介した方です。展示品には、今や絶対に個人では手に入れることのできない貴重な文化財が含まれます。
 江上波夫の騎馬民族征服説は、東北アジアの騎馬民族によって、4世紀末ないし5世紀前半ごろ大和朝廷が創始され、統一国家が出現したという説でした。このサイトの管理人も含めて、60歳以上の人たちには、忘れられない人も多いと思います。

 しかし、この説が発表されるや考古学者を中心に否定的な意見が多く出されました。その多くは、日本独自の前方後円墳が、騎馬民族が襲来したとされる4世紀末の前後で特別な変化が見られない等、同時代には、戦乱の跡や文化的な変化点が見られないことが主な論旨でした。

 それでも、騎馬民族征服王朝説は、ユーラシア全体で民族の歴史を論じた点でロマンがありました。更に、手塚治虫の火の鳥黎明編で、この騎馬民族説がストーリーのモチーフにもなり、ストーリーは心のファンタジーとなりました。

 横浜ユーラシア文化館には、騎馬民族征服説に関する言及は一切ありません。学説としては、今や完全に否定されてしまったからでしょうか。シンポジウムで軽く発表されたにすぎないからでしょうか。例え学会で否定されても、戦後の歴史界に与えた影響、邪馬台国論争等の歴史ロマンを一般市民にも開放するきっかけとなった功績は、大きいと思いますが、如何でしょうか?

 本当のところ、江上氏が、騎馬民族征服説についてどのように考えられていたのか、生の史料を展示するコーナーを作って戴ければ、私はきっと食い入るようにその資料を見ると思います。少し残念でした。


2017年07月24日

生命の星・地球博物館 辰砂のこと(小田原市)

 <本稿は加筆しました(2017/7/17)>

生命の星・地球博物館は、箱根登山鉄道入生田駅のすぐそばにあります。名前の通り展示の中心は、宇宙関連、鉱物、化石等です。 その展示品の中に、奈良県宇陀市原産の辰砂がありました。考古学で取り上げられることのある辰砂について取り上げたいと思います。

 

<画像の説明>生命の星・地球博物館外観


初期の大和朝廷と辰砂の関係は、多くの人が指摘されています。纏向遺跡の発掘により初期の大和政権(敢て邪馬台国とは言いません)が、飛鳥地方より勃興したことが確実視されるようになりました。なぜ大和が権力の中心になることができたのかの議論の中に、国産の辰砂が近郊で生産されたことが一因とされる有力な説があります。 因みに、赤色は幼児が最初に覚える重要な色と言われます。太陽に対する信仰の表れともいわれることもあります。日本民族のみならず、世界中の多くの民族が信仰の対象とする色です(*)。

<画像の説明>生命の星・地球博物館において展示されていた辰砂(奈良県宇陀地方産)

 

 日本では、弥生時代や古墳時代、水銀朱が、死者の埋葬に使われました。朱色を作り出し、定着させるために必要な辰砂ですが、古墳時代には、その多くを丹生鉱山(三重県)或いは宇陀の鉱山(大和水銀鉱山)から採掘されたと考えられています。紀伊半島から四国にかけて中央構造線に沿って水銀鉱床群があります。朱を取り出すために、辰砂鉱石を粉砕して精製しました。その精製技術は、当時、最先端のハイテク技術でした。 最近の硫黄と水銀の同位体分析で、大和で出土する古墳からこれらの鉱山から採取された水銀と同じ同位体比が検出され、これらの鉱山と大和朝廷の関係が裏付けられました。  邪馬台国大和説は、巻向遺跡の発見以来特に優勢になっています。しかし、北九州に比べて後進国だったヤマトの政権がなぜ日本の統一王朝を作ることができたのかと疑問を呈する人も多くいらっしゃいます。ヤマトが辰砂鉱山とその精製技術を確保していたことも要因の一つと考えられます。

 

(*) 近畿大学理工学部生命科学科 南武志氏の地学クラブ講演報告『遺跡出土朱の起源』によりますと、「古代に用いられた無機赤色顔料化合物に朱(硫化第2水銀)、ベンガラ(酸化第2鉄)、鉛丹(四三酸化鉛)の3種類があり、これらは厳密に区別されていない。更に遺体周辺には貴重な朱を用い、周囲の壁などは、ベンガラを使い分けすることがある。」とされます。 この研究からは、朱色に染められた平城京のような古代の建築は、‘朱’では無く、ベンガラと考えた方がよさそうです。古代において、辰砂⊆朱(朱が辰砂とは限らない)、辰砂が主に埋葬に使われたことは、朱色という色も重要ですが、遺体の保全に水銀が重要だと古代の人が考えていたことを認識させて戴きました。
 (本資料については、クルムとアルクの博物学の中山良氏よりご教授戴きました。)

 

 



追記:<画像の説明>

 

 生命の星・地球博物館のある箱根登山鉄道入生田駅は、三線軌道(軌条)が見られます。また、一寸遠く見づらいですが、三線軌道の分岐も見られます。この駅のすぐそばに、箱根登山鉄道の電車の操車場があります。この駅では、上り(小田原方面)は通常の狭軌の軌道のみですが、下り(箱根湯本方面)は、三線軌道です。
 小田急線は複線の狭軌、箱根登山鉄道線は、単線の標準軌です。入生田駅~箱根湯本間は両方が乗り入れしているため、このような面白い風景が見られます。

2017年07月17日

鳩山会館 旧岩崎邸(東京都)

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 今や売れっ子作家となった万城目学氏の著書『ぼくらの近代建築デラックス!』(文芸春秋社)は、門井慶喜氏との近代建築に関する対談集で、京都、大阪、神戸、東京と地域別に様々な近代建築を紹介しています。その中に私が東京の建造物として気になっていた2つの建築が紹介されていましたので、急遽予定を変更して、ご紹介させて戴きます。


 一つ目は、鳩山会館です。鳩山会館は、1924年建築家岡田信一郎氏によって建てられました。大正時代の作品です。岡田氏には、他に歌舞伎座、明治生命館(国の重要文化財に指定)等の作品があります。明治以降の建造物は、スポンサーばかりか、設計者がわかりますので、設計者毎の横にらみの楽しみ方も可能となります。

 

<画像の説明>鳩山会館主要部分
 

 建物自体はすっきりしていて、素晴らしいです。文句はありませんが、鳩山家らしく?あちこちにハトのオブジェがあります。これも岡田氏のアイディアでしょうか?おそらくスポンサーの要求でしょうが、一寸やりすぎ感を感じます。


 内部は、公的な部分と私的な部分が混然一体となっています。鳩山一郎氏をはじめ鳩山家は歴代の総理大臣をはじめ政府高官を輩出しましたが、その私邸だったということなので、私的に様々な人々が訪れパーティーや或いは密談を凝らしたのでしょう。徳川幕府で言うところの中奥といった立ち位置でしょうか、階上には家族の生活空間があります。
 それにしても、「友愛」は地に落ちてしまいました。今や、『鳩山家に学ぶ教育法』は、アマゾンで、1円で売っています。

                     <画像の説明>鳩山会館の屋根に飾られる鳩のオブジェ

 

<画像の説明>旧岩崎邸母屋主要部分

 


 2つ目は旧岩崎邸です。旧岩崎邸は、岩崎弥太郎の子供岩崎久弥(三菱グループ第3代総帥(*))の自宅でした。青いドームが印象的です。石造りのように見えますが、実は木造建築です。1896年(明治29年)ジョサイア・コンドルによって建築されました。明治時代の作品です。
なぜ、わざわざ木造で建てたのか、またわざわざ石造りに見せたのかは良く分かりませんが、重厚感のある良い建物と思います。周辺の環境と一緒に楽しむことができます。

                      <画像の説明>旧岩崎邸母屋屋根上のオブジェ


(*)総帥と書きましたが、実際どう呼ばれていたのかは調べられませんでした。すみません。

2017年07月07日

三星堆博物館(四川省)

  三星堆遺跡は、約5000年前から約3000年前頃に栄えた古蜀(古代四川)文化です。三星堆博物館には、三星堆遺跡から発見された異様な造形が特徴な青銅製の仮面や巨大な人物像が多数展示されています。

 

<画像の説明>三星堆博物館の展示品(模刻)

 

 残念ながら、写真は撮れませんでしたが、目が大きく飛び出た(円柱が目から飛び出している)銅面は、印象深いです。なぜこのような造形がなされたのかいろいろ考えましたが、想像は尽きません。
それ以外にも、掲載した画像(模刻)も、四角く角張った顔、巨大な目、およそ今のアジア系の顔からは想像できません。古代蜀の地に住んだ宇宙人という評価も、あながち想像だけではないような造形です。

 

<画像の説明>
左或いは下:三星堆博物館の外部にあるオブジェ。前面は、太極図(巴のようなマーク)が描かれた太極拳の道場になっています。右または上:三星堆博物館の外部にあるオブジェ。

 

 中原の歴史で言えば、夏・殷(商)時代に相当します。考古学的には、最近は仰韶文化から竜山文化或いは二里頭文化と呼ばれる新石器時代から青銅器文化の時代です。殷(商)時代には、青銅器文化が花開きました。
 中原と四川の文明の関係は、ある程度の関係はあったというのは間違いないと思われます。しかし、具体的にどのような関係があったのかは、良く分かっていません。
星堆博物館において展示品を一通り確認しましたが、金石文は発掘されていない様です。この時代、中原では、多くの甲骨文字が発見され、以降の歴史時代とのつながりが、解明されていっています。その点、三星堆文化は、2000年以上文化が継続されましたが、次の時代につながることなく歴史から忘れさられました。
 中原の文化とは異なり、しかも高度に発達した四川地域の青銅器文化の存在は、中華文明の多源性を証明してくれると言われています。三星堆文明の更なる解明が期待されます。

2017年07月03日

足利学校(栃木県足利市)

 足利学校は、現地で戴いたパンフレットによりますと、足利学校の創設は諸説ありますが、あまりはっきりしていない様ですが、関東管領上杉憲実(うえすぎのりざね)により1432年頃に再興されたとされます。

 

<画像の説明>復元された足利学校の方丈と庫裏

 足利学校の実態は、それほど分かっていませんが、1549年、フランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介されました。フランシスコ・ザビエルが、当地に赴いたわけではないのに、どのようにしてこの情報を得たかは、私は良く知りません。

 

<画像の説明>足利学校入徳門

 富樫倫太郎氏の小説『早雲の軍配者』に、主人公の風間小太郎が、学問のために足利学校に入学するシーンがあります。北条早雲の晩年、フランシスコ・ザビエルが日本に来る数十年前の時代設定ですが、学徒3,000人、名実ともに日本の最高学府との記述があります。小説の記述ですので、本当である必要は無いのですが、現在の遺構からは学徒3,000人は想像できません。小説の中では、小太郎が、孫子、呉子、易経等を筆写しながら、独学で学んでいくシーンが描写されています。


 現地を見る限り、私のイメージですが、学校というより図書館に近いのではないかと考えました。 フランシスコ・ザビエルの記述はともかくも、室町時代、戦国時代の足利学校に関する記述が、中央の文献にそれほど多くないことからは、その時代の実態はあまりわからないのではないかと思います。更に詳細な調査をお願いしたいと思います。


 昭和57年より、「史跡足利学校跡保存整備事業」が実施され、平成2年江戸中期の姿がよみがえりました。足利学校は、日本遺産に認定されましたが、世界遺産を目指して活動されています。更に頑張って戴きたいと思います。

 

 

                   <画像の説明>足利学校入学証
           (入場時にパンフレットと一緒にもらえます。)

2017年06月19日

元興寺(奈良市)

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 元興寺は、我が国最初の本格的伽藍である飛鳥寺(法興寺)を前身とします。はじめ蘇我氏の氏寺でしたが、平城遷都に伴い官大寺として、現在地に移建され、元興寺と称せられる事となりました。 平安京遷都以降、寺勢は衰退しましたが、元興寺の命脈を支えることになったのは、奈良時代に智光が感得したと伝える智光曼荼羅(阿弥陀浄土変相図)でした。平安時代に起った阿弥陀信仰は、上流階級だけではなく一般庶民も極楽往生を願い、信仰の対象がこの智光曼荼羅となりました。 極楽坊は、従来の元興寺の唯一火災を免れた遺構です。鎌倉時代に、創建時の大僧坊を改装し、西方浄土(さいほうじょうど)を拝むために、東門を開きました。今も、東門からまっすぐ西方に極楽坊を見ることができます。

 

<画像の説明>元興寺極楽坊

 

 このことは、以前このコーナーで取り上げた當麻寺も同じ状況です。当麻寺の場合は、それまでの南向きに建てられた金堂、講堂とは別に、東向きに新たに本堂を建て、当麻曼荼羅を祀っています。

 

  ➡当麻寺はこちらをご覧ください。


 元興寺極楽坊のすぐ隣、有名な奈良時代の国宝五重小塔の安置された法輪館と呼ばれる収蔵庫には、毘沙門天立像が祀られています。ここの毘沙門天立像は、宝塔を持たない所謂鞍馬式です。毘沙門儀軌には、根本印として、「右押左叉」と述べられています。鞍馬寺をはじめとした右手を腰に当て左手に叉をもつ単独で祀られた毘沙門天の本来の像容と考えられます。  鞍馬式毘沙門天については、「鞍馬寺」或いは本編「2.7幸福神としての毘沙門天」の項で詳細に説明させて戴きました。

 

  ➡鞍馬寺式毘沙門天については、こちらをご覧ください。


  ➡「2.7幸福神としての毘沙門天」については、こちらをご覧ください。

2017年06月19日

長城第一墩(甘粛省)

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 万里の長城は、行ったことのある方も多いと思いますが、その多くは、北京近郊の八達嶺長城に行かれたのではないでしょうか。ここは、高速道路も整備されていますので、北京を訪れた中国人の多くもここを訪れます。

 

<画像の説明>北京近郊の八達嶺長城 人が鈴なりにつながる

 

 八達嶺長城は、北京から75kmのところにあります。長城が北京の街から如何に近いかと同時に、北京という中国の首都が如何に北に偏っているかを物語る一端でもあります。

 今回ご紹介するのは、甘粛省嘉峪関に近い、長城第一墩(dun)です。明代長城の最西端です。東の端の山海関(河北省)から延々と続く長城ですが、画像の討頼河という河(甘粛省嘉峪関)で終点となります。かなり崩れ落ちているところもありますが、規模や完成度の点でも、北京近郊とは比べるべくもない貧弱さです。

 討頼河には、展望台が突き出ていますが、床がガラスで、高所恐怖症の人では、足が出せないと思います。中国の信頼性の基準では?と思いながら、折角の記念なので、最先端まで行って写真を撮ってもらいました。

 

 

<画像の説明>討頼河(甘粛省嘉峪関)

 

 

<画像の説明>画像1:討頼河に突き出た展望台。
画像2:長城第一墩の標識。後方に修復中の
長城が見える。

2017年06月05日

東大寺法華堂 不空羂索観音を中心に

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 東大寺法華堂は建物として、国宝です。正面5間、側面8間、奈良時代創建の正堂と鎌倉時代再興の礼堂を融合させた建物です。

 

<画像の説明>東大寺法華堂。このあたりまで来ると、人口密度も鹿密度もだいぶ低くなります。

 

 法華堂のパンフレットによると、「堂内には御本尊の不空羂索観音立像を中心に合計10体の仏像が立ち並び..」と記載されています。確かに、四天王をはじめとした周囲の八尊は、不空羂索観音に従属する護法神に見えます。
 脇侍のはずの梵天(像高402㎝)、帝釈天(像高403㎝)が、不空羂索観音立像(像高362㎝)より大きいことから、梵天、帝釈天か不空羂索観音のどちらかが、他の場所から請来されたのではないかと言われることもあります。確かに、同時に作られた脇侍が本尊より大きいというのは考えづらいかもしれませんが、法華堂の四天王をはじめとした八尊は実は本尊です。

 「四天王をはじめとした八尊が本尊」は、このサイトのテーマの一つですので、別項にまとめておきました。


   ➡「四天王をはじめとした八尊が本尊」はこちらをご覧ください。

 

 法華堂に祀られた、10体の仏像は、すべての仏像が国宝です。不空羂索観音、四天王以下八尊一具、そしてもう一体は秘仏の執金剛神です。不空羂索観音の手前に安置された金剛力士像と秘仏の執金剛神の関係は、私には良く分かりません。また、執金剛神のみが秘仏(開扉は、12月16日です)となっている宗教的理由も良く分かりませんが、東大寺が成立する前の金鍾寺時代には、良弁の持念仏だったとの伝承を持つ古い仏像です。執金剛神は、粘土を固めただけの(焼成もされない(*))塑像ですが、体から離れたハク帯(ハクは、白の下に巾)が、躍動感を醸し出します(**)。執金剛神のみが塑像、他の9体は脱活乾漆像です。

 不空羂索観音は、八角の壇にのり、梵天、帝釈天より像高が高く見えるよう工夫されています。表情が厳しく、重量感、存在感を感じます。天衣はナチュラルです。

 

(*)この時代、仏像を焼成することのできる大きな窯はありませんでした。

 

(**)塑像として東大寺戒壇院の四天王が有名ですが、ハク帯を体に密着させています。塑像では、ハク帯を体から離すことは難しく、執金剛神の場合は、芯に補強のための金属が使われていると考えられます。

 

(追記)

 脱活乾漆像の制作方法と歴史について少し追加させて戴きます。木材の豊富な日本では、平安時代以降は、木彫が主流になりましたが、奈良時代は、塑像と脱活乾漆像が造像の中心でした。塑像は、安価で短納期ですが、強度的には脱活乾漆像には及びません。

 脱活乾漆像は、7世紀末に日本で発明されました。その最初期の遺品は、当麻寺の四天王、680年代の作品です。脱活乾漆像は、木材と粘土の芯の上に、漆を染み込ませた布を何重にも張り合わせていきます。脱活乾漆像の自立体は漆を染み込ませた布です。そのため、漆と布が十分乾燥した後は、木芯と粘土を抜き去ることができました。製作工程が複雑で短期間で完成させられない大変高価な方法でした。漆が如何に高価だったかは、『正倉院文書』に、730年代に建立された興福寺西金堂の脱活乾漆像が、「仏像用の漆の価格が堂の建築費に匹敵した」旨記録が残ります。この時代、国家によって造寺造仏が管理されていましたので、確かな記録として残っています。

 また、奈良時代末期(鑑真の来日)以降発生した木心乾漆像は、木芯の上から木屑と漆を混ぜた木屎(こくそ)を塗って更に漆で成形したものですが、その自立体は木芯です。そのため、木芯を内部に残す必要がありました。 
 平安時代以降、奈良は、戦乱によって何度も被災しました。軽量で丈夫だった脱活乾漆像は、その都度戦乱を避けて疎開が可能でした。このことは、金銅仏の大仏が何度も被災したことと対比すれば納得できます。

 

2017年06月05日

鶴岡八幡宮と鎌倉国宝館

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 鶴岡八幡宮は、源頼義が、前九年の役の戦勝を祈願して、京都の石清水八幡宮を鎌倉に勧請したのが始まりです。更に、頼義の長子八幡太郎義家が修復を加えました。義家の4代後の源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、武家社会の発展とともに発展を遂げていきました。

 

<画像の説明>画像1:鶴岡八幡宮本殿側面 画像2:鶴岡八幡宮本殿正面


 今の観光ブームは、鎌倉も例外ではありません。多くの外国人、着物を着た女性等大変な賑わいで、鶴岡八幡宮の写真もなかなか思うようには撮れません。
 公暁が実朝を殺害した際に身を隠したと伝えられていた隠れ銀杏の木は、2010年3月10日の大風で倒壊しましたが、今はわずかに芽が出ている状況です。身を隠せるくらい大きくなるのは、何百年もかかるのでしょう。

 

<画像の説明>鶴岡八幡宮と隠れ銀杏の木の切り株


 鎌倉国宝館は、昭和3年に開館しました。おそらく市レベルの博物館では最も早い開設です。関東大震災で被災した文化財を保存、そして一般の人に展示するために創設されたそうです。館内は、お寺の須弥壇に見立てたところに展示品が置かれています。展示品まで近く、しかもガラスの仕切りもなく直接鑑賞可能です。実際に寺院に祀られた状態をできる限り再現したいということだそうです。博物館のこのような形式の展示は、文化財の保存の観点で最近は難しいのではないかと思います。当館は、とっても来館者フレンドリーで素晴らしいと思いました。

 

 東京国立博物館をはじめとした国立の博物館(現在では、独立行政法人)が、昭和26年に成立した博物館法の対象外の中では、鎌倉国宝館は博物館法を設立の根拠とする博物館の中では、最も充実した博物館の一つだったと思いますし、今もそうだと思います。
 現在(2017年5月20日)は、阿弥陀三尊の特別展示がされています。今回祀られた阿弥陀三尊像は、「慶派のほとけ」とキャッチコピーが付いています。

 

<画像の説明>鎌倉国宝館(鶴岡八幡宮の敷地内に位置します)

 

 1186年には、若き運慶が北条時政に招来されて、伊豆長岡の阿弥陀如来、毘沙門天をはじめとした願成就院の諸像を造りました(*)。運慶の系統が関東地方に根付いていることは、歴史的にも、そして力強い武士のための躍動感豊富な彫刻が多いことも、私達は、実感として持つことができています。そのような背景のなかで、快慶の影響については、考えてもみなかったので、大変楽しみな展示テーマです。
 このことをもう少し説明させて戴きます。私たちは、慶派の作品として、東大寺南大門の金剛力士像を先ずはイメージします。運慶が最初からあのような力強い武士好みの作品をアウトプットした訳でなく、願成就院造像以降の運慶と鎌倉武士との交流が、東大寺南大門の金剛力士像のような力強く躍動感のある作品を生みました。東大寺金剛力士像は、運慶が鎌倉武士に描いていたイメージでした。一方、快慶は関東地方での活躍は希薄です。
 関東地方に安置されているにもかかわらず、展示の阿弥陀三尊は、柔らかで温和で、宋の影響を強くうけた作品です。教恩寺阿弥陀三尊像は、阿弥陀如来立像に対して、左右の菩薩像は中腰です。まるで、京都三千院阿弥陀三尊像の阿弥陀如来如来坐像が立ち上がると、大和坐りしていた左右の菩薩も思わず立ち上がり中腰になった感があります。

 館の説明資料では、肥後定慶の影響を認めつつも快慶の系統に近い面睨とコメントされています。言うまでもなく、秀逸な作品で、今回の特別展は私にとって有意義でした。

 

 ところで、阿弥陀三尊像は、阿弥陀様に向かって右の観音菩薩、左の勢至菩薩をセットにした祀り方です(**)。阿弥陀三尊像の観音菩薩、勢至菩薩の見分け方には、決まりがあまりありません。ほとんど同じ場合もあります。(***)。左右に配置された菩薩の根拠を、ご説明戴いた学芸員にお聞きしたところ、従来お寺に祀られている通りに展示している、長い歴史の中で、入れ替わっていてもわからないとのことでした。

 

(*)慶派(或いは慶派成立前の奈良仏師)と鎌倉武士のつながりは、1185年奈良仏師成朝が頼朝に招来されて、鎌倉の勝長寿院の仏像を造ったのが嚆矢とされます。奈良仏師と鎌倉武士のつながりは、平家滅亡の直後から開始され、更に運慶が発展させました。

 

(**)仏像の解説書では、阿弥陀様と仏像の並びで表現することが多いです。その場合は、左に観音菩薩、右に勢至菩薩と説明されています。仏様の並びはその通りですが、拝観する私たちは、向かって仏様を拝みますので、右が観音菩薩、左が勢至菩薩という方が、分かりやすいので、私はいつもこのように表現させて戴いています。
 ついでに言えば、このような菩薩の配置のルールにこだわるのは、日本ならではです。中国例えば敦煌では、観音様が如来の右側に祀られる例はたくさん見られます。

 

(***)阿弥陀三尊像の両脇侍の比較

<鎌倉国宝館の特別展示>

  右像(観音) 左像(勢至) コメント
金剛寺
左手に具物(1)

両手で具物(1)
秦野市
教恩寺(2)
両手を正面で揃える

正面で合掌
鎌倉市
両菩薩は中腰

(1)蓮の葉を丸めて先に蓮華座のようなものが付いています。固有名詞はわかりません。
(2)正面で揃えた手は、蓮華座が外れた(今は無い)のであれば、下記の三千院と同じ組み合わせとなります。

 

<著名な阿弥陀三尊像の例>

  右像(観音) 左像(勢至) コメント
清凉寺 冠正面に化仏 冠正面に水瓶 京都市
浄土寺浄土堂 冠正面に化仏
左手に水瓶
冠正面に化仏
両手で蓮華座
兵庫県
快慶作
三千院
正面で蓮華座

正面で合掌
京都市
大和坐り

 

 

(追記)

 古い商家に残された、商品或いは材料の搬入出使用されたと思われるトロッコ(荷車)用の線路です。
 鎌倉駅から本殿まで参道を歩く間に見かけた風景です。同行の方の指摘で思わず写真を撮りました。
 同商店は、鎌倉 「三河屋本店」というそうで、検索エンジンでもヒットしますしす。


 

 

 

2017年06月05日

秋篠寺 秋篠大元帥明王(奈良市)

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 秋篠寺は、本堂の伎芸天が有名です。名前から芸術家やタレントのタマゴが訪れることがあるそうです。確かに、首を一寸傾けた像は情感たっぷりです。現地で買い求めた写真を満載したパンフレットには、伎芸天が本来の尊名であったかは定かではないという記載がありますが、普通には観音菩薩立像に見えます。

 この像が理由も時期も良く分からないのですが、おそらく鎌倉時代の修理に際して首を傾けてしまった(或いは意識して首を傾けた(*))以降、他にはほとんど例のない伎芸天という尊像名を与えたことで、現在では、伎芸天が秋篠寺の人気を支えています。マーケティングの妙で、私は常々感心しています(伎芸天の人気に水を差すわけではありません)。

 

(*)伎芸天の頭部は奈良時代の乾漆像、体部は、鎌倉時代の木彫です。

 

<画像の説明>秋篠寺本堂 堂中に伎芸天が祀られます。

 

 今回ご紹介するのは、本堂の西の大元堂に安置された秋篠大元帥明王(だいげんすいみょうおう)です。なお、真言宗の寺院では、帥(すい)は、発言しないそうで、お寺が発行した資料には、「だいげんみょうおう」と記載されています。

 大元帥明王の図像は、遣唐僧 常暁(じょうぎょう)が、839年に日本に請来しましたが、6本の手をもち、体じゅうに蛇が巻き付いた忿怒像です。朝廷の鎮護国家の祈祷(国の怨敵や逆臣の調伏)のために重用されたため、朝廷の許可した真言寺院以外が大元帥明王を祀ることを禁じました。そのため、大元帥明王自体は、あまり多く作られなかったと考えられます。秋篠寺は、真言宗醍醐寺或いは朝廷との関係が深く、大元帥明王が祀られたと考えられます。

 

<画像の説明>画像1:旧本堂跡。本堂が平安時代末、被災した後、講堂(元、本堂)が、本堂として使われています。画像2:大元帥明王の祀られる大元堂。

 

 大元帥明王は、秘仏となっていますが、年に1日(6月6日)に一般公開されます。その日は、普段の静寂さとは打って変わって朝早くから、多くの人が来られ、列をなします。大型の観光バスで団体客も来られます。

 

<画像の説明>大元帥明王の御開帳日(6月6日)に順番を待つ人々。その多くは、御朱印を求めて集まった人です。当日は大型の観光バスらで来場する人もいます。2015年6月6日の風景です。

 

 しかし、よくよくその人たちに話を聞いてみると、私の様に大元帥明王を見たい人は殆どいなくて、大元帥明王の御開帳に合わせた特別な御朱印がもらえるという、御朱印人気にあやかったものでした。御朱印をもらうと、入場することなく、帰られる方が多く見受けられます。年に一度の特別拝観の日のみ特別の御朱印を授けるということで、これもマーケティングの結果をきちんと集客に反映させておられるのだと思います。

 追記:大元帥という言葉が、軍組織における大元帥や元帥の呼称の語源になったという説を聞いたことがあります。以前から気になっているのですが、個人的に調査したことはありません。どなたかご教授戴ければ嬉しいです。

2017年05月21日

法隆寺中門と金堂

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 私の高校時代に、哲学者梅原猛氏の著書『隠された十字架』は、大ベストセラーになりました。梅原氏はその中で、法隆寺は、聖徳太子の怨霊を鎮魂する目的で建てられたと主張されました。その根拠の一つが、掲載画像の中門が偶数の四間で、中央を閂で閉じているということだったと思います。確かに、普通中門は三間か五間で、中央が通れるようになっています。

 

<画像の説明>法隆寺中門 四間の門


<画像の説明>三間の門

 画像1:清凉寺山門  画像2:当麻寺仁王門

 

<画像の説明>五間の門
画像1:東大寺南大門  画像2:平城京朱雀門

 

 今改めて法隆寺の中門をみると、三間だと空間が狭いし、五間だと広過ぎると感じます。これは、塔と金堂が並列するという法隆寺の独特の伽藍配置と寸法が関係しているようです。四間の効能はわかりませんが、伽藍の横寸法からは、四間がビジュアル的に最も良いことは確かと思います。
 今、梅原氏の法隆寺=怨霊鎮魂は、学会ではほとんど否定されています。聖徳太子信仰自体が確立するのは、奈良時代中期以降で、この伽藍の成立よりだいぶ後のことだというのが、歴史的事実だからだと思います。

 

<画像の説明>法隆寺西院 並列に並んだ金堂と五重塔

 

 法隆寺西院伽藍内部には、金堂と五重塔があります。戦前(第二次世界大戦前)には、法隆寺再建説、非再建説で学会がにぎわったそうですが、若草伽藍の発掘で、私の高校時代には既に再建説が定説となりつつありました。日本史の教科書では、あくまで、607年建立(群れなす。。)と習いました。考古学の成果は、確かな証拠を歴史学に突きつけます。考古学により否定された説を降ろす学者の先生は難しいことになります。

 ともあれ、法隆寺は、日本書紀によると、670年に炎上し、今の場所に7世紀末から8世紀初めにかけて再建されたことになります。詳細の再建時期は、使用されている材木の年輪年代法により解明されつつあります。私は、再建時期もさることながら、そのスポンサーが誰だったかに興味があります。607年段階スポンサーだった聖徳太子とその子孫の上宮王家は、再建時期には既に滅んでいたからです。

 

 法隆寺金堂には、多聞天と毘沙門天が祀られています。一つの堂宇に多聞天と毘沙門天が祀られる珍しい像容形式になっています。

 ➡その理由に関しては、こちらをご覧ください。

 

 

2017年05月13日

鞍馬寺と由岐神社(京都市)

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 叡山電鉄鞍馬駅をでて、左に折れると直ぐに鞍馬寺仁王門が見えます。仁王門では、愛山費という名の入場料を支払います。ケーブルカーもありますが、由岐神社に行くには徒歩で山道を登る必要があります。

<画像の説明>鞍馬寺仁王門

 

 由岐神社の神前の説明書きによると、天変地異が続く都を鎮めるため940年に祀られたとのことです。重要文化財の拝殿は、1607年豊臣秀頼によって再建されました。中央に石段をとって、二室に分けた割拝殿(わりはいでん)をもつ桃山建築です。前方は、舞台造り(懸造り)となっています。由岐神社は、鞍馬の火祭の舞台としても有名です。由岐神社から鞍馬寺本殿までは、清少納言の枕草子に「近こうて遠きもの」と書かれた九十九折り(つづらおり)が大変な山道です。

 

<画像の説明>

<画像の説明>画像1:由岐神社割拝殿 画像2:由岐神社正面 舞台造り(懸造り)が見える。

 鞍馬寺の詳細は、こちらです。

 ➡毘沙門天の像容について

 ➡幸福神としての毘沙門天について

2017年05月02日

成島毘沙門天(岩手県花巻市)

 成島毘沙門天像は、子供の泣き相撲で有名な熊野神社の一角にあります(子供の泣き相撲は、5月上旬に毘沙門まつりのメイン催事として開催されます)。

 説明書きによると、本像は、坂上田村麻呂(758年-811年)の伝説とオーバーラップされています。確かに当地は、坂上田村麻呂の北進の限界である志波城(盛岡市、803年)にも程近くこのような伝説があっても不思議ではありません。

 

<画像の説明>成島毘沙門天立像(含む地天)と二鬼坐像地天(バックに伝吉祥天)

 

 兜跋(とばつ)毘沙門天像は、形式は、地天の上に直立する兜跋タイプです。甲制は、東寺像等とは違い、西域的要素は見られません。欅の一木造り、全長が4.73m(丈六)ある巨大な像です。地天の横に2鬼が分かれて祀られていますが、当初は、地天に連結されていたと考えられます。側に金光明最勝王経において毘沙門天の妻とされる吉祥天像(伝)が安置されています。毘沙門天とのバランスが悪く、当初から一緒に安置されていたのではないと考えられます。
 兜跋毘沙門天像、伝吉祥天像、二鬼坐像は、重要文化財に指定されています。

 

<画像の説明>熊野神社毘沙門堂(旧来本堂内に毘沙門天立像が祀られていました)

 

 11世紀頃の作品と考えられていますが、松浦正昭氏は、日本の美術NO315『毘沙門天像』の中で、比叡山の俗別当伴国道(*)発願像を原典とすると述べられています。

(*)伴国道(768年-828年、陸奥按察使(むつあぜち)828年)

2017年04月22日

朝日観音堂(神奈川県南足柄市)

 朝日観音堂は、伊豆箱根鉄道大雄山線の終点大雄山駅より徒歩で約30分のところにあります。
 本堂は、江戸時代に作られた茅葺き、1辺4間、宝形造り(ほうぎょうづくり)の建造物です。基礎は亀腹(土の表面を漆喰で塗り固めたもの)です。木造聖観音立像、木造兜跋(とばつ)毘沙門天立像等が祀られていたようですが、それらは、現在本堂の前に建つ収蔵庫に安置されているそうです。

 

 南足柄市教育委員会によると、17年に1度の御開帳で、次回の御開帳は、平成33年とのことです。収蔵庫の前に設けられた立て看板によると、本尊の聖観音立像は、像高133㎝、平安時代の作で内刳はない、兜跋毘沙門天像は、3体あり、そのうち痛みのひどい1体は、像高132.5㎝平安時代の作とのことです。その他、平安時代から江戸時代の小仏像13体が残ります。観音堂及びこれらの仏像は、県の指定文化財になっています。 周辺には、路傍の石仏や無縫塔(卵塔)等が残ります。

 

<画像の説明>画像1:朝日堂本堂全景 画像2:朝日堂本堂と収蔵庫

 

 なお、せきどよしお氏のウェブサイト「せきどよしおの仏像探訪記」によると、自治会長さんが管理しており、事前にお願いすれば、拝観可能とのことです。せきど氏のサイトには、更に詳細に像容が語られています。

2017年04月22日

東寺兜跋毘沙門天と講堂の多聞天

 東寺の兜跋(とばつ)毘沙門天像は、日本における兜跋タイプの毘沙門天像の基本仏です。これについては、本編で詳しく述べました。下記はリンク先です。

 ➡兜跋毘沙門天についてにジャンプ

 一方、東寺全体の仏像を論じる場合、秀逸なのは、講堂の立体曼荼羅です。講堂には、21体の国宝仏が安置されています。その中の多聞天は、地天に乗った兜跋タイプです。地天に乗った兜跋タイプの多聞天は珍しいと思います。なぜ、通常の多聞天ではなく、兜跋タイプなのでしょうか。

 もう少しこの問題を整理します。

 本サイトのトップページに記載していますが、四天王の1天として祀られる場合は多聞天、単独で祀られる場合は、毘沙門天と一般的には言われています。サンスクリット語の’ヴァイシュラヴァス神‘の子を漢訳した際の音訳が、毘沙門天、意訳が多聞天であるとされます。多聞天と毘沙門天は、本来同じ尊格ですが、多聞天は、一般には、邪鬼の上に乗ります。東寺の多聞天は、地天にのる多聞天であり、極めてユニークです。

<画像の説明>画像1 東寺五重塔遠景(東寺小子房より) 画像2東寺毘沙門天堂と説明パネル

 

 炳霊寺石窟(甘粛省臨夏回族自治州永靖県)28ガン(実際には 龕(ガン))には、四天王のうち、地天にのる広目天と多聞天が祀られていますが、中国でも極めてこのタイプは珍しいと思います。

 

『空海と密教美術展』(2011年東京国立博物館特別展資料)によると、「(東寺講堂の)多聞天は、補修が著しいが、近年の修理で面部は造像時の様子と大きく変わっていないことが判明した。」と述べられています。講堂諸像の開眼は839年、檜の一木造、木彫に薄い木屎漆で細部を塑形しているとのことです。

 

 多聞天は、補修が多いとのことですが、地天については、特に記載はありませんが、当初からのものと考えた方が良いと思われます。この兜跋タイプの多聞天は、西域風の甲制は着装せず、獅噛は着装しない通常の多聞天タイプです。右手に宝塔を持ち、左手に戟を逆手に握ります。兜は、唐風で、三手に分岐しています。東寺の四天王は、持国天が最も憤怒の様子を表しますが、多聞天は瞋目(目をいからすこと)が大変な力を感じます。

 

 講堂の多聞天が、なぜ、地天に乗るかに関しては、いくつか説がありますが、実は良く分かっていません。智泉様の毘沙門天の効能と従来からの多聞天の像容を併せ持つ像として東寺独特の像容を仏師集団が創造したのではないかと考えますが、シロートの邪推でしょうか。

2017年04月22日

藤里毘沙門天(岩手県奥州市)

 藤里毘沙門天は、地天の上に毘沙門天がのる兜跋(とばつ)形式の毘沙門天です。説明書きによると、トチノ木による一木造で内刳は施していません。総高232㎝、花巻の成島毘沙門天の半分の高さです。11世紀当地の作像と想定されています。 毘沙門天の安置された施設の前の説明書きには、本像は、成島毘沙門天同様やはり、坂上田村麻呂の伝説が残っていたとされます。

 

<画像の説明>画像1 兜跋毘沙門天(重要文化財)一木造 平安時代(11世紀) 鉈彫り

       画像2通常の毘沙門天(県指定文化財)寄木造 鎌倉時代 鉈彫り

 

 この像は、顔を除いて、鉈彫りがみられます。鉈彫りは、丸鑿の縞模様を残した仕上げを施した像をいう。鉈彫りは、中央には見られず分布は東日本に限られます。当寺のパンフレットによると、分布が限られるうえ、作成の時代も平安末期に集中しており、その作例が相当数見られることを考えれば、完成前の途中段階の作品ではなく、一つの造像技法と考える方が自然とのことです。 鉈彫りに関しは、私は、当寺の毘沙門天以外では、神奈川県宝城坊日向薬師坐像、岩手県天台寺聖観音菩薩立像を見たことがあります。もちろん私が知らないだけで、その他にもそれなりにあると思います。

 藤里毘沙門天は、元は智福寺というお寺に祀られていたようですが、該当の寺院も今はなく、伝世はわかりません。 当寺は、交通の便が悪いので、運転が可能なら、水沢江刺でレンタカーを借りるのが良いと思います。レンタカーであれば、1日で上記の成島毘沙門天を始め、いくつかの寺院を回ることができます。

 

2017年04月22日

殷墟(河南省安陽)

 殷墟は、「商」(日本では一般に「殷」と言われる)の都でした。「商」は都を転々としましたが、殷墟はその最後の都です。今の河南省安陽市にありました。ここでは、多くの甲骨文字が発掘展示されています。甲骨文字は、文字の書かれた骨が竜骨として売られていたものの中から、王懿栄氏が発見した話は有名です。

<画像の説明>甲骨文字(殷墟博物館において)

 

<画像の説明>いずれも殷墟博物館において

 

 ところで、殷以前の「夏」は伝説上の国とされていましたが、約200㎞南の鄭州市(河南省省都)の二里頭村の二里頭遺跡が、炭素14年代測定法により、殷時代以前であることが確定しましたので、中国では「夏」の存在が確実視されています。

 西安、北京、南京、洛陽を中国では旧来4大古都と言いましたが、宋の都だった開封(北宋)、杭州(旧臨安、南宋)が古都に加えられて、6大古都となり、更に1988年に安陽、2004年に鄭州が加えられて現在は8大古都と言われています。

 高校時代に、世界史の授業で、夏殷周秦・・・と中国の歴代の王朝を覚えさせられた人も多いと思いますが、河南省は、中国文明発祥の地です。8大古都のうち、鄭州(夏)、安陽(殷)、洛陽(周)の3古都が、河南省に位置しています。

2017年04月21日

宝城坊日向薬師(神奈川県伊勢原市)

 宝城坊日向薬師(ほうじょうぼう ひなたやくし)は、本堂の改修工事が、平成22年から6年間続き、平成28年11月に落慶式が行われました。4月15日は、年に一日の御開帳の日(正月には別途ご開帳されているとのことです)で、当日は大変混雑しています。

 本堂は、茅葺きで国内最大級です。落慶式の際の新聞報道によると、茅の重量は、約50トン、大半の木材が鎌倉・室町時代のもので、現在も使用可能だったとのことです。写真の通り、朱色に黒色の模様が施されていますが、これは、江戸時代の顔料を再現して塗り直したものです。

 

<画像説明>宝城坊日向薬師本堂

 

 宝物殿に安置されている本尊の丈六薬師如来三尊(丈六と説明書きがありますが、周尺の丈六で、普通の丈六より少し小さいです)は、鉈彫りにより仕上げられています。鉈彫りは、仕上げを丸鑿で削り、ごつごつ感を際立させています。一瞬、製作途中かとも思えますが、鉈彫りが、東日本に集中しており地域性が明確(奈良、京都を始め西日本にはありません)で、一様に顔以外に鉈彫りがみられ、しかも11-12世紀に集中している点から彫像の一形式とみられます。本尊薬師三尊の脇侍の日光菩薩、月光菩薩も鉈彫りにより仕上げられています。

 

 宝物殿の中央の壇上には本尊の薬師如来三尊像、十二神将、そして四天王が安置されています。多聞天は、右手に宝塔を持ち、右足に体の重心を置いた力強い作りです。鎌倉時代のおそらく慶派の技術を引く仏師の作と思います。向かって右側の壇上には、鎌倉時代の丈六薬師如来三尊像(こちらは、正真正銘の丈六)、左側の壇上には、鎌倉時代の阿弥陀如来坐像が祀られます。いずれも、重要文化財です。

 

 宝物殿の中は、いずれも写真撮影禁止です。画像は、宝城坊本堂が改築中の、2015年に金沢文庫博物館で日向薬師特別展が開催された際の博物館の外に出されたポスターの写真です。鉈彫りの跡がご覧戴けると思います。

 

<画像の説明>日向薬師薬師三尊像日光菩薩立像のポスター

 

 *新聞の説明記事には、日向薬師が日本三大薬師の一つとの紹介がありました。こういう三大××という表現は、良く使われますが、この場合三大薬師は、どこの薬師を指すのでしょうか。薬師寺、新薬師寺等薬師を寺名に冠したお寺も他にありますし、薬師如来の祀られた寺院は一杯あります。日本三大薬師と言わなくても、日向薬師の良さは十分伝えられると思います。

 

 

2017年04月16日

鑁阿寺(栃木県足利市)

  

 鑁阿寺(ばんなじ)は、足利氏の居館跡と伝えられる真言宗の寺院で、寺伝によると足利氏2代足利義兼(源義家の曾孫に当たる)により開創されたとのことです。写真の本堂は、1299年に建立されました。2013年に重要文化財から国宝に昇格しました。

 

<画像の説明>鑁阿寺本堂

 

 建築様式として、基本は和様ですが、禅宗様を取り入れたいわゆる折衷様建築の初期のもので建築史的にも重要です。禅宗様は、中国宋から伝わり、鎌倉時代に始まった建築様式で、折衷様は、主に室町時代に多くなる様式です。

 斗供(屋根下の組み物)が、柱の上だけではなく、柱と柱の間にもある等は、それまでの和様建築にはありませんでしたが、垂木は、禅宗様の扇垂木ではなく、平行垂木になっています。

 

 <画像の説明>画像1:鑁阿寺本堂斗供 柱間の斗供に注意 画像2:鑁阿寺本堂の平行垂木

 

 鎌倉の円覚寺舎利殿等が、室町時代の建築(私の高校時代の教科書には鎌倉時代の建築と記載されていました)とされるようになった今日では、鑁阿寺本堂が、関東地方における鎌倉時代の貴重な建築物であることは間違いありません。鑁阿寺境内には、国指定の重要文化財の鐘楼、経堂を始め、多数の県指定級の文化財が残ります。また、密教系の寺院らしく多宝塔も残ります。

 

<画像の説明>画像1:鑁阿寺経堂 画像2:鑁阿寺鐘楼

 

*建築様式においてかつては、「和様」の他は「唐様」「天竺様」という言い方がありました。「唐様」という言葉は、今もネットでも結構見られます。「唐様」=「禅宗様」とご理解ください。一方、旧来の「天竺様」という言い方は今は殆どなくなりました。「大仏様」と表現されています。

 

2017年04月16日

弘明寺(横浜市)

 ‘ぐみょうじ’と呼びます。この弘明寺から名付けられた同名の京急と横浜市営地下鉄の駅が、付近にあります。

 当寺には、鉈彫りの十一面観音が祀られています。寺の説明書きによると、像高181.7㎝、ケヤキ材、一木造、平安時代(11~12世紀)、国の重要文化財です。本像は、本堂の奥深くに祀られており、鉈彫り等の詳細は見えません。堂内が暗く、単眼鏡でも見えませんでした。護摩修行を希望する場合は、更に近づくことができるようです。

 <画像の説明>画像1 銅板葺きの弘明寺本堂(1976年に従来の茅葺きから銅板葺きに改修されました。)画像2 本堂最上部に設けられた獅子口(巴瓦の代わりに巴紋が描かれた?)

 

 鉈彫りは、分布が東日本に限られるうえ、作成の時代も平安時代(11~12世紀)に集中しており、また、顔には鉈彫りの跡は一様に見られないことから、完成前の途中段階の作品ではなく、一つの造像技法と考える方が自然です。

 鉈彫り像は、岩手県奥州市藤里兜跋毘沙門天立像、岩手県天台寺聖観音菩薩立像、神奈川県宝城坊日向薬師の薬師如来坐像等に取り入れられています。

2017年04月07日

鉄塔(河南省開封)

 鉄塔は、北宋の都だった開封にあります。北宋時代の皇祐元年(1049年)に建造されました。レンガ造りですが、慣習的に鉄塔と呼ばれています。写真を見て戴くとおわかり戴けると思いますが、結構細部にまでこだわっていて、軒下に斗供や垂木が見えています。もちろん構造材ではありません。
 八角13層、高さ約56mです。13層まで昇ることができますが、内部は狭く、頭を下げて中腰の姿勢でしか進めません。昇る人と下る人が途中でかち合うとすれ違いができません。そこで何カ所かすれ違い空間が設けてあります。最上階で向きを変えられるか心配でしたが、私は大丈夫でした。少し太った人は無理かもしれません。それぐらいの空間しかありません。
 現地の鉄塔の説明書きに、大型の「琉璃磚塔」(原文は、簡体字)との説明書きがあります。私は、琉璃を瑠璃のことと思いまして、瑠璃色は、ラピスラズリから作ったマリンブルー色のことをいうので、ちょっと違和感がありました。辞書で調べると、この場合の琉璃は、瑠璃とは違うようで、琉璃磚は、ラピスラズリ等の珪酸化合物を釉(うわぐすり)にして焼いた煉瓦(磚は中国でレンガのこと)のことをいうようです。確かに、鉄の錆色に見えます。

<画像の説明>画像1 鉄塔全景 画像2 鉄塔拡大図 軒下の斗供と垂木に注目してください

2017年04月04日

信貴山朝護孫子寺(奈良県)

 信貴山朝護孫子寺(奈良県生駒郡平群町)は、聖徳太子が、毘沙門天王を感得し、信貴山に戦勝を祈願し、そして自ら毘沙門天を勧請したこと始まりと寺の縁起では伝えられています。信貴山の語源は、‘信ずべし、貴ぶべし’ということです。しかし、中興の祖、信貴山縁起絵巻の主人公命連以前は良く分かっていないことが実情の様です。

 

 本寺は、国宝「信貴山縁起絵巻」で有名ですが、お寺で購入した案内本のキャッチコピーは、「毘沙門天王の総本山」となっています。

 

本尊は、毘沙門天像ですが、秘仏のため(御開帳は、毎年1月1日から10日と7月1日から5日)私は直接拝観したことはありません。前立ち本尊は、通常の毘沙門天と吉祥天女像、禅弐師童子の三尊像です。

兜跋(とばつ)毘沙門天は、平安時代(10世紀)の作像。県指定。宝冠と海老籠手等西域風を着装しますが、地天にはのらない像です。その他、霊宝館には、毘沙門天三尊懸仏がありますが、国の指定ではありません。 毘沙門天を本尊とする鞍馬寺等と同じ組み合わせです。

 

<画像の説明>画像1:本堂(毘沙門堂)の扁額 画像2:本堂(毘沙門堂)遠景 

 

 信貴山縁起絵巻は、国宝に指定されています。信貴山と言えば、縁起絵巻です。絵の面白さや物語の展開も秀逸です。縁起は、この場合、社寺などの由来または霊験などを記載したもので、信貴山縁起絵巻も、信貴山の再興に貢献した命連の活躍を描いています。尼君の巻で東大寺大仏に参籠した命連の姉が大仏の夢告を得て、信貴山に向かう段が記載されています。

 

 大仏殿の描写では、四天王が小さく見えています。私は、多聞天が描かれているか、気になっており、2016年5月、奈良国立博物館の特別展に信貴山縁起絵巻が出品された際に、詳細に確認しました。
(この部分以下少し変更しています。)
 信貴山縁起絵巻には、大仏の左奥で多聞天の居場所には、宝塔らしきものが確認できますが、多聞天が左手に宝塔を持っている様に見えます。

 

 

<画像の説明>画像1:五重塔と地蔵菩薩半跏椅像  画像2:多宝塔 大日如来を安置 1689年建立

 

 

 当寺は、日本の毘沙門天の三大聖地のひとつの席を確保していますが、美術史的には、毘沙門天の存在感は、強くないお寺です。生駒山の中腹にあり、山は急峻です。参道では、バンジージャンプの飛び込み台の工事中でした。(2017年3月16日現在)
2017年04月03日

嵩山少林寺(河南省)

 嵩山少林寺は、河南省洛陽から省都鄭州に至るまでの山間部にあります。少林寺自体は、歴史もある古刹ですが、今は一代テーマパークになっており、中国全土から団体客が集まります。劇場では、毎日、少林寺拳法を基本にしたショーが繰り広げられます。中国国家重点風景名勝区に指定されています。

 

2017年04月01日

八王子郷土資料館収蔵薬師如来像

八王子郷土資料館には、白鳳期の薬師如来像が、安置されています。詳しい伝世はわかりません。白鳳期は、白村江の戦い(663年)の敗戦により、多くの百済遺民が日本に移住し、その結果、百済文化が大量に日本に流入した時代です。この仏像は、百済の遺物かもしれませんが、顔の表情などは、純日本的です。

 

 

2017年03月30日

観蔵寺(東京都多摩市)

 観蔵院は、東京都多摩市の曹洞宗の古刹です。本堂には薬師三尊像が祀られています。日光菩薩像の像内より、建長7年(1255年)入仏の胎内文書が発見され、おおよそ、760年前の仏像であることが分かりました。薬師三尊は2002年に修復が行われました。
 薬師三尊像のほかに、十二神将、四天王等が一緒に祀られています。

2017年03月30日

深大寺白鳳仏(調布)

 深大寺の銅造釈迦如来倚像が、あらたに国宝に指定されることとなりました。私たちは、深大寺の白鳳仏と呼んでいます。今般、国の文化審議会が、国宝に指定するよう、文部科学大臣に答申しました。

 白鳳期(飛鳥後期)仏であることは、間違いないでしょうが、伝世等は一切わかっていないそうです。

 国宝は、重要な文化財のうち、特に作者が有名な人で、はっきりしているとか、伝世がはっきりしている等が重視されていましたが、国宝の審査に作品を重視する点では、良い判断と思います。

 画像は、ガラス越しですが、常時拝観可能です。

 

 

 

 

 

 

 画像下は、深大寺境内にあったなんじゃもんじゃの木です。同行した人によりますと、名前がわからなかったので「何の木じゃ?」呼ばれているうちに、いつのまにか「なんじゃもんじゃ」という名前になったとのことでした。

 

2017年03月26日

願成就院(伊豆の国市)

 
 願成就院は、伊豆急行線伊豆長岡駅より歩いて10分程度のところに位置します。1186年北条時政が奥州征伐を祈願して建てました。内部には、運慶が造像した阿弥陀如来坐像、毘沙門天立像、不動明王二童子像の5体の重要文化財が残ります。
(拝観は可能ですが、写真撮影禁止です。)
 願成就院の造像は、康慶を中心とした奈良仏師と鎌倉幕府の結びつきを強くし、以降の慶派の動的で男性的な造像と勢力拡大の嚆矢となりました。
 境内には、北条時政や足利茶々丸のお墓等の史蹟が残ります。

2017年03月23日

十輪院(東京国立博物館)

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十輪院は、奈良町の一角に位置します。お地蔵さまが本尊のこじんまりとしたお寺です。元興寺の塔頭だったそうですが、鎌倉以前のことはあんまりはっきりしない様です。国宝の本堂より、池のなかの河童や或いは川島英五のお墓の方が有名かもしれません。

 今回紹介したいのは、あんまり知られていないのですが、東京国立博物館の一角にある十輪院の宝蔵です。明治時代に奈良からこの地に移築されました。鎌倉時代、校倉造りの建物で、国の重要文化財です。

 

2017年03月23日

東大寺中門兜跋毘沙門天

 東大寺南大門を潜って、大仏殿まで行く中間に、中門があります。中門内の大仏殿に向かって右側に兜跋(とばつ)毘沙門天が祀られています。江戸時代の作品で、南大門の両側にある、運慶快慶等が製作に携わった金剛力士像程有名ではありませんが、このサイトのテーマの兜跋毘沙門天がこんなところにもあります。

 南門と回廊は、2017年3月17日現在改修工事中です。

 

<画像上段:兜跋毘沙門天立像>

 

<画像下段:兜跋毘沙門天立像の下の地天>

2017年03月20日

当麻寺(奈良県)

 当麻寺は、創建の由緒は別にありますが、金堂の弥勒如来(菩薩ではない)、多聞天以外の四天王は、飛鳥後期の造像であり、創建もその時代と考えることが妥当です。四天王は、あごひげをはやして、異国情緒があります。

 一方、現在の当麻寺は、参道が東から西に長く続き、本堂は、東向きに建てられています。当麻寺の「当麻曼荼羅」は、西方極楽浄土の様子を表しており、平安時代以降、阿弥陀信仰が、庶民の強い信仰の対象となりました。そのため、弥勒如来の安置された金堂と当麻曼荼羅の安置された本堂(曼荼羅堂)が併存しています。

 

 当麻寺は、創建当時の東塔と西塔の両方が現存する唯一のお寺としても有名です。東西両塔は、当麻寺の阿弥陀信仰が盛んになる前に建てられており、金堂と同じく南向きです。

 

<画像上段>
 現在西塔は、修復工事中で、平成32年頃の完成予定とのことです。

<画像下段>

 画像正面が本堂、左手が金堂。
 金堂内の広目天と多聞天は改修中で、現在、拝観できません。

(2017年3月17日現在)

 当麻寺は、寺名では、當麻寺、地名、駅名等は、当麻寺と表されることが多いですが、ここでは、すべて当麻寺で統一しました。

2017年03月20日

周庄(江蘇省)

 上海近郊の地名です。中国は大きな国ですが、海岸から100㎞以上離れても、海抜の低い地域が数多くあります。周庄もその1つです。

 これらの運河は、最終的に長江につながります。

 周庄は、上海から比較的近いため、再開発されて、既に観光地化されています。

2017年03月20日

石林(雲南省)

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 雲南省石林yi族自治区に所在する石林風景名称区の風景です。内部は、とっても広く電動のカートを使用しないととても回れません。中国のカリスト地形(*)の一つとしてユネスコの世界遺産に登録されています。

 地元の公園では、少数民族が彼等独自?の踊りを見せてくれますが、残念なことに動員がかかっているとのことでした。これも彼等の貴重な現金収入になっているということかもしれません。

 *カリスト地形は、石灰岩等の水に溶解しやすい岩石で構成された大地が、雨水や地下水で浸食されてできた地形です。鍾乳洞も含まれます。

 

2017年03月11日

崇聖寺(雲南省大理)

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 中国雲南省大理にある崇聖寺三塔公園にある仏塔です。主塔は、9世紀の創建です。この時代、吐蕃(チベット)と唐が雲南省や隣接した四川をめぐって戦闘を繰り広げました。
 この写真は、同行した友人の作品です。
 雲南省は風光明媚で、周囲の景色と調和して実にきれいな画像に仕上がりました。

 

 下図画像は遠景です

2017年03月11日

トンパ文字(雲南省)

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 トンパ文字は、ナシ族に伝わる象形文字です。掲載画像は、中国雲南省で撮影しました。上部に漢字(祝家人平安健康長寿幸福(家人は家族のことです))が書いてありますが、その意味をトンパ文字で書いたものです。これを先生と呼ばれる人が、1枚1枚書いていきます。

 

 先生は今筆を持っていますが、私の名前をトンパ文字で書いてくれているところです。このポスター?を購入したら、指定の名前をトンパ文字で入れてくれます。1枚1枚手書きなので、そんなにまけられないと言われましたが、150元というのを、100元にまけてもらった記憶があります(当時のレートで1500円くらい)。

 象形文字なのに、どのように日本人の名前を書くことができるか疑問に持ちませんか?私は先生に質問しました。どうも、彼らは、外国の文物や外国人の名前を表記するために、象形文字の一部分を使用するとかの方法で表音文字を持っているようです。私の知り合いの言い分では、万葉仮名のようなものだろう、と。

 トンパ文字の歴史的評価はともかく、今は観光化されています。観光化されることにより、先生の収入が確保され、トンパ文字が残存しているとも言えます。

2017年03月09日

天梯山大仏(甘粛省)

 天梯山石窟は、黄河のダム(炳霊寺のダムとは別)により水没した文化財を甘粛省省都の蘭州市の博物館に移動させたが、この大像だけは、移転できなかったために、ダムの中にさらにダムを設けて保護したそうです。

 文化財を水没から守る努力は素晴らしいですが、ダム湖の水面より低い位置にあるので、地面は、水で湿気ています。抜本的な対策が必要ではないでしょうか。

 

 

<画像の説明>天梯山大仏13窟

 

 

 

 

 

 

<画像の説明>天梯山13窟遠景。手前は黄河。ダムにより水位が上がった。その他の石仏は、水没するため、省都蘭州の博物館に移転された。13仏は大仏で移転ができず、ダム湖内ダムにより守られている。大仏の足元は、かなり湿気が多い。写真からはわかりにくいが、直ぐ近くまで、車道が通っている。

2017年03月08日

無量光寺(相模原市)

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 無量光寺は、相模原市、相模線原当麻駅から歩いて15分くらいのところにあります。一遍上人の所縁もあり、時宗の大本山でした。 一遍上人立像が本尊ですが、秘仏で年1回の開帳です。相模原市博物館にレプリカがあります。掲載画像は、相模原市博物館のレプリカです。相模原博物館は、原則写真撮影可、フラッシュ不可です。館内照明が暗いので、私の技術では、なかなか良い写真は撮れません。

 無量光寺の境内にも、一遍上人の銅像があります。

2017年02月04日

法輪寺三重塔(奈良県)



 法輪寺の三重塔は、世界遺産に登録されていません。再建だからだそうです。しかし、第2次世界大戦前までは現存しており、写真も残っています。

 かの法隆寺の宮大工西岡常一氏の唯一の内弟子である小川三夫氏の作ということで、時代考証も十分なされており、再建というよりも修復に近いと考えられます。

 斑鳩三棟がそろってこその世界遺産です。あえて外すことはなかったと思うのは、私だけでしょうか。

2017年02月01日

奈良町の町家ローソン

奈良町ローソン

 奈良市内の奈良町にある町家ローソンです。猿沢の池にほど近い、三条通沿いにあります。ちょっと風情があると思いませんか。
因みに奈良町は、猿沢の池の周辺から元興寺にかけての一帯のことで、行政上の区画ではありません。
 もちろん中で売っている商品も価格も、ほかのローソンとは違いありません。

2016年12月22日

ブログ始めました

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ブログ始めました。中国・日本のちょっと面白い風景をアップしていきたいと思います。

2016年10月01日