鞍馬寺(京都市)

 鞍馬寺には、左手を額に当て、おろした右手に戟を持つ鞍馬寺以外では見られない実に力強い国宝の毘沙門天立像が安置されています。かつては額に手を当てて平安京を北方から、俯瞰して守護する存在として説明されていました。しかし、これほど有名な毘沙門天でも実は鞍馬寺の本尊ではありません。

 本尊は、秘仏になっており公開されていません。左手を高く上げて戟を持ち、右手に宝塔を持つ鞍馬式(鞍馬寺発行の資料には鞍馬様と表現されていますが、このサイトでは以下鞍馬式と呼んでいます)です。左右に吉祥天女像と禅弐師童子を従えた三尊形式です。秘仏のため、私は拝観させて戴いたことは無いのですが、本尊のこの像容は確実らしいです。

 毘沙門天が宝塔を持たないことに関しては、鞍馬寺発行の資料に、「右手を腰に当てる姿が、五体(五輪)すなわち宝塔を捧げるに等しい」と記載されています。私には、この意味は分かりかねますが、一般の毘沙門天の宝塔を持った手が、宝塔を持たずに腰に当てている点から、宗教的意味は同じと考えればよいのでしょうか。私はこの像容は、遣唐僧の誰かが中国から持ち帰った図像の反映ではないかと考えていますが、それについては、後程述べさせて戴きます。

 国宝の毘沙門天は、それまでは、鞍馬式でしたが、1126年の鞍馬焼亡の際の補修で、戟を持っていた左手が額に手を当てることになり、本来腰に手を当てていた右手が、戟を持つことになったとのことです(*)。補修の際に、なぜこのような改修を行ったのかはわかりません。元の形に改修しようとしたが、技術的な理由で、この形にしか改修できなかったと考える方が自然です。しかし、今の形での違和感は全くありませんし、鞍馬寺が王城守護のファンクションを持つことのシンボル的像容として大成功と思います。

(*)鞍馬寺毘沙門天の補修に関しては、『日本の美術 毘沙門天像』(松浦正昭氏)を参照させて戴きました。

 

<画像の説明>画像1:鞍馬寺多宝塔 画像2:鞍馬寺仁王門


 鞍馬寺霊宝館には、入口正面に毘沙門天(3体)、兜跋毘沙門天(1体)が並びます。毘沙門天3体は、鎌倉時代の作品、鞍馬式です。兜跋毘沙門天は、地天に乗り、直立で前面を直視する東寺像の模刻像です。平安末期の作品で、十分です。

 鞍馬寺霊宝館2Fに安置された銅燈篭は、6角形の火袋の4面に鞍馬寺型毘沙門天3尊像が鋳造(*)されています。隙間には、数十人の寄進者の名前が書きこまれています。名前から寄進者が身分の低い、官職のない人と想像がつきます。1258年制作の重要文化財です。鞍馬寺が庶民の寄進によって成立していたことを物語る一端を表しているといえます。

(*)鋳造と書きましたが、講談社「日本の仏像No.21鞍馬寺毘沙門天と吉祥天」には、毘沙門天像が、厚肉彫りされていると記載があります。恐らく完成前に彫りで調整したということかと思いますが、どうでしょうか。

 鞍馬式の毘沙門天は、元興寺法輪館(収蔵庫)や若狭の清雲寺にも安置されており、この形式の毘沙門天が鞍馬寺を中心に、広範囲に広まっていたことがわかります。

 中国四川には、私には気になる像容が存在します。Jia江千仏岩107窟(Jiaは、鋏の金偏のない漢字)です。兜跋毘沙門天の3尊像です。左は吉祥天像です。右ははっきりしませんが毘沙門天、吉祥天の関係から禅弐師童子の可能性が高いです。Jia江千仏岩の他の石窟との関係で9世紀中頃の作品と考えられています。

 毘沙門天の右手は腰に当てています。一方左手は、つぶれており判明しませんが、戟を持っていた可能性があると思っています。理由は、上述しました鞍馬寺の毘沙門天が宝塔を持たないことに対して、「右手を腰に当てる姿が、五体(五輪)すなわち宝塔を捧げるに等しい」という考え方があるのであれば、腰に手を当てて更に宝塔を持つ必要はありません。そのため、この3尊像が、鞍馬式の可能性が高いと私は考えています。つまり鞍馬寺像に近い像が、四川にもあることから、中原で作成された、共通の図像があったと考える次第です。

<画像の説明>Jia江千仏岩107窟 毘沙門天立像の下に地天と2鬼、左側に吉祥天女像、右にはおそらく禅弐師童子が祀られる。毘沙門天は、腰に手を当て、体をくねらせる。

 

 『日本の美術 No.315毘沙門天像』(松浦正昭氏)によると、「鞍馬寺本尊の毘沙門天は、宝塔を持たない異形像であって、左手に戟を執り、右手は腰に当てる姿に作られるが、空海が中国から伝えた毘沙門天法の儀軌にこの像容が説かれる」とのことです。毘沙門天法の儀軌とは、毘沙門儀軌のことでしょうか。毘沙門儀軌には、根本印として、「右押左叉」と述べられています。私は、右手を腰に当て左手に叉をもつ鞍馬寺の毘沙門天の像容に当たると考えています。

2017年05月02日