高徳院鎌倉大仏(神奈川県鎌倉市)

 鎌倉高徳院の大仏は、鎌倉大仏として有名です。しかし、この様なHPで、この大仏を取り上げるのは少々難しいところがあります。それは、この仏様は、国指定の立派な大仏で、事実大変有名なのですが、なぜか、その発願者(スポンサー)はもちろん、仏師(作者或いは現場責任者)また、制作された時期も明確になっていません。
 そのため、制作の目的、時代的・歴史的背景やそのうんちくを殆ど語ることが難しいのですが、私なりに少し書かせて戴きました。

 簡単に大仏について紹介させて戴きます。高さ14.7メートルの銅像です。今回の補修工事の際に、測定したところ、重量約121トンだったとのことです。平面的な面相、低い肉髻、猫背気味の姿勢、頭部のプロポーションが大きい点など、鎌倉期に流行した「宋風」の仏像の特色を示しています。

 この大仏は、今は露座(仏殿が無い)ですが、過去仏殿がありました。近年の発掘調査では、横行約44m、奥行約42.5m、5間裳階付、瓦屋根ではなかったとのことです。今も、礎石が残ります。この礎石は、大仏と同時代に既に置かれていたことが分かっています。
 この礎石の上に建っていた大仏殿は、大仏のみが祀られ、脇侍等を祀るスペースはありません。ほぼ正方形で、にょきっと塔の様に地上から突き出た仏殿だったと思います。


<画像の説明>鎌倉大仏正面 3.5頭身くらいでしょうか。両隅の礎石にご注目ください。


<画像の説明>鎌倉大仏 猫背気味のお姿


<画像の説明>大仏殿礎石

 大仏に使われた銅は、宋銭を鋳つぶしたものということが、近年の研究で明確になりました(*3)。当時大量の宋銭が輸入され流通していました。庶民の経済的余裕と実力によって、この大仏が作られました。このことが、公的な記録に発願者が記載されていないことの傍証となると思います(*4)。
 なぜこの場所に大仏が作られたのかの直接的な答えは出せないのですが、執権家によって建立され、主に北鎌倉に位置する鎌倉五山とは対照的です(*2)。

 ところで、鎌倉大仏は、奈良の大仏と違い、阿弥陀如来です。これは、体の前、膝上で定印(上品上生)を結ぶことでもわかります(*5)。阿弥陀如来は、一般の人々を極楽浄土に導いてくれる仏様です。戦を生業とした武士にも、自分たちの極楽往生のために阿弥陀如来が重要でしたので、この地に阿弥陀如来があっても不思議ではありません。
 ここの阿弥陀如来は、南面しています。ここでは、阿弥陀如来が極楽往生のためのみならず、毘盧遮那仏や大日如来の様に全世界を一元的に治める汎神論的な存在と考えられていたのではないでしょうか(*6)。
 この大仏について、語られることの一つが、鎌倉大仏裏側の観月堂の傍らに建てられた有名な与謝野晶子の歌碑についてです。
 「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」
与謝野晶子が、鎌倉大仏が阿弥陀如来であることを知らなかったのかは、私にはわかりませんが、少なくとも、歌の調べの点では、阿弥陀仏より釈迦牟尼がぴったりとすると思いますが、如何でしょうか。

 

(*1)この時代、京都では鞍馬寺が、1238年に全焼後1248年にほぼ再興されましたが、京都の公家は力を失い、また、鎌倉幕府は全面的な後ろ盾にはなってくれませんでした。鞍馬寺の再建は、融通念仏の大勧進によって成し遂げられました。1258年勧進の銅燈篭には、女性を交えた結縁者(庶民)の名前が残されています。鞍馬寺に関しては、以前本HPで、扱いました。

 ➡鞍馬寺に関しては、こちらをご覧ください。

 

(*2)私は、極楽寺を開山した忍性が、勧進の中心人物ではなかったかと想像しています。忍性は、布教のため、1252年に奈良西大寺より関東に下り、1267年極楽寺を開山しました。

(*3)銅に含まれる鉛の成分分析や、鉛の同位体分析により、その産地が詳細に分かるようになっています。奈良時代以降、日本でも、銅は生産されました。奈良の大仏は、山口県美祢市にあった長登銅山(ながのぼりどうざん)の銅が使われました。

(*4)鎌倉大仏は、一説に、当時の困窮した鎌倉では人身売買が行われており、その利益の宋銭が使われたとある本で読んだことがあります。庶民が寄進した宋銭が大仏の建立に使用されたと考えるのは、リーズナブルと考えますが、人身売買の利益がどのくらい含まれるのでしょうか。

(*5)この時代、阿弥陀如来は、立像は来迎印(右手を挙げ、左手を下げる)を結ぶのに対し、坐像は膝上で両手を組む定印(じょういん)を結ぶのが一般的です。

(*6)平安時代、東側から西方の阿弥陀如来を信仰することについて、過去に何度か取り上げました。これについては、下記をご覧ください。

  ➡当麻寺について

  ➡元興寺について

2018年01月21日