大山寺(神奈川県伊勢原市)*関東三大不動尊の一つとして
関東三大不動尊の一つは、成田不動尊、そうして、高幡不動尊ということは、衆目一致するところの様です。ただ最後の一つには、いろんな意見がある様です。東武伊勢崎線加須駅総願寺や、つくばみらい市不動院という人もいらっしゃい、まちまちです。しかし、最後の一つとして、伊勢原の大山不動尊を挙げる意見が有り、私はその意見に従いたいと思います。決まったルールがないようですので、お許しください。
<画像の説明>画像左または下:高幡不動五重塔 画像右または上:成田山新勝寺三重塔
江戸中期以降、豊作や商売繁盛などの祈念のため、そして庶民の娯楽のため、「大山詣で」が盛んになり、関東各地に「大山講」が組織されました。大山寺は関東での修験道の中心地でしたが、それらの修験者が御師(おし)として参詣に向かう人々の先導役を務めました。大山の周辺は、参詣者向けの宿坊が軒を連ね、門前町として栄えました。
明治維新後、神仏分離が強制され、阿夫利神社と大山寺は分離されました。今、ケーブルカーに乗ると、最初の駅が大山寺、終点で降りると阿夫利神社に行くことができます。徒歩でも、バスの終点から、参道を15分でケーブルカー駅、そこから、急ですが、山道を約20分で大山寺に着くことができます。
<画像の説明>画像左または下:阿夫利神社本殿 画像右または上:大山寺本堂
大山寺のご本尊は、鉄造不動明王坐像です。日本では鉄造の仏像は、鎌倉時代、関東地方を中心に制作されています。鉄は銅に比べて衣文などの細部の鋳造が難しく(*)、鋳造後の表面の仕上げも困難なため、作品自体少ないです。しかし、仏像のスポンサーとなった鎌倉武士には、当時最も堅い金属だった鉄に対する信仰や、鉄仏のもつ荒々しさが、鎌倉武士の好みと重なり、鎌倉時代の関東地方では、鉄像の仏像が好まれたと考えられています。
優れた作品は多く有りませんが、大山寺の不動明王坐像は、鎌倉時代の鉄仏のなかでは、秀作の1つに数えられるものです。黒光りする本体と玉眼が対象的に映え、お顔の表情もそうですが、迫力は申し分ありません。
不動明王坐像および左右の二童子像は、いずれも、像高は1m弱ですが、二童子像は立像です。不動明王像に比べ、二童子像は鋳型のずれが見られるなど、やや技法的に難が見られます。不動明王坐像の重量は、約480㎏とされます。
鉄造不動明王坐像は、重要文化財となっており、本堂裏の防火扉のついた建造物に安置されています。毎月8・18・28日に御開帳されていますが、撮影禁止で、画像は掲載できません。
<画像の説明>画像左または下:本堂前の急峻な階段 画像右または上:本堂の彫刻
(*)日本には、溶鋼にコークスを使用する技術は育たず、木材や木炭が使われました。そのため、鉄の鋳造には温度が足りず、造仏は銅が主材料となりました。また、鉄は、日本刀の制作等主に鍛造に使われました。
次回は、関東三大不動尊のうちから、高幡不動尊を取り上げたいと思います。