大國魂神社(東京都府中市)
大國魂神社は、東京都府中市に位置します。神社本殿は北面しています。源頼義、義家父子が奥州平定の「前九年の役」の途次、当神社に立ち寄り自分たちの擁護を祈願しました。これが、当神社が北面している理由だと伝えられています(*1)。頼義、義家の心情として、自分たちの武運長久を願ってのことか、東北ににらみを利かせるためだったのか、或いは怨霊退散その他の理由があったのか詳細の理由には興味があるところですが、如何でしょうか。
<画像の説明>画像左又は下:大國魂神社本殿 画像右又は上:源義家像(大國魂神社参道近く)
そもそもこの地は、古代武蔵国の府中(国衙があった場所)で、古代において当神社は、武蔵国国衙域内にありました。大國魂は、大国主神(オオクニヌシ)の別名で、大和朝廷の進出前に、当地にも出雲系の神様が広く普及していたことが想像されます。
中世以降、当社は、六所宮或いは武蔵総社と呼ばれました。当社が六所宮と呼ばれるのは、武蔵国内の六神社の祭神を合祀しているからです(*2)。
時代は下り、1590年(天正18年)徳川家康が江戸入府し、武蔵国の総社として社領500石が寄進され、社殿等が刷新されました。慶長年間に造営された社殿は、楼門は朱塗り、楼門を入った右手に三重塔がそびえていました。中央の本殿は、三間朱塗りの檜皮葺で唐破風が付いていました。
<画像の説明>大國魂神社参道
1646年(正保3年)の大火で当社も焼失しました。再建に当たり、楼門は随身門となり、三重塔は再建されませんでした。この時の建造物が現在の社殿の基本となり、本殿は、東京都の有形文化財に指定されています。
府中は、古代から中世には武蔵国の中心として、近世には、甲州街道に面した門前町宿場町として発展し現在に至ります。
(*1)『府中市の歴史』によりますと、下記記載があります。
『源威集』という源氏の歴史を綴った書物に、1051年(永承6年)、源頼義が「前九年の役」出陣に際して、「武蔵国に逗留の間、府中六所宮、もと南向きを俄に北向きに立改む、奥州合戦の間、擁護の為なり」。
(*2)武蔵国は、近世においても現在の東京都の外、埼玉県のほぼ全域、神奈川県の川崎市、横浜市の大部分を含む意外と広い地域です。現在JRの駅名に、武蔵浦和(埼玉県さいたま市)、武蔵小杉(神奈川県川崎市)など武蔵の付いた地名が、埼玉県、神奈川県に点在します。
六所宮に合祀された元社も武蔵国一帯に広がります。武蔵国一之宮は、現在の小野神社(東京都多摩市)に比定されています。有名な氷川神社(埼玉県さいたま市)は三之宮、椙山神社(神奈川県横浜市緑区)は六之宮に比定されます。