尖り石遺跡と諏訪大社(上社前宮)(長野県茅野市)
今回は仏教遺跡から離れて、縄文遺跡の尖り石遺跡と諏訪大社(上社前宮)のご紹介です。昨年は、出雲と大和(東京国立博物館)或いは一昨年唐古・鍵遺跡(奈良県)のコーナーで弥生時代は扱ったことありますが、縄文時代は初めてです。
尖り石遺跡は、八ヶ岳山麓において今から5000年くらい前に栄えた縄文遺跡です。遺跡全体が国の特別史跡に指定されています。時代区分では、縄文時代中期から後期に当たります。この遺跡からは、様々な意匠を凝らした縄文土器が数多く見つかっていますが、中でも、「縄文のビーナス」あるいは「仮面の女神」と呼ばれる土偶がとくに有名です。これらの土偶は、大型・完形で発掘され、両方とも国宝に指定されています。
<画像の説明>画像左又は下:土偶 縄文のビーナス
画像右又は上:土偶 仮面のビーナス
両画像とも、尖り石縄文考古館にて展示されています。
この地は、ナラ・クルミ・クリ等の落葉広葉樹や多様な動物が繁殖していました。又、石器の材料になる黒曜石の原産地が近辺に数多く散在し、このことが、縄文人が多く住居し、多いに栄えた要因となりました。縄文時代後期には、気候が変動により当地の遺跡は減少していきました。
当地の遺跡発掘は、明治時代から始まり、第2次世界大戦前には、既に国の史跡保存地に指定されています。また、昭和27年には国の特別史跡に指定されました。今は、周辺一帯が、史跡公園として整備が進められています。
<画像の説明>両画像とも、縄文土器 尖り石縄文考古館で展示
稲作が始まると、人々は、標高の低い地に、生活の場を移しましたが、諏訪地方は、稲作文化を基盤とする弥生時代においても、日本の先進地の一つだったと思われます。弥生時代においても、黒曜石の生産が大きな経済的裏付けになったのではないでしょうか。
<画像の説明>画像左又は下:諏訪大社(上社前宮)まっすぐに立つ柱が結界を表します。
画像右又は上:尖り石の地名の語源となった尖り石(横に説明板が設置されています)
古事記によりますと、諏訪の地名は、出雲の国譲りの段に表れます。
大和勢力タケミカヅチの攻勢で、出雲のオオクニヌシと子供のコトシロヌシを屈服させました。オオクニヌシのもう一人の子供タケミナカタは納得せず、タケミカヅチに戦いを挑みましたが敗れ、逃げ出しました。逃げ先が、信濃の国の諏訪湖だったとされます。タケミナカタは、タケミカヅチに降参し、この地に封印されました。上諏訪神社(上社前宮)には封印したとされる結界が今も残ります。
諏訪大社の起源の詳細については良くわかっていないようですが、祭神は上述のタケミナカタで、当大社の結界内に封印(*1)されていると伝承されます。
諏訪大社は、上社本宮、上社前宮、下社春宮、下社秋宮の四社からなります(*2)。平安時代に編纂された延喜式では、信濃国一之宮として信仰されていたことが知られています。上述の通り、当社は弥生時代から続く、日本における最古の神社の一つとして、現在でもその繁栄を維持しています。
(*1)掲示した前宮の写真では、2本の垂直に立つ柱がご覧戴けると思います。これらの柱は、礎石は無く直接地中に埋められています。この様な柱が社の周囲4か所に埋められており、結界を表しているとされます。実際には、これらの柱をしめ縄のようなもので結んでいたのかもしれません。
(*2)諏訪大社上社本宮が諏訪市、前宮が茅野市、下社は、下諏訪町に位置します。