青龍寺空海記念碑(陝西省西安)

 隋唐時代は、中国の仏教の全盛期で、唐の都、長安では仏寺の建立が盛んでした。総計110坊の殆どに寺が分布していたとのことですので、100以上の寺院があったことになります。考古学的発見も多いので、今後更に増えることが考えられます。もちろん、これらの寺院では、建立から廃棄まで様々な段階があると思いますので、100以上の寺院が同時に存在したのではありません。

 

<画像の説明>画像左または下:西安都城 隅のやぐら 中は博物館風の売店になっています。
<画像の説明>画像右または上:西安都城風景 現在の西安都城は、明時代の建造です。

 青龍寺は、現在の行政区画では雁塔区鉄炉廟村にあります。創建は、隋時代(582年)です。創建当時は、霊感時と言われましたが、唐(711年)に青龍寺と改名されました。会昌の廃仏(845年)によって廃毀され、846年修復されました(*)。
 青龍寺において、空海が密教における金剛頂経と大日経の唯一の阿闍梨(後継者)だった恵果より灌頂(法を授けられる事))を受けたのは、恵果が亡くなる直前の805年でした。この事は、空海にとって重要なことでした。真言密教では、師より弟子へ直接教えを相続することが最も重要とされたからです。

 青龍寺の規模は、東西500m、南北260mでした。1973年から中国社会科学院考古学研究所によって発掘が進められ、多くの遺物や遺跡が発見されています。

 

<画像の説明>空海記念碑

「空海記念碑」は、日本の真言宗諸派や空海の故郷の香川県をはじめとした四国四県等の基金により、青龍寺跡に、1982年に建設されました。仏教界における、空海の果たした偉大な業績を称えています。高さは約10mです(**)。


(*)会昌5年(845年)7月の武宗による廃仏は、長安内の寺院は、4寺を除いて他のすべての仏寺は廃棄されました。「三武一宗の法難」は、北魏以来発生した3度の仏教の弾圧事件を言いますが、会昌5年の廃仏も、そのうちの1つとして数えられます。道教との権力闘争の一面と王朝が過度に仏教を保護し、造寺などで出費が増えてしまったことに対する反動の一面があります。
「法難」は、あくまで、仏教側が作った言葉です。会昌の廃仏後、廃棄されたとされる青龍寺ですが、846年武宗の死の直後、直ぐ復興していることから、この際の「法難」の実態がどのようなものだったのか、再評価が進められています。
 青龍寺が名実とも廃寺となるのは、唐の滅亡後、長安が廃墟化したためです。これは、唐時代、安史の乱後、不空により、密教が国家仏教として盛隆したことからは、唐滅亡により衰退する運命にあったと考えられています。

(**)直ぐ近くの恵果空海記念堂には、訪問を記念した記名用のノートが置いてあります。寺の担当者から名前を書くように求められますが、名前を書いてしまうと、しつこく寄付を求められました。まさに、現在の中国の仏教事情です。

2017年10月16日