唐招提寺(奈良市)
鑑真は、唐より苦労して日本に渡り戒律を日本に伝えた僧として有名です。754年に平城京に到着しました。鑑真のために、常設の東大寺戒壇院が建立されました。その後、759年に唐招提寺に移りました。唐招提寺にも戒壇院跡が今も残ります。
<画像の説明>唐招提寺 戒壇院跡
鑑真は、多くの仏師を同行したと言われています。鑑真のもたらした木彫仏像は、当時、唐で隆盛したもので、白檀を材料とした一木造、高精細の仏像でした。また、木の木霊を重視して内刳りを行わないものでした。
実は、日本は、高温高湿地帯で木材が充実しているにも関わらず奈良時代脱活乾漆像(*1)と塑像(*2)の時代でした。法隆寺には、飛鳥時代後期の救世観音といった木彫が残されていますが、奈良時代には少なくとも平城京とその周辺では、木彫の造仏技術は途絶えました。
木彫一木造の技術を鑑真に同行した仏師が唐よりもたらしたため、初期の唐風木彫仏は唐招提寺に残されています。唐招提寺の木造伝薬師如来立像、木造伝衆宝王菩薩立像、木造伝獅子吼菩薩立像と現在も講堂にある持国天、増長天立像は作風に唐風が強く残されています。これらの各像はいずれもヒノキまたはカヤの一木造で、素地仕上げとし、内刳りを施さず、足下の台座蓮肉まで一木で造るなど、技法に共通点が多いと言われています。
日本には白檀は自生しません。白檀の代りにどの様な木が白檀と同じ香りを持つか、或いは、内刳りをせずにどうやってひび割れのない木彫の仏像を作るかといったことは、当時の最先端の舶来技術だったと思いますが、その後徐々に和様化されていきました。
木彫の技術は、下って、平安時代中期の定朝や末期から鎌倉時代初めの運慶、快慶につながっています。寄木作り、内刳、割矧といった日本のオリジナル技術が発明されました。
鑑真は、日本での戒律の確立のために日本に招聘したとされます。戒律は、仏教僧の生活規律の事を言います。決めごとですので、日本独自で決めれば良さそうなものですが、仏教が先進地域の唐から伝わったこともあって、日本独自で戒律は確立できませんでした。多くの人を納得させるために、唐からその権威を招聘する必要があったということだろうと考えられます。
<画像の説明>唐招提寺講堂
ところで、唐招提寺の講堂は、平安京に遷都した後の平城京の東朝集殿(朝廷に仕える官僚が利用した会議場)の木材が使われています。鎌倉時代に大幅に改造されたと言われますが、今となっては貴重な平城京の遺跡です。
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(*1)脱活乾漆像は、木芯に漆を染み込ませた布の形を整えながら多層に張り付けてゆき、固まった後、中の木芯を抜いたもの(脱活)です。張り子の虎のようなものです。奈良が何度も戦乱にあったにもかかわらず、軽く堅牢な脱活乾漆像は、戦いが始まる前に、比較的容易に疎開させることができたことで、現在に多くが残ります。
(*2)塑像は、木芯に粘土を貼り付けたものです。脱活乾漆像に比べて納期もかからず、安価です。塑像は焼結されません。それは、当時焼結のための大きな窯が作れなかったためだそうです。そのため、経年変化には極めて弱いもので、常にメンテナンスを必要としました。