長寿寺(鎌倉市)
足利尊氏の法名は、京都では等持院殿(*1)と呼ばれていますが、鎌倉では長寿寺殿と呼ばれています。長寿寺は、足利尊氏が自身の邸宅跡に1336年に創建後、子供の2代鎌倉公方足利基氏(*2)によって、当地に七堂伽藍が整えられました。
鎌倉五山(*3)がいわば公的な寺院だったのに対して、長寿寺は鎌倉公方家の私的な寺院と見做すことができます。更に、長寿寺殿の名前も、基氏によって意識的に整えられたと言っても良いと思います。というのも、元弘の乱の際、尊氏は、丹波国篠村で旗上げ、北条氏を裏切り、後醍醐天皇方につきました。尊氏は、京都を奪還し、後醍醐天皇を京都に向い入れたことで、建武の中興第一の功臣となりました。その後中先代の乱の平定のために鎌倉に下向、一時的に鎌倉を本拠とする動きを見せた事もありますが、基本的に京都に本拠を置き、鎌倉という土地と尊氏自身の関係はそれほど濃厚ではありません。
そのような状況でしたが、基氏は、京都に対抗するべく、父尊氏と鎌倉の関係を強調し、武士の忠誠を高めていったと考えられます。その精神的支柱がこの長寿寺だったのでは無いでしょうか。鎌倉公方家は、基氏後、子供の氏満(3代)、孫満兼(4代)と権力を継承しました。
画像の説明:長寿寺本堂
ここで留意しなければならないことは、鎌倉は、南北朝、室町時代に至っても鎌倉時代と同様、京都とともに東西の政治の中心であり続けたことです。鎌倉幕府が滅亡したことにより、鎌倉が焼け野原になったと思われる方も多いと思いますが、そういうことはありませんでした。長寿寺も鎌倉五山の建長寺、円覚寺といったそうそうたる寺院と同じ北鎌倉に位置します。鶴丘八幡宮から北鎌倉一帯が鎌倉の繁栄が最もしのばれる場所です。
足利尊氏は室町幕府の初代将軍です。その知名度は、現在では、同じ初代将軍となった源頼朝や徳川家康に比べてあまり高くありません。しかし、室町時代には、京都将軍家にとっても、鎌倉公方家にとっても、尊氏が精神的支柱だったことは紛れもありません。そのことが、尊氏の法号が、京都と鎌倉2か所に存在する理由と考えられます。
画像の説明:左又は下:長寿寺内部
右又は上:足利尊氏像(栃木県足利市)
追記:
尊氏は、足利荘(足利市)で生まれたという説もありますが、現在では、母の実家上杉氏の本貫地京都府で生まれたとする説が有力だそうです。足利尊氏と地元足利荘の関係は希薄です。十分に調べた訳では無いのですが、尊氏が地元の足利荘に戻ったという事実は確認できませんでした。(どなたかご存知の方があればぜひご教授ください。)
足利尊氏と足利荘の関係が希薄なためか、足利尊氏像(*4)を地元足利市に建立するにあたり、製作に当たって反対運動もあったそうです。明治以降、朱子学、そしてそれをベースとした皇国史観により足利尊氏の評価は下がってしまったことも関係しているのかもしれません。
(*1)等持院の写真が、どうしても自分の写真アーカイブから見つけ出せませんでした。日頃の整理が悪いので想定内ですが、今、コロナ禍で簡単に京都へもいけません。申し訳ありませんが、等持院の写真は、移動がスムーズになり次第、別途準備させて戴きます。
ところで、雑学ですが、等持院最寄り駅の京福電車‘等持院立命館大学衣笠キャンパス前’は、文字数・音読数ともに日本一長い駅名となったことが、マスコミで報道されていました。
(*2)初代鎌倉公方は足利義詮ですが、短期間でかつ臨時的なものでしたので、基氏が事実上の初代と考えられます。
(*3)五山は、室町幕府三代将軍足利義満の時代に最終的に決定されました。最上位は、京都の南禅寺とし、その下に同格に京都五山、鎌倉五山が整えられました。
(*4)建武の三忠臣と言われる楠木正成像や、新田義貞像が、勇ましい騎馬乗姿なのに対して、足利尊氏像は武具も付けない公家姿です。像として見劣りもしますし、武士の棟梁、室町幕府初代将軍の像としては、少し残念な気がします。