法隆寺中門と金堂
私の高校時代に、哲学者梅原猛氏の著書『隠された十字架』は、大ベストセラーになりました。梅原氏はその中で、法隆寺は、聖徳太子の怨霊を鎮魂する目的で建てられたと主張されました。その根拠の一つが、掲載画像の中門が偶数の四間で、中央を閂で閉じているということだったと思います。確かに、普通中門は三間か五間で、中央が通れるようになっています。
<画像の説明>法隆寺中門 四間の門
<画像の説明>三間の門
画像1:清凉寺山門 画像2:当麻寺仁王門
<画像の説明>五間の門
画像1:東大寺南大門 画像2:平城京朱雀門
今改めて法隆寺の中門をみると、三間だと空間が狭いし、五間だと広過ぎると感じます。これは、塔と金堂が並列するという法隆寺の独特の伽藍配置と寸法が関係しているようです。四間の効能はわかりませんが、伽藍の横寸法からは、四間がビジュアル的に最も良いことは確かと思います。
今、梅原氏の法隆寺=怨霊鎮魂は、学会ではほとんど否定されています。聖徳太子信仰自体が確立するのは、奈良時代中期以降で、この伽藍の成立よりだいぶ後のことだというのが、歴史的事実だからだと思います。
<画像の説明>法隆寺西院 並列に並んだ金堂と五重塔
法隆寺西院伽藍内部には、金堂と五重塔があります。戦前(第二次世界大戦前)には、法隆寺再建説、非再建説で学会がにぎわったそうですが、若草伽藍の発掘で、私の高校時代には既に再建説が定説となりつつありました。日本史の教科書では、あくまで、607年建立(群れなす。。)と習いました。考古学の成果は、確かな証拠を歴史学に突きつけます。考古学により否定された説を降ろす学者の先生は難しいことになります。
ともあれ、法隆寺は、日本書紀によると、670年に炎上し、今の場所に7世紀末から8世紀初めにかけて再建されたことになります。詳細の再建時期は、使用されている材木の年輪年代法により解明されつつあります。私は、再建時期もさることながら、そのスポンサーが誰だったかに興味があります。607年段階スポンサーだった聖徳太子とその子孫の上宮王家は、再建時期には既に滅んでいたからです。
法隆寺金堂には、多聞天と毘沙門天が祀られています。一つの堂宇に多聞天と毘沙門天が祀られる珍しい像容形式になっています。