醍醐寺 下醍醐寺と三宝院(京都市)

 醍醐寺は、874年(貞観16年)聖宝により開創されました。以来、醍醐天皇の帰依のもと、上醍醐が、そして、朱雀、村上天皇の勅願により麓の下醍醐が整備されました。下醍醐では、926年(延長4年)釈迦堂(現金堂)、951年(天歴5年)には、五重塔が完成しました。
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金堂(国宝)は、永仁、文明年間に2度焼失しましたが、現在の金堂は、豊臣秀吉が、和歌山県湯浅を攻略した際の戦利品で、秀頼の時代に現在の場所に移築が行われました(*1)。
金堂内部には、元は、上醍醐薬師堂に祀られていた本尊の薬師如来三尊像が安置されています(*2)。この薬師三尊像は、創建当時の作品と伝わっています。山深い上醍醐に安置されていたことで、何度かの戦乱からこれらの像は守られました。

 

<画像の説明>醍醐寺金堂全体写真 正面と斜方


 奈良時代末期から平安時代前期には、日本では、白檀を主な材料とした大陸の木彫技術を取り入れながら、日本独自の木彫技術を確立していきました。当寺の薬師三尊像の材料は存じませんが、日本独自作風の端緒をみることができます。尚、当寺の薬師如来は、薬壺を持っていますが、薬壺が当初からのものなのか、サイトの管理人としては、興味があります(*3)。

 金堂内陣には、現在併せて四天王像が安置されています。これらは、鎌倉時代の前期の作成とみられています。持国、増長二天と後方の広目、多門二天に作風の違いがあると言われています。本尊の薬師三尊像の日光菩薩、月光菩薩とのバランスは微妙で、金堂の移築と同時に移築されたとすれば、納得ができます。

<画像の説明>醍醐寺五重塔全景と相輪


 五重塔(国宝)は、高さ約38m、同時代の五重塔が外に無く、特に比較はできませんが、逓減性の大きいどっしりとした建物で、軒下の三手先斗供も純粋な和様建築です。相輪は約13m、京都府下では、もっとも古い木造建築物です。現在内部を拝観することはできませんが、初層内部に両界曼荼羅や真言八祖(*4)の密教絵画が描かれているそうです。塔の前方に空間が広がり、写真写りも良く、日本一バランスの良い五重塔とサイト管理人は思っています。

 三宝院は、1115年(永久3年)に創建されました。以後、醍醐寺の中心的な院家(いんげ)(*5)として発展しました。応仁の乱で焼失した後、義演の時代に復興されました。豊臣秀吉の「醍醐の花見」であまりにも有名です。唐門、表書院等が国宝に指定されています。

 

<画像の説明>醍醐寺三宝院と唐門

(*1)和歌山県湯浅にかつてあった満願寺本堂が移築されました。
(*2)金堂内部の拝観は可能ですが、撮影は禁止されています。
(*3)古代、薬師如来は、薬壺を持っていませんでした。そのため、釈迦如来と薬師如来は、像容上区別がつきませんでした。薬師如来が、薬壺を持つことは、奝然(ちょうねん)が大陸より伝えたと伝承もありますが、9世紀の密教の受容が契機になったと考えればわかり易いのですが、如何でしょうか。
(*4)空海までの真言密教を相承した八人の祖師のこと
(*5)院家(いんげ)は、子院、門跡(もんぜき)に次ぐ格式や由緒をもつもの。門跡は、 祖師の法統を継承し、一門を統領する寺のことです。尚、一部に三宝院を醍醐寺の「塔頭(たっちゅう)」と説明したものもありますが、「塔頭」は、禅宗における言い方です。

2022年07月03日