影向寺(ようごうじ)(川崎市)


 影向寺には、重要文化財の薬師三尊像が祀られています。この一帯は、橘樹官衙遺跡群として、2015年に国史跡に指定された。京浜工業地帯の中心都市として発展した川崎ですが、史跡の国指定は喜ばしいことです。JR南武線武蔵新城駅から歩いて20分強の位置にあります。

 影向寺の寺伝に依りますと、当山は天台宗に属し、奈良時代の天平12年(740)、聖武天皇の命令を受けた高僧・行基によって開創されたと伝えられています。
 寺伝は、一般には寺の歴史的重みを増すため、実際の歴史より古く記すことが多いのですが、影向寺の場合は、近年の発掘調査と瓦の年代学的な研究が進んだ結果、実際の創建は、更に古く、7世紀後半の飛鳥後期(白鳳期)にまで遡ることが明確になりました。

 このことに関して、村田文夫氏『武蔵の国 国史跡・橘樹官衙遺跡群の古代学』(かわさき市民アカデミー 川崎学双書シリーズ)には、「縁起をさかのぼる寺院」というキャッチコピーが生まれたことが記されています。

 影向寺一帯は、相模ではなく、武蔵の国に属しますが、武蔵の国国分寺(国分寺市、府中市)建立以前から存在した郡寺の一つと考えられています。

 

<画像の説明>画像左または下:影向寺薬師堂 画像右または上:影向寺寺門 

 

 当寺の薬師三尊像は、従来は、本堂薬師堂に祀られていましたが、保存の観点から、現在は、十二神将等と一緒に裏手の安置堂に祀られており、年に数回公開日があります。

 

<画像の説明>画像左または下:薬師如来坐像と月光菩薩
       画像右または上:薬師如来坐像と日光菩薩


 薬師如来坐像は、ケヤキ材、日光月光菩薩立像は、サクラ材です。それぞれ、一木造、平安時代後期の作品です。作風からは、衣文のナチュラルさ、或いは、厚みの表現等から、見た目には定朝以降運慶以前(=平安時代後期)のものと考えられます。内刳りの有無はわかりません。

 薬師如来は、体のバランスも良く、お顔の表情も温和です。両脇侍は、薬師如来に比して、衣文線が、若干堅いように思えます。また、日光月光においては、髻の形の違い、或いは衣文線の違いから、作者或いは多少の時代的な違いがある可能性があると考えられます。

 安置堂の前に建てられた川崎市教育委員会の説明書きには、薬師如来と脇侍二尊という表現になっており、あえて薬師三尊像という表現は使っておられません。その理由は、定かではありませんが、外観から、両脇侍に比して、薬師如来が小さいということでしょうか。私は、薬師三尊像としてのバランスは、整っていると思います。

 

<画像の説明>画像左または下:影向寺薬師三尊像(安置堂前の説明用の看板より)
       画像右または上:安置堂前の説明用の看板

 

 この薬師三尊像に関して、更に一点疑問点があります。現在の日光月光菩薩の祀り方は、掲載画像の通り、薬師如来に近い方の手が上がっています(*)。一方、現地安置堂の前に置かれている川崎市教育委員会の立て看板の画像では、薬師如来に遠い方の手が上がっています(*)。どこかのタイミングで入れ替わったのでしょうか?日光月光菩薩は、像容からは区別がつかないことが多く、長い歴史の中では入れ替わりが起ることが起こるのかもしrません。

 しかし、この件に関して、お寺の方にお聞きしたところ、お寺では、昔からこの祀り方をしているときいている。ある時展示のために博物館に貸し出ししたところ、左右逆に展示されたことがあり、教育委員会の立て看板は、その際の画像と思うと仰っていました。

 『川崎市史 資料編』(川崎市 1988年)でも立て看板と同じ並びで説明がされており、これが川崎市の見解ということでしょうが、なぜ、敢てお寺の祀り方とは反対の並びで資料として収録されたのか、理由について記載はありません。機会があれば、伺ってみたいと思います。


(*)日光月光菩薩の印に関してもう少し説明させて戴きます。一般に、上げた手が、施無畏印、下げた手が与願印と呼ばれますが、当寺の場合、上げた手は、阿弥陀如来の中生の様に親指と中指で印を結んでいます。また、日光菩薩月光菩薩が、日輪月輪を持つ場合は、日輪月輪を外に開く形で持つことがあります。

 日輪月輪を外に開く形で持つ薬師三尊像については、本サイトにも下記に例があります。


 ➡勧蔵院 薬師三尊像について

 ところで、上で紹介しました『武蔵の国 国史跡・橘樹官衙遺跡群の古代学』に依りますと、影向寺に関していくつか興味深いことが記載されています。内容は保持していますが、説明のために、一部サイト管理人がリライト或いは追加説明しています。正確に把握されたい方は、別途購入されることをお勧めします。私は、川崎市民ミュージアムで購入しました。

-影向寺の伽藍配置は、法起寺式?
 発掘調査の結果、現在の薬師堂のほぼ同じ位置に金堂があったと推定されています。一方、この建物跡は、間口が広いので、講堂跡であり、伽藍形式で言えば、中門から見て、右に塔、左に金堂を配置する法起寺式(*1)という主張もあります。これに対して、著者の村田氏は、否定的な見解を述べられています。
-初代金堂の礎石
 推定金堂の礎石が残っており、建築時に造作した柱座(*2)跡を見ることができます。写真の通り、現在の薬師堂の礎石にも使用されています。

 

<画像の説明>画像右または下:薬師堂の礎石。
               柱座後から旧金堂の礎石を流用していることが分かります。
       画像左または上:影向石 三重塔の心礎石。中央に心柱の穴が見えます。


-影向寺の現在の薬師三尊像は、三代目或いは4代目?
 木彫仏が主流になるのは、9世紀以降(*3)、8世紀の仏様は、塑像仏の可能性が高い。現在の本尊の薬師如来坐像は、11世紀末の造立のため、おそらく、3代目か4代目に当たるであろうと述べられています。(2代目候補として、寺には二体の木彫破損仏が残されているそうです。)
-影向石の移動に関して
 現在残る影向石は、元は、寺の三重塔の心礎石でした。しかし、影向石の位置は、掘り込み基壇の中央部ではなく、南側に5m動いています。動かした理由や時期は良く分かりません。塔が建てられたのは、基壇下部から発掘された瓦から8世紀前半以降と考えられています。心礎石の規模から推定すると総高27m、現存する塔では、当麻寺(奈良県)相当だったと推定されています。当麻寺に関しては、下記リンクを参照ください。残念ながら今西塔は工事中ですが、画像から影向寺の規模がご理解戴けると思います。

 
 ➡当麻寺の画像はこちらでご覧ください


*1:法隆寺式とは金堂と塔の配置が左右逆。
*2:礎石の中央を丸く凸状に加工したもの。
*3:古来高温多湿の日本において、材木が豊富にあったにもかかわらず、奈良時代、木彫仏は殆ど作られていません。木彫像が日本で盛隆するのは、鑑真の渡来(763年)に同行して来日した仏師がもたらした白檀像やその精密な木彫技術でした。一木造の技法は、平安時代以降、急速に日本で普及しました。


 最後になりましたが、現在重要文化財の薬師三尊像を国宝に昇格させる運動が展開されています。本堂には、署名のための帳面も準備されています。私も署名させて戴きましたが、成就することを期待しています。

 橘樹官衙遺跡群の見学には、クルムとアルク博物学の中山良氏のレクチャーを受けました。中山さんありがとうございました。

2017年08月20日