達身寺その2(兵庫県丹波市)
今回は、達身寺方式について述べさせて戴きます。私は、前回達身寺方式の毘沙門天を鎌倉時代の仏像と申し上げましたが、それは、達身寺方式の存在です。
達身寺では、下腹が大きく出た立像が多く残ります。この像容は、大変珍しく、恐らく他にはありません。そのため、達身寺様式と呼ばれています。この像容は、金剛力士像の様にぐっと下腹に力を入れ腹筋が逞しく浮き出た様なものではなく、妊婦のお腹がふっくらと出ている様子を表したものです。尚、達身寺様式は仏像、仏容には、依存しません。
私は、これをいくつかの由来を考えました。
(その1)吉祥天が毘沙門天の妻として並んで祀られていますが、先ずは、吉祥天のお腹が膨らむ像容が発生し、その後、その他の仏様のお腹もまた膨らませるように像容が発展した。
(その2)鎌倉時代以降、毘沙門天が幸福神になったこと、そしてその後七福神の1神になったこと関連付け幸福の一表現として考え出された。
(その3)毘沙門天が観音三十三変化の一つと考える思想があるが、観音三十三変化の一つとして、毘沙門天の新たな像容が現れた。
私はそのくらいしか考えられない(妄想??)が、どうでしょいうか。これらの中では、その2の「毘沙門天が幸福神」の考え方が、もっとも考えやすいと実感しています。
<画像の説明>達身寺様式の仏容
鎌倉時代以降、毘沙門天は、それまでの都の守護神、軍神という力強い存在から一般の市民を守る幸福神という存在に発展しました。特にこれらは、京都では、1238年に全焼した鞍馬寺と本尊の毘沙門天の復興が大きく影響したと考えられています。 鞍馬寺は私寺であり、朝廷や幕府そしてその有力者からの寄進を多くは期待できない中、火災後の復活において、庶民の寄進に多くを頼る必要がありました。この時代京都は、日本一のハイテク工業地帯で、庶民の力が強く大きくなっていました。そのような中で、鞍馬寺では、一般庶民に寄進を求めるため、本尊毘沙門天がこの世で民衆を幸せにするという幸福神のファンクションが強調されていきました(*1)。
<画像の説明>達身寺様式兜跋毘沙門天立像
京都の商工業者は、自分たちの取り扱う商品をもって地方へ下る中、幸福神としての毘沙門天信仰も一緒に持ち回りし、京都周辺の地方へ拡散していきました。このような一環で、丹波地方にも毘沙門天信仰が浸透していきました。当地では、安産を願う人々が、毘沙門天を妊婦に見立てる民間信仰が発展したのではないでしょうか。妊婦のお腹を持つ毘沙門天は、当地の発願者のリクエストだったろうと思います。京都の毘沙門天信仰と地方の民間信仰が合体した結果でしょうか、妊婦は、これから生まれてくる子供の幸せを毘沙門天に託したのではないでしょうか。
(*1)幸福神としての毘沙門天は、本編でも詳しく述べさせて戴きました。幸福神としての毘沙門天は、下記を参照ください。
毘沙門天=幸福神の信仰は、更に発展して、室町時代以降、七福神の一つに選ばれるに至りました。
ほかにも、達身寺には、特徴がいくつかありますが、最後に達身寺に多い一木造について、簡単に述べさせて戴きたいと思います。達身寺の仏像は、基本が一木造です。それは、残る仏像の殆どに縦しまの割れ目が現れていることからも明らかです。このことは、定朝以来、この現象を嫌いその対策として中刳りを徹底するため寄木造を発明し、また一木造であっても割矧ぎを発明してそれを良しとし実践した鎌倉時代以降仏師の中心となった慶派の仏師とは、一線を画するものであり、この地方独自の仏師の存在の可能性を彷彿させます。
地方仏師の工房と幸福神としての毘沙門天信仰が結びついた結果が今に残る達身寺の像容では無いでしょうか。すみません。今回は殆ど想像の世界になってしまいました。