達谷窟(岩手県)と清水寺(京都市)

 達谷窟(たっこくのいわや)は、岩手県平泉町に位置します。東北新幹線一ノ関駅から車で20分くらいのところです。お寺のパンフレットに依りますと、お寺の正式名は、達谷西光寺とされます。

 達谷窟毘沙門堂縁起によりますと(お寺で戴くパンフレットを要約させて戴きました)、
「蝦夷の首領『悪路王』がこの巌に塞を構え、反乱を起こしたが、征夷大将軍の坂上田村麻呂(*1)によって平定された。田村麿は、戦勝は毘沙門天のご加護と感じ、その御礼に清水の舞台を模して、九間四面(*2)の精舎を建てて、百八体の毘沙門天を祀った。」

 この『悪路王』は、一説では、阿弖流為(アテルイ)に当たるとされます。
 阿弖流為等は、捕虜となって、田村麻呂と一緒に都に上りました。田村麻呂の助命嘆願にも拘わらず、朝廷の命令に依り、河内の国で処刑されました。

 吾妻鏡<第9巻>文治5年(1189年)9月28日の項には、源頼朝が奥州追討の帰途に田谷窟(たつこくのいわや)に立ち寄った記載が残ります。達谷窟は、源頼朝の奥州追討以前から、この地に坂上田村麻呂に関する言い伝えが存在したことが分かります。

 

<画像の説明>画像左または下:達谷窟本堂 画像右または上:岩面大仏

 現在、当地には舞台造りの毘沙門堂があります。舞台造りは、崖造(がけづくり)ともいわれます。崖等に建物を長い柱と貫で固定し、床下を支える方式です。当寺には、多くの毘沙門天が祀られているそうですが、秘仏のため、通常は、直接拝観することはできません。

 背後の岸壁には、前九年の役、後三年の役で亡くなった敵味方の諸霊を供養するために源義家が、弓で彫りつけたと伝えられる岩面大仏があります。当寺では、阿弥陀如来として祀っておられます。

 清水寺の開基創建については諸説ありますが、坂上田村麻呂がその創建に大きな役割を果たしたことは間違いありません。平安京遷都は、桓武天皇による奈良の仏教勢力との決別が大きな要因でしたが、そのため、権力者の桓武天皇は、私寺の建立を厳しく制限していました。清水寺は、この時代では、田村麻呂の東北遠征の功績によって建立が認められた数少ない例です。

 清水寺の本尊は、千手観音、脇侍は地蔵菩薩と毘沙門天です。この組み合せは珍しいと思います。その由緒として、田村麻呂が、蝦夷の大軍に包囲されて風前の灯火になった際に、地蔵菩薩と毘沙門天に助けられたという伝説が残ります。

 

<画像の説明>画像左または下:清水寺舞台造(*3) 画像右または上:阿弖流為、母礼の顕彰碑

 清水寺は舞台造りの舞台が有名です。この舞台が作られた時期は正確にはわかりませんが、平安時代末期の事と考えられています。藤原成通という蹴鞠の名人と謳われた公家が「舞台の高欄を沓を履いて渡った」という文書が残されています。

 達谷窟と清水寺は、坂上田村麻呂、阿弖流為そして舞台造り、毘沙門天のつながりを持ちます。そして、今、清水寺には、阿弖流為と母礼(モレ)の顕彰碑が残ります。

(*1)797年征夷代将軍、811年没(54歳)。東北地方には、数多くの田村麻呂伝説が残ります。福島県田村市、田村郡三春町等地名の由来の多くが田村麻呂伝説に結び付けられています。

(*2)母屋の桁行が九間、四面に裳階(庇)があることを言います。

(*3)清水の舞台は今修復中です。インバウンドの人達でにぎわい、更に混雑の度を増しています。

2018年12月16日