小田原城総構(小田原市)

 小田原城は、15世紀初めに大森氏によって築城されましたが、15世紀末に伊勢宗瑞(北条早雲)に攻め取られ以降小田原北条氏(*3)5代の居城になりました。近年の研究では、小田原城攻めは、明応の政変(*1)の一環だったという説が有力です。その際の事でしょうか、早雲が、火牛の計(*2)を用いたというエピソードがあって、今JR小田原駅の北口(新幹線側)に、早雲と角に松明を付けた荒れ狂う3匹の牛の銅像が設置されています。

 

  <画像の説明>小田原駅北口に設置されている北条早雲の銅像(牛3匹とともに)

 早雲以来、小田原北条氏は、継続して小田原城の守りを充実させました。小田原城の最大の特徴は、城下町全体を城内に取り込む総構です(*4)。総構によって、小田原北条氏は、上杉謙信の攻勢からも武田信玄の攻勢(*5)からも守り切りました。上杉軍も武田軍もその主体は農民兵であり、農繁期にかかる前に兵を撤退させる必要があるため、長期の包囲には不向きでした。

 しかし、1590年、豊臣秀吉の攻勢によって、小田原北条氏は滅びました。豊臣軍は、常備軍であり、兵站や兵器の充実、そしてその経済力の前では、総構の守備力も殆ど役に立ちませんでした。一夜城を見せられたことにより北条氏政、氏直親子は戦意を喪失したと言われています。

 今、小田原城の総構の遺構は、整備が進んで、非常に良い散策コースに仕上がっています。お城の西側と北側を中心に遺構が残ります。観光資料には、約9㎞の遺構が残ると記されています。(東側と南側は訪れていませんが、殆ど遺構は残っていないそうです)。

 

<画像の説明>両画像とも小田原城総構の遺構(三の丸外郭付近)。写真の左側が郭外となります。

 

<画像の説明>画像左または下:小田原城天守閣 八幡山古郭より撮影
       画像右または上:総構を散策した際のGPSデータ(総距離は約7.4㎞でした)

 総構の散策は、伊勢原市在住のOさんにご案内戴きました。ありがとうございました。

 小田原城の天守閣は、明治3年に廃城になって、昭和35年に天守閣を復興しました。天守閣復興の際に、最上階には本来無かった展望台を設けました。このことで、外観が大きく変ってしまいました。平成28年に耐震補強工事を行い、大規模リニューアルを行いました。

 

<画像の説明>画像左または下:本来の天守閣の模型
  (天守閣内に展示されています。撮影可というで、ガラス越しですが、撮影させて戴きました。)
       画像右または上:現在の復興天守閣
           (最上階の展望台以外は、本来の天守閣が再現されているのが分かります。)

 今、小田原城をすべて木材で建て代えようという運動があるそうです。しかし、私には、木材のみで建立しても、今の工具、製材技術或いは建築技術で建てるのであれば、そんなに意味ある事とは思えません。

 かつて、法輪寺の再建の際に、法隆寺の西岡常一棟梁が木材のみを使用した旧来の工法を主張されました。それは、西岡棟梁の実績と技術があればこそ可能だった思います。宮大工棟梁と建築学の学者さんの深い議論が行われましたが、技術の継承の観点もあって、最低限の鉄筋を使うことで決着したそうです。今後の長いメンテナンスを考えれば、致し方なかったと思われます。(*6)

 電気(台)ガンナで製材した木材を使用して、現在の技術で組み立てる、つまり、材料として木材を使用するだけのプロジェクトであれば、それには疑問を感じてしまいます。当然現在の耐震基準のクリアも必要ですし、外観自体が本来のものとは同じにならない可能性もあります。私としては、現代の技術を使っても、天守閣の外観をできる限り本来の姿に戻すための改造の検討をして戴ければと考えてしまいます。
 この運動を頑張っている方には、大変に申し訳ありません。上記は、私の個人的な意見です。また、私の認識不足については、ご指摘賜れば幸いに存じます。

 

<画像の説明>小田原城銅門外観(平成9年復元)

 

 銅門(あかがねもん)は、見える範囲は木材のみで建てられた、ぜいたくな門です。大変良くできていますが、檜の梁は、電気(台)ガンナで、製材した後に、手斧か槍鉋のようなもので、再度成形されているように見えます。


<画像の説明>画像左または下:小田原城銅門内部の構造材
       画像右または上:小田原城銅門外部の構造材


(*1)明応の政変は、細川政元、日野富子そして伊勢貞宗(室町幕府政所執事)等がクーデターにより10代将軍足利義材を廃嫡し、従兄弟の足利義澄を11代将軍とした事件です。この際、義澄の義兄茶々丸(堀越公方)が、義澄を将軍にすることに反対したため、今川氏親の家臣だった伊勢宗瑞(伊勢貞宗の従兄弟)が、政元や上杉定正と連携して小田原への出兵が行われたとする見方です。
 なお、茶々丸の墓は、伊豆長岡の願成就院に残ります(諸説あります)。

 ➡願成就院の記事はこちらです。

(*2)火牛の計は、牛の角に松明を付けて、牛が赤い色に異常に反応して荒れ狂って、敵に突進させるという奇計です。有名なところでは、倶利伽羅峠の合戦の際に木曽義仲が平家を相手に用いたことが、源平盛衰記に掲載されています。少数の兵を多くに見せて、敵を混乱、壊滅させる戦法と言われていますが、早雲がその戦法を使った可能性は低いと思います。どうしてそのようなエピソードが残されたかはわかりませんが、やはり下剋上の雄とされた旧来の早雲のイメージに合っていたということでしょうか。


(*3)小田原を支配した北条氏は、鎌倉幕府の執権北条氏とは無関係で、室町幕府の政所執事を歴任した伊勢氏の一族です。執権北条氏と区別する観点で、後北条と言われることが多いですが、このHPでは、より分かり易いように小田原北条氏と記しています。


(*4)実は、当時、日本の最大の総構は、大坂城でした。


(*5)武田信玄の進攻に関しては、それほど大規模な侵攻では無かったという研究もあります。

 

(*6)法輪寺は、残念なことに世界遺産の登録がされませんでした。ブログで、以前法輪寺を取り上げたことがあります。
  ➡法輪寺の記事は、こちらです。

 

(追記)
 人気者だった象のウメ子は、2009年に死にました。

 

2017年07月30日