覚園寺 大山寺(神奈川県) 鉄像不動明王坐像

 覚園寺像の不動明王は、‘試みの不動尊’と言われています。大山寺の開基願行上人(*1)に関する大山寺の伝承が残ります。その伝承は次の通りです。
 願行上人が江の島弁天(*2)に祈って得た材料(鉄)の三分の一で‘試みの不動尊’(覚園寺不動明王坐像)を作り、残り(三分の二)で大山寺の不動尊像を造った。
 つまり、この伝承では、覚園寺の不動明王も、大山寺の不動明王も鉄製の不動明王であり、しかも、覚園寺のそれは試作で、大山寺の半分(材料の三分の一が覚園寺用、三分の二が大山寺用)の大きさということになります。覚園寺像と大山像がどちらも鉄像不動明王坐像であり、願行上人と密接に結びついて現在に伝えられています(*3)。

 覚園寺像は、像高593㎜、鉄像にも関わらず、現在は玉眼を見ることができます。過去は漆で作った玉眼が貼り付けてあったとのことです。かなり腐食が進んでいます。歴史的には大楽寺の本尊でしたが、明治初期の廃寺により覚園寺に移されました。この鉄像は、お寺の方から毎正時に説明を戴け、その際に拝観をすることができます。


 大山寺不動明王坐像は、像高は977㎜、重量は、約480㎏とされます。また、左右の二童子像は、伽羅童子(こんがらどうじ、960㎜)、制多伽童子(せいたかどうじ、954㎜)です。大山寺像は、重要文化財ですが、通常は厨子が閉られています。毎月8の付く日(8日、18日、28日)にご開帳されます。両眼を大きく見開いて、上牙で下唇を噛みます。迫力の点で覚園寺像に勝ります。玉眼を付け、頭上に蓮華、左肩に弁髪を垂らす形式です。

  ➡大山寺は下記も参照ください。大山寺像はが、撮影禁止です。 


 


 

 

 

<画像の説明>画像左または下:大山寺本堂
画像右または上:鉄像不動明王坐像 「日本の美術5鉄仏」(至文堂)よりスキャンさせて戴きました)

 

 

 

 

 

 

<画像の説明>画像左または下:覚園寺山門 画像右または上:覚園寺鉄像不動明王坐像

 

 大山寺像は、覚園寺像と比べて高さ方向で1.6倍、これは、立体的に横幅、奥行が同じ割合であれば、重量的に数倍になるでしょうが、鋳造の場合、内部は空間になっていますので、単純には比較できません。凡そ2‐3倍の範囲に入っていると考えられますが、願行上人の伝説はその範囲では矛盾はないと思います。
 時代的には、大山寺像は、鎌倉時代末の像容で、願行上人の時代のものです。覚園寺像は、鎌倉時代の前半の像容で両者には100年以上の時代差がみられます。残念ながら‘試みの不動尊’の伝説はやはり伝説ということになりそうです。

 ところで、この時代、なぜ鉄仏が、東日本のみで鋳造されたのでしょうか。私は、主に三点を考えています。
①仏像のスポンサーとなった鎌倉武士には、当時最も堅い金属だった鉄に対する信仰心が強かった。更には、その信仰心は、戦場において、鉄の甲冑によって命拾いした経験を持つ人がいて、鉄の堅牢さを一族で共有していた。
②鉄仏のもつ荒々しさや見た目が鎌倉武士の好みと重なった。
③甲冑等の鉄製品を鋳造する鋳物師が、武士世界で広く活躍しており、その結果、技術的に鉄像は実現可能となっていた。
 とはいうものの、鉄は融点が高く(*4)、鋳造には銅のそれより高い技術が必要ですし、そのまま銅を鉄に置き換える事はできませんでした。鉄像は鋳型のずれを完成後調整できない点等、その他技術的な問題点も多く、製作には大きな困難があったと想像されます。鉄仏が、武士の信仰を広く集め、東日本に存在しながら、残存する数がそれほど多くない理由には、’鉄’に関する技術的な問題が考えられます。

(*1)1215年頃~1295年 81歳で死去。

(*2)江の島弁天
  江島弁天神社には、二つの弁才天が残ります。一つは、源頼朝が文覚上人に命じて藤原秀衡調伏を祈願したと伝えられる鎌倉初期の弁才天です。ヒノキの寄木造りで現在は県の重要文化財となっています。もう一つは、裸弁才天といわれる弁天様で、こちらも鎌倉時代の作品とされます。

(*3)この2像に関しては、下記に興味深い論文が提出されています。
『日本の鉄仏の形とその造型』(中野俊雄 平成9年 鋳造工学第69巻(1997)第10号)によると、全国に鉄製不動明王像は5体残存し、そのうち、立像が3体、坐像が2体とされます。この2体が、覚園寺像と大山寺像に当たるようです。
 なお、この論文の著者、中野俊雄氏は鋳造技術の観点で全国をくまなく調査されており、鉄像毘沙門天坐像の数に関しては、特に参考にさせて戴きました。

(*4)鉄を溶融するためには、大量の木材が必要となります。コークスの利用が始まるまでは、鉄の利用のために、溶融のエネルギーを得る手段が大きな問題になりました。

2018年12月02日