永福寺(鎌倉市) 中尊寺(岩手県)を模して
『吾妻鏡』(*1)に依りますと、永福寺は、源頼朝が1189年、①奥州合戦で亡くなった数万の怨霊を慰め、②中尊寺(*2)の二階大堂と呼ばれる大長寿院を模して ③寺院を金銀・宝石で飾り、更に絵画を加え(*3)、鎌倉に創建・造営した寺院です。
源氏にとって、東北は、源頼義、義家親子の勢力圏になるはずでした。前九年の役、後三年の役で源氏は苦労して勝利を得ましたが、結局当地において利を得たのは、清原清衡(後の藤原清衡)でした。源頼朝にとって義家は4代前、頼義は5代前の先祖です。
源頼朝は、1189年、藤原泰衡が義経を匿ったことを理由に、後白河法皇の制止を振切って、奥州征服を断行しました。藤原氏は、後三年の役の終了(1087年)以降、凡そ、百年の平和を謳歌しており、戦に明け暮れた関東武者の攻撃に、軍事力においても組織的にもなす術もなく敗れ去りました。
二階大堂は、本尊は三丈(坐像の場合、高さ凡そ4.5m)の阿弥陀如来、脇に丈六(坐像の場合、高さ凡そ2.4m)の阿弥陀像9体が祀られていました。九体仏で有名な浄瑠璃寺(*4)のような構成だったのでしょうか。勿論、二階大堂の規模は、浄瑠璃寺よりずっと大きかったはずです。二階大堂の発掘は進んでいるそうですが、史料は入手できていません。
永福寺の伽藍は、中心となる二階堂は釈迦如来が本尊、左右対称に北側に薬師堂、南側に阿弥陀堂が祀られていました。現存しないため祀られた仏像の規模はわかりませんが、堂の規模からは、それぞれ最低でも丈六、おそらく、2丈から3丈規模の像容であったと推測されています。
画像の説明:画像左または下:永福寺伽藍(復元)
画像右または上:永福寺伽藍復元図(現地の説明板より)
形は、平等院鳳凰堂と似ていたと考えられますが、永福寺の場合、左右の鶴翼が、独立した薬師堂と阿弥陀堂となっており、鶴翼が装飾的構造物で人が立って歩けない平等院に比べても規模は巨大です。中尊寺が釈迦信仰と阿弥陀信仰、毛越寺(*5)が薬師信仰を基調としていますが、永福寺は、一寺でその両方を祀っています(*6)。
永福寺は、二階大堂を模して二階堂と呼ばれました。しかし、上述の通り祀る仏様の性格も違いますし、伽藍もそれほど似たものでは無かった様に思われます。結果的に、伽藍の荘厳さや規模において二階大堂を模したということになります。
ところで、永福寺は、鎌倉においては、最古最大の浄土庭園を持つ寺院でした。東を正面にして、建造物の全長が南北130m、前面の池は、南北200m以上であったことが、長年の発掘調査によって、詳細に確められています。関係者各位のご努力に敬意を表させて戴きます。
画像の説明:画像左または下:毛越寺浄土池(復元)
画像右または上:称名寺浄土庭園(復元)
称名寺の浄土庭園は、称名寺絵図並結界記(元亨3年1323年)により、
当時の伽藍の配置と共に完成時の姿を知ることができます。
最後になりましたが、冒頭に記載しました、「①奥州合戦で亡くなった数万の怨霊を慰め」、に関して少し述べさせて戴きます。そもそも、戦乱による生き死が常だった関東の武士団には怨霊を恐れる必要はありません。実際、永福寺は、完成以降、「供養」や「結縁」といった宗教儀式のために使用される幕府の重要なモニュメントとして存在しました。怨霊は、京都で生まれ育った頼朝のトラウマの中だけに存在し、それ以外の人は意識の中に怨霊は存在しなかったということではないでしょうか。
(*1)現代語訳『吾妻鏡』五味文彦・本郷和人編(吉川弘文館)より多くを参照させて戴きました。
(*2)岩手県平泉町、世界遺産に指定されて著名。藤原清衡の創建です。
(*3)永福寺の内部の絵画は、円隆寺(毛越寺金堂)を模したことが、『吾妻鏡』に記載されています。
(*4)京都加茂。9体仏の寺院として有名。中央の阿弥陀仏坐像が、高さ2.24m、他の8体が、高さ1.38m。
(*5)岩手県平泉町、藤原基衡(藤原清衡の子)の創建です。
(*6)薬師如来像、釈迦如来像、阿弥陀如来像を一堂に祀る寺院として、法隆寺金堂が有名です。仏像のこの並びは、薬師(過去仏)、釈迦(現在)、阿弥陀(未来)を表していると説明を受けたことがあります。