毘沙門天の世界

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(資料)中国の仏教風景

(資料)中国の仏教風景

 中国の風景のうち、主に仏教寺院と仏像をご紹介しています。石窟は、その一つ一つが立派な仏教寺院として機能していました。中国の仏教関連以外の風景は、ブログに掲載しています。

中国の仏教寺院と仏像

龍門石窟

 龍門石窟は、大同の雲崗石窟、敦煌の莫高窟とともに中国の三大石窟の一つに数えられます。北魏孝文帝が、都を大同から洛陽に遷都後、龍門石窟の開窟が本格化しましたが、北魏時代に完成した窟はそれほど無く、その多くは、唐時代に入ってから完成しました。

 龍門石窟の特徴は、雲岡石窟と比べてその硬さにあります。開窟に時間がかかったのは、堅い岩石を彫る技術的問題が大きかったと考えられます。今私たちが普通に見ることができる奉先寺洞も唐高宗の発願になるもので、675年に完成しました。顔の表情等は、唐風です。

<画像の説明>龍門石窟奉先寺洞 中央は毘沙門天

資中重龍山

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 資中重龍山は、資陽市資中県に所在します。四川省は行政上の区分の変更は、たびたびおこなわれます。内江市に属した時代もあります。住民に聞いたところ、どちらか良く分からないが、どちらでも良いような言い方をしていました。

 重龍山は、資中県のダウンタウン近くにあります。朝早く行くと、近所の住民が、日本で言うラジオ体操をしています。因みにラジオ体操をする人は入場料は必要ありません。重龍山風景名勝地域として国家A2級に指定されていますが、傷みがひどく、前面に大きなフェンスが設置されています。今も変わらず信仰の対象となっています。

 

<画像の説明>画像左または下:資中重龍山の朝の風景 今も信仰の対象として生きています。
       画像右または上:四川の毘沙門天像。右方には、道教の神様が祀られています。


 石窟龕は、隋唐時代を中心に160龕、1648尊あるとのことですが、龕の番号がはげ落ちていて、確認はできませんでした。地元の資料には、明時代には、永慶寺というお寺があったとのことです。

 

<画像の説明>四川重龍山。下方は、破損が目立ちます。


 大島幸代氏の『四川地域の毘沙門天像(2009年)』論文によると、19体の毘沙門天像が残ります。これは、四川全体に残る全51体の毘沙門天のうち、40%弱の割合になります。資中重龍山は、まさに毘沙門天の宝庫です。

 民間人がスポンサーとなった小規模な石窟が並びますが、交易で利益を得た民間の篤志家が、誰でも拝めるように様々な種類の龕を造りました。このような四川の石仏が日本で紹介されることは殆どありません。四川の石仏の評価が日本ではあまりなされない点は、とっても残念です(*)。


<画像の説明>画像左または下:資中重龍山千手観音
       画像右または上:資中重龍山 阿弥陀三尊像と四天王のうちの二天。
 (四川の場合は、前面から拝むスタイルをとるため、殆どの場合四天王のうち二天のみが祀られます。日本では、毘沙門天と多聞天は同じ尊格とされますが、四川では、四天王の1尊として祀られる多聞天と龕の本尊として祀られる毘沙門天は、別尊と理解されていたと考えられます。)

 ➡四川における毘沙門天と多聞天を含む四天王の違いについてはこちらを参照ください。

(*)
 肥田路美氏『序論―仏教美術からみた四川盆地』には、明治時代、「四川に入った(岡倉)天心が、これより前に訪れた河南の竜門石窟の大感激とは程遠く、(以下略)この天心の態度は、そのまま、その後百年近くもの間日本の学界の大勢であった」と述べておられます。

 なお、同じ資陽市の安岳県には安岳圓覚洞があります。安岳圓覚洞については以前紹介しました。

 ➡安岳圓覚堂は、こちらを参照ください。

 

 ➡四川における毘沙門天の研究は、こちらをご覧ください。


馬蹄寺北寺

 馬蹄寺甘粛省張掖近郊のチベット寺院です。本編にも何度か記載しましたが、新疆から甘粛省にかけての山間部には、チベット系寺院がいくつか点在していますが、馬蹄寺はその中の一つです。馬蹄寺北寺は、張掖から70㎞、祁連山脈のふもとに位置します。

 

<画像の説明>馬蹄寺北寺中央窟

 


 河西回廊の南端になります。馬蹄寺は、1500年前の東晋、北魏時代から清代まで継続的に掘削されてきたいくつかの石窟群のことを言いますが、北寺と千仏洞の保存状態が比較的良いです。

<画像の説明>馬蹄寺内部の階段


 チベット仏教は、日本では、チベット密教とも言います。空海が日本に伝えた密教は、純密(体系化された密教)と言われ、それまでの断片的な密教と区別されています。チベット密教は、それほど体系化されておらず、土俗的だ(地域性が強い)と言われています。

 

<画像の説明>画像左または下:観音菩薩坐像 画像右または上:釈迦如来坐像

大足北山(重慶市)

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 大足北山石窟は、今の行政区画では、重慶市大足区(*)に位置します。大足宝頂山と大足北山を合わせて、大足石窟として、国家A5級史跡に指定されています。大足の町の中心から比較的近いところにあります。 大足北山は、9世紀から12世紀頃の作像ですが、宋代の作像が多く、細かいところまで手が行き届き、精美な作品が多いです。造像数は5千余あるそうです。最勝王経や孔雀明王経等経変に基づいて作像されたものが多いです。

 

<画像の説明>大足北山 孔雀明王経窟(孔雀明王経に基づく作像です。)


<画像の説明>大足北山 釈迦如来三尊像(最勝王経に基づく作像と考えられます。)


 第5窟の毘沙門天立像は、晩唐(**)の作品です。かなり大きな窟で、430㎝(高さ)×286㎝(幅)×176㎝(奥行)の大きさです。この窟の造像は、毘沙門儀軌に基づき、毘沙門天像を中心に、妻の吉祥天、第2子独善、眷属(家来)等が彫刻されています。 毘沙門天像は、金鎖甲をまとい、胸当と獅噛を持ち、目が正面では無く宝塔側を睨んでおり、東寺像を思い起こします。

 

<画像の説明>大足北山 毘沙門天立像 (毘沙門儀軌に基づく作像と考えられます。)


  ➡詳細は、本編「1.2四川の毘沙門天の変遷」をご覧ください。

  ➡東寺像は、本編「2.毘沙門天の歴史」をご覧ください。

  ➡大足宝頂山はこちらをご覧ください。


<画像の説明>大足北山 水月観音坐像

(*)重慶市は従来四川省の一部でしたが、四川省の人口が一億人を超したため、1997年に独立して中国で4番目の直轄市となりました。大足地区は、2011年には、大足区に改編されました。

(**)この窟の造像碑によると、892年から894年の造像です。

夹江千仏岩

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 夹江千仏岩は、四川省楽山市夹江県に位置します。夹江は、青衣江に沿った町で、今も川の幸が産業の一端を担っています。夹江千仏岩は、青衣江に沿った山肌に開窟されました。200以上の石窟に2400以上の尊像が造像されています。国家A2級に指定されています。ここから、道路距離にして48㎞下流の青衣江が大渡河、珉江と合流する地点に楽山大仏があります。造像中最大の弥勒像は、像高2.7m、形が楽山の大仏に似ていると言われています。

 

<画像の説明>画像1:夹江千仏岩97窟 画像2:夹江千仏岩石窟群


 四川は、古来川が道路代りの大動脈となっていました。川を使用して旅をする人や産業に従事する人にも、山肌に築かれた石仏を見ることができたはずです。四川の石窟は概して奥行きが無く、石窟の中に入らなくても外からでも拝むことができる構造です。他の地域の石窟が一部の高貴な供養者のためのものだったことと比較しますと、極めて庶民的なものでした。周辺国との交易を通じて、経済的に裕福な地域だったことで、庶民にも造像の余力が生まれました。

 

<画像の説明>画像1:夹江千仏岩134窟毘沙門天立像 画像2:134窟毘沙門天立下部の地天と2鬼


 この地が、石仏の「里」となったのは、彫りやすい石質(主に砂岩または泥岩)と庶民の経済力が背景にあったと思われます。日本においては、これらの民間宗教的な側面や図像表現が、それほど注目されない一要因と指摘されることもあります(*)。この石窟には、七体の毘沙門天像が残ります。


<画像の説明>画像1:夹江千仏岩136窟毘沙門天椅像 椅像の毘沙門天像は日本でも珍しい
 画像2:夹江千仏岩159窟 青衣江に面した絶壁に開窟されている


(*)日本において、中国の石窟では、敦煌石窟は別格としても、雲崗石窟、竜門石窟は有名ですが、四川の石窟はメジャーにはなりません。明治時代に岡倉天心が竜門石窟を訪れて絶賛しましたが、四川の石窟には興味を示さなかったというエピソードが文献に残されています。それ以来、四川の石窟は、日本の学者の興味をひくことが少なかったと考えられます。

安岳圓覚洞

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 安岳圓覚洞は、四川省資陽市安岳県に位置します。現在国家A4級、全国重点文物保護単位(単位は機関)の対象です。唐時代から宋時代まで造像されました。現地のカタログによると、宋時代の釈迦如来立像、観音菩薩立像等1933体が残ります。

 

<画像の説明>浄瓶観音立像(宋時代)

 

<画像の説明>蓮華観音菩薩立像

 

 西域的毘沙門天坐像が1体残ります。毘沙門天坐像は、日本にはあまり残っておらず、珍しいと思います。毘沙門天の一族郎党、つまり、毘沙門天の右独善(毘沙門天の第2子)、左は、眷属(家来)、吉祥天立像(毘沙門天の妻)、毘沙門天の足元には地天が石刻されています。

 

<画像の説明>画像1:毘沙門天坐像、本尊の右独善(毘沙門天の第2子)、左は、眷属(家来)、吉祥天立像(毘沙門天の妻) 画像2:毘沙門天足元の地天の拡大図

新疆の石窟

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 新疆ウイグル自治区(歴史書では東トルキスタンと表現されることが多いです)には、数々の仏教遺跡が残ります。庫車(クチャ)や吐魯蕃(トルファン)の石窟は、割合オープンでいつでも訪問できます。私たちシロートも訪れることができますので、下記に写真で紹介させて戴きます。

 シルクロード南道地域にも跡はたくさんありますが、残念ながら見ることのできる石窟は殆どありません。砂漠の中に埋もれてしまっていますし、発見されても、環境的な影響か遺物があまり残っていないことも要因でしょうが、民族問題や原爆実験の影響がある地域もあり、近づくことすらままなりません。

 有名なダンダンウイリク遺跡やラワク遺跡等は、20世紀初頭に、主にスタインによって発見されました。ダンダンウイリク遺跡は、近年新疆文物局によって再調査が行われましたが、スタイン(*)の残した写真に残された塑像は、殆どが紛失したか、或いは破壊されたかで、無残な姿になってしまいました。

(*)スタイン(1862-1943)イギリスの中央アジア探検家。ハンガリー生まれのイギリス人。シルクロード南道の遺跡を探索し、様々な古文書をや遺跡を発見した。また、タリム盆地全域の地図を作製した。

 ラワク遺跡は、最近中国政府によって地上のみは近年公開されましたが、地下の遺跡は、スタインが埋め戻して以来未公開です。

 ホータンの40㎞北方にあるフガイウライク仏寺遺跡は、1982年に発見されました。この仏寺遺跡では、仏足の間に座って合掌礼拝している女性の壁画が見つかっています。私は、この壁画の復元図を見たことがありますが、仏足の女性は地天の基本になったものだと考えています。

  クチャ地域には、有名なキジル石窟をはじめ、キジルガハ石窟ほか、クムトラ石窟やシムシム石窟があります。また、トルファン地域には、ベゼクリク石窟があります。

 

<画像の説明>キジル石窟遠景

<画像の説明>画像1:キジル石窟と鳩摩羅什のオブジェ 画像2:鳩摩羅什オブジェ拡大図。
鳩摩羅什は、当地の生まれ。南北朝時代の訳経僧で、多くの仏典の漢訳を行いました。

 

<画像の説明>クムトラ石窟 15,16,17窟は見学可能。その他一部石窟は、予約すれば見学可能。最近発見された新窟は不可。クチャの石窟群では、主に上座部仏教系の遺跡が多いが、新窟は、大乗仏教系の遺跡と言います。(新窟は、現状公開されていません。)

 

<画像の説明>キジルガハ石窟群遠景 。

 工事終了後は、観光客が大量に訪れるようになると思われます。

 

<画像の説明>画像1:キジルガハ石窟群近景 画像2:キジルガハ烽煙台(狼煙(のろし)台) 

 キジルガハ狼煙台は、キジルガハ石窟に近く、観光ルートにも入っていることも多い。因みに’のろし’には狼(オオカミ)の油を使ったことから狼煙(のろし)の漢字が当てられていそうです。

 

<画像の説明>シムシム石窟。 シムシム石窟は、道が無く、オフロード(水の枯れた川筋)を1時間以上走り到着できます。雨が降ると行くことができなくなりますし、一般のバスでは行けないので、観光ルートからは外れています。電気が通じていない中、管理人が1名常駐しています(太陽光発電用のパネルがあります)。見学には事前予約が必要です。石窟内部には、上座部仏教系の壁画が広がります。

 

<画像の説明>ベゼクリク千仏洞 トルファン近郊にあります。当石窟は、5-6世紀麴氏高昌国の時代から始まりました。唐時代にはある程度の規模を備えていました。内部の壁画は、20世紀初めころ、ドイツ隊を始め多くが探検隊よって、持ち去られたため、むごい状況となっています。

敦煌石窟

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 敦煌石窟は、敦煌莫高窟、安西楡林窟、西千仏洞の3窟を含めて言います。敦煌莫高窟は、千仏洞ともいわれ、もっとも有名です。莫高窟は大泉河、楡林窟は楡林河、西千仏洞は党河、とそれぞれ窟は、河に面して造られています。

 莫高窟では、430年頃開窟された北涼時代のものが最も早いとされます。以降、1000年以上に亘って、開窟が継続されました。

 それぞれの窟では、普通窟(常時みられる窟)と、特別窟(予め決まった窟のうち、別途料金を払って見ることのできる窟)が決められています。特別窟の見学は、実に費用がかかります。入場前に専用のロッカーにカメラを含めすべての荷物を預ける必要があります。

 

<画像の説明>画像1:敦煌莫高窟通路 画像2:96窟外観

 

 

 

 

 

 

<画像の説明>安西楡林窟遠景。

 

<画像の説明>鳴沙山遠景

 

<画像の説明>敦煌駅前の反弾琵琶。反弾琵琶は、敦煌のシンボルです。莫高窟では、112窟南壁、172窟、192窟、220窟、237窟等、また、楡林窟では、12窟に描かれています。

 この項の最後になりましたが、西千仏洞の写真は、今探しています。日頃きちんと整理していないことを反省しています。

鉄塔(河南省開封)

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 ➡鉄塔はこちらをご覧ください。


嵩山少林寺(河南省)

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 ➡少林寺はこちらをご覧ください。

崇聖寺(雲南省)

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 ➡崇聖寺(雲南省大理)は、こちらをご覧ください。

天梯山大仏(甘粛省)

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 ➡天梯山大仏はこちらをご覧ください。


炳霊寺

 炳霊寺は、甘粛省臨夏回族自治州永靖県に位置します。蘭州から近いですが、黄河をモーターボートで1時間近く遡ります。169窟は法顕の自署があり特に有名です。169窟の見学には、追加の拝観料300元必要です。希望者の私1人に担当2名が付きました。

 炳霊寺は、南北朝時代に開かれました。炳霊寺のある隴右地方は、唐時代には、吐蕃(チベット)の攻勢で何度か陥落しました。そのため、当地は、チベット仏教の影響を受けました。

 

<画像の説明>画像1:炳霊寺より黄河を望む 画像2:炳霊寺正面

 

<画像の説明>画像1:169窟 通路 画像2:169窟の壁画

 

<画像の説明>復興修理中の炳霊寺大仏。数年続いているが、未だ終わりそうにありません。

四川大学博物館

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 四川大学博物館は、四川大学に併設された博物館です。展示は、石刻美術をはじめ、7種類の展示コーナーに分かれ、本格的です。入場の際に配られるチケットによると、当館は、中国で尤も歴史のある博物館です。

 毘沙門天像は、qionglai龍興寺址出土丸彫り石彫仏です。像高約70cm、泥岩か砂岩でないかと思います。足元に地天を置き(日本の兜跋(トバツ)式は、毘沙門天が地天にのる)、西域的毘沙門天の初期の形態と考えられています。8世紀中頃(唐中期)の作品です。腰に長短両刀をクロスに差し、胸当てをしています。
 私は、毘沙門天を見たくて訪れましたが、そこで可愛らしい観音像に遭遇しました。四川のビーナスと呼ばれているそうです。

 


<画像の説明>画像1:qionglai龍興寺址出土 毘沙門天石彫像 画像2:中国のビーナスと呼ばれる観音像

<画像の説明>画像1:台座の装飾の一部となった地天 画像2:毘沙門天のクロスに装着された長短両刀 西域の甲制の影響と考えられます。

峨眉山金頂

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 峨眉山は、四川省峨眉山市に位置します。峨眉山市は、楽山市の市級市です。峨眉山金頂は、標高3077mですが、観光用の専用バス(一般の車は乗り入れできない)とロープウェイ(中国語では策道)で到着可能です。国家A5級、世界遺産に登録されています。
 金頂は、普賢菩薩の聖地です。華蔵寺普賢殿(銅殿)上の普賢菩薩像は、4頭の像に乗っている普賢菩薩のオブジェで、中国らしい華やかさがあると思います。


<画像の説明>峨眉山金頂華蔵寺 普賢菩薩

 

<画像の説明>画像1:峨眉山金頂華蔵寺 画像2:峨眉山の麓の峨眉山報国寺

楽山大仏

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 楽山大仏は、四川省楽山市min江(minは、王偏に民)、大渡河、青衣江合流地点の近くに位置します。非常に水量の多いところです。屋外に大仏坐像と両側に脇侍立像が祀られています。像高は、71m、中国最大の摩崖石刻仏です。

 

<画像の説明>楽山大仏 観光船より撮影(川岸からではアングル的に写真撮影は難しい)


<画像の説明>画像1:楽山右岸像 画像2:楽山左岸像。右岸像は痛みが甚だしい。両像とも毘沙門天像と考えられる。

 

 楽山大仏は、713年海通の発願により始まりましたが、工事は常時継続できた訳ではありませんでした。時代が、安史の乱(安禄山、史思明の乱(755年-763年))と被っており、途中何度も工事は中断されました。

 785年に四川地方の節度使となったWeiGao(*)によって、工事は、90年後の803年に完成されました。左右崖像もその直後に完成したとされています。WeiGao(*)は、唐が安史の乱の後遺症で弱体化した中、吐蕃(チベット)の攻勢から四川を守り切りました。
 楽山大仏は、当初海通の発願では、水難事故を防ぐためでしたが、WeiGao(*)は、外敵(吐蕃)逃散の願いが込められていました。

 *WeiGaoは、漢字が難しく、説明ができません。<>内の漢字です。<韋臯>。

  (化ける場合は、済みません。)

 

<画像の説明>大仏の螺髪には多くの箇所に 白色のコンクリートによる修復がみられます。

 

 

 

<画像の説明>楽山大仏は、上から下に掘り
進められたと言われていますが、両崖に
作業用の梁を通した跡が残っています。

 

 大島幸代氏の『四川省楽山市凌雲寺大仏の造営と左右龕の毘沙門天像について』によると、左右崖像は、裾長の甲制、筒型の宝冠、火焔の存在から毘沙門天の可能性が高いと仰っています。私も、毘沙門天の特徴の火焔が描かれていることから、毘沙門天だろうと思っています。但し、火焔が彫石では無く、壁面に描かれていることから、造像当初は、毘沙門天ではなかった可能性が高いと考えられます。西域的毘沙門天の影響は一部です。
 本編で紹介しているqionglai石筍山27号窟とほぼ同時代で、四川に地天を伴った西域的毘沙門天が現れる直前のものと考えられます。

 当地の仏教遺跡のうち、楽山・峨眉山と大足遺跡は世界遺産にも登録され、周辺の環境は大きく変わりました。確かに、アクセスは便利になりましたが、例えば、楽山大仏の頭の補修が、コンクリートでなされるなど文化財の保存・補修といった別の問題が発生しています。

石筍山

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 石筍山は、成都の中心地より南西約70㎞ qionglai市内(現在は、qiongla区)西北に約40㎞山間部の大同郷景沟村に立地します。現存33龕、32号龕の題記には、大暦2年(767年)の年号がみられ、唐時代中期の石窟です。

 27号龕は、左手に宝塔を持ち、宝冠を被り、この龕の主尊となります。西域的毘沙門天の古式であり、現存作品からは、qionglaiにおいて、他の地方に先駆けて西域的毘沙門天の製作が始まった地域と見做されています。qionglaiは、唐時代、井戸から塩水が湧きだしていたことから、製塩業と交易で栄えました。

 石筍山は、人里離れた場所にあり、27窟に入るルートは、通常、市の文物保護局により閉鎖されています。

*qiongは、工にオオザト、laiは、山偏に来。<邛崃>

<>内、qionglaiの漢字です。ブラウザによっては、化けるかもしれません。

 

<画像の説明>27号龕 毘沙門天立像 足下には、邪鬼がみられます。(望遠レンズ使用)

 

<画像の説明>画像1:石筍山遠景 画像2:文物保護局により閉鎖された道

 

大足宝頂山

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 大足宝頂山は、今の行政区画では、重慶市大足区になります。宝頂山は仏教の聖地として有名で、‘上朝峨毘、下朝宝頂’と言われています。大足宝頂山と大足北山を合わせて国家A5級史跡に指定されています。なお、中国では、「朝」は、「参詣する」の意味を持ちます。

<画像の説明>釈迦三尊像 手前観音菩薩像、奥釈迦如来像

 

 

<画像の説明>画像1:釈迦如来涅槃像(工事中) 画像2:飛天

 

<画像の説明>大足宝頂山千手観音像

 

 ここの千手観音は本当に千手あります。中心部が体で、周囲がすべて手です。中心部は宋時代、そのほかはかなり修復が入っています。
 因みに日本で実際に千手ある千手観音は、何体かあるようですが、寿宝寺、唐招提寺、大阪の葛井寺の3体が特に有名です。一般の千手観音は、1腕を25手で数えます。

 

<画像の説明>画像1:15号龕 父母恩重経の題記 画像2:17号龕 大方便仏報恩経題記

 

 なお、現地の題記によると、宝頂山の作像は、父母恩重経(ぶもおんじゅうぎょう)、大方便仏報恩経(だいほうべんぶつほうおんきょう)が、根拠になっているとのことです。確かに、孝行する子供の姿が描かれたところもあります。この二つの経は、偽経(中国で創作された経)(*)とされています。例えば、父母恩重経は、儒教の父母への孝の重要性に基づいたもので、元来の仏教の教義とは関係ありません。宋以降中国では、儒教と仏教の混交に基づいた作像が多くみられます。さすが、中国です。お経にも偽物がありました。

(*)偽経に関しては、船山徹氏の「仏典はどう漢訳されたのか」を参照させて戴きました。

安岳毘lu水月観音

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 安岳毘lu洞水月観音。資陽市安岳県に所在します。重慶市との省境に近い場所です。片膝を立てた珍しい形で、女性的な造形です。宋時代の作品です。秀逸で、今中国でもかなり人気が出て、有名になってきているとのことでした。
 水月観音は、日本では、鎌倉の縁切寺で有名な東慶寺に安置されています。やはり、半跏像です。
 安岳毘lu洞<安岳毘卢洞>の毘は、田偏に旁が比、luは、戸の上の部分に縦棒を追加。安岳県は資陽市の中心街からは、100Km以上離れており、重慶市との省境に近いところです。

 

<画像の説明>画像1、2とも:安岳毘lu洞水月観音半跏像。

 

 

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  • 足利学校(栃木県足利市)
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  • 秋篠寺 秋篠大元帥明王(奈良市)
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