楽山大仏
楽山大仏は、四川省楽山市min江(minは、王偏に民)、大渡河、青衣江合流地点の近くに位置します。非常に水量の多いところです。屋外に大仏坐像と両側に脇侍立像が祀られています。像高は、71m、中国最大の摩崖石刻仏です。
<画像の説明>楽山大仏 観光船より撮影(川岸からではアングル的に写真撮影は難しい)
<画像の説明>画像1:楽山右岸像 画像2:楽山左岸像。右岸像は痛みが甚だしい。両像とも毘沙門天像と考えられる。
楽山大仏は、713年海通の発願により始まりましたが、工事は常時継続できた訳ではありませんでした。時代が、安史の乱(安禄山、史思明の乱(755年-763年))と被っており、途中何度も工事は中断されました。
785年に四川地方の節度使となったWeiGao(*)によって、工事は、90年後の803年に完成されました。左右崖像もその直後に完成したとされています。WeiGao(*)は、唐が安史の乱の後遺症で弱体化した中、吐蕃(チベット)の攻勢から四川を守り切りました。
楽山大仏は、当初海通の発願では、水難事故を防ぐためでしたが、WeiGao(*)は、外敵(吐蕃)逃散の願いが込められていました。
*WeiGaoは、漢字が難しく、説明ができません。<>内の漢字です。<韋臯>。
(化ける場合は、済みません。)
<画像の説明>大仏の螺髪には多くの箇所に 白色のコンクリートによる修復がみられます。
<画像の説明>楽山大仏は、上から下に掘り
進められたと言われていますが、両崖に
作業用の梁を通した跡が残っています。
大島幸代氏の『四川省楽山市凌雲寺大仏の造営と左右龕の毘沙門天像について』によると、左右崖像は、裾長の甲制、筒型の宝冠、火焔の存在から毘沙門天の可能性が高いと仰っています。私も、毘沙門天の特徴の火焔が描かれていることから、毘沙門天だろうと思っています。但し、火焔が彫石では無く、壁面に描かれていることから、造像当初は、毘沙門天ではなかった可能性が高いと考えられます。西域的毘沙門天の影響は一部です。
本編で紹介しているqionglai石筍山27号窟とほぼ同時代で、四川に地天を伴った西域的毘沙門天が現れる直前のものと考えられます。
当地の仏教遺跡のうち、楽山・峨眉山と大足遺跡は世界遺産にも登録され、周辺の環境は大きく変わりました。確かに、アクセスは便利になりましたが、例えば、楽山大仏の頭の補修が、コンクリートでなされるなど文化財の保存・補修といった別の問題が発生しています。