浅草寺(東京都台東区)

 浅草寺縁起によりますと、浅草寺の創建は、推古天皇36年(628年)とのことです。第2次世界大戦で浅草寺は空襲を受け堂宇を焼失しましたが、戦後その焼跡から奈良時代の仏具が出土しました。浅草寺縁起による飛鳥時代前期の創建の真偽はともかくも、奈良時代には何らかの仏教施設があった事が示唆されます。


 浅草寺が、実際の歴史に表れるのは、吾妻鏡です。1192年(建久3年)5月8日後白河法皇の49日の百僧供の仏事が、鎌倉勝長寿院(*1)で行われましたが、僧が招集された寺院16寺の1寺として浅草寺から僧3名が参加したことが記録されています。この行事には、伊豆、相模、武蔵から16寺が選ばれていますので、浅草寺は、この時代、既に地方寺院としての地位が確立されていたと考えられます(*2)。
 

<画像の説明>浅草寺五重塔

 

 

浅草寺が歴史の表舞台に表れるのは、1590年(天正18年)8月1日です。徳川家康が関東に入府し、江戸を本拠として新たな領国経営を始めることになりますが、その際、浅草寺を徳川家の祈祷所と定めました(*3)。


 その際、浅草寺は500石を与えられました。500石は旗本でいえば、中の下か下の上程度の家格ですが、寺社では、何千石、何万石といった格はそれほど多くないことから、相対的には格の高い寺院と見做されたとのではないでしょうか(*4)。


<画像の説明>画像左又は下:仲見世通りより宝蔵門を眺める
       画像右又は上:1855年(安政2年)の大地震で九輪の曲がった五重塔(*5)

 

 

浅草寺は、従来隅田川に向けて東面していましたが、1649年、火災から復興した際には南面させました。墨田川は相変わらず重要な交通路でしたが、既にこの頃には、浅草は江戸の町の一部となっており、参詣者の利便を考えて南面させたと考えられます。これにより、南側に参道が発達し、現在の仲見世の礎となりました(*6)。


(*1)勝長寿院は、源頼朝が鎌倉大御堂ヶ谷に建立した寺院です。

(*2)吾妻鏡の1181年(養和元年)の項に、「鶴岡若宮の造営に関して審議があったが、鎌倉中には    然るべき大工がいないので、武蔵国浅草の大工を召し進めるよう」との記載が残ります。この    場合、浅草は地名で、この大工と浅草寺の関係は不明ですので、吾妻鏡においては、1192年を    浅草寺の初出とさせて戴きました。
    なお、吾妻鏡に関しまして、五味文彦、本郷和人<編>『現代語訳吾妻鏡』(吉川弘文館)を    参照させて戴いております。

(*3)ほぼ同時期に、増上寺は徳川家の菩提寺と定められました。

(*4)寛永寺1万1千石は別格です。

(*5)浅草寺日並記研究会<編>『江戸浅草を語る』(東京美術)より複写させて戴きました。

(*6)この時代に建立された五重塔も新たに南面させました。

2020年08月10日