金沢文庫博物館(神奈川県横浜市) *運慶展より

 2017年秋には東京国立博物館でそして2018年には金沢文庫で相次いで運慶展が開催されました。場所柄もあると思いますが、運慶の東国での活躍に焦点が当てられていました。
 運慶の作品と言えば、東大寺南大門の金剛力士像や興福寺北円堂の無著・世親像などが有名で、高校の日本史の教科書にも掲載されていたと思います。運慶の作品は、如来、菩薩、明王、天そして無著・世親といった肖像彫刻まで、多岐にわたります。そのすべてに優れた作品を残しています。

 金沢文庫博物館の今回の特別展では、東国の作品が重視されています。このことは、特別展示のポスターにも表れています。

 

<画像の説明>画像左または下:滝山寺梵天立像 金沢文庫博物館に掲げられたポスターより
       画像右または上:願成就院毘沙門天立像 東京国立博物館に掲げられたポスターより
         (いずれも、ポスターの一部を省略させて戴きました。)

 運慶の作品は、今31体が残ります(*1)が、そのうち、およそ半分が東国に残ります。運慶の東国での最初の作品は、1186年の願成就院の諸像であり、最晩年の作品は、称名寺塔頭の明王院の大威徳明王です。この作品は、1216年、運慶66歳頃の作品とされています。

 願成就院は、源頼朝の岳父北条時政が、建立した寺院です。運慶は、願成就院で、阿弥陀如来坐像、不動明王および二童子立像、毘沙門天立像を造像しました。運慶36歳の頃の作品です。


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<画像の説明>画像左または下:
         金剛峰寺制多伽童子像
  東京国立博物館の公式サイト運慶学園より
  運慶学園には、下記より入ることができます。
  リンクは張っていませんので、コピーしてお使い  ください。http://unkei2017.jp/gakuen
  (期間限定です。)
  画像右または上:明王院大威徳明王像
  金沢文庫博物館で購入した絵葉書をスキャン
  させて戴きました。

 

 運慶が、願成就院の諸仏を自らが下向した鎌倉近郊で作ったか、本拠地の奈良で作り東国に運んだのか、定かでは無い様です。しかし、運慶が、制作の過程で東国風の勇ましい武士の姿を毘沙門天のイメージにオーバーラップしていきました。東国において、日々鎌倉武士に接しながら造像していった結果と、私は信じたいです。

 運慶は、東国での作品に、鎌倉武士に抱く自らのイメージを重ねました。厚い胸、丸い顔、そして、腰高で躍動感にあふれています。特に願成就院の毘沙門天立像は、北条時政が望んだ東国武士好みの戦う仏像のイメージです。願成就院の毘沙門天を契機として、東国には、慶派の様式が広まりました。

 ところで、運慶はなぜ東国に下向したのでしょうか。それは、仏師間の勢力争いとも深く関係しています。
 康尚、定朝親子は、藤原道長から頼通の時代に活躍した仏師ですが、始めて寺院から独立した仏像工房を開きました。そして、以降の日本では主流になる寄木作りや割矧ぎ作りを確立しました。定朝は、仏師として初めての僧綱位(*2)法眼に叙されました。

 定朝以降仏師は、定朝の正嫡覚助の印派、定朝の弟子長勢の円派に分かれました。印派は、定朝以来の藤原氏の仕事を多く請け負いました。円派は、新興の院の仕事を請け負いましたが、院が勢力を増すに従って、大発展をしました。又、院派の傍流には、京都では良い仕事に恵まれず、奈良に拠点を定めた一派があり、奈良仏師と呼ばれました。

 奈良仏師の更に傍流からは、運慶の父康慶が出ました。康慶は、長く興福寺の造仏に携わり、徐々に実績を上げていきましたが、新たな活躍の場を東国にも求めていきました(*3)。

 鎌倉幕府が権力を掌握後、鎌倉幕府要人は、院や平氏の息のかかった、院派や円派を避け、更に南都炎上以来平氏に恨みを持つ東大寺や興福寺の意向もあって、奈良仏師に秋波を送りました。その結果、奈良仏師の中で、当時主流になりつつあった康慶、運慶親子に下向の要請がかかりました。以降の鎌倉幕府と運慶の深いつながり、そして運慶の活躍は、上述した通りです。

(*1)運慶の作品は、東博の浅見龍介氏によれば、像内納入品や付属品から確認可能なものが17体、同時代の史料から確認できるものが1体、像内納入品のX線写真や作風から推定されるものが13体とのことです。異論もあります。

(*2)僧綱位は、法橋、法眼、法印と位が上がります。仏像の造像に対する褒賞と考えられます。定朝の叙位は、仏師の活動が社会的に認知された結果とも考えられます。後に、運慶は、法印に叙されました。

(*3)1185年平氏滅亡の直後に、奈良仏師の正嫡康朝の子供とされる成朝が下向しました。源頼朝が勝長寿院を建立する際に仏師として携わったとされます。成朝の作品は、伝えられていませんが、奈良仏師と鎌倉幕府のコンタクトは、成朝により始められました。。
 吾妻鑑の文治2年(1186年)3月2日の記事に成朝が鎌倉に下向している間に、成朝の大仏師の地位を狙っている人がいるので、やめさせてほしいといった訴えを源頼朝に挙げたことが書かれています。成朝が早々に奈良に戻り、以降の鎌倉下向が成朝から運慶に変わったのもこの事が関係しているのかもしれません。
 成朝という人は、以降どのような活動が有ったのは良く分かっていません。梓澤要氏の小説『荒仏師運慶』では、運慶の名声に圧されて酒におぼれていく姿が描かれています。

2018年02月25日