2.毘沙門天の歴史

 毘沙門天に関する伝説は、多くの書物や石仏の題記に残ります。
 玄奘三蔵は『大唐西域記』のzhai(曜の日偏の無い字)薩旦那国(現在のホータン、以降ホータンと記します)の項において、次の様に記しています。
 ホータン国王は、子供がいないことを案じて毘沙門天に祈ったところ、毘沙門天像の額が割れて中から子供が出てきました。更に大地が突然隆起して乳房の様になり、その子供はこれを飲み育ちました。今(玄奘三蔵がホータンを訪れた当時)のホータン国王は、この子供の子孫である、と。
 また、当地が外敵に攻められたとき、王が鼠塚において祈ったところ、鼠が、敵の兜や弓のひもを食いちぎったため、王は、敵を撃退できました。鼠は、毘沙門天の眷属です(鼠(子)は、北方を指すので、毘沙門天をイメージします)。鼠王の伝説は、一般にかなり流布していたらしく、スタインがダンダン・ウイリクで発見し、請来した板絵の中にも鼠王が描かれたものがあります。
 『大唐西域記』縛喝国の項には、突厥の歯護可汗の子肆葉護可汗が、軍隊を率いて縛喝国の仏像をはじめ珍しい宝を手に入れようと攻め脅かしました。毘沙門天が表れて、肆葉護可汗は、長い戟で胸から背に突き刺す夢を見た後、そのまま死んでしまいました。
 『大唐西域記』の縛喝国は、アフガニスタンのバルフ(現バクトラ)であり、バクトリアの中心都市でした。バクトリアは、ヒンドゥークシュ山脈とアム川にはさまれた中央アジア地域です。
 尚、本項目は、大唐西域記(平凡社 水谷真成 訳注)において、ホータンに関する項は、22.1,22.2,22.7、を、縛喝国の項は、32.1を参照させて戴きました。

 宮崎市定氏は、『毘沙門天信仰の東遷に就て』において、これらの毘沙門天が敵を退散させた伝説は、イラン系の伝説が紛れ込んだもので、ホータンにおける毘沙門天の退敵伝説はむしろこの話から脱化したものと述べておられます。当時のホータンは、イラン語の一方言であるホータン語を使用しており、イラン系の文化を受容していました。

『大唐西域記』の毘沙門天伝説は、中原でも有名となり、唐では648年于tian(門構えに真)国(現ホータン)を毘沙州と名付けました。また、675年毘沙都護府を設置した。毘沙門天がホータンの建国神話に深く関わり、守護神として崇拝されていたことから、唐の行政機構も「毘沙」の名を冠したと考えられています。(*)

 毘沙門天に係る伝説は、『毘沙門天儀軌』に同等の内容が取り込まれました。『毘沙門天儀軌』では、子供の独建が毘沙門天の命で安西城救援に駆け付け敵を退散させた説話等独建の活躍が追加記載されています。ここでは、毘沙門天は、敵から国を守る軍神、或いは、国境を守る国境神としてあらわされています。

 四川では、十世紀の龕造像題記に、毘沙門天の退敵の同様の霊験説話が残っています。また、日本にも伝わり、広く流布しており、十二世紀に設立した『今昔物語』の天竺、震旦部巻六「不空三蔵、仁王呪を誦えて験を現わす語 第九」や巻五「天竺の国王、鼠の護りによりて合戦に勝つ語 第十七」にほぼ同様の話が採択されています。毘沙門天に関する説話は、日本でもポピュラーだったことが解ります。

 なお、仏教の中国伝搬以前の主にガンダーラでの毘沙門天の発生について、田辺勝美氏は、著書『毘沙門天の誕生』のなかで、四天王のなかでは、多聞天はリーダーであり、他の三天に対して優越的な立場にあることを、四天王捧鉢図浮彫等をベースに詳細に論考されました。

(*)篠原典生『西域文明的発見 毘沙門天の発見』(デジタルシルクロードプロジェクト、2006年)によると、「『新唐書』などの文献によると、貞観22年(648年)に毘沙州が置かれ、上元2年(675年)に毘沙都督府とされたという。しかし1930年に新疆で発見されたという「大唐毘沙郡将軍葉和之墓碑(大唐毘沙郡将軍葉和之墓碑拓本)」には「貞観10年9月3日」という日付が刻まれている。この墓碑によって、貞観10年(636年)には、すでに毘沙郡が置かれていた可能性がある。」玄奘の帰国が645年であり、これによると、玄奘の帰国前から、西域の毘沙門天は知られていたことになるが、大唐西域記が、毘沙門天伝説をポピュラーにした点は間違いないと考えられます。

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