2.4兜跋毘沙門天の展開

 智泉様の兜跋毘沙門天の図像は、空海が唐から請来し、東寺像の兜跋毘沙門天像は、9世紀後半、宗叡が請来した可能性と蓋然性について前項までに論じました。では、それ以降の兜跋毘沙門天像は、どのような展開があったのでしょうか。

 先ずは、日本での展開を語る同じ時代、中国ではどのような展開がなされたかを確認しておきたいと思います。既に述べましたが、吐蕃の脅威が去った後、西域的毘沙門天像にも、確実に、唐風化が進んでいきます。このことは、法門寺発掘の地下宮殿発掘遺物、甘粛省楡林石窟25窟毘沙門天王壁画、そして敦煌毘沙門天行道天王図(大英博物館蔵)が、参考になります。

 法門寺は、陝西省宝渓市に位置します。1987年に懿宗(在位859年-873年)ゆかりの地下宮殿発掘遺物が発見されました。その遺物の中に毘沙門天立像の襖絵があります(*)。これによると、毘沙門天は、地天に乗り、海老籠手をつけていますが、宝冠や甲制は唐風です。

 楡林石窟25窟毘沙門天王壁画は、小札綴の甲制と両腕には海老籠手の内側から唐風の衣が見えます。獅噛そのものではないが、それに近い飾りや、胸当を付けています。宝冠は西域風ではなく、唐風です。吉祥天、独善等一族郎党を引き連れています。目は、宝塔の方を斜めに睨みますが、これについては後述します。

 敦煌毘沙門天行道天王図は、毘沙門天が、同様に妻の吉祥天や息子の独善等一族郎党を引き連れて遊行する姿を現した絹本です。上記の毘沙門天は、宝冠は西域風ですが、獅噛、胸当等は唐風です。更に肩口にも獅噛が付いています。何よりも、騎乗は絶対できないような肥満児になっています。

 地域的な像容の差は認められますが、毘沙門天像の西域的な像容は漸減し、唐風の像容が進行していったことがわかります。しかし、907年に唐が滅亡して、国家仏教としての、密教の盛隆は止まりました。宋時代(960年~)に至って、禅宗が盛隆、国家仏教としての毘沙門天信仰は衰退し、毘沙門天信仰は、民間信仰の世界に広がっていきます。

(*)法門寺に関しては、下記書籍を参考にしました。
中国仏教芸術 張総(Zhang Zong)撰稿 五洲伝播出版社

 いよいよ日本の兜跋毘沙門天についてですが、9世紀末から12世紀の毘沙門天の展開に関して、下記の流れが考えられます。
*東寺兜跋毘沙門天のその後の展開
*東寺兜跋毘沙門天の模刻像
*延暦寺系毘沙門天の展開
 また、そのほかに、兜跋毘沙門天ではないですが、宝塔を持たない毘沙門天(鞍馬様)については、別項で述べたいと思います。

 東寺兜跋毘沙門天の展開として重要なのは、石山寺の兜跋毘沙門天像です。近藤謙氏は、『石山寺兜跋毘沙門天像に関する一試論』において、石山寺像が、造像に9世紀後半の真言宗系の第一人者聖宝(832年―909年)が関わっており、聖宝自らが主導し、東寺像の特徴をデザインに取り込ませた可能性についてと、更に聖宝を介して東寺・醍醐寺等の寺家工人が造像に関わった可能性について詳細に論じておられます。実に説得力があります。

 しかし、東寺像と石山像の類似点は、細かいことを言うようですが、東寺像を基本とした聖宝の直接の指示或いは仏師が東寺像を直接見ていたための展開というより、中国において東寺像より唐風化の進んだ図像が展開されており、その図像が、聖宝の周辺にあったと考えた方が、私にはすっきりします。

 その理由は、上記で紹介した楡林石窟25窟毘沙門天王壁画と石山像には、頭部の高髻、海老籠手の花紋、小札綴り、宝塔側を睨んだ目等の共通性が見て取れるからです。
 繰り返しになりますが、石山像が近藤氏の言う通り東寺像の展開型であることは慧眼です。(シロートの私がすみません。)しかし、それは、聖宝のもとに中原で作成された東寺像の展開型の図像が作成され、結果として楡林石窟のある甘粛省の西の端と日本において共通の像容を持つ毘沙門天が残されたと、私は考えています。

 いずれにしても、従来から言われたように、石山寺兜跋毘沙門天像は、神将形の一般の多聞天の発展形ではないと考えられます。

 東寺兜跋毘沙門天の模刻像は、清凉寺兜跋毘沙門天立像、奈良国立博物館収蔵兜跋毘沙門天立像或いは鞍馬寺にも安置されています。奈良国立博物館収蔵兜跋毘沙門天は、木造 寄木造 11世紀頃のものだそうです。また、清凉寺兜跋毘沙門天立像も、清凉寺建立後、11世紀のものと考えられています。

<画像の説明>清凉寺(嵯峨釈迦堂)本堂 本稿の兜跋毘沙門天立像は、本堂右手の霊宝館に安置されています。写真撮影禁止です。

 延暦寺系と言われる岩手成島毘沙門天立像や奥州市の藤島毘沙門天像等も大体11世紀から12世紀のもの考えられています。この地方の毘沙門天には、坂上田村麻呂(758年ー811年)伝説が残っていることも多いのですが、残念ながら時代的には破綻しています。

 9世紀後半から10世紀初頭(唐が滅亡するまで)においては、中国と日本の毘沙門天は共通部分も多く、交易を通じて、相当情報のやり取りがあったと考えられます。この段階で、「兜跋」という言葉が存在していれば、日本だけで使用されて、中国においては使用されなかったということは考えづらいと思います。やはり、「兜跋」という言葉は、宋時代(960年~)に至って、中国において、禅宗が盛隆、毘沙門天信仰を含んだ密教が衰退してから、日本で新たに作られた言葉だろうと私は考えています。

 10世紀、11世紀頃の兜跋毘沙門天の正確な遺物がないことの理由は良くわかりません。実際に作られなかったのかもしれません。また、11世紀、12世紀頃に兜跋毘沙門天信仰が再興された理由は、この時代戦乱が数多く起こり、世の中が不安定になったことと関係しているように思います。今は単に私の想像ですが、次回は鞍馬寺の歴史とともにそういった毘沙門天の変貌について述べさせて戴きます。

<項目内サイトナビ>
 ←項目の先頭に戻る ←戻る  進む→
 (2.1) (2.2) (2.3) (2.4) (2.5) (2.6) (2.7)