仏教の世界観によると、一つの世界中央に巨大な須弥山がそびえたち、須弥山頂には、帝釈天が住みます。須弥山の中腹では、四天王が四方に住み、須弥山を守護しています。四天王と方角の関係では、東方が持国天、南方が増長天、西方が広目天、北方が多聞天を守護しますが、北方の多聞天(毘沙門天)が、最強で、四天王のリーダーとされています。東南西北それぞれに、持増広多と覚えた人もいらっしゃると思います。
四天王の日本への請来は仏教伝来からそれほど時間経過がない時期だったと考えられます。『日本書紀』によると、物部守屋との戦いにおいて、聖徳太子は、白膠木(ぬるで)を切って四天王像を造り戦勝を祈願した話が伝えられています。
なお、聖徳太子が、毘沙門天ではなく、四天王を本尊にした四天王寺を建立したとされることに対しては、別項で考証致します。
法隆寺金堂釈迦三尊像の台座に描かれた四天王像が日本における現存最古です。画面の剥落が進んでおり、私たち一般人には、確認することができません。確認できるのは、金堂内陣の壇上の木彫像で7世紀中頃の作品です。この四天王像が、金堂の釈迦三尊像の台座に描かれた図像と共通しているらしいです。東北隅の多聞天は、宝塔と戟を持ちます。どっしりとした像容で邪鬼の上に直立し安定感があります。中国四川省成都万仏寺跡出土の石刻に宝塔等に共通点がある等中国南朝の影響が考えられています。
四天王寺や法隆寺金堂は、最勝王経に基づいた像容と考えられています。奈良時代になると、東大寺戒壇堂、三月堂、興福寺北円堂等有名寺院に多聞天が残されています。金光明最勝王経は、義浄により703年に唐訳され、718年道慈が日本に請来ました。当時としては最先端の仏教知識でした。この時代までの多聞天の多くは、右手で宝塔をもっています。このことは、最勝王経との関係で説明されることが一般的です。
ところで、多聞天は、基本的に宝塔を持っているので、他の像容とは区別がつきやすいです。中国、朝鮮、日本における毘沙門天のほとんどは、宝塔を捧げる姿で展開し、インドでの毘沙門天には見られません。
<画像の説明>
中国河南省竜門石窟奉先寺(唐時代前期) 大像の右から2像目、宝塔を持つ像が多聞天。
日本の毘沙門天の説明に中国の石仏で説明するのは残念ですが、自分で撮影した適当な画像がありません。本文に書いた通り、毘沙門天が原則宝塔を持つ点では、日本と中国は同じ状況です。