2.2不空と空海の毘沙門天

 唐においては、仏教によらず、すべての宗教は、旱魃時の降雨、病気治癒や朝敵退散の加持祈祷が必須でした。密教も同様でした。玄宗(在位712年~762年)時代は、道教全盛で、密教が国家仏教として認められることは、容易ではありませんでした。

 不空(705年~774年)は、西域の人であり、密教の中心人物となりましたが、玄宗には用いられず、密教の普及には苦労しました。しかし、不空は安史の乱の渦中にありながら、玄宗の四川逃避後も、賊軍退散祈願のため長安に残り、更に、反乱軍の占拠後も長安に踏みとどまり、命がけで護国のための修法を続けました。ひそかに弟子たちを粛宗のもとへ送り、反乱軍の動向を逐一報告させました。旧知の間柄であり、灌頂の弟子でもある河西の将軍たちを、粛宗の反攻作戦に協力させるパイプ役も務めました。その行為は、乱の平定とともに、粛宗、代宗の信頼を得ることになり、中国における密教は、事実上の国教となりました。

 不空の功績は、密教を国家守護と結び付けて中国社会に定着させたことと現世利益によって一般民衆にまで広く流布したことです。不空は、個人や一般社会においても、旱魃に雨を得る等の利益をもたらすとされました。

 765年不空は 『仁王経』の再訳を行いました。『仁王経』は、サンスクリット原典がないため、偽経とみられています。密教的要素を加え、密教経典として位置づけ、仁王経を護国三部経の一つとしました。不空は『仁王経』の翻訳を通じて西域の毘沙門天を国家守護と結びつけました。更に、不空による毘沙門天の安西城退散説話は、『毘沙門天儀軌』に説かれました。

 儀軌は密教においては、儀礼や図像に関して記述した経典を言います。『毘沙門天儀軌』には、不空自らが出現します。(『毘沙門天儀軌』も偽経ということでしょう。) 唐玄宗の時代、安西城(現在の安西は、甘粛省敦煌周辺であるが、ここの安西は、ホータン周辺という)が賊軍(吐蕃か)に囲まれ、あわや陥落と報せが長安に届いた。しかし、ホータンは遠方にありなすすべもない。不空らの勧めで毘沙門天に祈ったところ、安西城に毘沙門天の子供独健が現れ、賊軍を打ち破った、という話です。

 『毘沙門天儀軌』が基本となって、不空の周辺において、異民族を撃破する強い姿、国境を守るために高いところから遠くを睨むことができる西域的毘沙門天の像容は、地天の上に国境神の毘沙門天を置くことにより再構成されたと私は考えています。その像容は、智泉様と同等の図像であり、空海の帰国(806年)までには完成したと考えられますが、空海が当時の最新の純密の情報を集めたことを考えると西域的毘沙門天の完成は、806年に極めて近い時期だったのではないかと考えられます。

 毘沙門天儀軌に描かれた毘沙門天が、唐において、軍神・国境神として密教のもたらした力と性格が吐蕃との争いの中で必要とされた結果、8世紀後半から9世紀にかけての時代においては、吐蕃の国境地帯であった甘粛省と四川省においてのみ、西域的毘沙門天が作られたことで、現在、西域的毘沙門天が、これらの地域にのみ残る地域性の理由が説明できると私は考えています。

 智泉様は、智泉が821年に記した「四種護摩本尊并眷属図像」のことを言います。智泉は、空海の甥でかつ高弟ですが、空海の帰国(806年)以降、839年に帰国した常暁らまで遣唐使は派遣されておらず、有力な来航者もいないことから、智泉の描いた図像の元本は、空海の請来したものと推定可能で、智泉様に描かれた兜跋毘沙門天の図像は、806年以前に中国で成立していたことになります。また、空海の請来したものは、当時の唐の最新の純密関係の文物だったことから、当図像の完成は空海の帰国以前そう時間が経過していないと考えられます。

 更に、ギメ美術館ペリオコレクション兜跋毘沙門天立像幡は、小札綴の甲制と体の前に剣を斜めに佩く点、また獅噛や胸当てを着装しない点で智泉様の図像と同時代のものと考えられます。この、立像幡は、他のコレクションの関係からも、8世紀後半のものと考えられています。このような時代検討からも、智泉様の図像が8世紀後半のもので、空海の請来であると考えても矛盾はないことになります。

 この立像幡では、ハク帯(ハクは、白の下に巾)を羽織っています。8世紀後半の比較的古い毘沙門天が、ハク帯を着装することにより、ハク帯の有無は、以前から言われていたような、時代の識別には使えないと考えています。ペリオコレクション兜跋毘沙門天立像幡は、保存状態も良く、当時の色彩が残ることから、日本の兜跋毘沙門天の本来の色彩の参考にもなると考えられます。

 東寺像と智泉様は、いずれも空海ゆかりの産物であり、全体のモチーフは極めて似ています。双方は、地天と呼ばれる小像の上に毘沙門天が乗る像容です。しかし、両者の比較においては、智泉様には、東寺像にある金鎖甲が無く小札綴りであること、智泉様には獅噛が無いこと、そして智泉様が東寺像にはない刀剣を佩くことの違いが明確です。つまり、「四川の毘沙門天の研究」の項目で述べた通り、智泉様を基本として、東寺像は、金鎖甲、獅噛等の着装、刀剣を外すといった唐風化が進んだ像容と考えることが妥当です。

 智泉様や東寺像の様な総じて地天の上に乗る毘沙門天を日本では、兜跋毘沙門天と総称します。兜跋の意味や語源について、先学諸氏が様々な説を述べておられます。しかし、未だ定説はないようです。私も後の項目で若干述べさせて戴きます。兜跋という言い方は、日本独自の言い方で、中国には、この言い方はありません。そのため、中国のこのような毘沙門天をこのサイトでは、西域的毘沙門天と呼んでいます。

 岡田健氏の『東寺毘沙門天像』(美術研究 371号)によると、「中国においては、兜跋毘沙門天の名称は使用例が無い。そのため、この名称を使用せず西域的毘沙門天の名称を使用する」と述べておられます。このサイトにおいても、中国の像に関しては、基本的にこの名称を使用させて戴いています。

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