醍醐寺 主に上醍醐寺(京都市)

 醍醐寺は、豊臣秀吉が最晩年の慶長3年(1598年)に開催した「醍醐の花見」の会場になったことで有名ですが、今回は、理源大師聖宝(832年~909年)が、874年(貞観16年)に創建した同寺発祥の上醍醐寺について紹介させて戴きます。

<画像の説明>左又は下: 醍醐寺金堂 右又は上:醍醐寺三宝院


 上醍醐寺は、「醍醐の花見」の醍醐寺から急峻な山を登る事1時間強で到着できます。以前は車道が使用できたように記憶していますが、今はその門は閉鎖されている旨が注意書きされていますので、一般の参拝者は徒歩で登山するほかない様です。道が悪いので、生半可な気持ちでは到着できません(と私は思います)。

 上醍醐一帯の山は、笠取山と呼ばれます。聖宝は、山岳修行の場として、この地に上醍醐寺を創建しました。聖宝は合わせて、石山寺(*1)を拡充しました。上醍醐寺から醍醐寺を経て石山寺に向かいますと、現在では、電車を使用して2時間程度かかってしまいますが、笠取山伝いに歩きますと、上醍醐から石山寺は12㎞程度です。山岳修行を常とする聖宝には、この二つの寺院を行き来するのは容易だったのではないでしょうか。ともあれ、この2寺は、聖宝のもと、真言密教の修行の場として、朝廷からも手厚い保護を受けました。

 聖宝は、空海の弟であり弟子だった真雅の弟子にあたりますので、空海の孫弟子にあたります。また、東寺第五代長者宗叡(*2)から真言密教の重要な儀式を授けられましたので、真言密教の王道を歩いたことは間違いありませんが、自身の身は常に厳しい修行の場に置きました。

 醍醐天皇の発願により907年(延喜7年)に薬師堂が建立され、薬師三尊が奉納されました。醍醐天皇は、醍醐寺をこよなく愛され、そのため、天皇の諡号に寺の名前を称せられました。

 

<画像の説明>左又は下:上醍醐寺 清瀧宮拝殿 右又は上:上醍醐寺 醍醐水

 因みに、醍醐とは牛乳を精製して作る乳製品で、インドでは「最上の味覚」とされています。私は、ヨーグルトかチーズの様な食物を想像していますが、如何でしょうか。仏教では「最上の味覚」から如来の最上の教法にたとえられます。この地の地神横尾明神が口に含んだ泉の水は醍醐水と呼ばれ、この地の清瀧権現社殿前に今も湧き続けています。

 

<画像の説明>左又は下:上醍醐寺薬師堂 右又は上:上醍醐寺経蔵跡

 薬師堂は、平安時代末期1124年(保安5年)に落慶供養が行われました。国宝です。堂は、桁行5間、梁間4間(*3)の規模を持ちます。現在内部は見ることはできませんが、内部の蟇股は、透かし蟇股と呼ばれる平安後期の遺例です。また、内外陣の格子窓は、一本溝に二枚の窓を用いています(*4)。残念ながら、薬師堂は、常時閉鎖されており、建物の内部を見ることはできませんが、この時代の新しい機構を用いており、地味ではありますが、国宝に相応しい建造物と考えています。

*1 石山寺は、当初華厳宗の寺院として整えられましたが、平安後期聖宝に依って真言密教化が進められました。

*2 宗叡(809-884)入唐八家の一人。862年に真如法親王と入唐、865年帰朝。

*3 桁行は梁と直角の柱間の数、梁間は梁と並行の柱間の数。

*4 蟇股は、軒下の桁や梁の様な横柱を垂直方向に支える構造材。蛙が股を広げたような形の連想からきた名称。透かし蟇股は中央部が刳り貫かれた装飾性を持つタイプで、平安時代後期以降に現れます。また、一本溝に2枚の窓をはめ込む場合、窓の桟を工夫して、例えば2枚の窓を『』の形にして、窓の開け閉めをスムーズに行います。平安後期より横に滑らせる窓が出現しました。

2022年06月07日