円覚寺 その1 宝冠釈迦如来坐像(鎌倉市)
円覚寺は、北鎌倉駅から直ぐのところに位置します。鎌倉五山(*1)の一寺ですが、建長寺に次いで、第2位とされます。1282年北条時宗の招致した無学祖元によって開山されました。鎌倉時代後半には、蘭渓道隆や無学祖元といった宋の高僧が、鎌倉幕府執権家の要請によって来日しました。そのため、彼らの影響は主に鎌倉エリアに残ります。
その影響のひとつが、例えば、円覚寺の本尊、丈六の宝冠釈迦如来坐像(*2)です。文化の中心地だった京都を素通りして鎌倉へ直接伝えられました。このことが、宝冠釈迦如来が京都には無く、鎌倉にのみ存在する主な理由と考えられます。ところで、なぜ、釈迦如来が宝冠を冠しているのか?釈迦如来は解脱した存在ですので、宝冠のような装飾品は付けていないのですが一般的だから不思議です。
<画像の説明>円覚寺本尊 宝冠釈迦如来
その答えは禅宗の考え方にあります。私のようなシロートの言い方で恐縮ですが、禅宗では、釈迦も人間だし修行中と考えられているとのことです。禅宗は、釈迦は自分たちの先人ではあるが、ひたすら拝むのみの対象ではない、とも仰います。修業は永遠に続く、死ぬまで続くと考えられています。釈迦も我々同様、人間として生まれたのだから、釈迦が自身の頭を飾り立てても違和感は無いと考えられるわけです。
繰り返しになりますが、宋で盛隆した禅宗では、そもそも仏陀を、唯一絶対の一神教のような人間を完全に超越した姿ではとらえません。むしろ、誰よりも一生懸命解脱しようと精進‘修行’した先人としてとらえ、自分もあのようになりたいと考えます。解脱する前の釈迦は人間であり解脱前と考えることができます。禅宗のこのような考え方が、宝冠釈迦如来を祀る理由と考えられます。
ところで、円覚寺は、寺の境内をJR横須賀線によって分断されています。文化財の豊富な円覚寺を分断するルート以外にルートは作れなかったのかと考えてしまいます。明治時代、海軍の最重要軍港の横須賀へのアクセスのため、相当強引に用地買収が行われたようです。
<画像の説明>画像左または下:円覚寺寺内を走るJRの踏切 画像右または上:円覚寺白鷺池
ただ、結果的に横須賀線の開通、そして北鎌倉駅の開業により、円覚寺周辺を北鎌倉の一等地に押し上げました。今、円覚寺周辺は、観光客や座禅を志向され円覚寺に向かう人達であふれています。境内を出て踏切を渡ったところ、北鎌倉駅までの道すがら、白鷺池があります。ここもれっきとした円覚寺寺域の一部です。白鷺池は、開山の無学祖元をこの地まで道案内した白鷺の舞い降りた池と言い伝えられているそうです。
(*1)日本の禅宗のうち、臨済宗の寺院を格付けする制度。鎌倉幕府の5代執権・北条時頼の頃、中国の五山の制に倣って導入したのが始まりです。最終的には、京都と鎌倉にそれぞれ五山、その上に最高寺格として南禅寺が置かれました。
(*2)無学祖元が円覚寺を開山した1282年には、元寇(文永の役(1274年)、弘安の役(1281年))はすでに終わっている時代です。既に鎌倉時代末期に入っています。その点、鎌倉において今回のテーマの宝冠釈迦如来が祀られた時期が、きわめて短期間だったことが想像されます。
如来像のうち、大日如来以外の如来が宝冠を冠しているのは全国的には珍しいと思います。鎌倉では、宝冠釈迦如来は、五山第3位の寿福寺本尊としても祀られています。また、鎌倉国宝館にも入口右側直ぐに展示されています。