建武の中興三銅像(栃木県足利市、東京都)
以前東京三銅像について取り上げたことがあります。
東京三銅像は、西郷隆盛像、楠木正成像そして大村益次郎像でした。東京三大銅像と言われることもあります。時代も功績も造立のいきさつもそれぞれで、なぜこの3人が選ばれのかは、私には良く分かりませんが、西郷隆盛は上野山、楠木正成は皇居、そして大村益次郎は靖国神社とそれぞれ東京の一等地に位置しています。この際は、造立のエピソードも興味深い西郷隆盛像を中心に書かせて戴きました。
今回は、建武の新政(中興)三傑の銅像つまり、足利尊氏像、新田義貞像、楠木正成像を取り上げることにしました。この三人が選ばれるのは、建武の新政から南北朝時代を取り扱った太平記に次のことが記載されているからと思っています。
新政の功臣第一は、京都から北条勢力を追放した足利尊氏、第二は、鎌倉を攻め落とした新田義貞、第三の功臣は、大軍の鎌倉勢を寡兵で以って河内の赤坂城、千早城に引き付けて、倒幕の機運を決定的とした楠木正成と、建武の中興を成し遂げた後醍醐天皇が評価しました。
<画像の説明>楠木正成像 東京都千代田区皇居内(*1)
<画像の説明>足利尊氏像 栃木県足利市(鑁阿寺前)(*2)
新田義貞像 府中市京王線分倍河原駅前(*3)
足利市は、足利氏の本貫地ですが、足利高氏(尊氏)は足利生まれではありません(*4)。育ちは鎌倉です。そのため、地元では尊氏の銅像を足利で顕彰することに、批判的な意見もあるそうです。しかし、室町幕府の創設、征夷大将軍になる等、足利氏興隆の最大の功労者であることには違いありません。
私は、今回紹介した他の銅像の様に騎乗姿でない理由が良く分かりません。理由は、次の2つのどちらかでは無いでしょうか。
1)後醍醐天皇の政権の簒奪者としては、未だに足利尊氏の武将姿を潔しとしない風潮がある。
2)騎乗姿は、予算的に難しかった。
或いは他に理由があるのでしょうか。関係者の方に、一度お聞かせ戴ければと思います。
何年か前にNHKの大河ドラマで、真田広之主演の足利尊氏主人公の大河ドラマが放映されました。これにより、足利尊氏は多少ポピュラーになりました。しかし、征夷大将軍となった源頼朝や徳川家康に比べて知名度はいま一つであることは否めません。
建武の中興から南北朝時代は、未だに多くの日本人にとって、時代のイメージが最も定着しない時代ではないでしょうか。私自身も未だに太平記から抜け出せないでいます。もう少し大きく、歴史の流れの中での再評価戴ければと思います。足利尊氏に関しても、再評価が必要と思います。
(*1)楠木正成像は、皇居の中、馬場先門を入って、左手に少し歩いたところにあります。今はインバウンド客が大勢、写真撮影を楽しんでいらっしゃいます。
(*2)新田義貞像は、鎌倉に攻め入ることをイメージして、鎌倉方面をむけて造像したために、駅からはそっぽを向いてしまいました。そのためか、この像が新田義貞像ということは、地元でもご存知の方は多く無い様です。
(*3)鑁阿寺 、 足利学校 については以前に扱いました。
(*4)いくつかの説がある様で、出生地がはっきりしません。
追記:
<画像の説明>小田原駅に設置された二宮尊徳像
(小田原は二宮尊徳のふるさとです。)
最近偉人の銅像に関して、歴史の再評価がされず、とても残念なことが起こっています。例えば、全国各地の学校内に多くある二宮尊徳像についてです。本を読みながら歩く姿が、’ながらスマフォ’を助長するとして、二宮尊徳像の撤去の要求があるそうです。残念なことです。足利尊氏同様、二宮尊徳も、歴史的評価が定まらない人の一人では無いでしょうか。
過去には、二宮尊徳の背負った薪は(貧乏で買うお金も無かったんだから)泥棒したんじゃないかといった笑えない笑い話もありました。今の感覚や常識で歴史や歴史的人物を評価してしまうのは、芸のない事と思います。