西大寺(奈良市)&極楽寺(鎌倉市)
765年に、称徳天皇(孝謙上皇が重祚)が、金銅製の四天王像を鋳造して祀ったのが西大寺の興りです。西大寺という名前は、もちろん東大寺に対比して名付けられました。
東西11町・南北7町の広大な寺域に薬師、弥勒の金堂をはじめ多くの堂宇が建てられ、南都七大寺の一つに数えられました。
しかし、称徳天皇がお亡くなりになり天武天皇の系統が途絶え、更に天智系の桓武天皇が平安京に遷都してしまうと、寺盛は衰え興福寺の末寺となりました。
<画像の説明>画像左または下:西大寺本堂跡 画像右または上:西大寺現本堂
鎌倉時代半ば、荒廃した当寺を再生したのが、叡尊上人でした。叡尊上人は、戒律振興や救貧施療などの独自な宗教活動を推進しました。西大寺は叡尊上人の復興によって真言律宗(しんごんりっしゅう)という密・律の根本道場という新たな中世寺院に再生されました。
<画像の説明>叡尊の墓
叡尊の墓は、現在は西大寺の寺域外、西大寺より徒歩10分くらいのところにあります。
叡尊は、その後も弟子の忍性などの高僧を輩出するとともに、荒廃した諸国の寺院を真言律宗の道場として復活させていきました。忍性は、1267年鎌倉極楽寺等の寺院を復活させました。叡尊が十分に達成できなかった民衆への布教の拠点となり、施薬院等の施設も持ちました。清凉寺式釈迦如来立像が安置されますが、秘仏になっており通常は公開されていません。
<画像の説明>極楽寺(寺内は、撮影禁止です)