五百羅漢寺(神奈川県小田原市)

 五百羅漢は全国にありますが、電車の駅名になっているのは、小田急大雄山線の五百羅漢駅のみと思います。

 羅漢はお釈迦様のお弟子さんで、サンスクリットの、ahhat(アラカン)の音写です。一時期、アラカンは、‘around 還暦’の略で、60歳くらいの意味で使われましたが、アラカンをお釈迦様のお弟子さんのことと理解していた私は、その際は、歯がゆい思いをしました。尤も、鞍馬天狗のファンだった私の友人は、アラカンは、永遠のヒーローだと言っていました。

  <画像の説明>小田急線大雄山駅五百羅漢駅


 羅漢はお釈迦様のお弟子さんですので、定義としては、興福寺北円堂の有名な無著、世親も羅漢といって良いそうです。また、敦煌石窟などでは、1尊2菩薩2比丘(*1)といった表現をしますが、お釈迦様のお弟子さんは比丘と呼ばれています。比丘も羅漢と近い存在です。

 五百羅漢は、釈迦の死後、仏典編集会議に集ったお弟子さんが 500人であったことから、この言葉が生まれたとされます。確かな根拠は無いようですが、中国の禅宗が、五百羅漢崇拝の源流とされています。

 五百羅漢はじめ十六羅漢、十八羅漢等**羅漢は、中世以降仏教界に新たに現れた数少ない像容の一つです。
 東京(江戸)木彫の五百羅漢の嚆矢は、目黒の五百羅漢寺(天恩山五百羅漢寺)ではないでしょうか。当時の五百羅漢は、元禄時代に松雲元慶(しょううんげんけい)が、江戸の町を托鉢して集めた浄財をもとに、十数年の歳月をかけて彫りあげたものです。松雲元慶は、京都黄檗宗万福寺の僧、仏師から僧に転身した人で、大分耶馬渓の石仏五百羅漢に触発されて、江戸に五百羅漢を祀ることを決心したそうです。十数年間の苦労の末、1710年に完成させました。

 

<画像の説明>小田原の五百羅漢寺


 小田原の五百羅漢寺は、正式には天桂山玉宝寺と呼ばれて、曹洞宗香雲寺(秦野市)の末寺です。小田原市教育委員会発行の『小田原の文化財』を要約しますと、
 この羅漢像は、享保15年(1730)村内の添田氏が出家し、智鉄と号して広く篤信者から浄財の寄進を求め、五百羅漢像の造立を発願したことに始まります。そして、7年間に170体を造立しましたが、志を果たせず病没してしまいました。そこで、智鉄の弟が出家し、真澄と号し、兄の意思を継いで、28年間の歳月をかけて、宝暦7年(1757)に五百羅漢像を完成させました。像高24cmから60cmの羅漢像526体が祀られます。
 根拠はありませんが、添田氏がこの事業を始めるにあたっては、目黒の五百羅漢の実際に拝して、その壮観さに触発されたのではないでしょうか。
 小田原の五百羅漢寺は、目黒に比べて一体一体は小さいですが、ひとつずつは、表情が違い、笑顔、談合、阿鼻叫喚が表せられています。本堂内に所狭しに並列する様は、釈迦の説法を聞く羅漢の姿です。ひび割れが出ていないので、内刳りが十分なされているのだと思います。小田原で活躍した地域密着型の仏師の存在が彷彿されます。

(*1)サンスクリット語で bhikṣuの音写。修行僧の事を言います。

 

<画像の説明>画像左または下:成田不動尊釈迦堂羽目板五百羅漢
       画像右または上:目黒大圓寺の石像五百羅漢
 なお、五百羅漢(目黒)は、撮影禁止で、掲載できません。

2018年01月14日