敦煌石窟57窟 素心伝心展より
敦煌石窟は、莫高窟、楡林窟、西千仏洞の3窟を総称して言いますが、質量とも莫高窟が図抜けています。そのため、敦煌石窟というと普通は莫高窟の事を指します。
名称 |
敦煌中心部からの位置 |
管理されている窟の数 |
石窟傍の河 |
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莫高窟 | 東南 25㎞ | 735窟 | 大泉河 |
楡林窟 | 東 170㎞ | 東壁西壁合わせて42窟 | 楡林河 |
西千仏洞 | 西南 30㎞ | 22窟 | 党河 |
敦煌中心部の反弾琵琶のオブジェ、莫高窟入口風景、楡林窟には、下記よりご覧いただけます。
➡敦煌石窟関連の画像にリンク
東京芸術大学の素心伝心展では、莫高窟57窟を再現しました。
(尚、今回使用した画像も素心伝心展に同行のA氏の作品を使用させて戴きました。)
<画像の説明>敦煌莫高窟57窟 南壁 素心伝心展より
<画像の説明>画像左または下:平山郁夫展のポスター
画像右または上:敦煌莫髙窟57窟 東壁2 素心伝心展より
故平山郁夫氏は、57窟の観音菩薩の壁画を、こよなく愛されました。平山郁夫氏は、この観音様を何度も描かれたそうで、そのことが、自身の著述にも、同行した中国人の回想録にも描かれています。そのため、平山郁夫展においても、本人の描いたイラストがそのポスターに使われました(*1)。
57窟は、初唐期の開窟です。唐時代の華やかな作風の影響を受けています。ここで注意戴きたいのですが、敦煌の文化は、この時代、中原の影響を色濃く受けていることです。
仏教文化は、当初、西域より中原に流れ込みましたが、唐が中国を統一したことに依り、57窟が開窟された時代は、既に、唐の影響下にありました(*2)。
西域の仏教文化は、唐の都長安で更に昇華されて、鏡に反射するように西域に向かいましたし、一部は透過して日本に向かいました。唐の影響を大きく受けた日本の白鳳期の仏教絵画、特に法隆寺金堂の絵画との類似性を考えさせます。今回の素心伝心展で双方を同時に展示した功績は大きいと思います。
➡法隆寺金堂釈迦如来三尊像(素心伝心展)にリンク
(*1)山梨県北杜市の平山郁夫シルクロード美術館に展示されています。また、絵葉書も販売されています。
(*2)57窟の観音菩薩図と良く似た観音菩薩が、220窟東壁入り口上にあります。これは、平山郁夫シルクロード美術館で販売した57窟の絵ハガキに一時期220窟との説明書きがされたこともあったくらいこれらは良く似たタッチです。氏は、文化出版社の『敦煌』の中で、220窟の壁画のコメントとして、都長安で作成されたそれらの壁画の下図が西の敦煌へ、東の奈良へ分かれたものだろう、年代的にも記録上最も接近しているし、造形の原理が一致していると述べておられます。