石山寺(滋賀県大津市)
紫式部が源氏物語の構想を得た寺院として知られます。また、蜻蛉日記の作者や更級日記の作者が参籠したことが日記の中に記載されています。平安文学を語る上では、最も重要な寺院の一つです。もちろん、平安時代には既に有名な寺院でした。
石山寺で最も有名な建造物は多宝塔です。
多宝塔は、三重塔、五重塔とは、ルーツがちょっと違います。三重塔、五重塔が、楼閣の上に相隣をのせた多層式建造物なのに対して、多宝塔は、インドのスツーパ(*1)の原型に近く、スツーパに相当する漆喰が1階の屋根上に露出しています。仏堂と相輪を一つにつないだ二重の塔ですが、二重の塔とは言いません。
当寺の多宝塔は、三間、檜皮葺、鎌倉時代1194年源頼朝が創建、塔内に大日如来が安置されています。日本の現存する多宝塔では最古です(*2)。
<画像の説明>石山寺多宝塔
屋根の軒先の張りが大きく、勾配が緩やかで、反りが良い、優美な姿です。また、漆喰部分の露出は、バランスが取れています。建物としての均斉美もそうですが、周りの景色との調和も素晴らしいと思います。
更に私にとって外せないのは、毘沙門堂の兜跋(とばつ)毘沙門天像(*3)です。
<画像の説明>石山寺兜跋毘沙門天
兜跋毘沙門天は、東寺像が、基本仏となって、12世紀には、模刻像が作られました(*4)。東寺像は、西域風の着甲ですが、以降、唐風の甲制に変化した像も多く作られました。
石山寺の兜跋毘沙門天は、唐風を着甲しています。作成された時代については、いくつかの意見が出されていますが、唐風を着甲している点から、一連の模刻像以降の11世紀以降との意見もあります。一方、石山寺像は、宝塔を横睨みしている点で東寺像の睨みを模刻している点から、9世紀末頃ではないかとの論文も出されています。(*5)
<画像の説明>中国四川 大足5窟 兜跋毘沙門天とその眷属
私は、中国四川の毘沙門天を数多く見てきましたが、例えば、大足5窟毘沙門天立像は、横睨みしています(*6)。このような毘沙門天の図像が、既に9世紀末には日本にも伝わっていた可能性は高く、私もその当時の作品と考えています。
<画像の説明>いずれも目は左手の宝塔を睨んでいます。
画像左または下:大足5窟兜跋毘沙門天 画像右または上:石山寺兜跋毘沙門天
(*1)スツーパは、サンスクリットではstupa、卒塔婆の漢字を当てます。仏陀の骨や髪を祀るため、土饅頭に盛った建造物の事を言います。
(*2)日本最古の多宝塔は、空海が高野山頂に建立したと言われる大塔です。何度か火災、落雷による焼失と再建を繰り返し、現在は、1937年に再建されたものです。鉄筋コンクリートの上にヒノキをかぶせた仕上げになっています。
(*3)兜跋毘沙門天の紹介は、本HPのメインテーマです。➡紹介ページにジャンプします。
(*4)東寺像は撮影禁止です。春と秋の特別拝観の時期のみ公開されます。模刻像は、清凉寺、奈良国立博物館で拝観できますが、いずれも撮影禁止です。
(*5)詳細は、本編に掲載していますので、ご覧ください。➡掲載ページにジャンプします。
(*6)大足5窟像は、892年銘の題記が残されています。