2.3兜跋毘沙門天について

 日本では、兜跋毘沙門天という固有の名前を与えられた毘沙門天が祀られることがあります。東寺の宝物館に安置された兜跋毘沙門天立像は特に有名だったと考えられ、清凉寺や、奈良国立博物館そして鞍馬寺等に、その模刻像が残ります。

 東寺像は、平安京の羅城門の楼上に安置され、都を守護していたが、羅城門の倒壊の際に東寺に請来されたという伝説は有名です。一方、材質が日本に自生しない魏氏桜桃であり、練物で表面を成形する等の技法からも中国から請来されたことが定説になってきました。

<画像の説明>
 東寺には、羅城門に安置された毘沙門天が、羅城門の倒壊とともに東寺に安置されたという伝説が伝えられています。

 東寺像の像容の特徴を改めてまとめますと、
*地天の掌の上に立つ
*地天の両側に二鬼を従える
*裾長の甲冑を着け、羽根の模様のついた宝冠を戴く
*金鎖甲、胸当てと獅噛を着ける
*両足を開き、真正面を向いて直立する
*目は、宝塔を睨む
*腰部分を絞める
*左手に宝塔を捧げる
*右手に戟を持つ
となります。

 その像容と四川仏との比較から、東寺像は9世紀後半のものと考えることが妥当です。理由は、東寺像の特徴とされる獅噛・金鎖甲が、四川の毘沙門天の特徴の第二世代以降のものであり、また、横睨みの目は、大足北山5窟(第三世代)に見られます。因みに、大足北山5窟の製作年代は、その題記から892年から895年のことであることが分かっています。このことは、「四川の毘沙門天の研究」の項で詳細に述べました。

 では、東寺像が何時頃日本に請来されたかですが、現状でもはっきりとは分かっていません。私なんかが、専門的なことを言える立場ではないのですが、敢て申し上げますと、宗叡請来説(宗叡の帰国は865年)を支持させて戴きます。

 845年に円仁が帰国した以降は、結果的に遣唐使は派遣されていません(894年に正式に遣唐使は廃止されました)。東寺仏がおよそ2mあり、一木造りで内刳も十分でなく重量もそれなりにあると思われます。更に、作品を維持して運ぶ困難さは、安史の乱以降の唐末の不安定さからも、労力・資金力ばかりでなく、相当の政治力が必要だったと考えらます。最近の研究では、遣唐使は廃止されても、新羅船による交易はそれなりに盛んだったと考えられていますが、単なる民間の交易船で交易の一環としてとして東寺像を運ぶことは、難しかったのではないでしょうか。宗叡は、高岳親王に同行して唐に渡ったいきさつからも、準遣唐使と見做しても良く、東寺像の請来の功労者だったのではないでしょうか(*)

 東寺像とは別に日本化した(唐風の甲制を身に着けた)兜跋毘沙門天は、北は、岩手県成島毘沙門天、藤里の毘沙門天、南は福岡観世音寺等に残ります。これらの像は、いずれも地天の上に乗ります。成島毘沙門天、藤里の毘沙門天は、主に甲制から、延暦寺の影響を指摘されています(**)。

 成島毘沙門天は、坂上田村麻呂の造像伝説もあるようですが、造自体は、12世紀頃のものと考えられています。9世紀の東寺像からいきなり12世紀に飛んでしまいますが、その間を埋める毘沙門天については、若干ですが、次項で説明させて戴きます。

 兜跋毘沙門天は、全国に100体程度は残ると言われています。しかし、密教系の他の仏像、例えば不動明王の造像数と比べるとが、兜跋毘沙門天の造像数はたいへん少ないと言わざるを得ません。それは、下記の様な理由が考えられます。
 *兜跋毘沙門天の本来持つ国境神のファンクション(機能効用)は、外敵のいない日本では必要なかった。
 *経典や儀軌で像容が決められており、直立不動の姿勢は変化に乏しく、仏像の供養人にも、  製作する仏師にも人気が集まらなかった。
 *地天のファンクション(機能効用)、像容の意味合いが早くに忘れ去られ、9世紀末当時、既に不明となってしまっていた。

 地天の機能について現在も様々な意見が述べられています。例えば、北進一氏は、『兜跋毘沙門天の居ます風景』において、毘沙門天を支える地天は地母神であり、『大唐西域記』の翟薩旦那国の建国神話に載る大地の乳房を地母神に見立てておられます。

(*)岡田健氏は、『美術研究370号』で、「筆者自身がかつて提案した宗叡請来という想定は、像の年代観としてはそれほど不都合はないが、この議論も羅城門安置を前提としたものだったから、改めて検討しなおさなければならない。」と、述べておられます。

(**)松浦正昭氏は、『日本の美術 No.315毘沙門天』において、東北の兜跋毘沙門天は、比叡山の俗別当伴国道(768年-828年)発願像を原典とする造像例と述べておられます。

 東寺像やその模刻像の清凉寺像、奈良国立博物館像はいずれも写真撮影禁止で、このサイトでは写真の掲載は有りません。個別に検索をお願いします。
 東寺宝物館は、春と秋の特別拝観の際に公開されます。


 <掲載画像の説明>藤里毘沙門天は、岩手県奥州市藤里に安置されています。拝観には事前予約が必要です。知名度は低いですが、鉈彫の兜跋毘沙門天像で、鉈彫りの観点でも貴重な仏像です。

 その他、秘仏の扱いで現在では直接拝観させて戴けない毘沙門天も多いです。非公開仏の情報は、別途記載させて戴きます。

 

 

 

 

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