2.5毘沙門天と多聞天

 地天に乗った毘沙門天の発生以降を、中国四川と日本を比較しながらその変遷について述べてきました。また、日本でも四川でも、多聞天と毘沙門天は同じ尊格であり、四天王の1天として祀られる場合は多聞天、単独で祀られる場合は、毘沙門天と一般的には言われていることそして中国と日本の多聞天・毘沙門天は、左右どちらかの手に原則として「宝塔」を持つことをこのサイトでは述べてきました。

 一方、仏像の発祥の地ガンダーラにおいては、多聞天は、四天王のリーダーとしての存在とはなっていますが、多聞天が1天のみで祀られる例は見つかってないそうですし(*)、また、中国でポピュラーな「宝塔」を持った多聞天や毘沙門天の像容は、現在のところ、ガンダーラにおいては発見されていません。

(*)田辺勝美氏は、著書『毘沙門天の誕生』のなかで、四天王のなかでは、多聞天はリーダーであり、他の三天に対して優越的な立場にあることを詳細に論考されました。

 「宝塔」を持った多聞天或いは毘沙門天の像容が、ガンダーラでは作られていない蓋然性が強いことから、これらは、中国で作られた可能性が高くなります。また、四天王のうちでは、多聞天のみが「宝塔」を持った像容ですので、「宝塔」を持つ四天王のリーダー多聞天が、何らかのおそらく宗教的理由で単独で祀られるようになった可能性が高まります。

 なお、多聞天が、中国においてなぜ宝塔を持つようになったのかについては、様々な意見が専門の先生によって提示されていますが、未だ定説には至っていない様です。
 四天王は、仏教界の四方を守る守護神だったのに対して、毘沙門天は、人間界を守護する鎮護国家の守護神として祀られるようになりました。そして特に地天に乗った毘沙門天は、吐蕃を始めとした外敵に備える(外敵逃散を祈る)国境神としての機能を備えるようになったと私は考えています。

 「四川の毘沙門天」の項で詳細に述べましたが、8世紀の四川においては、既に毘沙門天と多聞天は峻別されています(龕の主尊の場合は必ず毘沙門天となります)。このことは、敦煌を始めとした甘粛省の石窟寺院においても同じです。単独の毘沙門天を祀ることを始めた人は、毘沙門天と多聞天は同じ尊格と知っており、多聞天の持つ「宝塔」を引き継がせたと考えられます。多聞天の宗教的なファンクション(機能効能)を更に強化して、毘沙門天に持たせたかったか、或いは単独で祀ることにより毘沙門天にのみ新しいファンクションを付加したかったと考えられます。

 具体的には、四天王としての多聞天が仏教世界の守護神だったことに対して、毘沙門天は多聞天の機能を引き継ぎつつ、人間世界の守護神として独立したと考えれば説明が付きやすいです。

 多聞天を単独で祀る‘思想’は、中国南北朝時代の末頃から唐初期頃に西域(東トルキスタン地方のおそらくホータン(現在の中国新疆ウイグル自治区))で生まれたと考えるのが自然です。但し、勘違いしないでほしいのですが、毘沙門天の像容がホータンで生まれた訳ではないということです。少なくとも、東トルキスタンでは、唐時代初頭には、既に毘沙門天と多聞天は峻別されます。そのような‘思想’(毘沙門天のファンクション)が、玄奘三蔵によって中原に伝わり、ポピュラーになったと考えられます。

 *毘沙門天の‘像容’の発生と変遷については、四川の毘沙門天の研究の項で詳細に説明させて戴きました。 
 ➡四川の毘沙門天の研究にリンク

 以上、長々と中国の多聞天から単独で祀る毘沙門天について説明させて戴きました。日本においては、「日本の毘沙門天」の項で既に紹介しましたが、『日本書紀』には、物部守屋との戦いにおいて、聖徳太子は、白膠木(ぬるで)を切って四天王像を造り戦勝を祈願した話が伝えられています。また、聖徳太子は、その後、四天王像を祀るべく、四天王寺を造りました。四天王寺は、四天王が本尊です。

 7世紀初頭(聖徳太子の時代)には、最勝王経等の経典が既に伝わっており、四天王が仏教の守護神のみならず、軍神としても理解されました。しかし、単独の毘沙門天を祀る思想は伝わっていませんでした。四天王を本尊とする四天王寺の建立は、そのような時代背景によるものと私は思っています。

 日本においては、毘沙門天は、8世紀には、文献資料にも多聞天とは区別して出現するようになります。多聞天と毘沙門天のファンクション(機能効用)を区別する思想自体が中国から伝わった結果です。日本において四天王から毘沙門天が独立したのではありません。毘沙門天は、中国の東トルキスタンで生まれたものです。8世紀には日本でも毘沙門天として単独で祀られるようになります。更に、9世紀初頭、空海が、新しい毘沙門天の図像をもたらしました。それは、智泉様(*)に残ります。また、朝廷は、この単独で祀られる毘沙門天を鎮護国家、都の守護するファンクションをもつ「ハイテク」として一旦は受け入れました。

(*)智泉様は、空海の甥、智泉が821年に記した「四種護摩本尊并眷属図像」のことです。四川の毘沙門天と同等の図像が残されています。この図像の毘沙門天を日本では兜跋(とばつ)毘沙門天と呼んでいます。

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