2.7幸福神としての毘沙門天

 毘沙門天は、日本には、先ずは人間界の軍神・鎮護国家の守護神として請来されましたが、やがて幸福神に変身していきます。このことは、鞍馬寺の歴史を紐解いていくことにより説明がなされます。

 まず、鞍馬寺発行の「鞍馬寺の名宝」の年表をベースに、本論の関係部分のみ抽出して、鞍馬山の歴史をご紹介させて戴きます。

796年  藤原伊勢人、本寺建立
1009年 鞍馬寺炎上
1125年 良忍『融通念仏神名帳』を授かる
1126年 鞍馬寺焼亡
1127年 堂宇再建。国宝・吉祥天像が造られる
1238年 鞍馬寺全焼
1248年 再興供養
1258年 重文・銅燈篭1基が造られる
1458年 堂宇焼失
1464年 堂宇再興

 鞍馬寺は、歴史的に4度の火災に遭遇しています。炎上、焼亡、全焼、焼失と使い分けていますが、原文のままです。恐らく火事の規模を表現されているものと思います。再興までの期間で考えますと、火事の規模が、焼亡(1年)<焼失(6年)<全焼(10年)だったことが推察されます(炎上は再興までの期間が記載されず良く分かりません)。

 鞍馬寺の毘沙門天が幸福神となったいきさつについて考えます。鞍馬寺は私寺であり、朝廷や幕府そしてその有力者からの寄進を多くは期待できない中、火災後の復活において、庶民の寄進に多くを頼る必要がありました。一般庶民に寄進を求めるため、本尊毘沙門天がこの世で民衆を幸せにするという幸福神のファンクションが強調されていったと考えられます。

 京都は、平安時代から室町時代には、間違いなく、日本一のハイテク工業地帯でした。商工業で力をつけた庶民の経済力が、鞍馬寺の復活に貢献しました。鞍馬寺が京都の近郊に位置したことが復興には幸いしたと考えられます。

 上で述べましたが、1238年鞍馬寺全焼(1248年再興供養)は、鞍馬寺では、最大の被災だったと考えられます。復興に10年かかった'全焼'がやはり最大の被災でした。
 この時代、更に鞍馬寺は、融通念仏の聖地となりました。融通念仏は、良忍(1073‐1132)を開祖とした浄土教の宗派の一つですが、自分の唱えた念仏を互いに融通しあって、すべての人を順次極楽往生させようとする教えです。
 私なりの理解で恐縮ですが、ここでいう念仏の融通は、ムーブ(MOVE)ではなくコピー(COPY)に近いです。つまり、自分の唱えた念仏を他人に融通しても、自分の念仏は減らないので、念仏を多くの人が唱えれば唱えるほど効能が大きい。融通により、庶民はみんなの力で(一人一人の力が小さくとも)極楽往生が可能となる、という意味と理解しました。

 鞍馬寺は、庶民を主人公にした毘沙門天信仰と融通念仏に支えられ、被災から復活しました。庶民の間には、毘沙門天=幸福神の思想が定着していきました。

(*)橋本章彦氏「毘沙門天-日本的展開の諸相」では、鞍馬寺と「融通念仏」との深い関係を詳細に論考されておられます。

 以上の様に、京都の庶民の力で、鞍馬寺の再建がなされました。その勧進(寄進)に当たっては、毘沙門天の財宝神としての機能が変容、昇華して、この世での幸福神の機能として強調されていきました。

<画像の説明>鞍馬寺本殿 毘沙門天3尊像(秘仏)を祀ります。

 しかし、では、そもそも鞍馬寺の本尊がなぜ毘沙門天なのでしょうか。
 それは、796年に本寺(鞍馬寺)が建立されたことに関係しています。796年は、平安京に遷都して2年後です。桓武天皇は、平安京遷都に際して、奈良時代に強勢を誇った仏教勢力を排除するべく、官の手で東寺と西寺のみを新たに作り、平城京の仏教寺院の平安京遷都を禁じました。また、新たな私寺の造立に関しても783年に勅を出して原則禁止していました。
 私寺の造立原則禁止の中造立を認められたのは、例えば、坂上田村麻呂の清水寺造立或いは和気清麻呂の神願寺(後の神護寺)造立等ごくわずかでした。坂上田村麻呂は、東北の蝦夷征伐の功労者、和気清麻呂は、奈良時代に続いた天武系の皇統を天智系に取り戻し、更に長岡京、平安京の遷都の功労者として歴史上も有名です。
 藤原伊勢人(ふじわらのいせんど)は、造東寺長官としての功績はありましたが、坂上田村麻呂や和気清麻呂の功績に比ぶるべくも無く、私寺の造立は簡単ではなかったと考えられます。
 藤原伊勢人は千手観音を深く信仰していましたが、夢に毘沙門天の侍者禅弐師童子(ぜんにしどうじ)があらわれ、観音と毘沙門天は「名は違うが同体(観音毘沙門天同体論)」と諭され、毘沙門天を祀ることに納得しました。また、桓武天皇も北方の王城守護(平安京の北方の守護)をファンクションとして持つ毘沙門天を主像とした寺なればこそ、建立を許可したと考えられます。

 興味つきない鞍馬寺の建立の根拠ですが、毘沙門天を本尊とした寺院はあまり多くはありません。室町時代以降は、庶民の間では、鞍馬寺⇔毘沙門天⇔幸福神のトライアングルが強固に形成されました。そして、京都の商工業の発展とそれによる地方を行商して歩く商人の影響力や、京都の庶民の福の神を題材にとった狂言の盛隆により、地方に波及していきました。鞍馬寺⇔毘沙門天⇔幸福神のトライアングルにより、毘沙門天が七福神の一角を占めることになりましたし、それが、全国に普及することとなりました。

鞍馬寺の毘沙門天の像容ですが、以下の項目でご紹介します。
 ➡鞍馬寺にリンク

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