金戒光明寺(京都市)

 金戒光明寺は、安元元年(1175年)浄土宗の開祖法然源空(1133~1212)が、比叡山西塔の黒谷別所での30年間の修行を経て、師の叡空上人の元を離れ、当地に草庵を結んだのが最初とされます。法然死後、比叡山黒谷別所以来の弟子信空が、この新しい黒谷の地を浄土宗信仰の中心として発展させました。(*1)


 南北朝時代には、後光厳天皇に戒を授けて、「金戒」の二文字を賜り、「今戒光明寺」と呼ぶようになったと伝えられます。室町時代には、念仏と戒律の寺として公武の尊崇を受けましたが、応仁の乱の兵乱により塵灰に帰しました。その後、天正13年(1585年)羽柴秀吉が、寺領130石を与え、紫衣(*2)着衣を許可された寺となりました。

<画像の説明>左又は下:金戒光明寺御影堂 右又は上:金戒光明寺山門

 江戸時代末に、会津藩主松平容保公が文久2年(1862年)に京都守護職に就任すると、当寺は、京都守護職会津藩の本陣となり、会津藩兵がこの金戒光明寺に駐屯しました。当寺が、本陣になった理由は下記3点です。
・当寺が、城構えを持つこと。
・御所まで約2㎞、東海道の発着地点(三条大橋)まで1.5㎞と近いこと
・4万坪の寺域を持ち、藩兵千名の軍隊が駐屯可能なこと。


 徳川幕府は、開幕直後には、京都の治安、皇居を監視する観点から、京都の整備を進めました。御所の西方には二条城、東には、当寺と知恩院を充実させる等、徳川幕府はどこまでも用意周到でした。

 ➡知恩院が城郭構造に構築されたことに関しては、このHPで以前取り上げたことがあります。知恩院三門(*3)にジャンプしてください。


<画像の説明>左又は下:金戒光明寺三重塔 右又は上:金戒光明寺山門と遠景

 

 京都守護職松平容保は、公武合体派の重鎮として、八月十八日の政変(1863年)、禁門の変(1864年)において重要な役割を演じました。また、会津藩御預りの新選組が、その支配下として、京都の治安維持に当り、池田屋事件が引き起こされたことは有名です。
 禁門の変では、京都各地で長州兵と会津兵の戦乱が起りました。金戒光明寺には、当地で死亡した会津藩士の墓が残ります。

 

<画像の説明>左又は下:金戒光明寺会津藩士の墓 右又は上:金戒光明寺会津藩士の墓参道

 御影堂(みえいどう)は、当寺の本堂、大殿(だいでん)とも言われます。1944年再建、内部に本尊の阿弥陀如来坐像の外、法然75歳時の坐像を安置します。国の登録有形文化財に登録されています。三重塔は、文殊塔とも言われます。1633年建立、徳川秀忠の追悼のために建立されました。こちらは、重要文化財に指定されています。

(*1)京都市内で、今、例えばタクシーに乗って「黒谷」までというと、金戒光明寺に向かってくれます。また、比叡山にも、「黒谷」の地名が現在も残ります。新黒谷とか、元黒谷といった区別はありません。

(*2)紫衣(「しえ」または「しい」) 紫色の僧衣。天皇が高僧に下賜した。江戸時代初期の紫衣事件は有名。
(*3)知恩院は、三門と呼ばれます。これについても、以前のHPに記載しました。

2022年09月10日