箸墓古墳(奈良県桜井市)

 三輪山の西麓に広がる巻向(まきむく)古墳群は、前方後円墳発祥の地とみられています。この中で箸墓古墳は、巻向古墳群では最大の前方後円墳です。巻向古墳群は、纏向遺跡の一部をなします(*1)。

 箸墓は、宮内庁によって第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓として管理されています。しかし、考古学ではこの古墳を、3世紀後半の古墳と考えており、卑弥呼(或いは台与)の墓とする研究者はたくさんいらっしゃいます。

 墳丘の全長は、約280メートル、後円部の高さ約30メートルあります。自然の山に後から穴を掘って古墳にしたと錯覚される方も多いようです(実は初めは私もそうでした)が、土木工事を経て完成させた構造物です。当時の最新の技術を使用したハイテクな構造物でした。

 

<画像の説明>箸墓古墳

 

<画像の説明>ホケノ山古墳(*2)から箸墓古墳を遠望

 

 箸墓古墳の、後円部は四段築成で、四段築成の上に小円丘を築いています。出土遺物に埴輪の祖形の吉備系の土器が認められるそうです(*3)古墳の構造が一寸わかりにくいので、説明のために、近つ飛鳥博物館の前方後円墳のジオラマ(模型)を参考にさせて戴きます。近つ飛鳥博物館では、5世紀初めから半ばの大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)(*4)を再現しています。最新の研究成果が反映されており、学術的な考察が十分になされています。

 

<画の説明>大仙陵古墳のジオラマ
   前方後円墳は、完成直後はこのように埴輪により4段から5段程度の段差が造られていました。

 

 箸墓とは時間的なギャップはありますが、構造上の基本的な差はないようです。このジオラマにより、埴輪(箸墓は土器の一種)で断面を区切りながら、高く上に伸ばしていく工法が読み取れると思います。箸墓以降、全国各地の多くの前方後円墳は、墳丘の設計図を共有しており、数十年程度の比較的短い時間で北九州から東北南部に広がったと考えられる点から、統一後の初期大和朝廷のシンボル的存在とも考えられています。前方後円墳は、もっとも日本的なものの一つに挙げるべきでしょう。

(*1)巻向遺跡は、弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡。国の史跡に指定されています。飛鳥時代前期の藤原宮に匹敵する巨大な遺跡であり、日本で始めての都市型遺跡(後の条里制の様に道路が直交する、鋤鍬等の農機具の出土が少ない)であり、また、国際都市(出土した土器のうち30%程度が、大和以外(吉備、出雲、濃尾そして末期には北九州))です。
 尚、「纒向」の名は垂仁天皇、景行天皇の宮の名より名づけられました。

(*2)箸墓より古い。初期の前方後円墳に位置づけられる。全長80m。

(*3)箸墓は宮内庁によって管理されており、学術調査はもちろん入ることすらできませんが、過去に宮内庁によって調査された際の遺物が宮内庁に保存されているそうです。

(*4)宮内庁の比定では、仁徳天皇陵となっています。百舌鳥古墳群を構成する古墳の一つ。墳丘長486m、後円部の高さ36m、全国第1位の規模を誇ります。

 

2017年10月01日