円覚寺 その2 舎利殿(鎌倉市)
円覚寺の舎利殿は、当初のものは13世紀末或いは14世紀初めころに建立されたと言われています。円覚寺は、再三火災があり、なかでも永禄六年 (1563)
に全焼しました。復興に当たって、舎利殿は、鎌倉尼五山の一つであった大平寺(廃寺)の仏殿を、天正年間 (16世紀後半)に移築した建造物です。更に、関東大震災で倒壊しましたが、1929年(昭和4年)復元されました。景観が、正福寺地蔵堂に似ていることから、移築された舎利殿は、正福寺と同時代(15世紀初頭)に建立されたものとされます。
円覚寺は、無学祖元を開山として1282年、北条時宗によって建立されました。そのため、円覚寺は、鎌倉時代の代表的寺院で鎌倉五山の第2位とされ、禅宗様建築の代表的遺構としてもポピュラーです。以前は、日本史の教科書にも掲載されていましたが、今はどうでしょうか。再建されたことが確認され(舎利殿が当初のもでないことが明らかにされ)ましたので、トーンが落ちているのではないでしょうか。
<画像の説明>円覚寺舎利殿 現地の舎利殿前のポスターの写真より
円覚寺舎利殿は、奥まって、以前は見られませんでした。今は、近寄れませんが、門から辛うじて屋根のみを見ることができます。正月三カ日等、特別の日には拝観可能です。残念ながら、通常は、木が生い茂り、遮断物も多く、最も美しい屋根の反りや軒下を見ることはできません。また、禅宗様の特徴の花頭窓や波連子の飾りも直接見ることもできません。軒下の詰め組は、禅宗様の特徴ですが、現地の掲示板の写真で、多少、その美しい建造物を確認することができます。
正面の下部を見ると 五間ですが、両端は 裳階(もこし)(*1)が付加されたもので、主屋(おもや)は三間です。屋根は入母屋作りの柿葺(こけらぶき)(*2)です。昭和42年に大修理が行われましたが、それまでは茅葺(かやぶき)(*3)でした。
外廻りの裳階は 中央間を棧唐戸(さんからど)の両開き、両脇間の戸口の両端は、花灯窓(かとうまど)となっています。波欄間(なみらんま)が上部を一周します。波欄間を通して入る日の光が独特の雰囲気をかもし出す様子が容易に想像されます。なお、花頭窓や波欄間の実際は、正福寺地蔵堂の写真を掲載させて戴きますのでご確認ください。
<画像の説明>正福寺 桟唐戸、花頭窓、波欄間
円覚寺舎利殿は、美しさは秀逸です。しかし、度重なる火災により、建造物の古さという点では、他の建造物にその地位を譲ります。歴史的な展開でより古いと考えられる、関東地方の建造物として、私も訪れたことのある建造物が何点か(*4)現存します。
(*1)建物の軒下に差しかけて作った屋根で、外観は二重屋根に見える。法隆寺五重塔、金堂、
薬師寺東塔等が有名です。
(*2)ヒノキ・マキなどの薄板で葺いた屋根
(*3)茅(かや)で葺いた屋根
(*4)
鑁阿寺 (ばんなじ)(栃木県足利市)は、足利氏の居館跡と伝えられる真言宗の寺院で、寺伝によると足利氏2代足利義兼(源義家の曾孫に当たる)により開創されたとのことです。写真の本堂は、1299年に建立されました。2013年に重要文化財から国宝に昇格しました。和様と禅宗様の和様に近い折衷様という感じです。
覚園寺薬師堂(鎌倉市)は、1354年建立。薬師堂の梁に足利尊氏の署名(征夷大将軍正二位源朝臣高氏)が残り、当初のものは、1354年に建造されたものと考えて良いと思います。その後、仏殿は江戸時代1689年に大改修が行われました。なお、足利尊氏には、長寿寺殿と等持院殿の2つの法号を持ちます。当寺では、長寿寺(本人の署名)が残っているそうです。
正福寺地蔵堂(東村山市)は、昭和9年改修の際発見された墨書銘により、室町時代の1407年の建立とわかりました。年代が明らかな東京都下最古の建造物です。若干専門的なことになりますが、円覚寺舎利殿と正福寺地蔵堂は、ともに普通の繋虹梁でもよいくらいの高低差の少ないところに海老虹梁が用いられています。繊細な曲線を賞用する禅宗様ではやはりこの方がよく似合うとされます。