四天王寺(大阪市)

 四天王寺は、大阪の交通の要衝天王寺から歩いて凡そ10分、広大なエリアが維持されています。四天王寺の建造物は殆ど戦後のものですが、それらは建てられた当初の飛鳥時代に外観復元されました。
 今、建て替えに際して何が何でも木造でという意見が世間に充満していますが、材料としては木材であってもその工具や工法が現在のものであれば文化財としてそんなに映えるでしょうか。外観復元は、よく考えられた現実的な手法と思います。
 周囲には繁華街もありますが、寺域は良く管理されています。四天王寺の景観は、まさに、関係者各位の日頃の努力の賜物と存じます。

 四天王寺は、伽藍配置が、中門 塔 金堂 講堂が一直線に並ぶ、所謂四天王寺様式と呼ばれ、日本で最も古い伽藍様式の一つです。金堂と塔が横並びの法隆寺より一世代古い伽藍様式です。法隆寺においては、現存の伽藍の前に存在し、今その礎石だけが残る若草伽藍が、まさに四天王寺様式でした。

 

<画像の説明>画像左または下;四天王寺中門南よりバックに五重塔の九輪が見える
       画像右または上;四天王寺五重塔(現状改装中、中には入ることができます。)


 四天王寺の本尊は、今は救世観音半跏像、中世から近世にかけては、如意輪観音だったそうです。今、なぜ本尊が救世観音なのか少し調べましたが、良く分かりません。

 

<画像の説明>四天王寺金堂内陣(寺内で販売する絵葉書のサンプルより、中央が救世観音半跏像)


 創建時は、四天王が本尊(*1)だったと思います。厩戸皇子(聖徳太子)は、物部守屋との戦いの際、、白膠木(ぬるで)の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願しました。勝利すれば仏塔をつくり仏法を広めると誓い、守屋との戦いに勝利しました。その結果建立されたのが、四天王寺でした。

 

 聖徳太子と四天王寺の関係は、金剛組(こんごうぐみ)の活動にも表れます。
 金剛組は、578年創業で現存する世界最古の企業です。578年、四天王寺建立のため聖徳太子によって百済より招かれた3人の宮大工のうちの1人である金剛重光により創業されました。593年、四天王寺創建に関わりました。宮大工として、現在まで、活動を継続しています(*3)。

 

 

 

 

 ところで、大阪の名物として、四天王寺の石鳥居は今も健全です。四天王寺式の伽藍に対して、西門の役割をしています。四天王寺の長い歴史の中で、神仏習合の一つの表れと考えられます。当初は木造でしたが、忍性(*2)が石作に改めたと伝わります。れっきとした重要文化財です。上方落語のネタにも頻出する、大坂の古くからの著名な風物詩です、今は、周りに石鳥居より高い建造物ができて、あまり目立ちません。少し残念です。

                  <画像の説明>四天王寺石鳥居 左は四天王寺高校
            人が途切れず画像に入り、どうしても下部からの撮影はできませんでした。

 

(*1)東大寺法華堂は、最勝王経に則っており、四天王、梵天、帝釈天、仁王2体八尊一具を本尊として祀っているとされます。現在中央に祀られる不空羂索観音が本尊とは限らないのです。このことは、以前下記で若干ですが述べています。
 
  ➡東大寺法華堂、四天王が本尊

(*2)忍性は、西大寺中興の祖として著名です。下記に若干ですが、忍性について記載しています。

  ➡忍性については下記をご覧ください。

 

(*3)今、聖徳太子不在論がにぎやかですが、四天王寺という名称が現在にきちんと伝えられていることや金剛組が長い歴史の中で連綿と活動を継続していることに関して、どのようにお考えでしょうか?聖徳太子(厩戸皇子)不在でそのようなことが可能なのでしょうか。

2018年06月10日