東大寺法華堂 不空羂索観音を中心に
東大寺法華堂は建物として、国宝です。正面5間、側面8間、奈良時代創建の正堂と鎌倉時代再興の礼堂を融合させた建物です。
<画像の説明>東大寺法華堂。このあたりまで来ると、人口密度も鹿密度もだいぶ低くなります。
法華堂のパンフレットによると、「堂内には御本尊の不空羂索観音立像を中心に合計10体の仏像が立ち並び..」と記載されています。確かに、四天王をはじめとした周囲の八尊は、不空羂索観音に従属する護法神に見えます。
脇侍のはずの梵天(像高402㎝)、帝釈天(像高403㎝)が、不空羂索観音立像(像高362㎝)より大きいことから、梵天、帝釈天か不空羂索観音のどちらかが、他の場所から請来されたのではないかと言われることもあります。確かに、同時に作られた脇侍が本尊より大きいというのは考えづらいかもしれませんが、法華堂の四天王をはじめとした八尊は実は本尊です。
「四天王をはじめとした八尊が本尊」は、このサイトのテーマの一つですので、別項にまとめておきました。
➡「四天王をはじめとした八尊が本尊」はこちらをご覧ください。
法華堂に祀られた、10体の仏像は、すべての仏像が国宝です。不空羂索観音、四天王以下八尊一具、そしてもう一体は秘仏の執金剛神です。不空羂索観音の手前に安置された金剛力士像と秘仏の執金剛神の関係は、私には良く分かりません。また、執金剛神のみが秘仏(開扉は、12月16日です)となっている宗教的理由も良く分かりませんが、東大寺が成立する前の金鍾寺時代には、良弁の持念仏だったとの伝承を持つ古い仏像です。執金剛神は、粘土を固めただけの(焼成もされない(*))塑像ですが、体から離れたハク帯(ハクは、白の下に巾)が、躍動感を醸し出します(**)。執金剛神のみが塑像、他の9体は脱活乾漆像です。
不空羂索観音は、八角の壇にのり、梵天、帝釈天より像高が高く見えるよう工夫されています。表情が厳しく、重量感、存在感を感じます。天衣はナチュラルです。
(*)この時代、仏像を焼成することのできる大きな窯はありませんでした。
(**)塑像として東大寺戒壇院の四天王が有名ですが、ハク帯を体に密着させています。塑像では、ハク帯を体から離すことは難しく、執金剛神の場合は、芯に補強のための金属が使われていると考えられます。
(追記)
脱活乾漆像の制作方法と歴史について少し追加させて戴きます。木材の豊富な日本では、平安時代以降は、木彫が主流になりましたが、奈良時代は、塑像と脱活乾漆像が造像の中心でした。塑像は、安価で短納期ですが、強度的には脱活乾漆像には及びません。
脱活乾漆像は、7世紀末に日本で発明されました。その最初期の遺品は、当麻寺の四天王、680年代の作品です。脱活乾漆像は、木材と粘土の芯の上に、漆を染み込ませた布を何重にも張り合わせていきます。脱活乾漆像の自立体は漆を染み込ませた布です。そのため、漆と布が十分乾燥した後は、木芯と粘土を抜き去ることができました。製作工程が複雑で短期間で完成させられない大変高価な方法でした。漆が如何に高価だったかは、『正倉院文書』に、730年代に建立された興福寺西金堂の脱活乾漆像が、「仏像用の漆の価格が堂の建築費に匹敵した」旨記録が残ります。この時代、国家によって造寺造仏が管理されていましたので、確かな記録として残っています。
また、奈良時代末期(鑑真の来日)以降発生した木心乾漆像は、木芯の上から木屑と漆を混ぜた木屎(こくそ)を塗って更に漆で成形したものですが、その自立体は木芯です。そのため、木芯を内部に残す必要がありました。
平安時代以降、奈良は、戦乱によって何度も被災しました。軽量で丈夫だった脱活乾漆像は、その都度戦乱を避けて疎開が可能でした。このことは、金銅仏の大仏が何度も被災したことと対比すれば納得できます。