1.2四川の毘沙門天の変遷

 四川の毘沙門天の変遷を第一世代から第三世代まで、三世代に分けて考えます。

<第1世代>
 四川の毘沙門天は、8世紀の中頃に西域から伝わりましたが、当初は、西域風の甲制や地天に乗るといった定型が有った訳ではないことを、前項でご紹介しました。

 定型を与えたのは、安史の乱(755年~763年)以降唐朝のなかで力を持った不空とその周囲の密教集団だったと私は考えています。彼らは、『毘沙門天儀軌』を成立させ、合わせて像容を大切に考える密教集団が、毘沙門天の図像を完成させました。

 その証拠は、806年に帰国した遣唐使空海が、この図像を日本に請来したと考えられることです。空海の甥、智泉が821年に記した「四種護摩本尊并眷属図像」(智泉様)に四川の毘沙門天と同等の図像が残されています。この図像の毘沙門天を日本では兜跋毘沙門天と呼んでいます。
 jia江千仏岩134窟は、この時代の毘沙門天と考えられます。

<第2世代>
 唐時代、唐と吐蕃(チベット)は常に緊張状態にありました。安史の乱末には短期間せよ国都長安を占領されたこともあります。唐に対する吐蕃の優位性は、9世紀中盤に吐蕃が内部分裂で衰え始めるまで継続しました。吐蕃は849年隴右を放棄、851年には唐の張義潮が敦煌を奪い返しました。

隴右は、甘粛省東部、省都蘭州周辺
敦煌は、甘粛省西部

 吐蕃の脅威の無くなったこの頃から毘沙門天の唐風化が進みます。像容としては、金鎖甲の鎧、獅噛等を持つようになります。資中重龍山立像は、この時代のものです。また、日本に請来された東寺兜跋毘沙門天像の像容もこの時代のものに近いと私は考えています。

<第3世代>
 唐末期になってくると、騎乗はとてもできないようなでっぷり感や椅像が作られるようになります。また、『毘沙門天儀軌』を実現するような、吉祥天、善弐師童子、独建をはじめとする毘沙門天の一族郎党が一緒に祀られるようになります。
 安岳圓覚洞33窟や大足北山5窟がその例です。この窟には、墓記が残り、890代の造立と考えられています。
(通常、弐は<膩>を使用。<膩>は、弐の旧字。 <>内は、ブラウザによって化けるかもしれません。)

「毘沙門天とは」に写真を掲載しましたが、下記に拡大図が掲載されています。

 大足石窟5窟写真拡大図

<画像上段:jia江千仏岩134窟毘沙門天立像>
<画像中段:資中重龍山毘沙門天立像>
<画像下段:安岳円覚洞33窟毘沙門天坐像>

 安岳円覚洞は、資陽市安岳県に所在します。国家A4級で整備はかなり進んでいます。宋代の遺跡が中心ですが、毘沙門天像は1体のみ残っています。
 資中重龍山は、資陽市資中県に所在します。重龍山風景名勝地域として国家A2級に指定されています。19体の毘沙門天像が残るそうですが、損傷がひどくすべてを確認することは難しいです。
 大足北山は、今の行政区画は重慶市大足区となります。大足宝頂山と大足北山は、合わせて国家A5級史跡に指定されています。

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