四川における毘沙門天のうち最も早い時期の毘沙門天の例として挙げられるのが、qionglai龍興寺址出土の毘沙門天です。像高は、70cm程度ですが、足元に、地天と呼ばれる小像を置き、腰に長短両刀をクロスに差し、胸当てをしています。当寺の毘沙門天は、台座の上に直接のリ、9世紀後半の地天の上にのる毘沙門天より古く、龍興寺のその他の出土品等の状況証拠から8世紀中頃から後半の作品と考えられます。
また、qionglai石筍山27号窟は、宝冠を戴いた毘沙門天ですが、その題記から768年頃の作像とみられています。そのようなことから、四川の主尊としての毘沙門天の発生は、8世紀中頃から後半に近い時期だったと推定されます。
四川の毘沙門天は、主尊として祀られており、その成立には、西域(河西回廊以西)の影響があったことは確実です。
唐は、8世紀吐蕃(チベット)とは戦争状態にありました。安史の乱(755年~763年)とそれ以降の国内の混乱のなか双方の取り決めた国境を吐蕃に破られることも再々でした。
西域と四川は、吐蕃(チベット)との対決姿勢のなかで共通の問題を抱えていましたし、中原のサポートを期待できない中で、これらの地域では、騎乗を得意とする遊牧民族が傭兵として活躍しました。毘沙門天が、西域と四川の直接の交流の中で、軍神、国境を守る守護神として西域から直接四川に伝わりました。
そのため、中原経由で伝わった多聞天は石窟の門番として(四川の場合は、窟が平面的であり四天ではなく二天)祀られており、主尊としての毘沙門天は、西域から別の尊格として伝わったと考えられます。
<画像上段:qionglaii龍興寺址出土(元、四川大学博物館蔵)>
<画像下段:qionglai石筍山27号窟> 通常は、入り口が封鎖されています。
qionglai市は、成都市内の市級市、成都の中心地より南西約70㎞に位置します。
qiongは、工にオオザト、laiは、山偏に来